群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

20 早朝散歩

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「……あれ?」

 上体を起こした直樹は、暗がりの室内で視線を巡らせた。
 誰に起こされた訳でも、侵入者の気配を感じた訳でもない。
 枕元の携帯電話や家の固定電話に着信があった様子もない。

 香月が夜這いを掛けてきたかと期待もしたが、明け方近い時間帯にそれもないだろう。
 香月がいかに気分屋であろうとも、今頃は別室で高いびきの最中だ。
 改めて現在時刻を確認しても、夜明けにすらまだ余裕がある。
 規則正しい生活には自信があった直樹だが、たまにはこういう事もある。
 このまま寝直すにも、すっかり目が覚めてしまった状態では無為な時間を過ごすばかりになってしまう。

 思い切って散歩に出る事にした。
 手の込んだ朝食を用意しようかとも考えたが、残念ながらそんな都合良く食材がある筈もなく、やはり散歩が妥当なところだと結論付ける。
 念のため香月の部屋を覗いてみたりもしたが、起こす事に罪悪感を覚える程に幸せそうな寝顔を見せていた。
 直樹同様に起きていれば散歩に誘おうと考えていたが、叶わぬ夢だったようだ。


  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「…ふぅ」

 初夏を迎えようかという時期ではあるが、夜明け前はさすがに肌寒い。
 薄手ながらもパーカーを着てきたのは正解だった。

「どっちに行くかな」

 思案しながらも自然と脚は動く。
 こんな時は悩むまでもなく、普段行かない場所に限る。
 見慣れた近所の路地も時間帯が変われば新鮮かもしれないが、建物や店の看板の形が変わる訳ではない。
 温故知新も悪くはないが、常に新しい地を目指したいものだと直樹は意味もなく息巻いてみる。

 新條家から駅方面に向かう道は勾配を感じさせない土地ではあるが、逆方向へと足を延ばせば高台の影響もあって上り坂の多い道が続く。

「ん?」

 気の向くままに道を折れながら進んでいた直樹だったが、視界に映った光景に違和感を覚え立ち止まった。

「そこって、立ち入り禁止だった筈……だな」

 普段は通る事のない道とはいえ、それでも自宅から徒歩で十分な距離である。知らぬ間に区画整理でも発生していなければ、どれもが一度は通った事のある道だ。

 高台の麓をなぞるような道路が続く中、高台を登るための道が拓けていた。
 道路自体は以前からあった筈だが、私道につき立ち入り禁止の旨を記した看板が掲げてあったと記憶している。

 狭くはないが、乗用車がすれ違えるかどうかの微妙な道幅。
 歩行者のための石段も設えられてはいるが、坂を登った先には民家しかないだろうと思わせる雰囲気だ。
 見上げる高台は高低差のある土地に続いている訳ではなく、明らかに行き止まりなのだと判別できる。
 管理者が個人から自治体に変わったのだろうか。立ち入り禁止の看板が撤去されている以上、それは誰が立ち入ってもお咎めなしという事だ。

「公園でもできたかな」

 あるいは公民館の類か。
 案内板も見当たらず、便利とは言い難いアクセス。
 何かがあるのだとしても、商売抜きのものしかないだろう。

「散歩には丁度良いか」

 財布を持ってこなかった事もあるが、踏み入った事のない場所であるというのは非常に興味をそそられる。

  ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

「……こんな場所があったのか」

 10分ほども足を動かしただろうか。分かれ道もない行き当たりには神社が在った。
 朱色の鳥居、石畳を敷いた参道、手水舎と、誰もが思い浮かべる神社の光景が目の前に広がっている。
 坂の入口からでは影すら見えない場所に位置していたのでは、近隣の住人でさえも知らない者は多そうだ。

 神社自体は昔から存在していたのだろう。社殿の背後に広がる土地柄ならではの樹林の存在感も加わり、素人目にも歳月を積み重ねてきたのだと分かる重厚な雰囲気に包まれている。
 視線を巡らせると、社務所を兼ねていると思われる住宅が神社の隅に建っていた。

 半ば放置されていた神社の新しい神主が決まったので、これを機にきちんと管理運営をしていくための道路整備だったのだろうと推察してみる。
 とはいえ、あまり広くはない境内と間口の狭い社務所。どれほどの御利益が期待できるのかは分からないが、多くの参拝客を期待しているようには見えない。
 南向きに位置する境内は日当たりは良さそうであり、神主が世間話が好きでお茶を出してくれる気前の良い人物であれば、地元に住む高齢者の集会所にもなりそうだ。

「ほんと、散歩向きだな」

 賽銭箱に投げ入れる小銭は無かったが、拝殿前で手を合わせた。
 神頼みするような性格の直樹ではないが、言ってみれば挨拶だ。
 拍手かしわでは打たなかった。神様はもとより、寝入っているであろう神主とその家族を起こすような真似はしたくはなかった。

 参拝客に対して露骨に警戒心を示すとも思えなかったが、なにかと物騒な世の中であり、こんな時間帯だ。ちょっと気を遣うくらいが丁度良いだろう。
 社務所に視線を向けてみたが、人が起き出してきた気配は感じられなかった。

 そうこうしているうちに、背後から光が差すのを感じた。夜明けの時刻を迎えたのだ。
 高台に位置するこの神社からは、地平線に近い位置からの日の出を見る事ができた。
 薄闇にすっかり慣れてしまっていたため、その光は目蓋に刺さる痛さであるが、日の出に立ち会う感覚というものは嫌いではない。
 こうして朝日を浴びる一方、新條宅はまだ闇に包まれているのだと思うと、なんとも不思議な感覚だ。

「ぼちぼち帰るか」

 急がずとも十分に余裕のある時間帯だが、このちょっとした感動を忘れないうちに帰宅すべきだろうと考えていた。
 このまま散歩を続けたところで、この神社以上の発見に遭遇できるとも思えない。



(……、なんだ?)

 来た道を戻る途中、直樹は不思議な感覚に囚われた。
 視界の隅に何か光を感じた……ような気がする。
 足を止めると、そこにはちょっとした竹林が広がっていた。
 神社以外に何もない高台であり、竹林自体は特筆すべきような存在でもない。青々とした竹に朝日が反射しただけなのだ。

(………)

 隙間だらけの竹林の向こう側には岩と土、雑草ばかりの地肌も見て取れる。
 そこそこの広さではあるが、広大とは言い難い。
 そんな竹林に対し、直樹はどうしても違和感を拭いきれない。

 手を伸ばす。
 朝日を反射する竹林の、数え切れない光の中から、揺らめくような光のひとつに触れる。
 竹林の生成するものなのか、道路上とは違う清浄な空気を指先に感じた。
 確かな密度を持つ空気が指先を押し返そうとするが、確固たる信念をもって一歩を踏み込む。

 薄い膜を突き破るような感覚が全身を包み、直樹の身体は竹林の敷地内へと吸い込まれ――消えた。
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