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1章
45.???????
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騒がしい海の波音が、心の傷口をヒリヒリと抉る。肌寒い冬風がふわりと髪を靡かせ、彗の息を雪のように白く染めた。
体内時計や空の色を参考にすれば、そろそろ日が暮れる頃だろう。
──迷った……。
場所は山口県の室積海水浴場。
当時、彗はまだ幼い顔立ちが残る、十六歳だった。この時、彗は両親と茂、そして、卓郎と旅行に来ていたのである。
しかし、旅行に来て二日目。
彗がホテルで深い深い眠りについている間に、他の全員が早朝から置き手紙だけを残して、遊びに行ってしまったのだ。
元々遠出や人混みが得意ではない彗を気遣ったのかもしれないが……。まあ、それが正確に本人に伝わる筈もない。拗ねた彗は何処か遠くへ逃げていってやろう、と目論んだ。
だが、結果的には、来たばかりでまだ馴染みが薄い街な為、道に迷う始末に……。
「こんにちは、もしかして旅行ですか?」
思いがけず、息を呑むほどに透き通った声を掛けられて、とっさの判断で振り向く。
彗は目をぱちくりと見開いて、驚いてしまう。
なんと其処には、人形のように顔のパーツが整っている、淡麗な美青年がいたのだ。
掬えば手のひらから零れ落ちてしまいそうなくらい綺麗な髪。それから、呼吸をするのも忘れて、自ら深く吸い込まれていきたくなる、潤んだ宝石のような瞳。
これには彗も思わず、見惚れていた。
「あ、そうです。けど、迷ってしまって……。貴方は地元の人ですか?」
広い浜辺に、男性が独りきり。それも日が暮れる頃。
疑問を抱くのも当然だと言ってよかった。彗は戸惑いを胸の内に仕舞い、出来るだけ自然に問いかけている。
一方で男性は、彗の問いや複雑な態度に対して、何一つ不思議に思ったり、はぐらかしたりすることなく、正直に答えた。
「ふふっ、そうだよ。それに貴方って。僕は七瀬理久。君は?」
嗚呼、表面上では笑っているけれど、心からは笑っていない。彗は瞬時にそう察した。
美しい物には毒がある。
例えば彼岸花──誰もが摘んでしまいたくなるくらいに華やかで、美しい見た目をしているが、時には死を齎す程に危険な毒持っている。仮に知らずに口に含んでしまえば、最期。
だから、誰も近付こうとはしない。それはきっと、彼も同じだ、と彗は思う。
「と、豊永彗です……ここで何をしてるんですか?」
勇気を出して聞いた一言に、理久も暫くは何も答えなかった。
それから、何故かその場で靴と靴下を脱ぎ捨てて、白い砂浜から海へと歩いて行く。
海は感情の色を変えてしまいそうなくらい、心地よい音を立てながら、理久をゆっくりと飲み込んでいくのだ。
当然、浅い海では理久の身に危険が及ぶこともなく、「きゃははっ」と子供みたいに無邪気な顔を此方に魅せている。
「さあ、どうなんだろう。約束したんだけどね……」
唐突にその場から静止し、不吉な表情をさせてから、理久は言葉を発した。
同じタイミングで彗は、自分が彼と共に靴と靴下を脱ぎ捨てて、一緒に海に飲み込まれに行っていることに気が付く。
そう、実は無意識に水の中へ入っていたのだ。
もしかしたら、波の音を奏でているこの無言の間に、不思議な魅了を持つ青年だ、と彗は考えていたのかもしれない。
「……約束、ですか?」
季節は真冬。裸足で海に入って気持ちが良いと思う訳がなく、彗の足元は段々と冷えていく。
既に足の感覚も、麻痺してしまい、その殆どが何も感じなかった。辛うじてする、ジンジンとした痛みでの生を彗に認識させようとしている。
「十五年くらい前に、好きな人と……。でも、溺れて死んじゃったんだ。事故、いや、あれは僕が殺したも同然かもしれないね」
今までとは違い、震えた声。
ハッとして、彗が理久の顔を見ると、瞳は必死に光を輝かせながらも、波を揺らして溺れているではないか。
不謹慎だとは分かっていたが、彗はそれを儚くも美しい、と思わざるを得なかった。
「僕と関わると良いことないよ、彗くん。ひょっとしたら、死んじゃうかも……──」
「死ぬ気ですか? ここで」
今にも跡形もなく壊れていきそうな様子に、彗は反射的に相手の言葉を遮ってまで、言葉を返す。
やはり、自分に手を差し伸べて、此処から救い出してほしかったみたいだ。理久の瞳を溺れさせた元凶が、おもむろに頬をつたっていく。
どうしてなのだろう。
二人はまだ下半身しか、海に入っていない筈なのに……。顔を湿らせている水は、一体──。
「とめないでよ? 同情なんて、もう聞き飽きたんだから」
けれども、理久は彗を振り切って肩まで海に浸ろうとする。
潮の薫りは段々と濃くなり、二人は口の中がしょっぱく感じた。それがいわゆる"涙"というものなのか、"海水"なのかは分からない。
『──兄ちゃんの名前は三輪恋雪って言うんだ。女みたいな名前だろ?』
すると、理久の自殺を止めるかのように突然、彼の言葉が脳裏に過ぎった。その言葉の影響か、理久は海へ進む足を止める。
何年、十数年の月日が流れても。誰一人として、あの事件を思い出さなくなっても。
理久の唇は、永遠に恋雪とのキスを覚えているのだろう。
そっと、指先で艶々とした唇に触れる。
「……ねえ、彗くん。知ってる? 一人でも成立するのが"恋"、二人必要なのが"愛"なんだって。彗くんにも、大切な人は居るだろうけど……たとえ、その人と結ばれなくとも、相手が直ぐそばにいて違う関係で互いを想い合っている以上、それは"愛"なんだよ」
唐突に語り出す理久に彗は困惑する。
当時、茂のことを好きだった自分を見透かしているかのような言葉だったから。
そして、後々この言葉がどういう意味を成していたのか、茂を失ってから痛感させられることとなった。相手を大切にするということは勿論、今ある日々も周りからすれば、必ずしも当たり前ではないということだ。
──ホント馬鹿だよ、あの人は。僕は、一度きりの大きな愛をぶつけられたかったんじゃなくて、一緒に小さな愛を育んでいきたかったのに。恋雪さんが死んだら、元々あったそれも恋になっちゃうのに。
過去を──恋雪のことを振り返る度に、嗚咽を漏らして泣きたくなる。
理久は彗の目の前で、愚かにも心を爆発させないよう、必死に耐えることに精一杯だった。
震える手のひらいっぱいに、海の一部を掬うと、理久はそれを顔から思いっきり浴びて、心の靄を洗い流す。
「……だから、僕はあの人が死んでから、十五年間ずっと、恋をしていたんだ。……でも、今日で恋とはさよならだね。僕はこれから自分が愛する人を見つけに行くよ」
理久の瞳からは再び大粒の涙が溢れ、海と一体化していく。対して、彗は新しい道を切り開こうとしている理久に、何の言葉も掛けることが出来なかった。
同時に日が沈み始め、真っ赤な太陽をバックに理久は柔らかく微笑む。
彗は『やっと、心から笑ってくれましたね』と言おうとしたが、その絵になる風景の秀麗さに、発しようとした言葉が又もや引っ込んだ。
「死なないんですか……?」
取り敢えず、と。混乱に陥っていた彗は理久の自害を止める為に、心配した素振りをして眉を顰める。
それから、恐る恐る篭った声で問いかけた。
彗の様子を見ていた理久は夕日によって光を放つ髪を、迷いなく耳に掛けて無邪気に笑う。
「だって僕は理久──……陸だからね。海で死ぬなんて、神様が許さないよ」
やれやれ、と理久は困った表情をした。先程まで自殺を考えていた青年の言動だとは、とても思えない。
不意に彗の睫毛の上に、白く冷たいものがぽつりとのった。
「……あ、雪」
彗は高い空を見上げながら、ぼそりと呟く。
どうやら晴れていたと思っていた空は少しだけ曇っていたようだ。写真でしか見たことがないと言える、こんなにも綺麗な夕日を直接見れたのも、奇跡と言えるだろう。
「早く帰らないと、風邪引いちゃうよ。旅行なら多分、ホテルはあっち!」
満開の桜の中にある小さな蕾のようにはにかんで、理久は目的の方向を指差した。
また、目頭は腫れ、肩に冷たい雪を静かに積もらせている。
行き場を失っていた恋心と、自分だけではとうに壊れてしまっていた筈の精神を、こうして救ってくれた理久を彗は未だに忘れられないのだ。
もう一度、理久に会えるのならば、少し照れくさいが『ありがとう』と伝えたい、と。
もし、そのときに恩人である理久に一生愛を育んでいくと決めた相手が出来ていたのなら、どんな相手でも心から祝福しようと思う。
体内時計や空の色を参考にすれば、そろそろ日が暮れる頃だろう。
──迷った……。
場所は山口県の室積海水浴場。
当時、彗はまだ幼い顔立ちが残る、十六歳だった。この時、彗は両親と茂、そして、卓郎と旅行に来ていたのである。
しかし、旅行に来て二日目。
彗がホテルで深い深い眠りについている間に、他の全員が早朝から置き手紙だけを残して、遊びに行ってしまったのだ。
元々遠出や人混みが得意ではない彗を気遣ったのかもしれないが……。まあ、それが正確に本人に伝わる筈もない。拗ねた彗は何処か遠くへ逃げていってやろう、と目論んだ。
だが、結果的には、来たばかりでまだ馴染みが薄い街な為、道に迷う始末に……。
「こんにちは、もしかして旅行ですか?」
思いがけず、息を呑むほどに透き通った声を掛けられて、とっさの判断で振り向く。
彗は目をぱちくりと見開いて、驚いてしまう。
なんと其処には、人形のように顔のパーツが整っている、淡麗な美青年がいたのだ。
掬えば手のひらから零れ落ちてしまいそうなくらい綺麗な髪。それから、呼吸をするのも忘れて、自ら深く吸い込まれていきたくなる、潤んだ宝石のような瞳。
これには彗も思わず、見惚れていた。
「あ、そうです。けど、迷ってしまって……。貴方は地元の人ですか?」
広い浜辺に、男性が独りきり。それも日が暮れる頃。
疑問を抱くのも当然だと言ってよかった。彗は戸惑いを胸の内に仕舞い、出来るだけ自然に問いかけている。
一方で男性は、彗の問いや複雑な態度に対して、何一つ不思議に思ったり、はぐらかしたりすることなく、正直に答えた。
「ふふっ、そうだよ。それに貴方って。僕は七瀬理久。君は?」
嗚呼、表面上では笑っているけれど、心からは笑っていない。彗は瞬時にそう察した。
美しい物には毒がある。
例えば彼岸花──誰もが摘んでしまいたくなるくらいに華やかで、美しい見た目をしているが、時には死を齎す程に危険な毒持っている。仮に知らずに口に含んでしまえば、最期。
だから、誰も近付こうとはしない。それはきっと、彼も同じだ、と彗は思う。
「と、豊永彗です……ここで何をしてるんですか?」
勇気を出して聞いた一言に、理久も暫くは何も答えなかった。
それから、何故かその場で靴と靴下を脱ぎ捨てて、白い砂浜から海へと歩いて行く。
海は感情の色を変えてしまいそうなくらい、心地よい音を立てながら、理久をゆっくりと飲み込んでいくのだ。
当然、浅い海では理久の身に危険が及ぶこともなく、「きゃははっ」と子供みたいに無邪気な顔を此方に魅せている。
「さあ、どうなんだろう。約束したんだけどね……」
唐突にその場から静止し、不吉な表情をさせてから、理久は言葉を発した。
同じタイミングで彗は、自分が彼と共に靴と靴下を脱ぎ捨てて、一緒に海に飲み込まれに行っていることに気が付く。
そう、実は無意識に水の中へ入っていたのだ。
もしかしたら、波の音を奏でているこの無言の間に、不思議な魅了を持つ青年だ、と彗は考えていたのかもしれない。
「……約束、ですか?」
季節は真冬。裸足で海に入って気持ちが良いと思う訳がなく、彗の足元は段々と冷えていく。
既に足の感覚も、麻痺してしまい、その殆どが何も感じなかった。辛うじてする、ジンジンとした痛みでの生を彗に認識させようとしている。
「十五年くらい前に、好きな人と……。でも、溺れて死んじゃったんだ。事故、いや、あれは僕が殺したも同然かもしれないね」
今までとは違い、震えた声。
ハッとして、彗が理久の顔を見ると、瞳は必死に光を輝かせながらも、波を揺らして溺れているではないか。
不謹慎だとは分かっていたが、彗はそれを儚くも美しい、と思わざるを得なかった。
「僕と関わると良いことないよ、彗くん。ひょっとしたら、死んじゃうかも……──」
「死ぬ気ですか? ここで」
今にも跡形もなく壊れていきそうな様子に、彗は反射的に相手の言葉を遮ってまで、言葉を返す。
やはり、自分に手を差し伸べて、此処から救い出してほしかったみたいだ。理久の瞳を溺れさせた元凶が、おもむろに頬をつたっていく。
どうしてなのだろう。
二人はまだ下半身しか、海に入っていない筈なのに……。顔を湿らせている水は、一体──。
「とめないでよ? 同情なんて、もう聞き飽きたんだから」
けれども、理久は彗を振り切って肩まで海に浸ろうとする。
潮の薫りは段々と濃くなり、二人は口の中がしょっぱく感じた。それがいわゆる"涙"というものなのか、"海水"なのかは分からない。
『──兄ちゃんの名前は三輪恋雪って言うんだ。女みたいな名前だろ?』
すると、理久の自殺を止めるかのように突然、彼の言葉が脳裏に過ぎった。その言葉の影響か、理久は海へ進む足を止める。
何年、十数年の月日が流れても。誰一人として、あの事件を思い出さなくなっても。
理久の唇は、永遠に恋雪とのキスを覚えているのだろう。
そっと、指先で艶々とした唇に触れる。
「……ねえ、彗くん。知ってる? 一人でも成立するのが"恋"、二人必要なのが"愛"なんだって。彗くんにも、大切な人は居るだろうけど……たとえ、その人と結ばれなくとも、相手が直ぐそばにいて違う関係で互いを想い合っている以上、それは"愛"なんだよ」
唐突に語り出す理久に彗は困惑する。
当時、茂のことを好きだった自分を見透かしているかのような言葉だったから。
そして、後々この言葉がどういう意味を成していたのか、茂を失ってから痛感させられることとなった。相手を大切にするということは勿論、今ある日々も周りからすれば、必ずしも当たり前ではないということだ。
──ホント馬鹿だよ、あの人は。僕は、一度きりの大きな愛をぶつけられたかったんじゃなくて、一緒に小さな愛を育んでいきたかったのに。恋雪さんが死んだら、元々あったそれも恋になっちゃうのに。
過去を──恋雪のことを振り返る度に、嗚咽を漏らして泣きたくなる。
理久は彗の目の前で、愚かにも心を爆発させないよう、必死に耐えることに精一杯だった。
震える手のひらいっぱいに、海の一部を掬うと、理久はそれを顔から思いっきり浴びて、心の靄を洗い流す。
「……だから、僕はあの人が死んでから、十五年間ずっと、恋をしていたんだ。……でも、今日で恋とはさよならだね。僕はこれから自分が愛する人を見つけに行くよ」
理久の瞳からは再び大粒の涙が溢れ、海と一体化していく。対して、彗は新しい道を切り開こうとしている理久に、何の言葉も掛けることが出来なかった。
同時に日が沈み始め、真っ赤な太陽をバックに理久は柔らかく微笑む。
彗は『やっと、心から笑ってくれましたね』と言おうとしたが、その絵になる風景の秀麗さに、発しようとした言葉が又もや引っ込んだ。
「死なないんですか……?」
取り敢えず、と。混乱に陥っていた彗は理久の自害を止める為に、心配した素振りをして眉を顰める。
それから、恐る恐る篭った声で問いかけた。
彗の様子を見ていた理久は夕日によって光を放つ髪を、迷いなく耳に掛けて無邪気に笑う。
「だって僕は理久──……陸だからね。海で死ぬなんて、神様が許さないよ」
やれやれ、と理久は困った表情をした。先程まで自殺を考えていた青年の言動だとは、とても思えない。
不意に彗の睫毛の上に、白く冷たいものがぽつりとのった。
「……あ、雪」
彗は高い空を見上げながら、ぼそりと呟く。
どうやら晴れていたと思っていた空は少しだけ曇っていたようだ。写真でしか見たことがないと言える、こんなにも綺麗な夕日を直接見れたのも、奇跡と言えるだろう。
「早く帰らないと、風邪引いちゃうよ。旅行なら多分、ホテルはあっち!」
満開の桜の中にある小さな蕾のようにはにかんで、理久は目的の方向を指差した。
また、目頭は腫れ、肩に冷たい雪を静かに積もらせている。
行き場を失っていた恋心と、自分だけではとうに壊れてしまっていた筈の精神を、こうして救ってくれた理久を彗は未だに忘れられないのだ。
もう一度、理久に会えるのならば、少し照れくさいが『ありがとう』と伝えたい、と。
もし、そのときに恩人である理久に一生愛を育んでいくと決めた相手が出来ていたのなら、どんな相手でも心から祝福しようと思う。
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