群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

27 屋上で、会敵

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「むむむ……」

 放課後の教室で直樹は静かに唸っていた。
 下校を促すチャイムからゆうに15分は経ち、直樹以外のクラスメイトは一人も残ってはいない。
 ある者は不思議そうに直樹を見ながら教室を後にし、直樹に気のある女子は声を掛けてみたりもしたのだが、唸るばかりで反応を示さない直樹を前に項垂れて帰路につくに至ったりと。

「むむ……」

 昨夜、香月が見たという尻尾は見間違いでなければ幻でもない。
 いや、ごく普通の人間には見えないものである事からすれば、幻に近いと言えよう。

 香月が見たものは『本質』だ。
 言い方を変えれば霊視というような言葉に置き換えることができる。
 銀髪の男が人外の存在であった事は、さほど驚くべき事ではない。
 結界の神社での出来事や昨夜の怪物の存在を考えれば、人間に変化する獣など言葉が通じるだけ可愛いものだ。

 直樹にとって問題なのは、香月が超常なる力を有していたという事実だ。
 一般人が持ち得ない力というものは、往々にしてその者の人生を狂わせる。
 選民思想に染まる者もあれば、詐欺師まがいの金儲けに傾倒する者もいる。
 他人に迷惑を掛けないようにしながらも、他人には見えないものを見続けてしまうせいで、精神状態に異常をきたす事例も少なくない。

 年齢を重ねるとともにそういった能力が衰退していく事もあるが、それは壮年期以降の話が殆どであり、香月くらいの若さであれば能力は強くなっていくのが通例だ。
 肉体や精神力のピークは10~20歳代とされるが、このような特殊能力は老年期を迎えても衰えを見せない事も珍しくはない。

 正しく使うためには相応の教育・訓練が必須であり、否応なしにこちら側・・・・の世界に片足を突っ込む事になってしまう。
 そして将来有望な能力者ともなれば教える側も放っておいてはくれないもので、そのまま一般社会とはかけ離れた人生に突入してしまうという話もよく耳にする。
 香月はどんな事も前向きに捉える性格ではあるが、だからといってこれまでの常識が通用しない世界に引き込んでも良いというものではない。

(能力の発現が昨日だけって事は……)

 ないだろうなぁと頭を抱える直樹。
 勧誘はしないという前提で香月に力の制御法を教えるとしても、新しい世界を知った香月が黙っていられるとは思えない。
 どう転んだところで、直樹が期待するような平穏な未来は望み薄といったところだろう。

「むむむむむ……」

 悩み続けてみたところで天啓の如き解決策が閃く訳でもないのだが、香月の事となると最善策を求めて悩み続ける。それが直樹という男である。

 そして香月から目を離している油断を嘲笑うかのように、状況はさらに進行してしまう。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「今日はセンパイ来ないね?」

 鞄に荷物を詰めながら、希理は香月に視線を向けた。
 HRが終わり次第、香月らのクラスに顔を出すというのは直樹の行動パターンとして定着している。
 前もって用事があるのだと知っていれば姿を見せないのも納得だが、今日はそういった予定は告げられていない。

「先生に何か手伝いを頼まれたとか?」

 思惟子が口にした仮説は可能性としては十分に高いものであったが、その実は教室で一人悩みまくっているだとは誰も思いつかない。

「これからユキのお見舞いに行こうかと思うんだけど、かづちゃんも行く?」

 香月も同行させるのであれば直樹に言っておいた方が良いだろうと希理は考えるが、どちらかと言えば自分が直樹に会いたいだけなのかもしれない。

「んー、今日は遠慮しておくわ」

 自分の代わりに魔除けの像も置いてきてあるし、今の香月には気になる事があった。せっかくの誘いだが辞退する事にした。
 香月は帰り支度の整った鞄を自分の代わりに椅子に座らせると、足首を回して柔軟運動を始めた。
 そんな香月の様子を不思議がる希理と思惟子だったが、直樹を待つのに手持ち無沙汰なのだろうと納得した。

「それじゃーねー」

 二人が教室を去り、いよいよ香月だけが教室に残される事となった。

「さて……と」

 直樹が近付いてる気配がない事を確認し、手ぶらのまま教室を出る。
 教室に荷物を置いておけば、直樹と入れ違いになっても先に帰ったとは思われないだろう。
 そもそも、教室で直樹を待たねばならないという決まりはない。いつものように速やかに迎えに現れない直樹にこそ非があるというものだ。
 誰に聞かせるでもなく呟くと、香月は鼻息も荒く廊下を進み始めた。
 特にどこに向かっているという訳でもない。
 強いて言えば『学園内』であろうか。

 香月なりに考察を重ねた末、雪乃が目覚めない原因は放課後の学園内にあると見たのだ。
 誰であっても前後の状況から同じ結論に至るに違いないのだが、その原因究明に乗り出そうという動きは取られていないようだった。
 ならばと、香月が立ち上がったのだ。
 風邪だなどと教師からは伝えられたが、その情報が嘘である事を香月は知ってしまっている。

「問題は、どこかってハナシなんだけど……」

 希理経由による矢島里香情報では、学園内で倒れていたのを見回りに来た守衛に発見されたとの事だったが、倒れていた場所の具体的な情報が抜け落ちているのだ。
 校舎か、体育館か、はたまた校庭か。
 教師のいる職員室や、平時は施錠されているプールという事はないだろうが、取材と称して動いていた以上、雪乃はどこにだって入り込む可能性がある。

「考えたって仕方ないし、端から行くとしますか」

 誰もいない廊下に、香月の足音だけが静かに響く。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「ここまでは異常なし…っと」

 一階から始めた校舎内の探索も、残すところは四階と屋上のみだ。
 そういえばと、香月は足を止めた。
 途中、直樹の教室前を通り過ぎたが、直樹の姿は見当たらなかった。
 教室に居残っていれば気付くだろうし、どこかで入れ違いになってしまったのだろうか。
 誰の姿もない見通しの良くなった校舎内だということを考えると、器用にすれ違ったものだと思わずにはいられない。

 ここで香月は四階を飛ばして屋上へと足を向けた。
 順序良く見て回らねばならないという事はないし、ランダム性を持たせた方が当たりを引くのではないかと思いついたのだ。
 理由を問われたならば『なんとなく』で済ませてしまうのだが。

「ほい……屋上到着っと」

 階段を移動するだけである。誰とすれ違うでもなく、階段の行き止まりに到着した。
 鍵の掛かっていない扉を開け放ち、屋上へと踏み出す。

 中天は見事な青空であったが西の空がうっすらと朱に染まり始めており、校舎内を歩いただけで結構な時間が経ってしまったのだと香月に実感させる。
 屋上を回った後に四階をざっと見て、それで校舎の探索は完了としようと考えた。
 陽が傾き始めれば夜が訪れるのは早い。街灯が明るくなる前には下校しないと、またどんなトラブルに見舞われるか分かったものではない。さっさと直樹を拾って帰るとしよう。

(そうでなくたって、直樹ってばトラブルメーカー体質なんだから)

 自分自身がそうである可能性など見向きもせずに、屋上を歩き回る。
 現に何事もなく終わりそうな流れなので、香月がそう考えてしまうのも無理からぬ事である。

 ――しかしながら

「……あらあら、またあ?」

 香月の背後から、疎ましそうな感情を隠そうともしない声が投げ掛けられた。
 誰かが屋上にやってきたという気配は感じられなかったが、背に当たった言葉は明らかに香月に向けられたものだった。

「誰?」

 振り返れば、腰まで届きそうな黒髪を揺らしながら立つ少女の姿があった。
 一歩下がった脇には銀髪の男が控えており、無言で香月に視線を向けている。

「あれ、あなた……」

 香月にはもちろん見覚えがある。以前に屋上で探し物をしていた時と、記憶にも新しい昨夜の病院での一件だ。

「そういえば、まだ名前も聞いてなかったよね」

 改めて挨拶しようと右手を差し出したが、黒髪の少女はその手に注意を向けるでもなく冷ややかな視線を投げかけてきている。

「……、え…っと?」

 右手を差し出した姿勢のまま、香月の口元が引き攣った。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「いかんいかん…。つい考え込んじまったな……」

 香月が屋上に辿り着く少し前、直樹は足早に香月の教室へと向かっていた。

 考えねばならない事が多すぎて、HRどころか昼食を食べ終えた辺りからの記憶がはっきりとしない。
 案件としては、香月にいかに真っ当で安全な生活を送らせるかという一点のみなのだが、仮にだとか、もしもの場合の可能性が多岐に亘りすぎて、完全解答など夢物語もいいところだ。

(ああ、いかんいかん……)

 遅れた理由を言い訳気味に考えたところで、それを香月に話すわけにもいかないときている。
 結局のところ、直樹が自分自身の対応力の低さを恨めしく感じているだけなのだ。
 香月を護るのだと決めている以上、どこかで開き直るくらいの態度で臨まねば。
 頭を左右に振って雑念を追い払った。



「こ…これは……?」

 香月の教室に着く頃には悩みによる顔色の悪さを引っ込めるに至っていた直樹だったが、着いた先の教室で立ち尽くしてしまった。
 香月どころか、誰もいない。先程までと違う理由で顔色が悪くなってくる。
 帰り支度済みの鞄がある事から、香月は戻ってくるつもりではあるようだ。
 さて、どこに行ったものか。トイレに行っている程度ならば、ほんの数分で戻ってくるだろう。

 しかし、そうでなかった場合は?
 こちらから探しに出ねばならないような事態になっていないとは、断言できよう筈もない。

(むしろ……)

 香月の特性からいって、余計な事に首を突っ込むか巻き込まれたりしている可能性は高い。
 校舎内に嫌な感じはしないが、嫌な予感だけは確実に背筋を這い上がってくる。

「……探しに行くか」

 教室に着いてから、ゆうに3分は過ぎている。
 またしても入れ違いになってしまう事も考え、自身の鞄を香月の席に置くと、直樹は早足で教室を後にした。
 誰もいない廊下を急ぎ、誰もいない教室を横目に確認しながら先を急ぐ。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


(……おかしい)

 校舎内を半分も回ったところで、直樹は急ぐ足を緩めた。

「人が…居なさすぎる」

 呟いた声が廊下で反響するなど、香月を探している最中でなければ遊んでみたくなる新体験だ。
 深夜の学校も似たようなものであったが、それを経験したのは学校認可の下で行われた肝試しというイベントでの事だ。

 人が居ないという状況としては深夜よりも日曜日の方が近いのかもしれないが、日曜であれば部活動に勤しむ生徒の気配が校庭にあったりするのではないか。
 勿論、学校側が速やかな下校を促していた事もあるのだろう。
 それでも、こうまで人の気配を感じないのは明らかにおかしいと直樹は断じた。
 断じたが、何に起因するのかが理解できねば意味もない。
 その時――

『あんたが…っ!!』

 女の怒声が遠くから聞こえてきた。
 離れた場所での発声のためか輪郭の揺らいだような印象ではあったが、聞き違えるような直樹ではない。

 香月だ。

(――屋上、か!?)

 階段の方向を確認するまでもなく駆け出していた。
 直樹の中で、嫌な予感はまだ消えていない。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


(しょぼーん…)

 無言の少女を前に、香月は渋々ながらも手を引っ込めざるをえなかった。
 楽天家を自認する香月ではあるが、こうも露骨に拒絶感を醸されてしまっては、挫けてしまうのも無理はない。
 親の仇とまではいかないにせよ、香月に向けられた視線は射るように鋭く、冷徹だ。
 そんなに馴れ馴れしくしたつもりもなかったが、どこかで少女の気に障るような態度を取ってしまっていたのかもしれない。

「……貴女は」

 何と言ってこの場を立ち去れば最良なのかを模索し始めた香月に対し、少女がやっと口を開いた。

「――!」

 やっと会話ができると嬉々とした表情を向けた香月だったが、少女の変わらぬ視線に射抜かれて凍りついたように固まってしまう。

(あ……あれ?)

 蛇に睨まれた蛙という訳でもないのだろうが、何者かの視線を受けただけで身動きが取れなくなるなど、アニメか漫画だけの事かと思っていた。

「……! ………!!」

 おまけに声まで出せないときている。
 唇は痙攣するようにしか動かず――否、自身の意思で動かせない以上、単純に痙攣しているだけであり、舌は動かすどころか根元から切り落とされてしまったように存在自体を知覚できない。

「どうして貴女は、此処に居るのかしら?」

 香月が動けない事など意にも介さず、少女は苛立たしさを込めた言葉を香月にぶつけてくる。

(どうして……って、ここの生徒なんだし、おかしな事なんてひとつもないじゃないの!)

 思考力まで止まってしまったという事はなかったが、声が出せないままでは少女の問いに答えられる筈もなく。

「担任から、早く帰れって通達があったでしょう?
 何の理由もなしに帰れなんて言わないくらい、理解できないの?」

 香月の状態などお構いなしに、少女は言葉を続ける。

(う……、でもそれは)

 自らの声で少女の言葉を遮れない状態のためか、自分が身勝手な事をしているのだという自覚が刃のようにグサグサと刺さる。

「でも、じゃないの!」

 少女の一喝に身を竦ませた。
 もとより身体は動かせないので傍目には香月は微動だにしていないのだが。

(……って、なんで私の考えてる事が分かるのよー!?)

 香月は心の中で訴えるが、心の中が覗けようがいまいが、香月の性格や普段の言動を知る者であればどういった返答をするかなど推測するまでもない。

「大体ね! 妙な化け物に襲われた翌日だっていうのに、一人で動き回る無防備さ。いつもの彼氏を護衛に連れているならまだしも、どうも貴女には学習能力というものが欠落しているようね」

 少女の言葉には時折熱を帯びる部分も混ざるが、その視線は変わらずに香月に向けられている。
 そのアンバランスさを茶化してみたくもなるが、身体のどこも動かせないともなればそれも適わない。

「……ねえ?」

 まだまだ続くかと思われた説教タイムだったが、少女の声のトーンが明らかに下げられた事により僅かな空白が生じた。
 喋り疲れたのかとも思ったが、どうもそうではないようだと、少女を包む雰囲気が物語っている。

「この屋上に来るまでに、誰かと会った?」

 少女の言葉に、あれ、と内心で首を捻る。

(確かに、言われてみれば……)

 教室で希理と思惟子と別れ、いざ校内探索だと出て以降、誰かと会ったという覚えがない。
 特に気にも留めなかった香月だが、思い返してみれば、あれだけ校舎内を歩き回って誰と擦れ違うでもなかった状況は初めての事ではないだろうか。

「そうよね。誰かと会う筈なんてないのよ」

 香月の回想を待つまでもなく、少女は断じる。
 独白なのか香月への念押しなのかは判然としなかったが、ある種の確信あっての発言なのだという事だけは理解できた。
 そして、その根拠についても香月はすぐに知る事となる。

「それなりに手間隙かけた人払いの結界だっていうのに、なんでもない顔で歩き回っちゃうとか、なんなのよ貴女は」

(え?)

 香月の日常では、まず聞かれないような単語に耳を疑った。

 台風で土手から水が?

「それは決壊」

 血の塊?

「それは血塊」

 太腿にあるツボで……。

「血海ね。そんな単語を知ってるなんて、ちょっと感心するわ」

(ちょっと! やっぱり私の考えてる事が分かってるんじゃないのっ!!)

 香月は心の中で叫ぶが、そもそも香月の思考が読めないなんて事は一言も口にしていないのだから、少女は香月の言葉など一顧だにしない。

「ともかく、貴女の事よ」

 少女は、いかにも不思議な生き物を見るように、香月に視線を向ける。
 無遠慮とも言えるその視線は、観察というよりも物色に近い。
 香月の事を量りかねているのだと考えれば、それも已む無しといったところなのだろう。

「まぁ、術の類が効き難い人は稀にいるのよ。貴女の場合、主に好奇心で動いているのが問題なのよね」

 ここで少女は香月から視線を外した。長い睫毛を静かに伏せ、微かな嘆息を交えて。

「ぶは…! …っ! げふげふ、げふんっ」

 香月は膝を突き、盛大に息を吐いた。
 手加減なしに肺に負荷を与えたため、勢いあまって咳き込んでしまう。
 実際に苦しかった訳でもなかったが、息の詰まりそうな閉塞感はかつてない程に味わった。
 自らの身体を自由に動かせるとはなんと素晴らしい事か。自由万歳と心の中で喝采する。

「動けるようになったのなら、さっさとお帰りなさいな。好奇心だけで首を突っ込むような行為、どれだけ危険か分かったでしょう」

「うぐ……」

 香月にも言い返したい事はあったが、自身の迂闊さを自覚してしまった以上、不本意であるにせよ大人しく帰る以外になさそうだ。
 しかしながら諦めたという訳でもなく。少女に指摘されたように直樹を伴って出直せば問題ないだろうと、その思考は前向きというか楽天的だ。
 香月の意図はどうであれ、帰る事を決めた気配は少女にも伝わったのだが、ここで少女はさらに香月を試してみようと決める。

(試すまでもないと思うが、必要な事か?)

 ここまで静観を保っていた銀髪の男は少女の背に視線を向けたが、実際に何を口にするでもなく推移を見守る事にした。
 このまま香月を帰したところで、本当に何も起きないだろう。
 しかしながら香月を刺激した結果、何事か起きるかもしれないという可能性は僅かながらに存在する。
 バタフライ効果だとか、風が吹けば桶屋が儲かるだとか、言ってしまえば眉唾もので気休めにもならない要素だが。
 そんな程度のものでも、何も起きないままの結果よりも少女は欲しているのだ。

 実務を優先するあまり、少女が他人から悪く見られるのを男は危惧している。
 それでも少女自身が選択している事ならばと、その意志を尊重している。
 その結果、香月が少女……はたまた男に対して危害を加える行為に及ぶかもしれないが、香月程度の身体能力ではどれほどの凶器を手にしたところで脅威ではない。

「おとなしく帰ってくれた方が、こっちも助かるのよ」

 独白を装い少女は呟く。もちろん、香月にもしっかりと聞き取れる程度の声量で。

「また誰かを病院送りにしないといけないとか考えるの、割と滅入るのよね」

「――っ!?」

 香月が息を呑んだ。
 この場に直樹が居たならば顔色を青ざめさせていたに違いないと分かる程に、香月から発せられる気配が剣呑なものに変貌した。

「………った?」

 震える声が、香月の口から滲むように漏れ出した。

「何か言ったかしら? よく聞こえなかったのだけど」

 耳元にかかる髪を指先で梳きながら、少女は香月の方へと耳を向ける。
 聞こえなかったというのは、勿論嘘だ。

「誰の事を言った! って聞いたのよ!!」

 たった今まで手も足も出せなかった相手に、香月は憤然たる様子を隠しもしなかった。
 短絡的というか、直情的というか。まさしく予想通りの反応だ。
 ある意味羨ましいとさえ感じる素直さだが、特殊な状況下であれば真っ先に命を落とすだろう事は容易に想像がつく。

「誰って、名前なんて知らないわ。取材だなんだと鼻息が荒かったのは覚えているけど」

「!!」

 名前を聞かずとも、取材のキーワードだけで誰の事かは確定だった。

「あんたが…っ!!」

 病院で眠り続ける親友の姿を思い浮かべ、香月は強く地を蹴った。

 少女との距離があっという間に縮まる。
 手が届くほどではなかったが、振りかぶった腕の回転が終わる頃には到達していると分かる移動速度。
 近付いて見れば長い黒髪はやはり美しいと、殴りかかろうとしている間にもそんな事を考えてしまう。

 可憐な外見に惹かれたというところから始まっていた感情ではあったが、友人になれると漠然と考えていた。親友だと胸を張って言える程に近しい存在になれると思っていた。
 香月の直感は割と当たる。自分が望む結果に辿り着けるよう尽力するのだから、当然と言えば当然なのだが。
 だが、今回はそうではなかったようだ。

 未だその名は聞いていないが、聞かぬまま終わる事になるのだろう。
 雪乃を病院送りにした張本人と、仲良くやっていけるとも思えない。

(とにかく、まずは張り倒す……!!)

 またしても動きを止められるのではないかと危惧もしたが、こうして詰め寄られても何もしてこないところを見るに、自由自在な能力ではないのだろう。
 あまり自慢できるものではなかったが、誰かを殴るという行為は直樹で経験済みだ。
 間合いも力加減も身体で理解している。最上の一発になるという確信があった。

「ていやっ!!」

 短い気勢と共に振り抜かれる香月の掌。
 小気味好い程の音と感触がその掌に残――らなかった。

(あ――あれっ!?)

 決して、目測を誤った訳ではない。少女がその身を僅かに反らせただけだったのだが、その挙動があまりに小さいものだったので、避けられたという認識が生じなかったのだ。
 続き、耳元に乾いた音が響き、右頬に瞬間的な衝撃を受けたのだと少し遅れてから察した。
 自らの平手打ちが空を切って体勢を崩したところに一撃を受けた香月は、そのまま半回転して背を強かに打ち付けた。

「げふんっ!」

 殴りかかったつもりが逆に殴られていたと理解するまで、数秒を要した。
 受身を取れずに倒れてしまったために、起き上がる事に更に数秒を費やす羽目になった。

「一応言っておくけど……ああやって強制的に寝かせておかないと、もっと酷い目に遭っていた可能性が高いのよ?」

 香月があまりに勢いよく倒れたのでやりすぎてしまったかと少女は心配したが、変わらずに向けてくる眼光を見るに、元気はまだまだあるようだ。

(こうなるんじゃないかって気はしてたけど、彼からは何も教えられていないみたいね)

 直樹にした説明をその彼女にもう一度しなければいけないのは面倒臭いばかりであるが、直樹が香月に何も話さない事は想定通りでもある。
 内心で盛大に溜息を吐きながらも、懲りる事なく向かってくる香月から注意は逸らさない。

「こんの――っ!!」

 勢いのまま突き出してきた拳を避けながら掌を添え、相手の呼吸に合わせながら瞬間的に捻る。
 おまけとして、地に着いたままの軸足を払う事も忘れない。

「え――?」

 視界が突如として回転した事に、香月が驚きの声を漏らす。
 香月は何をされたのか理解できないままに、またしても背を打ち付ける結果となった。

「い…ったたたたっ!!」

 不自然な角度で投げられてしまったために腰までも打ち、あまりの痛さに香月は転がり回る。

(やれやれね)

 喜劇舞台のように派手に転がる香月を見下ろし、少女は嘆息した。
 パンチ自体は腰の入ったものではあるが、技術も何もあったものではない動作からは格闘技の経験など皆無なのだと容易に知れる。
 こんな攻撃をまともに受けるのは、被虐趣味のある者くらいだろう。

「――香月っ!?」

 その被虐趣味を持っていそうな男――直樹が屋上に飛び出してきた。

「…………」

 無言のまま、少女は闖入者たる直樹に非難にも似た視線を向けた。

――貴方にまで結界が効いていないなんて、なんなのよ。

――こんなに危なっかしいカノジョを放し飼いとか、危機感薄いのね。

――これ、どう見たって私が悪者じゃない。

 言いたい事は色々とあったが、すべての言葉を呑み込んだ。
 顎で香月を指し示し、さっさと連れて帰れと言外に語る。

「………」

 直樹もおよその事情は察したらしく、眉根を歪めながらも口を開かずに香月の傍らに駆け寄った。
 経緯はどうあれ香月に危害を加えたという事実に激怒するだろう事は考えていたが、思っていたよりも直樹は冷静であったようだ。

(…うん? そうでもないみたいね)

 注視すれば肩やこめかみが僅かながらに震えており、相当に我慢を強いているのだろうと判断できた。

(まあ、賢明だわ)

 ここで感情の振れるままに怒りを爆発させたところで、誰にも何の得もない。
 都合良く解釈すればストレスの発散ともなるだろうが、平静を取り戻した後で待っているのは後悔の念ばかりである。
 特に香月がそういった直情型であるだけに、直樹には二人分の自制心が求められてしまう。

「直樹ぃ、あいつ……あいつ…っ!!」

 いまだに立ち上がれない香月が、恨みがましい視線を涙混じりに向けてくる。
 自分の代わりに戦えなどと、香月は言わない。
 自身の手で一撃くれてやらねば意味がないからだ。

「……帰るぞ」

 香月の肩と脚に両腕を回し、抱き上げる。
 いわゆるお姫様抱っこだが、誰もが渋い表情をしているこの状況下では色っぽさなど微塵もない。

「さ、私達も行きましょう。ここは調べ終わった事だし、次は爆発事故のあったマンションね」

 直樹が背を向けた事を確認し、少女もまた背後に控える男へと振り返った。

「そうだな……とはいえ、暗くなるまで小休止だな。不必要に人目に触れるのは避けたいからな」

 傍らに寄り添った少女の腰に手を回すと、銀色の長髪を揺らめかせて男は軽く地を蹴った。
 まるで重力の鎖から解き放たれるように二人の身体が宙に舞い、なだらかな弧を描きながら屋上のフェンスを越えてゆく。
 一瞬だけ少女の視線が直樹らに向けられたが、特に何を言い残すでもなくそのまま姿を消した。

「マンション……」

 腰から抜けきらない鈍痛に表情を歪めながら、香月は少女の言い残した言葉を反芻していた。
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