約束

まんまるムーン

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 ある日、学校から帰ると、リビングに母とその人がいて、いきなり紹介された。私は本当は塾に行きたかった。他の学校の子と友達になってみたかったからだ。しかし母の決定に逆らうというのは私にとって有り得ないことなので、その家庭教師を受け入れるしかなかった。
 母と話をしている安藤先生はとても爽やかな好青年で、母は初対面からその人を気に入っているようだった。それから安藤先生は週三回私の家に来て私の勉強を見るようになった。先生は色白で塩顔、背も高くて、モテそうなタイプだったが、正直私はそういう感じの人と一緒にいると緊張してしまうので、モテそうにない愛嬌のあるタイプがよかった。
 先生の教え方は的確だけど、私はごく普通のレベルの人間が努力だけでやってきたので、根っから頭がいい天才タイプの先生には私がわからない理由がわからないらしく、そういう問題が起こると先生のイライラがもろに顔に出て、そういう時の先生の表情はゾっとするほど冷たくて、私は先生に対して恐怖しか感じなくなる。この先生と私は合わない…と思った。でもそれは言えない。母と紹介してくれた親戚に申し訳ないし、先生と相性が合わないだけでやめたいなんて根性のない事を言ったら両親を失望させてしまう。もっとがんばろう。私はまだがんばれるはず!
 

 
 安藤先生は、日を追うごとに厳しくなった。次までにこなしておかなければならない課題を大量に出される。学校の宿題もしなくてはいけないし、ピアノと英会話のレッスンもあるので、私は寝る間も惜しんでがんばった。先生が出す課題をクリアできていても、先生にとってはそれは当たり前の事で特別誉められることは無い。

「ノエルちゃん、わかってるの?君、国立の工学部に行くんだよね?ここまで数学と物理できなかったら致命的でしょ?」
安藤先生は私が同じところでつまずくので怒りを通り越して呆れていた。
「…ごめんなさい。」
がんばっても出来ない自分が情けなくて、必死に堪えていた涙がポロポロ落ちてしまった。
「ごめんなさいって…。俺に謝ってもしょうがないでしょ?あー、めんどくせーな。なんで泣くの?俺、君のこといじめた?俺に罪悪感抱かせたいわけ?泣いて出来るようになるんだったらいくらでも泣けばいいけど、いくら泣いたって出来るようになるはずないだろ!」
安藤先生はキレ気味で言った。
泣いちゃいけないと思えば思うほど涙が止まらなくなった。
「もういい。勉強できる状態じゃないから帰る。」
安藤先生はさっさと帰り支度をして部屋を出て行った。私は先生を追っかけて何度も謝った。しかし先生は何も言わずに帰ってしまった。門の前でしばらく動けなくなっていた私を庭の手入れをしていた祖母が見つけ様子を見に来た。

「おばあちゃん、どうしよう!先生を怒らせちゃった…。」
私は祖母に抱きついて泣いた。

 祖母は私の手をとって離れへ連れて行った。
 祖母の住む離れは、入り口すぐ横に祖母のお教室用の大きな和室の部屋があり、その隣にLDK、リビングの大きな窓からは庭を挟んで私の住んでいる母屋が見える。廊下を挟んで洗面所とお風呂、トイレがあって、その横に祖母の寝室がある。父が祖母の使い勝手を考えて和室以外をフローリングにしているが、全体が和の雰囲気なので落ち着いていて、正直私は自分の住んでいる母屋より、祖母の住んでいる離れの方が居心地が良かった。離れに行く度に、私は気になっている物があった。それは祖母の寝室に置いてあった。余計な装飾品は一切置いていないシンプルな祖母らしい室礼の中に、それはひときわ存在感を放っていた。

アンティークの重厚感あるラジオ。

 祖母の部屋の飾り棚のきれいなレースの敷物の上に、それは大事に大事に置かれていた。そのラジオは、木が飴色に輝いていてスイッチやダイヤルなんかもすごくレトロでかわいい。ラジオの底の部分が少し傷ついているけど、ほぼ新品のようにいつも磨き上げてある。私はこれを見るたびに、おばあちゃんにとってこのラジオは宝物なんだろうなと思っていた。

「ノエルー、お茶が入ったわー。」
祖母が私を呼んだ。
ダイニングに行くと、温かいお茶と和菓子が用意されてあった。
「嫌なことがあったらね、とりあえず落ち着いて、お茶でも飲んで甘い物を食べたらいいのよ。」
祖母は私をいたわるように微笑んだ。
祖母の言う通り、温かいお茶を飲んで甘いお菓子を食べると、少し心が落ち着いてきた。

「ねえ、おばあちゃん、パパは子供の頃から頭が良かったんでしょ?ママもそうだったらしいし…。どうして私はダメなんだろう…。」
「あら、あなたは今の学校にも入れたんだし、成績だっていいじゃない。パパもママも自慢の娘だと思ってるわよ。もちろん私にとっても自慢の孫よ。」
「違うのよ、おばあちゃん!本当に頭のいい人は、何でもすぐ覚えたり、初めての問題でも解けたりするの。私は人の倍以上やらないと覚えられないし、苦手な数学なんか、解き方丸暗記でやっと解けるだけで、パターンの違うやつが出てきたりすると全く歯が立たないし、自分で解き方なんて編み出せないし、答えを何度も何度も覚えてやっと解けるレベルなの。中学の勉強まではそれでもなんとかごまかせるの。でも高校の数学とか物理とか、もう私の頭じゃ無理なの。理系じゃないんだよ、もともと…。私、頭良くないの、悪いの。頭がいいフリしてる頭イイモドキなんだよ…。」
「頭イイモドキだなんて…。」
祖母は困ったような顔をして、そして笑顔で私に言った。

「そうやって努力でカバーできるなんて、私はそれも素晴らしい頭の良さだと思うわ。」
「そうかな?」
単純な私はその言葉に救われた。
祖母と話していると気持ちが軽くなって、お菓子をもう一つおかわりした。

「おばあちゃん、おばあちゃんの寝室にあるラジオみたいな機械って、何なの?」
私が何気なく聞くと、祖母は少し悲しそうな顔をしてしばらく窓の外を見た。
「あのラジオは…私のお父さん、あなたの曾おじいさんの物だったの。」
「そっか、曾おじいちゃんの形見なのね。」
「まあ、形見でもあるのだけど…私にとっては、他の思い出が詰まった宝物なのよ。」
「…他の思い出…?」
「そう。私が生きてきて、一番幸せだった事と、一番辛かった事が、あのラジオの中に詰まっているの。」
おばあちゃんの一番の幸せと一番の辛さ…、私はそれを聞きたくて堪らなくなった。
「おばあちゃん、それ、聞いてもいい?もし話したくないことだったら全然大丈夫。言わなくていいよ。」
「ノエルは…もう16になったんだっけ?あの頃の私と同じくらいの歳になったのね。早いものね…。」

 おばあちゃんはゆっくりとお茶を飲んで、静かに話し始めた。おばあちゃんのドラマのような切ない話を聞いていると涙がこぼれきた。おばあちゃんが気の毒で聞くのが辛くなってきたけど私は最後までちゃんと聞こうと思った。




 私は祖母のラジオを撫でた。
「このラジオには、そんなロマンチックで悲しい物語が秘められていたのね…。」
祖母はそう呟く私の頭を優しく撫でた。
「私もね、ノエルみたいに家とか両親の事ばかり優先してたの。物心ついたころから女は親に従い、結婚してからは夫に従うものと教わってきたからね。…そして本当に大事な物を自分から手放してしまった。結局、私の苦渋の決断は何の役にも立たなかった。」
おばあちゃんは私の方を向いて言った。

「私は自分だけが家族を救えると思い違いをしていたの。私如きが何をやってもダメになる物はダメになるのよ。私は私の気持ちを大事にするべきだったの。」
祖母の目には薄っすら涙が浮かんでいた。

「おばあちゃん、私、もっと自分の事を考えてみようと思う。」
「そうね。私はノエルが幸せであってほしい。それが私を幸せにするし、あなたのパパやママも本当に望んでいるのはあなたの幸せだと思うわ。」


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