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 話は戻る。


 孫八郎は、堂々とキヨを追い出すことに成功した。

 キヨの悪い噂は村中が知るところとなり、キヨは表を歩くことすら出来なくなった。

 誰もキヨの言い分を信じようとはしなかった。

 キヨは身も心もボロボロになり、町の外れを彷徨い歩いた。

 歩いていると、飲み屋の裏で、自分に暴力を働いた男たちがいるのに気付いた。

 男たちは、キヨに暴力を働く事で、夫からたくさん金をせしめたと大笑いしていた。


 キヨの心は壊れた。

 まさか孫八郎がそこまでするとは思っていなかった。

 いや、信じたくなかったのだ。唯一の心の拠り所を、今まさにキヨは失ってしまった。

 彼女はこの時、人間の心を自ら捨て去った。

 自ら望んで鬼になろうと誓った。


 キヨは一目散に夫と住んでいた家に向かって走った。

 あまりに速く走ったので、途中で何度も転び、ぞうりは脱げ、足は血だらけになった。髪は乱れて落ち武者のようになった。

―孫八郎、許すまじ!

 家に着いた。窓から中を除くと、女が鏡に向かって化粧をしていた。

 女は振り向いた。キヨと目があった。

 キヨは復讐を晴らせる喜びから、満面の笑みで女を見つめた。

 キヨの落ち武者のような髪や、着崩れた着物を見て、女は背筋が凍りついた。 

 キヨは入り口の戸を蹴り破り、中へ押し入った。女は半狂乱になって逃げ回った。

 キヨは台所にあった包丁を握り締め女を追いかけた。

 キヨは逃げ惑う女の髪を掴んで床に倒した。

 そして女を滅多刺しにした。

 すでに事切れている女の上にまたがり、大笑いしながら死体をひたすら刺し続けた。

 そこへ孫八郎が帰ってきた。

 女の上にまたがり、血だらけになりながらも顔には笑みを浮かべ、包丁を振りかざしている元妻の姿を見て、孫八郎は全身が凍りついた。

 孫八郎に気付いたキヨは、ゆっくりと元夫の方に顔を向け、血だらけの顔で微笑んだ。

 そしてキヨは女からゆっくりと離れ、嬉しそうに孫八郎の元へ歩み寄ってきた。

「おまえさん…。」
キヨは孫八郎に呼びかけた。

「ゆ…ゆ…許してくれ、キヨ! 俺はそんなつもりじゃなかったんだ…。」
孫八郎は足がすくんだ。

「そんなつもりじゃなかった…おかしなことを言う人だね…。許してくれって…あんた…私に悪い事をしたって…つまり、反省してるって事なのかい?」
キヨは首を傾げて孫八郎に微笑んだ。

「悪いと思ってる! 俺はそこまでするつもりは無かったんだ! お、お、女が! そう! あの女が早くお前を追い出してくれって…その…言うもんだから…。」
孫八郎は必死に言い訳をした。

「…そうかい…。そりゃあ、そんな事言う女が悪いねぇ…。悪い女はアタシが始末してやったから、もう心配はないよ。邪魔者はいなくなったことだし、これからは夫婦二人で仲睦まじく暮らしていこうかね…。」
血だらけのキヨは満面の笑みでそう言った。

「助けてくれ~~~!」
孫八郎は大声で叫ぶと急いでその場から逃げ出そうとした。

「逃がしはしないよ!」
キヨは孫八郎の着物の端を捕まえて持っていた包丁を振り上げた。

 孫八郎はとっさに包丁を持っているキヨの腕を掴んだ。

 二人は揉みあいになり床を転げまくった。

 孫八郎は隙を見つけてキヨから包丁を奪い、キヨの腹を刺した。

 キヨは悲鳴をあげた。

 孫八郎はその隙に、一目散に逃げ出した。

 キヨは夫を追いかけようとしたが、刺された激痛と腹から流れ出る大量の血で気絶しそうになり、泣く泣く諦めるしかなかった。

 しかしキヨの怒りはこんな事では到底おさまる筈が無い。

 キヨは、家から少し歩いていった所にある、男の一族の墓へ向かった。

 重い体を引きずるように血を流しながら必死に歩いた。

 一歩進むたびに怒りと憎しみが増幅していった。

 キヨは男の一族の墓に辿り着いた。

 安堵で笑いが出てきた。

 大笑いした。

 悲鳴にも似た笑い声だった。

 そしてキヨは、自分の血を指に付けて、墓に書いた。



 この一族の子孫の男に祟りあれ。

 我が恨み、未来永劫に続く。



 そしてキヨは、持っていた包丁で自分の胸を一突き刺した。

 断末魔の叫びを上げるキヨの脳裏に男たちの顔が浮かんだ。

 一度も愛情を注いでくれなかった父、今となっては憎しみしかない愛しかった弟、そして生まれて初めて、そして人生でただ一人だけ愛した男、孫八郎…。


 孫八郎が憎い…。

 自分を苦しめた男たちが憎い…。

 この世の男たち全てが憎い! 

 そして決して自分には注がれなかった愛情を注がれる全ての女たちが一番憎い!



 梅雨の末期、薄暗い曇り空の下、容赦なく降り注ぐ雨の下、


 キヨはたった一人、この世の全てを恨みながら絶命した。


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