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2.塩豆大福
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しおりを挟む時は明治38年。日露戦争の勝利に人々の酔いも冷めやらぬ時、この世の全てを手にしていると言っても過言ではない華族の令嬢が、この街の高台の屋敷で幸せに暮らしていた。
「ばあやは姫様の輿入れを見届けるまでは死んでも死に切れません。」
長年屋敷に仕えるばあやは、この立川家の一人娘、綾乃の髪を優しく梳かしながら言った。
「もう、ばあやったら! 姫様はよして! もうそんな時代じゃないのよ!」
綾乃は笑いながら言った。
「いいえ! 姫様は世が世ならこの立川家の姫君でございますよっ! 私の自慢の姫様でございます。」
ばあやは綾乃の事を目に入れても痛くはないほど可愛がっている。
「姫様の今年で17歳におなりになる。もういつお輿入れしても可笑しくありませんよ。そう言えば…。」
ばあやは綾乃の髪を梳いていた手をふと止めた。
「…そう言えば? 何なの、ばあや。」
綾乃は聞いた。
「そう言えば姫様! 姫様に縁談が来ているとか…旦那様がおっしゃっておりましたよ。」
「え? お父様がそんなことおっしゃっていたの?」
「えぇ、旦那様は、それはそれは嬉しそうなお顔で…。さぞかし良い縁談なんでしょうね。」
ばあやも嬉しそうに微笑んだ。
「…まだ早いわ…。」
綾乃の顔が曇った。
「まあ! 姫様! 早いなんてことありませんよ! 昨今、卒業までに婚姻しないと、「卒業面」なんて呼ばれるのでしょう?!」
※この時代、美人の女学生は卒業を待たずに結婚して学校と辞める生徒が多く、卒業まで学校に残る不美人の事を卒業面などと呼ぶ、誠にケシカラン風潮があった。
「…卒業面、けっこうだわ!」
綾乃はツンとして言った。
「まあ! とんでもないっ! うちの姫様は不美人なんかじゃありませんっ!」
ばあやは言われてもいない事に対して腹が立った。
「そんな事、言わせておけばいいのよ! 人の噂はなんとか…っていうでしょ!」
綾乃はフフフと笑った。
「全くうちの姫様と来たらなんてノンキなんでしょう…。」
ばあやは溜息をついた。
―この家を出て、顔も知らない方に嫁ぐなんて…
綾乃はブルっと身震いした。
身震いした瞬間、頭に結んでいた大きなえんじ色のリボンがズレたので、綾乃はそれをキュっと結び直した。袴と同じ生地で作ってもらったリボンは綾乃のお気に入りだった。
リボンと姿勢を正し、女学校へと続く道を歩き出そうとしたその時、今度は編み上げブーツの紐が切れて、そのまま体勢を崩し、こけそうになった。
―キャア
綾乃はとっさに目を瞑った。地面に思いっきり倒れると思った。
バフッ
綾乃は誰かの胸の中に抱き留められていた。
ゆっくり顔を上げて目を開けると、目の前に見ず知らずの男の顔があった。急な出来事で綾乃は固まってしまった。男は綾乃を抱き抱えたまま何も言わない。
―こけそうになった私を助けてくれたこの方…涼し気な目元に形の良い鼻…引き締まった口元をしていらっしゃるわ…
綾乃は顔を真っ赤にした。
男は綾乃の目をじっと見つめたままでいる。横を通り過ぎる人々は、二人をチラチラ見ながら怪訝な顔をして通り過ぎていた。その様子に綾乃はやっと我に帰った。
「大変失礼致しました。」
綾乃は男から離れた。慌てて離れた綾乃を男はさらにじっと見つめている。
―怒っているのかしら? だからこの方、こんなに私の事睨んでいるの? いや違うわ、そうよ! 私ったら、助けていただいたのにお礼も言ってない!
「あ…あの…さっき助けていただいたのにお礼も申し上げずに…その…申し訳ありませんでした。転びそうになったところをお助けいただき、本当にありがとうございました!」
綾乃は深々と頭を下げた。そしてゆっくり体制を戻して上目遣いでチラと男を見た。男は相変わらず無言で表情を変えずに綾乃をじっと見ている。
―もうっ、何なのよ! どうしたらいいの!?
綾乃はしかめっ面をした。
「…君…そこに入れている物…」
男はやっと声を発したかと思ったら、綾乃の着物の袂を指さした。
―ギクゥッ!
綾乃はドキっとした。
―潰れてる!!!
綾乃の袖の袂には、後でコッソリ食べようと思ってり買った「甘味処 大黒堂」の塩豆大福が入っていた。
さっき男に抱きかかえられた拍子に二人の間に挟まって、潮豆大福は無残な姿に潰れてしまっていた。着物の袖は大福の入っていた紙袋から染み出した餡子で汚れてしまっていた。
―…と…言う事は…
綾乃は恐る恐る男の上着を見た。ちょうど大福が挟まった辺りの…。予想通り男の上着には餡子の染みが出来ていた。
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