群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

00 序

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――――ぴちょん
     ――ぴちょん
          ぴちょん
             ぴちょん――
                ぴちょん――――

 水滴の滴る音が耳朶を打つ。
 それは自らの手から溢れ、漏れ続けてゆく。
 受け止めようとする両の掌に収まる量ではなく、ただ虚しく零れてゆくのみ。

 目は開かない。
 睡魔が勝っているという事ではない。しかし出来るならば、夢も見ず永遠に眠り続けたいという欲求が心を支配する。
 だが、身体がそれを許さない。まるで、それこそが己の犯した罪への罰だと言わんばかりに。

 目は開かない。
 しかし、視界の有無は関係はない。
 なぜなら、閉じられた瞼には一欠片の光すら感じなかったから。
 ここは闇と静寂とが支配する空間。
 閉鎖された場なのか、或いは永遠とも思える広がりを見せているのか。
 はたして、自分がまっすぐに立っているのかどうかも定かではなく。

――ぴちょん

 先程から零れ落ちる水滴は確実に足下に溜まり、既に膝頭まで浸されている。このままこうしていれば、いずれは呼吸が出来なくなる位置まで水位は上がってくるのだろう。

 それもまたよし――

 そう自虐的に微笑んでみる。自分はそれだけの罪を犯したのだから。
 反省も後悔も無かったが、それでも心残りはあった。
 自分は、一体、どんな事を、して、罰を受けて、いるの、か。

 自身が罪を犯したという事は理解できている。
 だが、それが如何なる事柄であったのか。最も重要である筈の事が、すっぽりと記憶から抜け落ちている。
 憶えていてはいけない事だったのだろうか。
 否。それでは罪に対する罰とは成り得ない。
 ならば、己自身が忘却したい、忘却しなければ耐えられないようなものだったのだろう。

 それは好都合、と失笑を漏らしてしまう。
 だってそうではないか。無意識のうちに忘れてしまうような事など、憶えていたところでひとつも得をしないという証明に他ならない。
 ましてや、身体が本能的に忘却の選択をとったものであるのならば尚更である。心の負担になるどころか、下手をすれば自身の精神に異常をきたしかねない可能性を孕んでいるのだから。
 そう、だからこれでいいのだ。罰の必然さえ納得していれば。こうやって緩やかな死を迎える事ができるのならば――

――はたして、そうかな。

 空気の振動が鼓膜を打った。
 不意打ちのように聞こえてきた声に、肩がピクリと反応する。
 上半身が震え、両手いっぱいの液体が大きく揺らめいた。

――それでは意味が無いのだよ。小さき者よ。

 低く落ち着いた、それでいて心の中の不安感をちくちくと刺激する声。
 それは聞き覚えのある声。はたして、いつ、どこで聞いたものだったか。

――もっと明確に罪を認識してもらわねば、こちらが要らぬ苦労をする。力なき者よ。

 その声は確実に耳に届いている。しかし、それがどこから発せられたものなのかがわからない。広大な空間でありながら、そこかしこで反響した声が全身にまとわりついてくるような違和感。

――さぁ、思い出してもらおうか。臆病なる者よ。

 その声に誘われるように、今まで閉じていた瞼がゆっくりと開こうとしていた。

(……イヤだ!)

 反射的にそう感じた。
 理由はわからなかったが、目に飛び込んでくるだろう光景を受け入れる事を身体が強く拒否していた。

――さぁ、儚き者よ。

 この声は嫌いだ。だから従う必要など微塵も無い。
 強く、強く瞼に力を込める。

――さぁ、夢破れし者よ。

 だが、己の意に反して、瞼は着実に持ち上がってゆく。
 闇が支配する筈の空間で、網膜に映り込んでくる光景を鮮明に捉える事ができた。
 溢れ落ちる水を掬おうと、差し出されている自らの白い両の腕。
 そして、掌から溢れ落ち、肘にまで伝ってくる赤黒い水。

(――赤い?)

 その色を認識した瞬間、それは水ではなくなっていた。生暖かく粘り気を帯びた液体――血であった。
 自らの手は、溢れ落ちる血を掬おうとしていたのだ。

――さぁ、未来なき者よ。

 そして、血であると認識した瞬間、両手に確かな重みを感じた。
 ……そうだ。今、自分が手にしているもの。それは――

――しかし、我等は期待している。

 両目が大きく見開かれ……否、開かれる以前から、眼前のものに焦点が合っていた。まるで自分が手にしているものを深く深く、己の心に焼き付けんがために。

――さぁ、そのまなこにしかと刻め。可能性のある者よ――!

 そこに見たものは、生気を失い灰色に濁った――それでも尚こちらを見据える、赤黒い血に彩られた一対の瞳――

「………………!!」

 悲鳴を上げる事すら適わず、意識は細い糸のようにぷつりと途切れた。
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