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1章

17.私だけを見て

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 理久がゲイばれをしてしまってから、既にかなりの時が経っている。
 未だに職場の人間は腫れ物を扱うかのように彼を避け続け、誰もが気不味い状況を打破する事は出来ていなかった。
 確かにかなり居心地は悪いが、紗代を簡単に信用した自分がいけなかったんだと彼は思うことにしたのだ。

 一方、そんな彼を見ていた彼女は考える。どうしたら、七瀬先生が私だけを見てくれるのか、と。自分が原因で孤立してしまった彼を気遣う態度を取ったところで皆が不審に思うだけで状況は何一つ変わらない。

 彼女は自分を責めた。何故、あの事をバラしてしまったのか。
 それは彼の心情を気遣ったからではない。
 もっと考えれば分かった筈だったのに。例えば、バイという可能性も少数ではあるが、あったかもしれない。

 ***

 あるとき、紗代は急いでトイレへ駆け込んでいた。当然、下痢や腹痛から駆け込んだのではなかった。彼女は悪魔のように微笑みながら、ポケットからカッターナイフを取り出す。
 そして、躊躇いなく手首を浅く切った。
 痛いはずなのにも関わらず何度も何度も自身の手首をカッターナイフで切り続ける。

「……ふぅ」

 彼女は力みながら目を充血させた。
 まるで、溺れてしまいそうになるくらいに赤く美しい液体が一つ、また一つと冷たいタイルに落ちていく。
 彼女の自傷癖は物心ついたときからあるものだが、それを職場で行う程に悪化しているのは、間違えなく次に述べるストレスからだろう。

 もう既に彼女が彼のマンションを張り込み続けて三日も経っていた。
 一睡もせずにマンションを監視していたのだ。
 それでも、部屋からルームメイトは出てこなかった。

 三日のうちに一度も。

 在宅ワークか漫画家、引きこもり等々……。彼女は色々な考えを頭に浮かべた。

 けれども、どの考えも彼女は納得する事ができない。何故なら、彼は家を出るときに必ず鍵を閉めて電気を消しているから。
 中にルームメイトが居るなら恐らく電気は付けていくだろう。
 否、今は出張中なのかもしれない。
 自己完結した紗代はカッターの刃をしまい、トイレットペーパーでタイルに落ちた血を拭き取り、トイレから出る。

「あら、田中先生。もう直ぐ授業始まりますよ」

 長い間此処に勤めている女性の年配教師が彼女に話しかけた。
 面倒くさいなと思いつつも、にこりと微笑んで軽く会釈してその場から逃げようとするが、年配の教師はそんな彼女の手首をスーツ越しに思いっきり掴み、動きを完全に封じてしまう。

 先程カッターで切った箇所が、また違う痛みを走らせたような気がした。

「なんか田中先生、顔色悪くないかしら? アタシ次の時間は授業無いので、良ければ変わりましょうか」

 "大丈夫です"と返事をしようとしたときだ。
 いきなり視界がグラリと歪み、段々と床に顔が近付いていく。
 直ぐに元の姿勢に身体を戻そうとするが、身体が思うように動かない。
 紗代の意識はゆっくりと深い深い夢の中に沈んで行くのだった。

 ***

 彼女が次に目を覚ましたのは、保健室のベッドの上である。
 生徒を指導する立場の教師がベッドなんて使っていいものか、と思いながら大きな溜息をつく。
 時計の針はあれから丁度一時間過ぎた所を指していた。

「……田中先生、最近無理してるんじゃないの? 今日はもう、帰りなさいね」

 養護教諭の女性が頬に皺のある手を当てながら心配そうに呟く。
 休養が大事だという事はきちんと分かっているが、たとえ今真っ直ぐ家へ帰ったとしても彼女には何もやる事はない。

「大丈夫です。授業戻りますね」

 そう冷たく言葉を吐き捨てて彼女は善意しかない女性の言うことを聞きもせずに、保健室を駆け足で飛び出したのだった。

 ***

 やっと仕事が終わり、空に星がちらつき始める夜。
 不思議なことに彼女は何処か見知らぬ所を訪ねている。どうやら誰かの部屋のインターホンを押しているようだ。

「あの、お話があって」

 紗代が言葉を発すると、インターホン越しに若い青年の声が返ってくる。
 声だけで第一印象を決め付けるのも良くないが、その声色は決して爽やかなものではなく、落ち着いた大人の声とはまた違う意味で低いトーンで、性格があまり良くなさそうだと言ってもよい。

「……ちょっと待って下さい」

 部屋のドアがガチャリと空気の読まない愉快な音をたてて開く。
 扉を開けた張本人である男性は紗代は不思議な者だと言わんばかりの目付きで、彼女を足元から頭の天辺までまじまじと見つめていた。
 まあ、夜中という事に加えて見知らぬ人に家を訪問されたら、こうなってしまうのも頷けるが。

「中に入れてもらっても? 私、隣に住んでいる男性と同じ職場の者なんですけど……」

 どうやら、彼女が訪ねていたのは理久の隣の部屋に住んでいる大学生の男性の部屋。
 隣に住んでる人ならルームメイトの噂やプロフィールをもしかしたら何か知っているのではないか、と考えたのだ。

「……いいですけど」

 面倒臭そうに返答をする青年。
 少し助言をすると、彼女は既に人を……というか知人を自分の手で殺してしまっている。
 もし、男性が間違った答えを何か一つでも発してしまえば命を落とす可能性もあるかもしれない。
 けれども、そんな事が初対面で感じ取れる筈もなく、少し疑問に思いながらもその男性は自身の頭を掻いてから彼女を部屋に招き入れてしまった。
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