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或いは夢のようなはじまり
05 保健室のロマンス?
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「……で、直樹センパイをKOしちゃったワケだ?」
香月らの通う桂守学園、昼休みのその食堂。パック牛乳に突き立てたストローから口を離して大宮雪乃が言った。
その口調には呆ればかりが目立っていたが、得心のいった表情から察するに、情報そのものは香月に聞かされる前から知っていたようだ。
「ちょっと、なんでユキが知ってるのよ?」
香月が不審げな視線を雪乃に向ける。
自分の口から今朝の出来事を誰かに告げるのはクラスメイトで親友の雪乃が最初であったし、その内容も他の女生徒と遭遇して直樹が鼻の下を伸ばしていた……程度に留めていたのだから疑問に感じるのも当然だ。奈紀美はそういった事を吹聴する性格ではなかったし、その現場は運良く誰にも見られていなかった事を確認している。誰かがこっそりと覗いていたなんていう事がない限りは。
「かづきちぃ。私が何者か忘れたワケじゃないわよね?」
自分で問い質している最中に思い当たっていたのか、にたりと笑う雪乃の言葉を聞くまでもなく香月はばつの悪そうな顔をした。
雪乃は桂守学園情報部なる学園未承認活動を自称しており、香月達の通うこの桂守学園内の事ならば何でも調べられると豪語する。そしてそれが誇張ではない事を多くの生徒が知っている。
未承認活動は教師の耳にも届いているに違いないのだが、不思議と誰も雪乃に対して注意ひとつしていないという事も周知の事実であった。
教師の誰もが公表されると困る弱味を雪乃に握られているという事を示唆しているのだが、それが事実かどうかは怖くて誰も聞けないでいる。何者かに弱みを探られる学園生活を望む者などいないからだ。
「いやぁ、朝っぱらから保健室で寝てる人がいるなんて珍しいと思ったけど、直樹センパイだって知った時にはビックリしたからねぇ」
雪乃はご丁寧にも間仕切りとなっているカーテンを開けて眠る直樹の顔を確認したらしいが、それがモラル的にどうかというところまでは気にしていないようだ。
「いやはや、直樹センパイは打たれ強い方だと思ってたんだけどねぇ。それとも、かづきちが予想以上のハードパンチャーだった?」
言いながら、雪乃は自身の目の周囲に人差し指で円を描いた。ついでとばかりに顎先も軽く叩いてみせる。
「そんなの、本人に聞けばいいでしょ。あんな女に抱きつかれて間抜け面を晒すからよ」
手にしていたハムレタスサンドをガツガツと平らげながら香月。お世辞にも上品とは言えない食べ方ではあったが、あえて雪乃は傍観を決め込む。
香月、直樹、そして第三者としての女が出てくれば、それは奈紀美以外に考えられず、そしてそれが香月の機嫌を損ねていると分かっているので、下手に口を出すのはよろしくないという判断からだ。
自称・親友としては黙っているのもどうかと思ったが、直樹が香月以外の異性に心を移すとは思っていなかったし、なにより、機嫌の悪い香月はなにかをやらかしてくれそうで見ていて面白い。
「はい、ごちそうさまっ」
最後に残していたメロンパンも物凄い勢いで食べ散らかし、香月は席を立った。
教室であったならば皆が振り向きそうなほどに椅子が床を擦った音は大きかったが、喧噪に包まれた食堂では取り立てて気に留める者もいなかった。
「じゃあ、先に教室に戻ってるからっ」
言うだけ言ってズカズカと出入口に進む香月。あきらかに肩を怒らせている後ろ姿を見送りながらも、雪乃はどこか面白そうに溜息を吐いた。
広い食堂には複数の出入口が設けられており、使用する扉によって利用後に向かう場所の見当がついてくる。
そして香月の出ていった扉は、特別教室が集中する他に保健室なんかもあったりする。
「…素直じゃないんだからなぁ」
雪乃はやはり面白そうに呟きながら、香月の食べ散らかした跡を折り畳んだティッシュで拭き取り始める。
乾いたパン屑ばかりのテーブルであるにもかかわらず、妙に念入りに拭いているのは丁寧にやっているからという事ではなく、頃合を見計らって保健室を覗き込もうという魂胆からなのだが、周囲にそれを察せる者などいよう筈もない。
そして噛み殺しきれていない雪乃の含み笑いが学食の雑音に溶け込んでいった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
雪乃が怪しげな期待をかけているとは露ほども知らず、香月は保健室の前に佇んでいた。
遠目には無言で突っ立っているだけにしか見えないのだが、眉を上下させてみたり、目を細めたり流し目を作ってみたり、口を尖らせたり笑いの形にしてみたりと、顔面体操に余念がない。
香月本人にしてみればそういうつもりも無いのだが、どんな顔をして保健室に入ったら良いものかという悩みが行動に表れている次第である。
(直樹、起きてるかな……)
既に目覚めているのならばとうに教室に戻っていてもおかしくはないのだが、それでも直樹は香月の迎えを待って保健室にいるだろう。そんな確信めいたものが香月の裡にはあった。根拠なんてものは存在しない、直感的にそう断じていた。
「……失礼しま~す」
注意して耳を傾けていないと聞き逃しそうな声で挨拶をしながら、慎重に戸を開いた。
所用で席を外しているのだろう、養護教諭の姿がない事を確認すると同時に身体を中に滑り込ませる。そしてまた音を立てないように戸を閉じた。
保健室の中は南に面した窓から差し込む光によって、白く満たされた空間となっていた。消毒液臭なども相俟って殊更に清潔さが強調されている。
主が不在の保健室はどこか物寂しく、学園内における隔離された空間という感を香月に与えた。
生活臭が少ないという事も助長しているのだろうが、扉や窓を隔てた向こう側からかすかに伝わってくる喧噪が遠い世界の出来事のように希薄で、自分という存在がこの白い世界に包まれ、溶け込んでしまいそうな感覚――。
少しだけぼうっとしてしまい、慌てて香月は頭を振った。
(いけないいけない。直樹の様子を見に来ただけだってのに…)
何者の気配も感じない事に、焦りにも似た感情が湧く。直樹は本当にそこに眠っているのだろうか。
香月は足音を立てないように直樹が寝かされているベッドの脇に寄り、そっとカーテンを押し開こう――としたところで、奇妙な違和感を覚えた。
それが、視界の隅に捉えた人影なのだという事は瞬間的に理解していた。そして反射的にそちらへ振り向く。
「あ……あれ?」
香月は素っ頓狂な声を上げてしまった。
視界の端だったとはいえ、その人影は保健室の窓越しにこちらを見ていた筈だ。身体ごと向いていたかと問われれば自信はないが、その視線が自分を捉えていたという感覚は間違えようの無いものだった。
しかし、当の人影――長い黒髪の制服姿の女子は完全に背を見せており、香月が見た位置からもかなり遠ざかっている。少しでも立ち止まっていたのならば、そこに居るなんて事はありえない距離だ。単に保健室の外を通りがかっただけなのだろうか。
現実を見れば香月の思い違いであると片付けられてしまう出来事だが、直感を信じる香月からしてみればどこか納得いかない現象だ。
そんな風に不躾に向けていた視線を感じたのだろう、少し距離の離れた所で制服姿の少女が振り返り、視線が重なった。
美少女、と形容して誰もが納得するだろう容姿だった。綺麗に切り揃えらた深い黒の髪は艶やかに陽光に照らされ、黒目がちの大きな双眸には理知的な光が湛えられている。顔の作りに派手さはないものの、いまどき珍しい程の大和撫子然とした雰囲気は男女問わずに視線を集めずにはおかないだろう。健全な青少年であれば誰もが一度は焦がれるような存在に違いない。
もっと違う状況であったなら、可愛いもの大好きの香月はお近付きになろうとあれこれ声を掛けるところだが、微かに覚えてしまった気恥ずかしさのために『なんでもないから』と手振りで示してしまっていた。
そんな香月に対して特に感じるものも無かったのだろう、少女は軽く目礼すると再び背を向けて歩き出す。
(なんか、今朝から調子狂いっぱなし…)
校舎の陰に入った少女の姿が見えなくなったところで、香月は気持ちを切り替える。両頬をぺしぺしと軽く叩いて室内に向き直った。
とりあえずは、見慣れた直樹の寝姿でも見て普段のリズムを取り戻さなければならない。たとえ今日一日だけの事だとしても、終始自分のペースで動けない日常というものは堪え性のない香月にとっては苦行そのものだからだ。
薄いクリーム色のカーテンをゆっくりと開く。今度は視界のどこにも余計なものは映り込まなかった。
予想通りというか、直樹はそこにいた。今朝、寝かしつけた時と同じ状態のまま、静かに眠っている。
唯一、香月の予想に反していた事は目の周囲の青アザがかなり薄くなっていた事だろうか。パンダ状態を見た者でなければ、顔色が悪いと感じる程度かもしれない。今日一日は青いままだろうと思っていたのだが、新陳代謝が早いのだろうか。
(…ま、いっか)
細かい事を考えるのは止めた。どんなにもっともらしく説明付けてみたところで、その正誤を判断・証明してくれる者がここに居ないのでは無意味にも程がある。目の前に起きている現象を素直に受け入れられるのであればそれで問題はない。
改めて香月は直樹に視線を落とす。
これまでにも何度も見る機会のあった光景だが、それでも毎回のように香月は思う。
直樹の睡眠は非常に穏やかだ。一旦眠りに落ちると姿勢も正しく、寝返りを打つような事も滅多にない。イビキはもとより、寝言なんてものも聞いた記憶がない。
いつだったか、夜中に大きな地震が発生した折に、香月は驚いて飛び起きたのだが、それでも直樹は寝静まったまま、なんて事があった。
そんなんじゃ夜中に大災害が発生した日には直樹は真っ先に死んじゃうわね、と笑い話にしたものだったが、直樹は涼しい顔で『本当に命に危険が迫ればちゃんと起きるよ。あとは……お姫様のキスなら起きるかな』なんて笑っていた。直樹をからかったつもりが逆に冷やかされる事になった話なので、今でも鮮明に覚えている。
(あの時はあんな事を言ってたけど……)
どこまでが本気でどこまでが冗談だったのか。確認する事もなく時間は過ぎ、今またこうして直樹の寝顔を見るまで忘れていた事であった。
「…………」
試してみるか、と香月は小さく舌を出して唇を湿らせた。そして上半身を左右に振り回すようにしながら周囲に視線を投げる。部屋の中はもとより、窓の外、中庭を挟んで反対側の校舎の窓に至るまで、誰の目も無い事を確認する。
静かに眠る直樹の顔に心持ち唇を近付けたところで香月の頬に朱が差した。今からやろうとしている事が自分のキャラに合っていない事を自覚しているためなのだが、それでも香月は行動を止めたりはしない。照れよりも好奇心が勝ってしまっているからだ。
軽く息を吸い込み、ゆっくりと囁く。
「ほら、お姫様のキスだぞ……」
香月の瞼が閉じられる――
「いよっす! お二人さん、がんばってるぅ!?」
突然の闖入者が保健室の空気を震わせた。
びくりと身体を震わせた拍子に膝に置いていた手が滑り、支えられていた上半身ががくりと落ちる。
短い悲鳴すら上げられず、眠り続ける直樹に自然落下的な頭突きを見舞う事に――はならなかった。
何時の間にか布団の中から飛び出した直樹の左手が倒れ込もうとする香月の上体を支えていた。
「……ん………?」
自身の身体の反応を追いかけるように、瞼をゆっくりと押し開いて覚醒する直樹。
香月を支えるため……というよりも、自らに迫った衝撃を回避するために飛び出た腕は意図的に動かしたものではないようだった。それはそれで直樹の言葉に偽りが無い事を証明する結果にはなったのだが。
「……あんたたち、なにやってるの?」
闖入者――二人っきりの保健室で展開される甘く熱いラブシーンの現場を押さえるべく嬉々として突入した雪乃が見たものは、倒れ込もうとして額を下から支えられる香月の姿だった。その首は、自力では無理な角度へと曲げられている。
首から嫌な音が響くのを聞いたとは、その後の香月の弁である。
香月らの通う桂守学園、昼休みのその食堂。パック牛乳に突き立てたストローから口を離して大宮雪乃が言った。
その口調には呆ればかりが目立っていたが、得心のいった表情から察するに、情報そのものは香月に聞かされる前から知っていたようだ。
「ちょっと、なんでユキが知ってるのよ?」
香月が不審げな視線を雪乃に向ける。
自分の口から今朝の出来事を誰かに告げるのはクラスメイトで親友の雪乃が最初であったし、その内容も他の女生徒と遭遇して直樹が鼻の下を伸ばしていた……程度に留めていたのだから疑問に感じるのも当然だ。奈紀美はそういった事を吹聴する性格ではなかったし、その現場は運良く誰にも見られていなかった事を確認している。誰かがこっそりと覗いていたなんていう事がない限りは。
「かづきちぃ。私が何者か忘れたワケじゃないわよね?」
自分で問い質している最中に思い当たっていたのか、にたりと笑う雪乃の言葉を聞くまでもなく香月はばつの悪そうな顔をした。
雪乃は桂守学園情報部なる学園未承認活動を自称しており、香月達の通うこの桂守学園内の事ならば何でも調べられると豪語する。そしてそれが誇張ではない事を多くの生徒が知っている。
未承認活動は教師の耳にも届いているに違いないのだが、不思議と誰も雪乃に対して注意ひとつしていないという事も周知の事実であった。
教師の誰もが公表されると困る弱味を雪乃に握られているという事を示唆しているのだが、それが事実かどうかは怖くて誰も聞けないでいる。何者かに弱みを探られる学園生活を望む者などいないからだ。
「いやぁ、朝っぱらから保健室で寝てる人がいるなんて珍しいと思ったけど、直樹センパイだって知った時にはビックリしたからねぇ」
雪乃はご丁寧にも間仕切りとなっているカーテンを開けて眠る直樹の顔を確認したらしいが、それがモラル的にどうかというところまでは気にしていないようだ。
「いやはや、直樹センパイは打たれ強い方だと思ってたんだけどねぇ。それとも、かづきちが予想以上のハードパンチャーだった?」
言いながら、雪乃は自身の目の周囲に人差し指で円を描いた。ついでとばかりに顎先も軽く叩いてみせる。
「そんなの、本人に聞けばいいでしょ。あんな女に抱きつかれて間抜け面を晒すからよ」
手にしていたハムレタスサンドをガツガツと平らげながら香月。お世辞にも上品とは言えない食べ方ではあったが、あえて雪乃は傍観を決め込む。
香月、直樹、そして第三者としての女が出てくれば、それは奈紀美以外に考えられず、そしてそれが香月の機嫌を損ねていると分かっているので、下手に口を出すのはよろしくないという判断からだ。
自称・親友としては黙っているのもどうかと思ったが、直樹が香月以外の異性に心を移すとは思っていなかったし、なにより、機嫌の悪い香月はなにかをやらかしてくれそうで見ていて面白い。
「はい、ごちそうさまっ」
最後に残していたメロンパンも物凄い勢いで食べ散らかし、香月は席を立った。
教室であったならば皆が振り向きそうなほどに椅子が床を擦った音は大きかったが、喧噪に包まれた食堂では取り立てて気に留める者もいなかった。
「じゃあ、先に教室に戻ってるからっ」
言うだけ言ってズカズカと出入口に進む香月。あきらかに肩を怒らせている後ろ姿を見送りながらも、雪乃はどこか面白そうに溜息を吐いた。
広い食堂には複数の出入口が設けられており、使用する扉によって利用後に向かう場所の見当がついてくる。
そして香月の出ていった扉は、特別教室が集中する他に保健室なんかもあったりする。
「…素直じゃないんだからなぁ」
雪乃はやはり面白そうに呟きながら、香月の食べ散らかした跡を折り畳んだティッシュで拭き取り始める。
乾いたパン屑ばかりのテーブルであるにもかかわらず、妙に念入りに拭いているのは丁寧にやっているからという事ではなく、頃合を見計らって保健室を覗き込もうという魂胆からなのだが、周囲にそれを察せる者などいよう筈もない。
そして噛み殺しきれていない雪乃の含み笑いが学食の雑音に溶け込んでいった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
雪乃が怪しげな期待をかけているとは露ほども知らず、香月は保健室の前に佇んでいた。
遠目には無言で突っ立っているだけにしか見えないのだが、眉を上下させてみたり、目を細めたり流し目を作ってみたり、口を尖らせたり笑いの形にしてみたりと、顔面体操に余念がない。
香月本人にしてみればそういうつもりも無いのだが、どんな顔をして保健室に入ったら良いものかという悩みが行動に表れている次第である。
(直樹、起きてるかな……)
既に目覚めているのならばとうに教室に戻っていてもおかしくはないのだが、それでも直樹は香月の迎えを待って保健室にいるだろう。そんな確信めいたものが香月の裡にはあった。根拠なんてものは存在しない、直感的にそう断じていた。
「……失礼しま~す」
注意して耳を傾けていないと聞き逃しそうな声で挨拶をしながら、慎重に戸を開いた。
所用で席を外しているのだろう、養護教諭の姿がない事を確認すると同時に身体を中に滑り込ませる。そしてまた音を立てないように戸を閉じた。
保健室の中は南に面した窓から差し込む光によって、白く満たされた空間となっていた。消毒液臭なども相俟って殊更に清潔さが強調されている。
主が不在の保健室はどこか物寂しく、学園内における隔離された空間という感を香月に与えた。
生活臭が少ないという事も助長しているのだろうが、扉や窓を隔てた向こう側からかすかに伝わってくる喧噪が遠い世界の出来事のように希薄で、自分という存在がこの白い世界に包まれ、溶け込んでしまいそうな感覚――。
少しだけぼうっとしてしまい、慌てて香月は頭を振った。
(いけないいけない。直樹の様子を見に来ただけだってのに…)
何者の気配も感じない事に、焦りにも似た感情が湧く。直樹は本当にそこに眠っているのだろうか。
香月は足音を立てないように直樹が寝かされているベッドの脇に寄り、そっとカーテンを押し開こう――としたところで、奇妙な違和感を覚えた。
それが、視界の隅に捉えた人影なのだという事は瞬間的に理解していた。そして反射的にそちらへ振り向く。
「あ……あれ?」
香月は素っ頓狂な声を上げてしまった。
視界の端だったとはいえ、その人影は保健室の窓越しにこちらを見ていた筈だ。身体ごと向いていたかと問われれば自信はないが、その視線が自分を捉えていたという感覚は間違えようの無いものだった。
しかし、当の人影――長い黒髪の制服姿の女子は完全に背を見せており、香月が見た位置からもかなり遠ざかっている。少しでも立ち止まっていたのならば、そこに居るなんて事はありえない距離だ。単に保健室の外を通りがかっただけなのだろうか。
現実を見れば香月の思い違いであると片付けられてしまう出来事だが、直感を信じる香月からしてみればどこか納得いかない現象だ。
そんな風に不躾に向けていた視線を感じたのだろう、少し距離の離れた所で制服姿の少女が振り返り、視線が重なった。
美少女、と形容して誰もが納得するだろう容姿だった。綺麗に切り揃えらた深い黒の髪は艶やかに陽光に照らされ、黒目がちの大きな双眸には理知的な光が湛えられている。顔の作りに派手さはないものの、いまどき珍しい程の大和撫子然とした雰囲気は男女問わずに視線を集めずにはおかないだろう。健全な青少年であれば誰もが一度は焦がれるような存在に違いない。
もっと違う状況であったなら、可愛いもの大好きの香月はお近付きになろうとあれこれ声を掛けるところだが、微かに覚えてしまった気恥ずかしさのために『なんでもないから』と手振りで示してしまっていた。
そんな香月に対して特に感じるものも無かったのだろう、少女は軽く目礼すると再び背を向けて歩き出す。
(なんか、今朝から調子狂いっぱなし…)
校舎の陰に入った少女の姿が見えなくなったところで、香月は気持ちを切り替える。両頬をぺしぺしと軽く叩いて室内に向き直った。
とりあえずは、見慣れた直樹の寝姿でも見て普段のリズムを取り戻さなければならない。たとえ今日一日だけの事だとしても、終始自分のペースで動けない日常というものは堪え性のない香月にとっては苦行そのものだからだ。
薄いクリーム色のカーテンをゆっくりと開く。今度は視界のどこにも余計なものは映り込まなかった。
予想通りというか、直樹はそこにいた。今朝、寝かしつけた時と同じ状態のまま、静かに眠っている。
唯一、香月の予想に反していた事は目の周囲の青アザがかなり薄くなっていた事だろうか。パンダ状態を見た者でなければ、顔色が悪いと感じる程度かもしれない。今日一日は青いままだろうと思っていたのだが、新陳代謝が早いのだろうか。
(…ま、いっか)
細かい事を考えるのは止めた。どんなにもっともらしく説明付けてみたところで、その正誤を判断・証明してくれる者がここに居ないのでは無意味にも程がある。目の前に起きている現象を素直に受け入れられるのであればそれで問題はない。
改めて香月は直樹に視線を落とす。
これまでにも何度も見る機会のあった光景だが、それでも毎回のように香月は思う。
直樹の睡眠は非常に穏やかだ。一旦眠りに落ちると姿勢も正しく、寝返りを打つような事も滅多にない。イビキはもとより、寝言なんてものも聞いた記憶がない。
いつだったか、夜中に大きな地震が発生した折に、香月は驚いて飛び起きたのだが、それでも直樹は寝静まったまま、なんて事があった。
そんなんじゃ夜中に大災害が発生した日には直樹は真っ先に死んじゃうわね、と笑い話にしたものだったが、直樹は涼しい顔で『本当に命に危険が迫ればちゃんと起きるよ。あとは……お姫様のキスなら起きるかな』なんて笑っていた。直樹をからかったつもりが逆に冷やかされる事になった話なので、今でも鮮明に覚えている。
(あの時はあんな事を言ってたけど……)
どこまでが本気でどこまでが冗談だったのか。確認する事もなく時間は過ぎ、今またこうして直樹の寝顔を見るまで忘れていた事であった。
「…………」
試してみるか、と香月は小さく舌を出して唇を湿らせた。そして上半身を左右に振り回すようにしながら周囲に視線を投げる。部屋の中はもとより、窓の外、中庭を挟んで反対側の校舎の窓に至るまで、誰の目も無い事を確認する。
静かに眠る直樹の顔に心持ち唇を近付けたところで香月の頬に朱が差した。今からやろうとしている事が自分のキャラに合っていない事を自覚しているためなのだが、それでも香月は行動を止めたりはしない。照れよりも好奇心が勝ってしまっているからだ。
軽く息を吸い込み、ゆっくりと囁く。
「ほら、お姫様のキスだぞ……」
香月の瞼が閉じられる――
「いよっす! お二人さん、がんばってるぅ!?」
突然の闖入者が保健室の空気を震わせた。
びくりと身体を震わせた拍子に膝に置いていた手が滑り、支えられていた上半身ががくりと落ちる。
短い悲鳴すら上げられず、眠り続ける直樹に自然落下的な頭突きを見舞う事に――はならなかった。
何時の間にか布団の中から飛び出した直樹の左手が倒れ込もうとする香月の上体を支えていた。
「……ん………?」
自身の身体の反応を追いかけるように、瞼をゆっくりと押し開いて覚醒する直樹。
香月を支えるため……というよりも、自らに迫った衝撃を回避するために飛び出た腕は意図的に動かしたものではないようだった。それはそれで直樹の言葉に偽りが無い事を証明する結果にはなったのだが。
「……あんたたち、なにやってるの?」
闖入者――二人っきりの保健室で展開される甘く熱いラブシーンの現場を押さえるべく嬉々として突入した雪乃が見たものは、倒れ込もうとして額を下から支えられる香月の姿だった。その首は、自力では無理な角度へと曲げられている。
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