紺碧のイグジスト

ナギ

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1.瓦解する世界の中で

失った娘

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 ラナ・ハーネスはこのヒュリア公国の貴族の娘だった。
 ヒュリア公国は近隣の国より少し裕福であり、そして穏やかに見えて、いた。
 ヒュリア公国の貴族は国王派と王弟派に別れており、そんな中でハーネス家は国王派の中堅。
 この国王派と王弟派の対立は平和に隠れ、拮抗した不安の上にある日常は、あるでき事でひっくり返る。
 引き金を引いたのは王弟派。王弟派により着々と進められていた、クーデターで。
 いつの間にか始まったそれはあっとゆう間に終わりを告げる。
 国王派から王弟派に身を翻すものもいれば、そうでない者もいた。
 ハーネス家は、最後まで国王派であり続け、貴族位は剥奪され、ラナたち一家は反逆の意有り、と牢へと閉じ込められた。
 一家の誰もが、ここで一生過ごすのだろうと、思った。
 だが、そうはならなかった。ラナが、美しかったからだ。
 銀色の、真っ直ぐで、だが柔らかい髪。紺碧の瞳には長い睫毛の影。ぷっくりとした唇、ほんのり色づく頬。うかべる笑みはとても柔らかく、人々を魅了するものだった。
 容姿も際だっていたが、聡明さでも頭ひとつ、同年代の娘たちより抜きん出ていた。
 年頃の娘の中ではとびきり美しい娘であるラナに想いを寄せるものは少なくない。
 ラナは今の状況を受け止め、嘆くこともなく日々を過ごしていた。
 そんなラナが16回目の誕生日を迎えたその日、牢の前によく知った顔が現れた。
 「誕生日おめでとうございます、ラナ嬢」
 「ミハイ様……」
 「豪奢なドレスや化粧がなくとも相変わらずお美しい……」
 ねっとりと舐めあげるような視線。
 ラナはそれに眉を顰めた。
 現れた男は貴族の中でもよくないと言われている者で、ラナは関わり合いになりたくないとずっと思っていた相手だ。
 何度も結婚を申し込んできたがまだ早いのでとやんわりと断り続けていた相手。
 久しぶりに会ったミハイはにぃ、と口の端を歪めて笑う。
 「長々と口上を垂れるのは無駄でしょう。あなたに良い話を持ってきました」
 「なんでしょうか」
 良い話、というがそうではないとラナは思った。
 ラナはこのミハイ・アラハルドとゆう青年が好きではなかった。
  対する派であっても好感を持つ者もいたが、ミハイに良い感情は持てなかった。ミハイの自分への視線が居心地悪く、気持ち悪くてたまらなかった。
 そしてそれに自分に対するあからさまな欲望を感じていたからだ。
 「ここから出してあげます。そのかわり――私の妾になりなさい」
 それはなんとなく予想していた言葉。
 ラナは静かに首を横に振る。私はここで十分ですと。
 「贅沢な暮らしをまたさせてあげると、言っているのですが」
 「お父様たちを置いては行けません」
 「ああ……連れてこい」
 その言葉に、嘲るような声色でミハイは側に控えていた従者に一言落とした。
 ラナは嫌なものを感じで、真っ直ぐミハイを見つめた。
 ミハイはその視線の強さにぞくぞくする。
 自分よりも10も歳下の娘。だが惹き付けられてたまらない。
 この紺碧の瞳、その中心にいる事の喜び。今、ラナは自分だけを見ているのだ。
 心地よい思いに浸っていると、牢の入り口から声が響いてくる。
 その声にラナはミハイより早く反応した。
「っ! お父様、お母様っ!」
「ラナッ」
 ラナは痩衰えた両親の姿を見て、思わず牢の鉄格子を握りこむ。
 その手にミハイの手が触れた。触れて、力強く握り込まれた。
「あなたを繋ぐものを切ってあげましょう」
「え……」
  言い終わらぬうちに、ミハイに視線をふっと向けた。それに答えるように振り下ろされたのは兵士の刃。その瞬間、両親の、途中で途切れた叫び声がラナの耳に届いた。
 その声の結末は見るまでもなく、ラナは察する。
 察っしたくはなくとも、知らされるのだ。
「っ、おと……いやああああああっ」
 血の気がさあっと引く。がたがたと指先が、手が、腕が、その身が震える。
 青白くなった顔を両手で覆い、ラナはその場に崩れ落ちた。
 見たくないその色から、視界を隠すしかできない。
 漏れるのは鳴咽だ。
 その様子を楽しそうに見下ろしながら、ミハイは連れていけと従者に言い目配せする。
 目の前の出来事に、ラナはただ力無く従うしかなかった――従うしかできなかった。
 受け入れるよりも何よりも、目の前にあるものが、目の前にいた大切な家族が何になったのかが、わからなかった。
「さぁ行こうか!」
「うぁ……あ、あ……」
 牢から無理やりに引きずりだされ、浴びた陽の光。
 久しぶりに全身に浴びたそれを心地良いと感じることもなく、ラナはなされるがままだった。
 まぶしくて痛い。そんな感覚で、力の入らない足は半ば引きずられるようにふらふらと覚束ない。
 ミハイの乗る馬車に乱暴に押し込められ、嫌でもどうなるか想像がついた。
 少しだけ、まだ少しだけ考える意識がそこにまだあった。
「たまらないな……泣くのでさえ美しい……そそられるな」
「いやっ、やだっ……んっ……」
 馬車に乗るなり押さえつけ、覆いかぶさってくるミハイ。
 力のない抵抗を面白がるように何度も唇を重ねてくる。
 その間に簡素なドレスの裾が捲くられ白い足があらわになる。触れられる感触にラナはぞっとした。
 気持ち悪くて、しかたない。
「他の奴らを出し抜いてきてよかった……あとでじっくり可愛がってやるよ」
 ぬちゃりと首筋に感じる舌の感触。
 目からはぼろぼろと大粒の涙が溢れ出して止まらない。そんな様子を優越感たっぷりに、ミハイは見下ろす。
 ラナを得て、支配したと思いながら。
 だがそんな思いは、外から聞こえた叫び声によってかき消された。
 轟音とともに、馬車が急停車し、揺れる。
 忌ま忌ましげにミハイは舌打ちし、御者へと言葉を投げた。
「何事だ!?」
「ミ、ミハイさっ……ま、まも……!」
「なっ……!」
 外の騒がしさと叫び声。慌てる従者の声にミハイは真っ青になる。
 今、この国には王弟派だったものしかおらず、政治的に自らを脅かすものはいない。
 自分を、人間を脅かすものはこの世界には魔物、魔族しかいない。
 魔物に太刀打ちできるのは、聖騎士ぐらいなもの。自分の従者や護衛ごときでは太刀打ちなどできない。
 魔族に至ってはその聖騎士では相手にならないものも存在している。
 人間は魔物に対して抗うすべを持たないといっても、よかった。
「っ!!」
 外の様子をうかがうために、馬車の扉をミハイが開く。
 それはほんの少しだったけれども、ラナにとってはチャンスだった。
 さわり、と外の空気が頬を撫でたことで意識が覚醒した。瞬いて、外の景色が瞳に映った。
 この機を逃せば――間違いなく、ずっと飼い殺しにされる。
 そんなのは嫌だと、抗う気持ちが揺り起こされたラナは、力を振り絞りミハイの腹を思い切り蹴った。
 鈍い音がしてミハイが呻く。何をするというような鋭い視線は恐ろしかった。けれど、それよりも逃げたいという気持ちが勝ったのだ。
 蹴った反動で、ミハイが自分の上からのいた瞬間、ラナはその腕をすり抜け、その扉を押し開いて外へ転がるようにとび出した。
 そのまま、どこかわからない街の中へと走り出す。
「捕まえろ! 絶対にだ!! ラナァ! 逃げられると思うな!!」
「っ……!!」
 後から響く、逃がさないと嘲笑う声。
 その声に足が止まりそうになるけれども、ただ走った。
 捕まれば酷い目にあうのは予想できたからだ。それでも、逃げた。ただ何もせず受け入れることができなかったからだ。
 そして逃げられる確率が低いことも感じていた。
 女の足と男の足、すぐに捕まるかもしれないけれども、何もしないよりはとラナは逃げる。
 必死に走って走って、けれども捕まえようと伸ばされる腕に捕まりかけた瞬間だった。
「あははははっ! やっぱ破壊って、いーよなぁ!!」
「!?」
 楽しげな、高い声が響く。それはこの喧騒の中に似つかわしくないほどはずんでいた。
 その瞬間に、がらりと建物が崩れ、ラナと追ってくるもの達の間に瓦礫が降ってくる。
 それに押しつぶされてはたまらないと手をひっこめた従者たち。
 ラナは、その手を逃れて走る。建物が崩れた、それは音でわかる。
 瓦礫によってラナとの間を従者たちはふさがれ慌てた声が聞こえた。
 ラナがちらりと振り向いた後ろ、そして視界に一瞬、明らかに異質なものが入る。
 人の形をした、人でないもの。
 人でないことは宙に浮いているせいですぐにわかった。
 でも今は、魔物よりも魔族よりもミハイのほうが、おそろしい。
 まだ魔物に殺されたほうがマシだと、思った。
 ラナは視線を前に戻して、そのまま走った。とにかくどこでもいいからこの場から離れたくてたまらない。
 道をふさがれた従者たちは瓦礫を越える術もない。叱責を覚悟の上でミハイのもとへと戻っていくのだった。
 ラナは走る。あの手から逃れられたらどこでもいいと、必死に。
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