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或いは夢のようなはじまり
21 結界の神社
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「…………」
あんぐり。ぽかーん。
後に直樹はその時の自身の顔をどう表現するべきか迷い、結局、そんな間の抜けた顔は誰に見られる事もなく良かったのだと思う事になる。
「なんだ、ここは……?」
わざわざ声に出したのは、自身に言い聞かせるためだ。
頭の中で考えるよりも、言葉にした方が何かに気付ける事は多い。
自身の声を自分の耳で拾い、そして反芻し、改めて周囲に視線を向ける。
そこに広がっているのは、竹林。
竹林という場所自体は変わってこそいないが、新しい要素が眼前に現れていた。
上方へと延びてゆく石段。見上げてみれば直樹の身長の倍くらいの高さはある。
石段の左右は土手のような坂が阻み、向こう側を見通す事はできない。
明らかにおかしい。
竹薮に紛れて石段を見落としていたのだとしても、視界を塞ぐような斜面を見落とす筈がない。
「――!?」
振り返り、さらに驚く。
たった今までいた数歩前の景色が、陽炎の如く揺らめいている。
まるで水面越しに見る景色のようだ。
「結界……か」
かつて聞いたことのある単語を、記憶の底から拾いあげる。
一定の条件を満たした者以外の進入を許さないのが一般的という話だったが、直樹を歓迎してくれているという事なのだろうか。
「いや、違うな」
直樹がこじ開けてしまったのだ。
結界を通り抜ける時、全身にまとわりつくような違和感があったのはそのためだ。
こっち側に入り込んだ今も、空気が質量を帯びて手足の動きを緩慢にさせているのも証左のひとつだろう。
こうして結界内に身を置く経験は初めてだったが、自らが進んで侵入したのだという認識が警戒心よりも感動に近いものを直樹の胸に去来させていた。
とはいえ、結界を張った当人にしてみれば直樹は招かれざる客であり、いつ強制排除の扱いを受けてもおかしくはない。
だが偶然にせよこうして入り込んでしまった以上、この空間の主に会ってみたいとも思っていた。
可能性は低いが、顔見知り――あるいは共通の知人を持っている人物であるかもしれない。
逆に無差別に他人を攻撃するような危険性を孕んだ者であるかもしれないが、不思議とそういった心配はしていなかった。
全身に抵抗を受けながらも、澄んだ空気に満たされた結界内に居心地の良さを感じたせいだろう。
石段を上りながらその先に視線を向けると、鮮やかな朱塗りの鳥居と、その向こうに広がる青い空が見えた。
空は先程と同様に波打つような膜に包まれているかのようであり、巨大な水槽の中にいるのではないかという錯覚に陥りそうになる。
(……ん、鳥居?)
脳裏に浮かんだ疑問を自問するよりも早く、その答えとなる光景が視界に広がった。
神社だった。
高台の上にも神社はあったが、それと比べるべくもなく、大きく荘厳な威容を直樹の前に晒していた。
「すごいな……」
自然と声が漏れた。
ただただ、立派でしかない。
どれだけの職人がどれだけの時間を掛ければこんな社殿が造り上げられるのか。神々しいばかりの輝きを放つ神社が、直樹の眼前に鎮座している。
建築に明るくない直樹でも、ひと目で理解してしまうほどの出来栄えだ。
「……う」
上で見た神社も十分に立派なものだったが、こうして見比べてしまうと子供だましの玩具のようにさえ思えてきてしまう。
「……よう」
否、次元が違うとはまさにこの事だ。
どうしてこんな神社が結界の中に。
「ねえってば!」
服の裾を強く引っ張られる感覚と声とで我に返った。
目の前の光景に目を奪われるあまり、茫然自失となっていたらしい。
「おはよう!」
そして、自分を呼び続けていたと思しき存在に目を向ける。真新しい巫女装束に身を包んだ少女だった。
気付いて貰えたのが嬉しかったのか、直樹の正面に回った少女は満面の笑みを浮かべた。
屈託のない笑顔はとても微笑ましく、ついこちらも笑顔を返してしまいそうになる。
背丈からすると中学生くらいだろうか。
ややもすると童顔に過ぎる顔のつくりは、小学生だと言われれば疑いもしないだろう。
「おはよう!」
自分を観察する視線に気付いていないのか、少女が挨拶の言葉を重ねた。
「あ……ああ、おはよう。早起きさんなんだな」
僅かに迷ったが、直樹は少女の頭を優しく撫でた。
少女の保護者からすれば見ず知らずの男に触れられるなど気味が悪いと思われるかもしれないが、この少女には素直な行動で接するのが最良ではないかと直樹は感じた。
この少女は他者が内面に持つ黒い部分を感じ取れるのだと、直樹の直感が告げていた。
具体的に少女がどういった存在かは分からないが、下手に考え過ぎて、汚れた大人の側面を見せるような行為は避けねばならない。
そして直樹の判断は間違っていなかったらしい。
くすぐったそうに身をよじった少女だったが、その瞳の輝きは曇る事なく直樹に向けられ続けている。
「お兄ちゃん、本家から来たひと?」
本家?
ここでそうだと答えれば結界内について色々と案内して貰えそうだったが、嘘は良くないと自制する。
「いや、違うよ。散歩の途中だったんだけど、ここに来ると迷惑だったかな?」
迷惑だと言われれば大人しく帰るしか選択肢がなくなってしまうが、それはそれで仕方がない。
「だいかんげい! ゆっくりしていってね!」
にぱーと笑顔を見せ、少女は身を翻した。
柔らかそうな髪を躍らせ、玉砂利を小さく踏み鳴らしながら駆けてゆく。
小走りながらもその足は速く、瞬く間にその背は小さくなっていった。
途中、幾度となく振り返っては手を振る仕草も微笑ましい。
「大歓迎……って、ちゃんと意味が分かってるのかね?」
去った様子からすると、戻ってくるとは考え難い。
それでも、ここの住人と思われる少女の言質を取ったという言い訳は立つだろうと直樹は考えた。
「そうねぇ。あの子ったら、どこでそんな言葉を覚えてくるのかしら」
いざ境内を散策しようとした背後から、溜息まじりの声が発せられる。
「――っ!?」
振り返りざま、飛び退いて距離を取ろうとしたものの、なにひとつ挙動を起こせないままに直樹の身体が固まった。
(な、なんだ……!?)
声も出せず、視線すら動かせない。意識を残したまま仮死状態に陥ったような、不思議な虚無感ばかりが全身を包む。
「残念ながら、あまり歓迎できるお客様じゃないわね。あの子に対する態度に免じて、手荒な真似はしないでおいてあげるけど」
年若い女の声だった。
やや大人びた響きをもって耳に届くが、香月と大差ない年頃だろうとあたりをつける。
しかしこの場合、相手の年齢も性別も関係ない。
(十分に手荒じゃねえか……!)
半開きのまま動かせない喉の奥で、音にならない抗議の声を上げる。
「あら? そんな事を言える立場じゃないでしょ」
直樹の声を聞き取れたのか、女の声のトーンが低くなった。
直後、左胸を背後から貫く冷たい刃の感触。
(――っ!!)
実際に刺されてしまったのかどうかも、今の直樹には判別がつかない。だが、脊髄を奔った冷気が全身を蝕んでゆく感覚は本物だった。
間違いなく致命傷だ。即死は免れたようだが、残された命は秒単位だろう。
「おい、脅かしすぎじゃないのか。下手をしたらショック死だぞ」
別の声が、直樹と女の間に割って入った。
その男の声が耳に入ると、呪縛を解かれたように直樹の身体が動いた。
全身を包む虚脱感に逆らえず、両膝をついて倒れ込んだ。
「……ぐっ」
抜け落ちそうな意識を必死に繋ぎ止め、右手を左胸に這わせる。
刺されたと思われた刃はおろか、傷ひとつついていない。
「これしきの事で死ぬなんて思ってないわよ」
這いつくばる直樹の背に、女の声が投げ掛けられる。
残念そうな色を感じるのは、直樹の気のせいなのだと思いたい。
「くそ、なんなんだ!」
振り返ろうとするも、全身がまたしても硬直してそれを阻む。
苛立ち紛れに石畳の縁を握り締めると、それは出来る事に驚いた。
どうやら、背後を見ようとする行為のみが禁じられているらしい。
手足や声の自由は取り戻したというのに、なんとももどかしい事だ。
「悪く思うなよ。お前ごときが気軽にお目通りできる相手じゃないんだ」
男の声が淡々と響く。
どうやらこの結界内――特殊に生成された場においては相手の思い通りになってしまうらしい。
「それにしても貴方。結界を自力で越えてきた実力は認めてあげるけど、こんな時によく散歩なんてしていられるわね。大物なのか馬鹿なのか、判断に苦しむわ」
嘆息気味の声に、直樹は眉を僅かに寄せる。
「……どういう意味だ?」
何を指して『こんな時』だと言っているのか。
女が思わせぶりな態度を好んでいるだけだと断定しかけたが、相手の身体の自由を奪えるだけの力を行使できる人物なのだ。
その言葉通りに、直樹が知り得ていない情報を持っているのかも知れない。
「最近、身の回りで変な事ばかり起きているでしょう?」
その言葉に、分かりやすいまでに直樹の身体が震えた。
具体的な例は出さないまでも、想起させる出来事は十分に起きている。
マンション爆発が最大の出来事ではあるが、犬の遠吠えが多かったり、日高も感じていた気配と、『変な事』と曖昧な括りをつければ思い当たる節などいくらでもある。
「私達はね、その調査をしているの」
何者かを問おうとする前に、先制された。
「もちろん原因を突き止め次第、対処はするけれど。
諸々の現象発生における被害者救済まで、手が回らないのが現実なのよ」
言葉尻だけを見れば自身の力不足を不甲斐なく感じているかのようでもあるが、やれやれ困ったものだと愚痴をこぼしているだけにしか直樹には聞こえない。
「貴方のように自覚が出来る人ばかりであれば心配しなくてもいいのだけど、そうでない人は……」
僅かに呼吸を置き、そのまま続ける。
「命にかかわる場面も有り得るわね。貴方のカノジョさんみたいに」
「――なんだと?」
相手の顔をまともに見る事もできない以上、論議にもならない。
相手が勝手に喋ってくれる間は聞くに徹しようと決め込んだ直樹だったが、不意に指摘された存在に表情が強張った。
「だから、貴方も暢気に散歩なんて………え?」
絶対的優位もあり、落ち着き払っていた女の声に驚愕の色が混ざり込んだ。
直樹の首が徐々にではあるが、後ろを向こうとしていたからである。
「香月が……香月の身に、危険が及ぶってのか!?」
直樹にとって無二の存在である香月を話題に挙げられた事がスイッチとなり、直樹の身体能力は限界を超えた。
俗に言う火事場のナントカという現象に酷似している。
背後に立つ女が香月に対して危害を加える気など無い事は承知しているが、その言葉が、香月の身に危険が及ぶのが事実なのかどうか確かめねばならない。
直樹の身体は外部よりかかる制約の力を引き摺りながら、自分の意思に従って動き続ける。
「――ふんっ!」
あと少しで背後に視線が届くというところで、首筋を鷲掴みにされ――地から強引に引き剥がされた直樹の身体が宙に舞った。
「うお……っ!?」
予告も無しに放り投げられた直樹の視界が、猛スピードで回転する。
目の前を通り過ぎる景色は焦点が合わないために意味のある像を結ばなかったが、黒く長い髪だけが印象的に網膜に映った。
「だっ!」
入ってきた結界の入口を逆戻りし、背中を強かに打ちつけた。
受け身は取れていたが、高い位置からの落下はさすがに痛い。
落ちた場所が竹林内でなければ痛いどころの話ではない。
「くっそ…!」
背中全体に広がる痛みを堪えて起き上がると、結界入口へと腕を伸ばす。
しかし直樹の指先は宙を掻くばかりで、結界に触れた感触を再び得る事は叶わなかった。
『いずれ、私の助力が本当に必要になったらまた来なさい。
まだまだ、貴方自身が足掻く余地はあると思うわよ』
結界の向こう側にいるであろう女の声が、虚空から聞こえてくる。
声が聞こえてくるくらいなのだから、まだ結界に割り込めるのではないかと期待を抱いた直樹だったが、声のした方向に手を伸ばしても指先に触れるものは何もなかった。
「くそっ、どこだっ!?」
叫んでみるも、直樹に応えるのは風に揺れる竹の葉のさざめきだけ。
無視を決め込まれたか、それとも完全に遮断されたか。
どちらにせよ、この場ではこれ以上粘っても無意味なのだと悟る。
「……」
それよりも香月だ。ポジティブと言えば聞こえこそ良いが、楽観的に過ぎるその性格はトラブルに巻き込まれた際に自身を護る武器には成り難い。
過保護に動いてしまう直樹自身もどうかとは思うが、ここで言うトラブルとは命を危険に晒す類の内容を指している。
女の言葉を真に受ける形となってしまうのは正直癪だが、取り返しのつかない状態に陥るよりはずっといい。
竹林を背にすると、当初の散歩とは比べ物にならない速さで自宅へと駆け出した。
あんぐり。ぽかーん。
後に直樹はその時の自身の顔をどう表現するべきか迷い、結局、そんな間の抜けた顔は誰に見られる事もなく良かったのだと思う事になる。
「なんだ、ここは……?」
わざわざ声に出したのは、自身に言い聞かせるためだ。
頭の中で考えるよりも、言葉にした方が何かに気付ける事は多い。
自身の声を自分の耳で拾い、そして反芻し、改めて周囲に視線を向ける。
そこに広がっているのは、竹林。
竹林という場所自体は変わってこそいないが、新しい要素が眼前に現れていた。
上方へと延びてゆく石段。見上げてみれば直樹の身長の倍くらいの高さはある。
石段の左右は土手のような坂が阻み、向こう側を見通す事はできない。
明らかにおかしい。
竹薮に紛れて石段を見落としていたのだとしても、視界を塞ぐような斜面を見落とす筈がない。
「――!?」
振り返り、さらに驚く。
たった今までいた数歩前の景色が、陽炎の如く揺らめいている。
まるで水面越しに見る景色のようだ。
「結界……か」
かつて聞いたことのある単語を、記憶の底から拾いあげる。
一定の条件を満たした者以外の進入を許さないのが一般的という話だったが、直樹を歓迎してくれているという事なのだろうか。
「いや、違うな」
直樹がこじ開けてしまったのだ。
結界を通り抜ける時、全身にまとわりつくような違和感があったのはそのためだ。
こっち側に入り込んだ今も、空気が質量を帯びて手足の動きを緩慢にさせているのも証左のひとつだろう。
こうして結界内に身を置く経験は初めてだったが、自らが進んで侵入したのだという認識が警戒心よりも感動に近いものを直樹の胸に去来させていた。
とはいえ、結界を張った当人にしてみれば直樹は招かれざる客であり、いつ強制排除の扱いを受けてもおかしくはない。
だが偶然にせよこうして入り込んでしまった以上、この空間の主に会ってみたいとも思っていた。
可能性は低いが、顔見知り――あるいは共通の知人を持っている人物であるかもしれない。
逆に無差別に他人を攻撃するような危険性を孕んだ者であるかもしれないが、不思議とそういった心配はしていなかった。
全身に抵抗を受けながらも、澄んだ空気に満たされた結界内に居心地の良さを感じたせいだろう。
石段を上りながらその先に視線を向けると、鮮やかな朱塗りの鳥居と、その向こうに広がる青い空が見えた。
空は先程と同様に波打つような膜に包まれているかのようであり、巨大な水槽の中にいるのではないかという錯覚に陥りそうになる。
(……ん、鳥居?)
脳裏に浮かんだ疑問を自問するよりも早く、その答えとなる光景が視界に広がった。
神社だった。
高台の上にも神社はあったが、それと比べるべくもなく、大きく荘厳な威容を直樹の前に晒していた。
「すごいな……」
自然と声が漏れた。
ただただ、立派でしかない。
どれだけの職人がどれだけの時間を掛ければこんな社殿が造り上げられるのか。神々しいばかりの輝きを放つ神社が、直樹の眼前に鎮座している。
建築に明るくない直樹でも、ひと目で理解してしまうほどの出来栄えだ。
「……う」
上で見た神社も十分に立派なものだったが、こうして見比べてしまうと子供だましの玩具のようにさえ思えてきてしまう。
「……よう」
否、次元が違うとはまさにこの事だ。
どうしてこんな神社が結界の中に。
「ねえってば!」
服の裾を強く引っ張られる感覚と声とで我に返った。
目の前の光景に目を奪われるあまり、茫然自失となっていたらしい。
「おはよう!」
そして、自分を呼び続けていたと思しき存在に目を向ける。真新しい巫女装束に身を包んだ少女だった。
気付いて貰えたのが嬉しかったのか、直樹の正面に回った少女は満面の笑みを浮かべた。
屈託のない笑顔はとても微笑ましく、ついこちらも笑顔を返してしまいそうになる。
背丈からすると中学生くらいだろうか。
ややもすると童顔に過ぎる顔のつくりは、小学生だと言われれば疑いもしないだろう。
「おはよう!」
自分を観察する視線に気付いていないのか、少女が挨拶の言葉を重ねた。
「あ……ああ、おはよう。早起きさんなんだな」
僅かに迷ったが、直樹は少女の頭を優しく撫でた。
少女の保護者からすれば見ず知らずの男に触れられるなど気味が悪いと思われるかもしれないが、この少女には素直な行動で接するのが最良ではないかと直樹は感じた。
この少女は他者が内面に持つ黒い部分を感じ取れるのだと、直樹の直感が告げていた。
具体的に少女がどういった存在かは分からないが、下手に考え過ぎて、汚れた大人の側面を見せるような行為は避けねばならない。
そして直樹の判断は間違っていなかったらしい。
くすぐったそうに身をよじった少女だったが、その瞳の輝きは曇る事なく直樹に向けられ続けている。
「お兄ちゃん、本家から来たひと?」
本家?
ここでそうだと答えれば結界内について色々と案内して貰えそうだったが、嘘は良くないと自制する。
「いや、違うよ。散歩の途中だったんだけど、ここに来ると迷惑だったかな?」
迷惑だと言われれば大人しく帰るしか選択肢がなくなってしまうが、それはそれで仕方がない。
「だいかんげい! ゆっくりしていってね!」
にぱーと笑顔を見せ、少女は身を翻した。
柔らかそうな髪を躍らせ、玉砂利を小さく踏み鳴らしながら駆けてゆく。
小走りながらもその足は速く、瞬く間にその背は小さくなっていった。
途中、幾度となく振り返っては手を振る仕草も微笑ましい。
「大歓迎……って、ちゃんと意味が分かってるのかね?」
去った様子からすると、戻ってくるとは考え難い。
それでも、ここの住人と思われる少女の言質を取ったという言い訳は立つだろうと直樹は考えた。
「そうねぇ。あの子ったら、どこでそんな言葉を覚えてくるのかしら」
いざ境内を散策しようとした背後から、溜息まじりの声が発せられる。
「――っ!?」
振り返りざま、飛び退いて距離を取ろうとしたものの、なにひとつ挙動を起こせないままに直樹の身体が固まった。
(な、なんだ……!?)
声も出せず、視線すら動かせない。意識を残したまま仮死状態に陥ったような、不思議な虚無感ばかりが全身を包む。
「残念ながら、あまり歓迎できるお客様じゃないわね。あの子に対する態度に免じて、手荒な真似はしないでおいてあげるけど」
年若い女の声だった。
やや大人びた響きをもって耳に届くが、香月と大差ない年頃だろうとあたりをつける。
しかしこの場合、相手の年齢も性別も関係ない。
(十分に手荒じゃねえか……!)
半開きのまま動かせない喉の奥で、音にならない抗議の声を上げる。
「あら? そんな事を言える立場じゃないでしょ」
直樹の声を聞き取れたのか、女の声のトーンが低くなった。
直後、左胸を背後から貫く冷たい刃の感触。
(――っ!!)
実際に刺されてしまったのかどうかも、今の直樹には判別がつかない。だが、脊髄を奔った冷気が全身を蝕んでゆく感覚は本物だった。
間違いなく致命傷だ。即死は免れたようだが、残された命は秒単位だろう。
「おい、脅かしすぎじゃないのか。下手をしたらショック死だぞ」
別の声が、直樹と女の間に割って入った。
その男の声が耳に入ると、呪縛を解かれたように直樹の身体が動いた。
全身を包む虚脱感に逆らえず、両膝をついて倒れ込んだ。
「……ぐっ」
抜け落ちそうな意識を必死に繋ぎ止め、右手を左胸に這わせる。
刺されたと思われた刃はおろか、傷ひとつついていない。
「これしきの事で死ぬなんて思ってないわよ」
這いつくばる直樹の背に、女の声が投げ掛けられる。
残念そうな色を感じるのは、直樹の気のせいなのだと思いたい。
「くそ、なんなんだ!」
振り返ろうとするも、全身がまたしても硬直してそれを阻む。
苛立ち紛れに石畳の縁を握り締めると、それは出来る事に驚いた。
どうやら、背後を見ようとする行為のみが禁じられているらしい。
手足や声の自由は取り戻したというのに、なんとももどかしい事だ。
「悪く思うなよ。お前ごときが気軽にお目通りできる相手じゃないんだ」
男の声が淡々と響く。
どうやらこの結界内――特殊に生成された場においては相手の思い通りになってしまうらしい。
「それにしても貴方。結界を自力で越えてきた実力は認めてあげるけど、こんな時によく散歩なんてしていられるわね。大物なのか馬鹿なのか、判断に苦しむわ」
嘆息気味の声に、直樹は眉を僅かに寄せる。
「……どういう意味だ?」
何を指して『こんな時』だと言っているのか。
女が思わせぶりな態度を好んでいるだけだと断定しかけたが、相手の身体の自由を奪えるだけの力を行使できる人物なのだ。
その言葉通りに、直樹が知り得ていない情報を持っているのかも知れない。
「最近、身の回りで変な事ばかり起きているでしょう?」
その言葉に、分かりやすいまでに直樹の身体が震えた。
具体的な例は出さないまでも、想起させる出来事は十分に起きている。
マンション爆発が最大の出来事ではあるが、犬の遠吠えが多かったり、日高も感じていた気配と、『変な事』と曖昧な括りをつければ思い当たる節などいくらでもある。
「私達はね、その調査をしているの」
何者かを問おうとする前に、先制された。
「もちろん原因を突き止め次第、対処はするけれど。
諸々の現象発生における被害者救済まで、手が回らないのが現実なのよ」
言葉尻だけを見れば自身の力不足を不甲斐なく感じているかのようでもあるが、やれやれ困ったものだと愚痴をこぼしているだけにしか直樹には聞こえない。
「貴方のように自覚が出来る人ばかりであれば心配しなくてもいいのだけど、そうでない人は……」
僅かに呼吸を置き、そのまま続ける。
「命にかかわる場面も有り得るわね。貴方のカノジョさんみたいに」
「――なんだと?」
相手の顔をまともに見る事もできない以上、論議にもならない。
相手が勝手に喋ってくれる間は聞くに徹しようと決め込んだ直樹だったが、不意に指摘された存在に表情が強張った。
「だから、貴方も暢気に散歩なんて………え?」
絶対的優位もあり、落ち着き払っていた女の声に驚愕の色が混ざり込んだ。
直樹の首が徐々にではあるが、後ろを向こうとしていたからである。
「香月が……香月の身に、危険が及ぶってのか!?」
直樹にとって無二の存在である香月を話題に挙げられた事がスイッチとなり、直樹の身体能力は限界を超えた。
俗に言う火事場のナントカという現象に酷似している。
背後に立つ女が香月に対して危害を加える気など無い事は承知しているが、その言葉が、香月の身に危険が及ぶのが事実なのかどうか確かめねばならない。
直樹の身体は外部よりかかる制約の力を引き摺りながら、自分の意思に従って動き続ける。
「――ふんっ!」
あと少しで背後に視線が届くというところで、首筋を鷲掴みにされ――地から強引に引き剥がされた直樹の身体が宙に舞った。
「うお……っ!?」
予告も無しに放り投げられた直樹の視界が、猛スピードで回転する。
目の前を通り過ぎる景色は焦点が合わないために意味のある像を結ばなかったが、黒く長い髪だけが印象的に網膜に映った。
「だっ!」
入ってきた結界の入口を逆戻りし、背中を強かに打ちつけた。
受け身は取れていたが、高い位置からの落下はさすがに痛い。
落ちた場所が竹林内でなければ痛いどころの話ではない。
「くっそ…!」
背中全体に広がる痛みを堪えて起き上がると、結界入口へと腕を伸ばす。
しかし直樹の指先は宙を掻くばかりで、結界に触れた感触を再び得る事は叶わなかった。
『いずれ、私の助力が本当に必要になったらまた来なさい。
まだまだ、貴方自身が足掻く余地はあると思うわよ』
結界の向こう側にいるであろう女の声が、虚空から聞こえてくる。
声が聞こえてくるくらいなのだから、まだ結界に割り込めるのではないかと期待を抱いた直樹だったが、声のした方向に手を伸ばしても指先に触れるものは何もなかった。
「くそっ、どこだっ!?」
叫んでみるも、直樹に応えるのは風に揺れる竹の葉のさざめきだけ。
無視を決め込まれたか、それとも完全に遮断されたか。
どちらにせよ、この場ではこれ以上粘っても無意味なのだと悟る。
「……」
それよりも香月だ。ポジティブと言えば聞こえこそ良いが、楽観的に過ぎるその性格はトラブルに巻き込まれた際に自身を護る武器には成り難い。
過保護に動いてしまう直樹自身もどうかとは思うが、ここで言うトラブルとは命を危険に晒す類の内容を指している。
女の言葉を真に受ける形となってしまうのは正直癪だが、取り返しのつかない状態に陥るよりはずっといい。
竹林を背にすると、当初の散歩とは比べ物にならない速さで自宅へと駆け出した。
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