群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

04 その拳、幻につき

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「なーなー。香月かづきぃ~」


 春の柔らかな気配も薄れたとはいえ、さほど暑くもならない朝の時間帯。角度の浅い陽光が差す歩道に、緊張感の欠片もない声が響く。


「なーなー」


 抜け道として利用する地元住民の車が通りさえしなければ、歩行者様貸切といった住宅地内の路地である。男の声は近隣住宅の壁に反響し、多少離れて歩いている者の耳にも余韻を残す。
 いかにもご機嫌取りをしていますと誰にでも分かる声色で、少女――香月の背後をついて歩く男。

 男のその顔、目の周囲には左右とも同じような青痣が浮いており、今度こそパンダの様相を呈している。
 まばらではあったが、周囲を往く通行人は一瞬何事かと注目し、そしてすぐに目を逸らし、その背が小さくなったところで思い出し笑いをするといった行動で統一されていた。
 香月と呼ばれた少女は、背後を歩く男の風体に似合わない猫撫で声を背に受けながらどうしたものかと考えていた。

 パンダにしてしまったのは自分だが、それは男自身の行動が招いた結果であり、自業自得というものだ。
 しかし、学園に着くまでパンダ男に名を呼ばれ続けるのはさすがに恥ずかしいものがあり、二人を知っている者が見れば、その痣を貼り付けたのは誰かなど、たちどころに看破するだろう。

(なんとかして、学校を休ませるワケにはいかないかしらね……)

 歩幅を僅かに緩めながら、不穏当な事を頭の片隅で模索し始める。

「なー、香月ぃ。いいかげんに機嫌直してくれよ~」

 丸め気味の背で香月の後ろを歩く男は、その名を新條しんじょう直樹なおき
 香月とは幼馴染みといった間柄にある、彼女よりもひとつ年上の高校二年生である。

 勉学をそつなくこなす上に運動能力は学内トップクラスの才を持ち、そのマスクも派手さは無いながらもそれなりに整っている。
 比較的寡黙を保っている姿は女子生徒の間での人気も悪くはなく、さりとて打ち解けてみれば気さくな性格ゆえに他の生徒の反感を買ったりする程でもない。
 意図するでもなく器用に立ち回っている、そんな存在である。

 しかし、どう考えても今日一日はパンダ顔となっていそうなので、周囲の――特に女子生徒の評価が少なからず変化するだろう事は想像に難くない。
 だが、この直樹という男。香月が絡まない対人関係には驚く程に無頓着な面があり、自分を見る周囲の目がどのように変わろうとも平然としているだろう。

 この2人、世間一般には幼馴染みという単語が当て嵌まるのだが、やや特殊な家庭環境が言葉以上の結びつきを作り出している。
 それは傍から見れば『将来は間違いなく一緒になるのだろう』と思わせるに十分な空気であり、いわゆる恋人同士なのだと周囲には認知されている。
 問題があるとすれば、香月がそれを頑として認めていない事だろうか。

「ねーねー。かっ・づっ・きっ・ちゃ・ん~~?」

 普段からは考えられないような猫撫で声に、さすがの香月も背筋がむず痒くなってきた。
 本当にどうにかしなくては、すぐに多くの生徒達が通る通学路に合流してしまう。

(いっそのこと、眠らせて家に軟禁しちゃおうかしら……)

 忘れ物をしたと取って返せば、直樹も自宅まで付いてくるのは疑いようがない。その時に密かに隠し持っている睡眠薬を用いれば、軽く三時間は眠らせられるだろう。
 正午を回った時間帯に目覚めれば、相当に生真面目な生徒でなければ学園に向かおうという気は起こさないだろうし、当の直樹は控え目に見てもそんな言葉には該当しない。

 香月自身が一限目の授業に遅刻する事になってしまうが、その程度の代償は必要経費だと割り切るしかない。
 パンダ問題はさておき、直樹を無視する事なく和やかに会話をしておけば直樹は普段の態度に戻るのだが、そこに思い至る前に自前の結論に達してしまう――いわば自己中心的な考え方、それが香月という少女を端的に表している。

 ちなみにこの少女、フルネームを香川かがわ月子つきこという。
 しかし、どういった理由でか自身の名を嫌っており、知人には愛称である香月という呼び方を強制している。

 自称しておきながら、愛称も何もないのだが。

(よし、やるか……!)

 微妙に歪んだ動機による決意を固め、香月は振り返る。そして笑顔と共に発する第一声はもちろん――

「……あれ?」

 ――準備していたものとは違っていた。

 勢いよく振り返った香月だったが、そこに見慣れた幼馴染みの顔はなく、あるのは香月と同じ制服に身を包んだ女子生徒の後ろ姿であった。
 女装趣味の男子生徒という可能性も捨て切れなかったが、とりあえず男という線はないだろうと思い直す。
 腰程に伸びた髪は女性特有の艶やかさを有していたし、全体的なシルエットが細身で流麗だったからだ。余程視力に問題がない限り、万人が女性であると認めるに違いない。そもそも、女装趣味のある生徒の存在など聞いた事もない。

 ともかく、その女子生徒の背によって直樹の姿は隠されてしまっていた。
 よく見れば女生徒の頭越しに直樹の頭部が見え隠れしており、直樹がそこに居る事は間違いない。
 香月と直樹の中間という女子生徒の立ち位置は、どう考えても故意に割って入ったとしか思えなかった。

(ってゆーか……)

 その後ろ姿には見覚えがあった。
 あると言うよりも、ウンザリする程に見せられている背だというのが香月にしてみれば面白くない。

三島みしま――」

 反射的とも言える速度で左手が伸びていた。
 明確に自覚した事はなかったが、香月の本能とも呼べる部分はその対象を敵だと認知していた。
 相手もそれを知った上で面白がっているのかもしれないが、残念ながらその真偽を確認する機会は巡ってきた試しがない。

「――っ!?」

 結果的に、香月の手は獲物を取り逃がし空を掴むに終わった。
 まるで背に目が付いているかのような、そんな絶妙のタイミングで女子生徒が香月から離れたからだ。
 正しく言えば、その女子生徒が直樹に近付いた結果として香月の手から逃れたのであるが、見事に出し抜かれた感のある香月の姿は、この場に第三者が居たとすれば滑稽に見えた事だろう。

 そんな香月を尻目に、女子生徒は細く柔らかい指先を直樹の頬に触れさせていた。
 やや垂れ気味の目尻が優しい印象を与える、清楚さを漂わせる麗人であった。

「な、奈紀美なきみ先輩……」

 直樹が僅かにたじろいだ。奈紀美と呼んだこの女子生徒の存在が、香月の機嫌を損ねるのだと実体験から知っているからだ。

「いやぁ、今朝はまた可愛いパンダさんなのねぇ。直樹君の新しい魅力発見だわ~」

 頬を引きつらせている反応などお構いなしに、直樹の首に両腕を巻き付けるようにして体重を預けてくる。
 直樹に向けた視線も口調も春の日差しの如く柔らかく、その態度はどう見ても恋人に対するそれである。
 そして直樹は、いよいよ慌てはじめる。

「ちょ、ちょっと、先輩……っ」

 女子生徒――奈紀美は喉の奥で静かに笑いながら、本格的に直樹に抱きついてきた。
 直樹としてはすぐにでも離れたいのだが、いかにも線の細い奈紀美に対して、どの程度の力で臨めばよいものかが判らずに困惑するばかり。

 香月はどちらかといえば活力溢れる力強いイメージであったし、香月以外の女性と触れ合う機会など持たない直樹からすれば、力を込めれば折れてしまいそうな奈紀美は苦手とするもののひとつであった。
 奈紀美に触れられる事は初めてでないものの、何度経験しても一向に慣れる気配はない。
 それを理解しているのか、奈紀美は直樹にベッタリと貼り付いて好き放題である。職務に忠実な警察官がこの場にいれば、2人揃って派出所に連行されてしまう事になりかねない程に。

 この三島奈紀美。本来は直樹よりも上級生なのだが、諸事情により留年しており、現在は直樹と同じクラスに籍を置いている。
 どのような理由であれ、そういった境遇の者はえてして肩身を狭く感じて不必要に孤立するものなのだが、奈紀美の場合はそういった心配は不要だった。
 その飄々としながらも愛想の良い性格は、クラス内に留まる事なく学内の人気者といった風さえある。
 ただ、あまりにマイペースすぎるためか、時折発する突飛な言動が彼女を浮いた存在へと押し上げているのが実情だった。

 実年齢以上に大人びた風貌の癒し系美人であり、交際を申し込む者が後を絶たなかった時期もあった。
 しかしそれも最初の頃だけで、現在は風の吹くまま気の向くまま。授業時間さえもお構いなしに、楽しそうに校内を徘徊する姿が多くの生徒や教師によって目撃されている。
 諸事情とは言うが、留年の理由は単に出席日数不足なのだろうと誰もが察している。

 そんな奈紀美の最近のお気に入りは直樹であるらしく、なにかといえばこうやってベタベタしてくるのが日課のようにもなっている。
 奈紀美が直樹に構い始めたのは昨年度末に遡る。当然のように香月は入学前ではあったが、中学からの顔馴染みも多く入学している学園である。中学生の頃より香月との関係は周知の事実となっていただけに、直樹を見る周囲の視線には羨望よりも同情の色が濃く滲んでいた。
 直樹のどこを気に入ったのかは明言されていないので不明だが、春休みという空白期間を越えても続いているせいで、気紛れのようなものではなく本気なのだと誰もが納得しつつある。

 年若い少女からその恋人を奪わんと登場した美女。降って湧いたテレビドラマのような設定に、周囲の目は今や好奇心で一杯だった。当の直樹にしてみれば、いい迷惑に他ならないのだが。
 鼻先に仄甘い吐息を感じながら、直樹は香月の矢のような視線を浴びていた。
 現在、香月との視線は絡まんばかりに合っている。しかしそれは直樹と奈紀美の距離がゼロになっているからこそであり、とてもではないが歓迎できる状況ではなかった。むしろ、すぐにでも逃げ出したい気持ちで一杯だ。
 しかしながら、しっかと抱きついてくる奈紀美が直樹の動きを封じており――しかも、細身ながらに意外と柔らかな奈紀美の身体に、男としての本能が離れる事を拒絶している状態にもあり――さらに、香月の瞳が雄弁に語っていた。そこを動くな、と。

(いや、そんな怖い目で睨まれても)

 奈紀美を挟んでの状況はこれまでにも幾度となくあった事なのだが、今回に限っては異様な圧力を感じずにはいられない直樹である。
 そもそも、どういった理由からか朝から香月の機嫌が悪いときている。今日は厄日かと、直樹の首筋に汗がつたう。
 動くに動けない状態の直樹へと、香月がゆっくりと近付いてくる。まるで厄日である事を肯定するような威圧感を全身から漂わせながら。

 ここから、直樹の目に映る世界はゆっくりと時を刻む。
 まず、香月の左手が奈紀美の襟首を掴み、力任せに引き剥がした。
 この時、身体の要求通りに名残惜しそうな声を出してしまった事が良くなかったのかもしれない。

 そして、自身へと引き戻す左腕と交差するようにして迫ってくる香月の右拳。内巻きに捻り込むような動作が、必殺の気合いを感じさせた。
 顎先に受けたはずの衝撃を感じる間もなく視界が明滅したかと思えば、次の瞬間には薄青色の高い空が視界一面に広がっていた。
 スズメが視界の上から下へと流れていくのは滅多に見られない光景だなと、場違いな感想を抱いたのもまた一瞬。上下反転した道路と住宅街が映り、そして光沢の欠片もない灰色のアスファルトが世界の半分ほどを占めた。

 そして、直樹の意識は完全に途絶えた。
 後の直樹の感想としては、『いつでもこの拳が繰り出せれば、世界だって夢じゃない』だった。
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