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或いは夢のようなはじまり
26 病院訪問と、怪物と
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「それでさ、いくら話しかけたり頬を触ったりしても、まるで反応ナシなのよ」
その日の夕方、香月は同じ話ばかりを繰り返していた。
放課後、見舞いに出向いた際の雪乃の様子である。
直樹が屋上で黒髪の少女と会っていたのと、ほぼ同時刻の出来事だ。
概要は掴んでいるものの雪乃を目覚めさせる方法など知らぬ直樹であり、面倒な事になると分かっていて目覚めさせようとも思わない。
「その……なんだ。しばらく様子を見るしかないんじゃないか。眠っている状態なんだろ?」
もちろん、眠ったままの状態がいつまでも続くのは良くない事だとは承知している。
だが、雪乃にこだわり続ければ、いずれ黒髪の少女に行き着いてしまうのだとも。
あの少女は言明こそしなかったが、彼女の抱えている案件が片付けば雪乃を目覚めさせる筈だ。
邪魔だからと退場させたまま放置するほどに、身勝手な人物とも思えない。
「そうは言うけどさぁ……」
自分がいくら心配しても状況改善にならない事は自覚しているらしく、直樹の言葉に俯いてしまう。
「そんなに心配しきりじゃ、彼女の方が申し訳なく考えたりしないか? 普段通りに過ごして、戻ってきた時に笑顔で迎えてやろうぜ」
直樹の言葉にゆっくりとだが頷くのを見て、直樹は安堵した。
渋々ながらも納得できさえすれば、香月は自分の中でうまく折り合いをつける事ができる。
悩みの種が消えた訳ではないにしろ、これで少しは気が楽になるというものだ。
だが、香月もそのままでは終わらなかった。
「それじゃあ、今からもう一回だけお見舞いに行ってくる!」
肩に無駄に力を込めながら立ち上がると、手近にあった像を掴み取る。
「この快気促進の像を置いてくれば、快方に向かう効果も期待できるわよね!?」
四足歩行動物を模したと思われる全体的に角張った像を高々と掲げ、香月は鼻息も荒く部屋を飛び出した。
「お、おい……ちょっと待てって!」
新條家に置いてある像や置物は、例外なく魔除けの品として蒐集されたものである。
それ以外に期待される効果もなくはないと思うが、香月の持ち出した像に快気促進などとそんな物はあっただろうか。
いや、それよりも。とにかく香月を追いかけねば。
この展開では引き留める事はどうやら無理そうであり、次善策としては香月の傍について想定外の事態に発展する事だけは避けねばならない。
上着を引っ掴むと、既に玄関から出てしまっている香月を慌てて追いかけた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「うん! これで絶対に大丈夫っ!!」
面会時間ぎりぎりではあったが、無事に魔除けの像を届けた香月は、晴れやかな笑顔を見せていた。
病室に残っていた雪乃の身内は、飛び込むように現れた香月と半ば押し付けられる形となった謎の像に困惑気味だったが、香月の厚意として笑顔で受け取っていた。
「まったく…。思い込むと即走り出す癖、いいかげんに直せよな」
「あー、その……。…反省、してます」
落ち着きなく視線を泳がせ、香月は項垂れた。
自身の行動に思い至る所があるというのは驚きだったが、そこは指摘せずに素直に謝罪を受け入れた。
「まぁ、別にいいさ」
見ている方としては気が気ではないが、思い立ったが即座に行動に移せるというのは羨ましいとさえ感じる事がある。
考えに考え、結局何もしないという選択に落ち着いてしまう事の多い直樹からすれば、そんな香月は時に眩しく見えてしまう。
もう少し思慮深さを身につけて欲しいと思う場面もあるが、それはもっと年齢を重ねてからでも遅くはない。
「それよりも、腹減ったな」
直樹は、上着の中に小銭入れがある事を確認した。
たいした金額は入っていない筈だが、小腹を満たすパンくらいは買えるだろう。
自宅では夕飯の準備をしていなかったし、帰宅してから改めて調理に取り掛かるというのも時刻を考えると面倒でしかない。
「そこらのコンビニで、パン…でも……」
言葉を終える前に、香月の耳に自身の言葉が届いていない事に気がついた。
隣にいる直樹ではない、自身の前方へと向けられた目は大きく見開き、薄く開かれた唇が細かく震えている。
陽もすっかり沈んだし、まぁ肌寒くも感じるよな。そんな冗談が思い浮かんだが、それを口にする気にはなれなかった。
直樹の視界の隅。おそらくは香月の視線の先と同じ場所に、蠢く何かを見つけたからだ。
「香月、下がれ!」
反射的に爪先を滑らせた。それの視界から隠すように、香月の前に出る。
これが変質者の類であれば、まだマシだったのかもしれない。
直感的に判断した通り、あまり歓迎できない相手のようだった。
ぎゃぎゃ、ぎゃ……っ
呻くようにも聞こえる低くしわがれた声は、直樹の記憶にはない種類のものだった。
仲間との意思疎通のための声なのか、異種に対する威嚇の声か。どちらにしても、人間にとって耳障りの良い音ではない。
「な、なんなの……?」
香月の声が珍しく緊張の色を帯びる。
好奇心の塊の香月からしても、自分の持つ知識のどれにも当て嵌らない対象は不安感を煽るものでしかないようだ。
ギャギャギャ…ッ
暗がりの中、確実に距離が縮まるのが分かった。
接近速度からして直樹らを脅威と感じてはいないのかもしれないが、逆にそれが知能の低さを物語っているとも言える。
声だけでなく、足音も聞こえてくる距離になった。
一定のリズムでアスファルトを蹴る音から、跳ねるように移動しているのだと判断でき、数メートルの距離を一気に詰めてくる可能性も考えられた。
やがて街灯の光が、それの姿を露わにする。
「……っ!?」
香月が息を呑んだ。
ハンドボールにサッカーボールを重ねたような、ずんぐりとした頭と胴体。
異様に細長い四肢と、その先に備わった鈍い光沢を放つ太い爪。
まるでゲームに出てきそうな風貌だけでも異質だが、何よりも際立っているのは、悪意に満ちた眼光だった。
猛獣は食べるために他の生物を襲うが、直樹らを見据える眼光は憎悪によって他者を襲うのだと思わせる。
そんな存在を眼前にすれば、香月ならずとも恐怖に身を竦ませてしまうのも無理からぬ事ではある。
「香月、こいつら知ってるか?」
「…まさかぁ」
視線を逸らさずに背後の香月に問いかけたが、強く首を振る気配と端的な回答が返ってきた。
緊張を解す事も兼ねて試しに訊いてみたのだが、予想通りの答えに、そうだろうなぁと漏らす。
「香月、少し離れてろ」
上着の内側に設えてあるホルダーから30センチほどの木刀を取り出し、両手に一本ずつ構えた。故あって常に持ち歩いている護身用だ。
俺から離れるなと言いたかったが、残念ながら背後の人間を庇いながら両手の木刀を振り回せる自信が直樹にはない。
香月もその辺は察したらしく、直樹が自由に動ける程度に距離をあけた。
――――ギギャッ!!
途端、先頭にいた一匹が大きく跳ねた。その弧を描く先には、香月。
大した知能は持ち合わせていないと考えていた直樹だったが、戦闘力が低い対象の判別と、そちらを優先して仕留めようという程度の判断力は持っていたようだ。
「え……ええっ!?」
自分が狙われていると気付いた香月は慌てて左右を見回すが、足が竦んでしまったのか、その場から移動しようとはしない。
「――想定内っ!!」
こうなる事も予想できていた。素早く身体をひねると、手にしていた木刀を鋭く投げつける。
――――ギュギャッ!!
暗がりに目の慣れてきた直樹の放った木刀は、狙い通りに怪物の放物線を崩したが、直樹は表情を曇らせた。
(氣の練りが足りなかったか)
怪物の体躯を貫くつもりで放った一撃であり、そうする事もできる筈なのだ。
弾かれた木刀を駆けながら掴み取ると、そのままの勢いで怪物を蹴り飛ばした。
さすがにサッカーボールほどの軽さではなかったが、全体的に丸いフォルムのせいか、爪先に残る感触以上に転がって距離が開いた。
殺傷のための攻撃でなかった事もあり、大してダメージを負わなかった怪物は跳ねるように起き上がった。
(どうするかな…)
木刀の握りを確かめながら、直樹は思考速度を速める。
暗がりの奥にどれだけの怪物が控えているのか未知数な部分はあるが、これらを蹴散らす事自体は無理難題だとは思えなかった。この場にいるのが直樹一人であれば、だが。
直樹の背に隠れている香月に問題がある訳ではない。
単純な運動能力で言えば、香月は平均以上のものを持っている。
しかしながらこの異常な場において、香月が自身の安全を確保できるかどうかは怪しいと言わざるをえない。
香月を守りながらでは防戦一方であり、それではジリ貧となるのも想像に難くない。
一時、香月の存在を忘れるという選択肢は意識の外へと追いやった。
客観的に見れば最も効果の見込める手段だが、僅かにでも香月を危険に晒す行為は直樹にしてみれば愚策でしかない。
「香月、離れるなよ?」
香月を守りつつ、場所を移動しようと決めた。人の多い場所に出れば、この状態にも変化が起こる筈だ。
そこに通りかかった人に累が及ぶとなったなら、運が悪かったと諦めてもらおう。
今はとにかく香月の安全が最優先だ。
「離れてろとか離れるなとか、どっちなのよっ」
香月のツッコミが入るが、直樹の意は汲んでくれたらしく、気配が僅かに近付いた。
――――ギギーャッ!!
気取られぬ移動が肝要なのだが、香月が立ち位置を変えた事に何かを感じ取った一匹が金切り声を上げた。
その声を合図に、群れの中から三つの影が宙高くに踊る。
(ちっ)
最初に香月を狙った行動といい、獲物と定めた相手に随分と御執心なのだなと、心の中で舌打ちしながら迎撃の挙動に移る。
――――ギ、ギャッ!!
短い断末魔を発し、二匹が地に墜ちた。同時に三匹目も叩き落されたが、その声は先の二匹のものに掻き消された。
二匹は小刻みに痙攣を続けていたが、確認するまでもなく絶命に至るだろう。
「……え?」
状況は確認できていたが、それが自分以外の手によるものだと気付くまでに僅かな空白があった。
まさに自分が思い描いた通りの結果だったために、放つ筈だった木刀を手にしたままだという事さえ失念してしまっていた。
「 ――のか? 」
誰だと声をあげようとするも、その相手と思われる声に制されてしまった。
「 ―――まなのか? 」
女の声だった。
若いが、押し殺した低い声。
「――貴様、なのか?」
同じ言葉を繰り返しながら、怪物とは違う暗がりから歩み出る人影。
小柄に見えたのは、細い体躯と黒ずくめの装束のせいだろう。並べてみれば、香月よりも背丈があると見て取れる筈だった。
年齢は香月とそう大差ないように感じたが、その身に纏った空気のせいかひどく大人びて見えている。
少女と呼ぶには憚られるほどに。
「…やはり、貴様なのか?」
苦悩するような声色が、その表情に深く皺を刻ませる。
暗がりの中にあって、明確に視認できるほどの険相。
自分と変わらぬ歳でそんな表情をする者など、これまでに数える程しか見たことがない。
そして、その誰もが本物だった。
直樹を前に物怖じしなかった怪物が距離を取り、やがて闇の中へと消えていった事からもそれは明らかなのだが。
「貴様なのか?」
重ねて問うこの女が直樹に何を見ているのか、皆目見当がつかない。
「…なんの事だ?」
声が上擦るのを避ける事はできたが、直樹としては他に言い様がない。
怪物どもを追い払ってくれた事には感謝したいが、結果として怪物よりも厄介な相手が残っただとか勘弁して欲しいところだ。
「………」
直樹の疑問に何を答えるでもなく、女は直樹を凝視する。
必死さにも似た視線は、直樹の奥底にある何かを見つけようとしている。
「……。いや、いい。どうやら違ったようだ」
女は目を伏せ、背を向けた。
途端に張り詰めていた周囲の空気が緩くなった。
「あっ、あの! ありがとうっ!」
香月が慌てて礼を口にしたが、既にその背は闇の中に掻き消えていた。
「ほらもー。直樹がさっさとお礼を言わないからー」
「えっ? そっち!?」
女が去ったのは礼を言わない直樹に呆れたからだと香月が噛み付いた。
そうではないだろうと思う直樹ではあるが、香月に断定口調で言われてしまうと途端に自信がなくなってくる。
今から女の後を追うなど無理に決まっているし、戻ってきてくれる可能性も皆無だろう。
「……あら? 取り込み中だったかしら?」
何と言って香月を納得させようかと悩み始めた矢先、また別の方向から聞き覚えのある声が掛けられた。
(こんな時に、また面倒な……)
記憶にも新しい聞いたばかりの声に、直樹は天を仰ぎたい気分になった。
足音もさせずに近付いてきたのは、黒髪の少女と銀髪の男だった。
銀髪の男は昼に見た時と同じ格好だったが、少女は白衣に緋袴――巫女装束というものだった。
少女に関して言えば、学園の制服よりもこちらが本来の姿なのだろう。
「あれっ? あなた……」
黒髪の少女に見覚えがあるのは、香月も同様だった。
香月らと同じ学園生になるかもしれないと言っていた事も覚えている。
香月に対し軽く手を振りながら、少女は地べたに転がっている怪物の骸に視線を向けた。
釣られるように視線を向ける直樹だったが、その先で物言わぬ物体となった怪物はぐずぐずと崩れ、やがて黒い粒子となって大気中に溶けていった。
「な…っ!?」
映画でしか見た事のない光景に、直樹は我が目を疑った。
怪物が転がっていた場所に駆け寄るも、流れ出ていた筈の体液さえも残されてはいなかった。
似たような現象を見た事は幾度かあるが、何の痕跡も残さぬ消滅など初めてだ。
徹底的な検査を行えばそれなりの結果がついてくるのかもしれないが、傍目にはこの場に怪物の骸が転がっていたなどとは信じ難い。
「異質な気配がしたから気になって来てみたのだけど、説明出来る程度に状況は把握しているのかしら?」
「あまり期待はできそうにないな」
片膝をつく直樹の背に少女の言葉が向けられるが、返答を待つまでもなく銀髪の男が正解を口にする。
実際にその通りであり、反論の余地すらない。
「撃退はあなたが?」
「ううん、知らない女の人が助けてくれたんだけどね。お礼も言えないうちに消えちゃった」
半ば呆然としたままの直樹に代わり、香月が勢いよく返答した。
「ふぅん…? まぁ、さもありなんってところかしら」
香月と直樹に交互に視線を送り、少女は得心したように顎に指先を添えた。
直接の手合わせをした訳でもないが、少女は直樹の力量を評価している。眼前で消滅した怪物がどれほどの力を有していたのだとしても、直樹が遅れを取るとは思っていない。
大方、香月の身を案じるあまりに積極的に前に出られなかったというところだろう。
実際に少女の見立て通りだったのだが、それよりも興味を引いたのは怪物を撃退したという人物の存在だ。
「真っ黒い衣装でね。全体的に細い印象だったかな。現代に甦った忍者! とかそんなカンジ?」
「……興味深いわね」
香月の証言は抽象的というか本質的な部分の見極めが出来ていない調子だが、少女には心当たりがあった。
銀髪の男に向けた視線がぶつかった。彼もどうやら同じ考えを持ったようだ。
マンションの爆発現場で見かけた少女。狩人であるパートナーを撒いただけの技量を考えれば、その実力は直樹以上だと想定して差し支えない。
二人の意見が一致したのであれば、その部分に関しては疑わずにおいても問題ないだろう。
件の少女の正体は相変わらず不明だが、要調査対象が一名か二名かという差は極めて大きい。
「それじゃ、私たちは戻りましょうか」
黒髪を軽く掻きながら、少女は背を向けた。
怪物がまた姿を見せるとは思えなかったし、新たに得られる情報がなければ長居は無用である。
どうせ、どこかでまた会うに違いないのだ。奇縁さえ感じる直樹らにかける挨拶もない。
銀髪の男も少女の後について歩き出す。
「……あ」
去ろうとする二人の背に視線を向けていた香月が、小さく声を発した。
「尻尾」
「っ!?」
銀髪の男の全身が、ビクリと硬直した。
少女の歩みも止まり、直樹は言葉もなく香月の横顔を見つめている。
「あ、あれ……??」
香月は目をこすり、しばたたかせる。
それを三度繰り返した後に頭を捻った。
「…なんか、見えたような気がしたんだけどなぁ」
自らの臀部を隠すように後ろ手に回していた銀髪の男だが、もちろんその手には何も触れるものはなかった。
笑いを堪える少女の長い黒髪が小刻みに揺れ、直樹は信じられないものを見る表情で香月から視線が離せない。
「面白いカノジョさんね。また、会いましょ」
目尻に浮いてしまった涙を指先で拭いながら、今度こそ少女はその場から立ち去った。
銀髪の男も紛然とした表情を残して少女の後を追った。
「尻尾……あれ? あれれ…?」
「………」
そこに残されたのは、自分の見たものに対して回答を出せずに頭を捻るばかりの香月と、善後策を講じなければと焦るばかりの直樹だけだった。
その日の夕方、香月は同じ話ばかりを繰り返していた。
放課後、見舞いに出向いた際の雪乃の様子である。
直樹が屋上で黒髪の少女と会っていたのと、ほぼ同時刻の出来事だ。
概要は掴んでいるものの雪乃を目覚めさせる方法など知らぬ直樹であり、面倒な事になると分かっていて目覚めさせようとも思わない。
「その……なんだ。しばらく様子を見るしかないんじゃないか。眠っている状態なんだろ?」
もちろん、眠ったままの状態がいつまでも続くのは良くない事だとは承知している。
だが、雪乃にこだわり続ければ、いずれ黒髪の少女に行き着いてしまうのだとも。
あの少女は言明こそしなかったが、彼女の抱えている案件が片付けば雪乃を目覚めさせる筈だ。
邪魔だからと退場させたまま放置するほどに、身勝手な人物とも思えない。
「そうは言うけどさぁ……」
自分がいくら心配しても状況改善にならない事は自覚しているらしく、直樹の言葉に俯いてしまう。
「そんなに心配しきりじゃ、彼女の方が申し訳なく考えたりしないか? 普段通りに過ごして、戻ってきた時に笑顔で迎えてやろうぜ」
直樹の言葉にゆっくりとだが頷くのを見て、直樹は安堵した。
渋々ながらも納得できさえすれば、香月は自分の中でうまく折り合いをつける事ができる。
悩みの種が消えた訳ではないにしろ、これで少しは気が楽になるというものだ。
だが、香月もそのままでは終わらなかった。
「それじゃあ、今からもう一回だけお見舞いに行ってくる!」
肩に無駄に力を込めながら立ち上がると、手近にあった像を掴み取る。
「この快気促進の像を置いてくれば、快方に向かう効果も期待できるわよね!?」
四足歩行動物を模したと思われる全体的に角張った像を高々と掲げ、香月は鼻息も荒く部屋を飛び出した。
「お、おい……ちょっと待てって!」
新條家に置いてある像や置物は、例外なく魔除けの品として蒐集されたものである。
それ以外に期待される効果もなくはないと思うが、香月の持ち出した像に快気促進などとそんな物はあっただろうか。
いや、それよりも。とにかく香月を追いかけねば。
この展開では引き留める事はどうやら無理そうであり、次善策としては香月の傍について想定外の事態に発展する事だけは避けねばならない。
上着を引っ掴むと、既に玄関から出てしまっている香月を慌てて追いかけた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「うん! これで絶対に大丈夫っ!!」
面会時間ぎりぎりではあったが、無事に魔除けの像を届けた香月は、晴れやかな笑顔を見せていた。
病室に残っていた雪乃の身内は、飛び込むように現れた香月と半ば押し付けられる形となった謎の像に困惑気味だったが、香月の厚意として笑顔で受け取っていた。
「まったく…。思い込むと即走り出す癖、いいかげんに直せよな」
「あー、その……。…反省、してます」
落ち着きなく視線を泳がせ、香月は項垂れた。
自身の行動に思い至る所があるというのは驚きだったが、そこは指摘せずに素直に謝罪を受け入れた。
「まぁ、別にいいさ」
見ている方としては気が気ではないが、思い立ったが即座に行動に移せるというのは羨ましいとさえ感じる事がある。
考えに考え、結局何もしないという選択に落ち着いてしまう事の多い直樹からすれば、そんな香月は時に眩しく見えてしまう。
もう少し思慮深さを身につけて欲しいと思う場面もあるが、それはもっと年齢を重ねてからでも遅くはない。
「それよりも、腹減ったな」
直樹は、上着の中に小銭入れがある事を確認した。
たいした金額は入っていない筈だが、小腹を満たすパンくらいは買えるだろう。
自宅では夕飯の準備をしていなかったし、帰宅してから改めて調理に取り掛かるというのも時刻を考えると面倒でしかない。
「そこらのコンビニで、パン…でも……」
言葉を終える前に、香月の耳に自身の言葉が届いていない事に気がついた。
隣にいる直樹ではない、自身の前方へと向けられた目は大きく見開き、薄く開かれた唇が細かく震えている。
陽もすっかり沈んだし、まぁ肌寒くも感じるよな。そんな冗談が思い浮かんだが、それを口にする気にはなれなかった。
直樹の視界の隅。おそらくは香月の視線の先と同じ場所に、蠢く何かを見つけたからだ。
「香月、下がれ!」
反射的に爪先を滑らせた。それの視界から隠すように、香月の前に出る。
これが変質者の類であれば、まだマシだったのかもしれない。
直感的に判断した通り、あまり歓迎できない相手のようだった。
ぎゃぎゃ、ぎゃ……っ
呻くようにも聞こえる低くしわがれた声は、直樹の記憶にはない種類のものだった。
仲間との意思疎通のための声なのか、異種に対する威嚇の声か。どちらにしても、人間にとって耳障りの良い音ではない。
「な、なんなの……?」
香月の声が珍しく緊張の色を帯びる。
好奇心の塊の香月からしても、自分の持つ知識のどれにも当て嵌らない対象は不安感を煽るものでしかないようだ。
ギャギャギャ…ッ
暗がりの中、確実に距離が縮まるのが分かった。
接近速度からして直樹らを脅威と感じてはいないのかもしれないが、逆にそれが知能の低さを物語っているとも言える。
声だけでなく、足音も聞こえてくる距離になった。
一定のリズムでアスファルトを蹴る音から、跳ねるように移動しているのだと判断でき、数メートルの距離を一気に詰めてくる可能性も考えられた。
やがて街灯の光が、それの姿を露わにする。
「……っ!?」
香月が息を呑んだ。
ハンドボールにサッカーボールを重ねたような、ずんぐりとした頭と胴体。
異様に細長い四肢と、その先に備わった鈍い光沢を放つ太い爪。
まるでゲームに出てきそうな風貌だけでも異質だが、何よりも際立っているのは、悪意に満ちた眼光だった。
猛獣は食べるために他の生物を襲うが、直樹らを見据える眼光は憎悪によって他者を襲うのだと思わせる。
そんな存在を眼前にすれば、香月ならずとも恐怖に身を竦ませてしまうのも無理からぬ事ではある。
「香月、こいつら知ってるか?」
「…まさかぁ」
視線を逸らさずに背後の香月に問いかけたが、強く首を振る気配と端的な回答が返ってきた。
緊張を解す事も兼ねて試しに訊いてみたのだが、予想通りの答えに、そうだろうなぁと漏らす。
「香月、少し離れてろ」
上着の内側に設えてあるホルダーから30センチほどの木刀を取り出し、両手に一本ずつ構えた。故あって常に持ち歩いている護身用だ。
俺から離れるなと言いたかったが、残念ながら背後の人間を庇いながら両手の木刀を振り回せる自信が直樹にはない。
香月もその辺は察したらしく、直樹が自由に動ける程度に距離をあけた。
――――ギギャッ!!
途端、先頭にいた一匹が大きく跳ねた。その弧を描く先には、香月。
大した知能は持ち合わせていないと考えていた直樹だったが、戦闘力が低い対象の判別と、そちらを優先して仕留めようという程度の判断力は持っていたようだ。
「え……ええっ!?」
自分が狙われていると気付いた香月は慌てて左右を見回すが、足が竦んでしまったのか、その場から移動しようとはしない。
「――想定内っ!!」
こうなる事も予想できていた。素早く身体をひねると、手にしていた木刀を鋭く投げつける。
――――ギュギャッ!!
暗がりに目の慣れてきた直樹の放った木刀は、狙い通りに怪物の放物線を崩したが、直樹は表情を曇らせた。
(氣の練りが足りなかったか)
怪物の体躯を貫くつもりで放った一撃であり、そうする事もできる筈なのだ。
弾かれた木刀を駆けながら掴み取ると、そのままの勢いで怪物を蹴り飛ばした。
さすがにサッカーボールほどの軽さではなかったが、全体的に丸いフォルムのせいか、爪先に残る感触以上に転がって距離が開いた。
殺傷のための攻撃でなかった事もあり、大してダメージを負わなかった怪物は跳ねるように起き上がった。
(どうするかな…)
木刀の握りを確かめながら、直樹は思考速度を速める。
暗がりの奥にどれだけの怪物が控えているのか未知数な部分はあるが、これらを蹴散らす事自体は無理難題だとは思えなかった。この場にいるのが直樹一人であれば、だが。
直樹の背に隠れている香月に問題がある訳ではない。
単純な運動能力で言えば、香月は平均以上のものを持っている。
しかしながらこの異常な場において、香月が自身の安全を確保できるかどうかは怪しいと言わざるをえない。
香月を守りながらでは防戦一方であり、それではジリ貧となるのも想像に難くない。
一時、香月の存在を忘れるという選択肢は意識の外へと追いやった。
客観的に見れば最も効果の見込める手段だが、僅かにでも香月を危険に晒す行為は直樹にしてみれば愚策でしかない。
「香月、離れるなよ?」
香月を守りつつ、場所を移動しようと決めた。人の多い場所に出れば、この状態にも変化が起こる筈だ。
そこに通りかかった人に累が及ぶとなったなら、運が悪かったと諦めてもらおう。
今はとにかく香月の安全が最優先だ。
「離れてろとか離れるなとか、どっちなのよっ」
香月のツッコミが入るが、直樹の意は汲んでくれたらしく、気配が僅かに近付いた。
――――ギギーャッ!!
気取られぬ移動が肝要なのだが、香月が立ち位置を変えた事に何かを感じ取った一匹が金切り声を上げた。
その声を合図に、群れの中から三つの影が宙高くに踊る。
(ちっ)
最初に香月を狙った行動といい、獲物と定めた相手に随分と御執心なのだなと、心の中で舌打ちしながら迎撃の挙動に移る。
――――ギ、ギャッ!!
短い断末魔を発し、二匹が地に墜ちた。同時に三匹目も叩き落されたが、その声は先の二匹のものに掻き消された。
二匹は小刻みに痙攣を続けていたが、確認するまでもなく絶命に至るだろう。
「……え?」
状況は確認できていたが、それが自分以外の手によるものだと気付くまでに僅かな空白があった。
まさに自分が思い描いた通りの結果だったために、放つ筈だった木刀を手にしたままだという事さえ失念してしまっていた。
「 ――のか? 」
誰だと声をあげようとするも、その相手と思われる声に制されてしまった。
「 ―――まなのか? 」
女の声だった。
若いが、押し殺した低い声。
「――貴様、なのか?」
同じ言葉を繰り返しながら、怪物とは違う暗がりから歩み出る人影。
小柄に見えたのは、細い体躯と黒ずくめの装束のせいだろう。並べてみれば、香月よりも背丈があると見て取れる筈だった。
年齢は香月とそう大差ないように感じたが、その身に纏った空気のせいかひどく大人びて見えている。
少女と呼ぶには憚られるほどに。
「…やはり、貴様なのか?」
苦悩するような声色が、その表情に深く皺を刻ませる。
暗がりの中にあって、明確に視認できるほどの険相。
自分と変わらぬ歳でそんな表情をする者など、これまでに数える程しか見たことがない。
そして、その誰もが本物だった。
直樹を前に物怖じしなかった怪物が距離を取り、やがて闇の中へと消えていった事からもそれは明らかなのだが。
「貴様なのか?」
重ねて問うこの女が直樹に何を見ているのか、皆目見当がつかない。
「…なんの事だ?」
声が上擦るのを避ける事はできたが、直樹としては他に言い様がない。
怪物どもを追い払ってくれた事には感謝したいが、結果として怪物よりも厄介な相手が残っただとか勘弁して欲しいところだ。
「………」
直樹の疑問に何を答えるでもなく、女は直樹を凝視する。
必死さにも似た視線は、直樹の奥底にある何かを見つけようとしている。
「……。いや、いい。どうやら違ったようだ」
女は目を伏せ、背を向けた。
途端に張り詰めていた周囲の空気が緩くなった。
「あっ、あの! ありがとうっ!」
香月が慌てて礼を口にしたが、既にその背は闇の中に掻き消えていた。
「ほらもー。直樹がさっさとお礼を言わないからー」
「えっ? そっち!?」
女が去ったのは礼を言わない直樹に呆れたからだと香月が噛み付いた。
そうではないだろうと思う直樹ではあるが、香月に断定口調で言われてしまうと途端に自信がなくなってくる。
今から女の後を追うなど無理に決まっているし、戻ってきてくれる可能性も皆無だろう。
「……あら? 取り込み中だったかしら?」
何と言って香月を納得させようかと悩み始めた矢先、また別の方向から聞き覚えのある声が掛けられた。
(こんな時に、また面倒な……)
記憶にも新しい聞いたばかりの声に、直樹は天を仰ぎたい気分になった。
足音もさせずに近付いてきたのは、黒髪の少女と銀髪の男だった。
銀髪の男は昼に見た時と同じ格好だったが、少女は白衣に緋袴――巫女装束というものだった。
少女に関して言えば、学園の制服よりもこちらが本来の姿なのだろう。
「あれっ? あなた……」
黒髪の少女に見覚えがあるのは、香月も同様だった。
香月らと同じ学園生になるかもしれないと言っていた事も覚えている。
香月に対し軽く手を振りながら、少女は地べたに転がっている怪物の骸に視線を向けた。
釣られるように視線を向ける直樹だったが、その先で物言わぬ物体となった怪物はぐずぐずと崩れ、やがて黒い粒子となって大気中に溶けていった。
「な…っ!?」
映画でしか見た事のない光景に、直樹は我が目を疑った。
怪物が転がっていた場所に駆け寄るも、流れ出ていた筈の体液さえも残されてはいなかった。
似たような現象を見た事は幾度かあるが、何の痕跡も残さぬ消滅など初めてだ。
徹底的な検査を行えばそれなりの結果がついてくるのかもしれないが、傍目にはこの場に怪物の骸が転がっていたなどとは信じ難い。
「異質な気配がしたから気になって来てみたのだけど、説明出来る程度に状況は把握しているのかしら?」
「あまり期待はできそうにないな」
片膝をつく直樹の背に少女の言葉が向けられるが、返答を待つまでもなく銀髪の男が正解を口にする。
実際にその通りであり、反論の余地すらない。
「撃退はあなたが?」
「ううん、知らない女の人が助けてくれたんだけどね。お礼も言えないうちに消えちゃった」
半ば呆然としたままの直樹に代わり、香月が勢いよく返答した。
「ふぅん…? まぁ、さもありなんってところかしら」
香月と直樹に交互に視線を送り、少女は得心したように顎に指先を添えた。
直接の手合わせをした訳でもないが、少女は直樹の力量を評価している。眼前で消滅した怪物がどれほどの力を有していたのだとしても、直樹が遅れを取るとは思っていない。
大方、香月の身を案じるあまりに積極的に前に出られなかったというところだろう。
実際に少女の見立て通りだったのだが、それよりも興味を引いたのは怪物を撃退したという人物の存在だ。
「真っ黒い衣装でね。全体的に細い印象だったかな。現代に甦った忍者! とかそんなカンジ?」
「……興味深いわね」
香月の証言は抽象的というか本質的な部分の見極めが出来ていない調子だが、少女には心当たりがあった。
銀髪の男に向けた視線がぶつかった。彼もどうやら同じ考えを持ったようだ。
マンションの爆発現場で見かけた少女。狩人であるパートナーを撒いただけの技量を考えれば、その実力は直樹以上だと想定して差し支えない。
二人の意見が一致したのであれば、その部分に関しては疑わずにおいても問題ないだろう。
件の少女の正体は相変わらず不明だが、要調査対象が一名か二名かという差は極めて大きい。
「それじゃ、私たちは戻りましょうか」
黒髪を軽く掻きながら、少女は背を向けた。
怪物がまた姿を見せるとは思えなかったし、新たに得られる情報がなければ長居は無用である。
どうせ、どこかでまた会うに違いないのだ。奇縁さえ感じる直樹らにかける挨拶もない。
銀髪の男も少女の後について歩き出す。
「……あ」
去ろうとする二人の背に視線を向けていた香月が、小さく声を発した。
「尻尾」
「っ!?」
銀髪の男の全身が、ビクリと硬直した。
少女の歩みも止まり、直樹は言葉もなく香月の横顔を見つめている。
「あ、あれ……??」
香月は目をこすり、しばたたかせる。
それを三度繰り返した後に頭を捻った。
「…なんか、見えたような気がしたんだけどなぁ」
自らの臀部を隠すように後ろ手に回していた銀髪の男だが、もちろんその手には何も触れるものはなかった。
笑いを堪える少女の長い黒髪が小刻みに揺れ、直樹は信じられないものを見る表情で香月から視線が離せない。
「面白いカノジョさんね。また、会いましょ」
目尻に浮いてしまった涙を指先で拭いながら、今度こそ少女はその場から立ち去った。
銀髪の男も紛然とした表情を残して少女の後を追った。
「尻尾……あれ? あれれ…?」
「………」
そこに残されたのは、自分の見たものに対して回答を出せずに頭を捻るばかりの香月と、善後策を講じなければと焦るばかりの直樹だけだった。
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