群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

58 槐

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「……くそ、屈辱だ…っ」

 直樹から十分な距離を取り、追ってきていない事を確認した忍装束の女――えんじゅは足を止めた。
 深い深い眠りから覚めた際、お館様に使命を告げられた。世界を狂わす男を斃すのだ――と。

 何を言い出しておられるのかと、最初は思った。
 標的となる男――新條直樹を視認したのは、かの者が住む巨大な建造物の崩落から逃れ出てきた時だった。
 その身のこなしから相当な手練れである事は察せられたが、お館様の言うような者には見えなかったというのが第一印象だ。
 養生所と思しき、これもまた巨大な石造りの建造物の前で邂逅した際も印象は変わらず、思わず声まで掛けてしまった。

 だが、今夜改めて対峙して、やはりお館様の言った通りであったと痛感した。
 あの全身に纏った昏い影は、およそ人の身で扱える範疇を超えている。
 いくつもの戦場いくさばを駆け抜け、軍神いくさがみだと称えられた武将を見てきた。あるいは魔王と恐れられる者の監視をした事もあった。
 その誰よりも、直樹がまとう影は異質だった。

「……不甲斐ない」

 槐は己を恥じた。
 表舞台に立つような身ではなかったが、間諜から暗殺まで、血生臭い裏の仕事に長けた自分であれば問題はないと思ったのだ。
 しかし実際に直樹と対峙してみれば、その影の発する存在感に恐怖してしまったのだ。

 使命のために没する事は怖くはない。どんな苦痛や辱めにも耐えてみせよう、そう意気込んでいたつもりだったのだが。
 あの影に囚われてしまったならば、気高くあり続けようとするこの魂は、いとも容易く穢れて堕ちてしまうだろう。
 そして堕ちてしまった魂は未来永劫、救われる事はない。
 そんな恐怖が覚悟を上回ってしまったのだ。

 直樹に触れられた側頭部は、影に侵された様子はなかった。
 幸いと言って良いのか、今の直樹には進んで影を撒き散らそうという意思はないようだが、それもどこまで続くかは不明だ。
 中途半端に傷を負わせた結果として、怒りに任せて影を散撒かれては堪ったものではない。

「いや、しかし……」

 この魂を捧げてでも、直樹を始末するべきだったのではないか。
 お館様の命である以上、そうである事は間違いない。
 これは単純に自身の覚悟の無さに尽きる。

 だが、直樹を殺害する事でその身の影はどうなるのか。
 直樹の死と共に消滅するならば最良だが、その地に留まり汚染を始めたりはしないのだろうか。
 影の特性を考えれば、十分にあり得る結果だ。

「………」

 はたしてどれほどの歳月を眠っていたのか、目覚めた世界は槐の記憶にあるものとは大きく異なる様相を呈していた。
 人の身形も見慣れないながらも洗練されたものである事は理解でき、随分と世が移ろってしまったものだと思ったものだ。

 それでも、この地は槐の生まれ育った国である事に違いはないのだ。
 それを終わりのない穢れに蹂躙させるような真似はしたくはない。
 お館様はどこまでのものを見据えているのだろうか。

「今一度、お館様に真意を伺わねば…」

 そこで納得のいく返答を頂ければ――否、冷淡にあしらわれようとも、その後の自身の成すべき事に変わりはない。
 直樹に刃を突き立てるべき時機を見誤った、己にすべての責がある。

【槐よ、何をしておる】

 不意に、槐の耳朶が震えた。

「お、お館様っ!!」

 声の主の姿を確認するよりも早く、槐はその場に平伏した。
 強く目を閉じ、額を地に擦り付ける。

 槐は声の主――お館様と呼ぶ者の尊顔を拝した事がない。
 どのような理由からか自分でも理解していないのだが、決して見てはならぬと身体が強制的に伏してしまうのだ。
 声からすると男性であるとは察せられるのだが――そういえば、いつものように重厚な響きはなく、どこか薄っぺらい印象のある声だなと感じた。

【かの者の討伐の首尾はどうした?】

 頭上よりかけられる声に、平伏したままの槐の肩がビクリと震えた。
 この質問は予想できなかったものではない。
 もとより、この主従関係に世間話や雑談といったものは存在しない。常に命令と確認のみだ。

「ははっ! この身に賜りました使命未だ果たせておらず、ひらに御容赦ください! つきましては今一度確認したき事ありますれば――っ!」

 お館様の姿を目にしてはならぬと身体が抵抗をしたが、どのみち死する事への覚悟は出来ていた。
 震えながらに抵抗を続ける身体を精神力で押さえつけ、槐は上体を起こした。

「お…お館、様?」

 ついに顔を上げた槐が見た物は、獣の首だった。猫か、狐か、肉食獣を思わせる吊り上がった目が槐を見据えていた。
 爛々としたその目は巨大で、そしてそれに見合うように首そのものが大きい。丸呑みは無理だとしても、槐の細い腰を二つに咬み千切るくらいは造作もないだろう。

「お館……さま?」

 槐は言葉を繰り返した。
 信じ難い事ではあるが、この首が槐に語り掛けていたのだと、互いの位置関係から判断できてしまう。

【ふむ。この身を目にするのは初めてであったか】

 首が――首だけとなった鵺が呻くように発した。
 人間のように口をぱくぱくと開閉する挙動が少ないのが意外だなと、槐は思った。
 後に思えば、現実逃避したくて大きな問題から目を背けていただけだと気付くのだろうが。

 巨大な獣が槐に視線を合わせるために伏しているのかとも思ったが、そうではなく、その首は首だけで存在していた。
 胴体が無かったのだ。
 よくよく見れば、地を這ってきたのであろう、地に接している部分の毛が随分と汚れている。

「――違う!!」

 地べたに座り込んでいた槐が、飛び跳ねるように立ち上がった。
 腰に差していた直刀を抜き放ち、構える。

「私のお館様が、そんな獣風情の姿である筈がない!!」

 拠無よんどころない事情があって獣の姿に身をやつしているのかとも考えたが、槐には到底信じ難く、耐えられるものではなかった。
 例え人智を越えた存在であったのだとしても、獣に使役されるなどおぞましいばかりだ。

【………】

 そんな槐を、鵺は静かに睥睨していた。
 やがて嘆息するように

【もうよい。ね】

「…! ……!!」

 鵺の言葉に呼応するように、槐の全身が硬直した。
 呼吸が止まり、涙に濡れた瞳の揺らめきが止まり、呻き声のひとつも発さぬまま、槐の全身は闇に溶け込むように消えていった。

 その姿が完全に消失すると、とすりと、地を穿つ音が静寂の中に響く。
 槐がたしかに立っていた場には、一本の苦無くないが突き立っていた。

【強い無念に塗れておったから使えるかと思ったが、所詮は質の悪い下忍であったか】

 槐に対し、さしたる興味も無かったのだろう。
 鵺は一顧だにせず、這いずるようにその場を後にした。
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