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第二話 終末へと至る日々。(8)
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8.
その夜届いたメールは絵文字も顔文字も使わない実にアテナらしい文面だった。
『こんばんは。夜分遅くに失礼します。明日は特に時間は指定しませんので都合のよい時間にいつでもお越しください』
ベッドで仰向けになって画面を眺めていた長針は身を起こした。
「……適当だな」
丁寧な割に内容は正直どうでもいいものだった。
しかし、数回の改行を経て書かれた一文に目が留まった。
『今日はとても楽しかったです』
間違いなくアテナの本心だ……そう思いたい。
でも、今の長針にはこの文章が薄っぺらい社交辞令に見えてしまった。本当なら喜びで緩む頬を叱咤しながら、それでもやはりにやけながら返信するはずだ。
もっとも、それは自分の命が明日で終わると知らなければの話。
「明日、俺は死ぬ……っ!」
無意味な独白は震えていた。
明日で終わってしまう。自分自身の人生も。アテナとの恋人ごっこも。戸惑いから始まった関係だった。日数にして僅か二日だったが、その間に得たものは今までの人生の中にはない貴重な物ばかりだった。
(アテナ……っ)
縋るように心の中で呼びながら目を閉じた。
そもそも、自分の思いは恋ではなかった。
それでも……
アテナの端麗な容姿と異常性に惹かれただけ――とは思いたくなかった。
アテナも憐れみだけで自分に恋人の提案をした――と思いたくなかった。
裏に打算や思惑が渦巻いていたとしても、何かしらの思いを持って自分に接してきたのだと思わせてほしかった。
長針は突然起き上がると携帯にある検索ワードを入力した。
むしろ何故今までここに至らなかったのか、そう後悔しながら。
『葉書坂家蒸発事件』
珍しい名前なせいか苗字を入力した段階で十年近く前のニュース記事がヒットした。
学園で孤立し、死を示す時計を見ることができる少女。
アテナを取り巻く境遇、その背景とも言える事件を何故関連付けなかったのか。
「あった。これか……」
ディスプレイに表示された文字を目で追いながら、体の芯から熱が失われていくのを感じた。
内容はたった一文で記されていた。
『一人娘を残し全員が蒸発し、行方不明』
葉書坂家の異変に周辺住民さえも気づいていなかった。驚くべきことに事件前日の葉書坂家は普段通りだったというのだ。
屋敷内に荒らされた様子はなく一家でボイコットしたものと考えられている。
今になって急に思い至ったのは自分に残された時間が限られているから。
そして、初めて葉書坂アテナと言う少女のことを知りたいと思ったから。
(なんなんだよ、アテナ。お前)
携帯を握ったままベッドに仰向けに倒れると目を閉じた。
しかし、不意に瞼越しに感じていた蛍光灯の光が何かに遮られた。
閉じていた瞼を開くとこちらを覗き込んでいるアルトがいた。
「あんま女の子の過去を詮索する男は嫌われるっすよ?」
「……っ!?」
「ま、長針君はそう言うことも知っておかなきゃダメだけどね?」
「ど、どういう意味だよ!?」
「さぁ?」
アルトは白々しい程に即答し、わざとらしく首を傾げた。
「ちょりーっす! 夜這いに来ましたー! っと思ったらブルー入ってる?」
負のスパイラルから抜け切れていない長針は疲労感そのままにこんな時間にもかかわらず制服姿のままのアルトを半眼で見つめる。
「なんすかその非歓迎的な目は!? わ、つーか時間激やばじゃん」
チクリ、と妙な違和感を覚えた。
魚の小骨が刺さった程度の痛みだ。気にするほど痛みはない。だが、奇妙な違和感が粘性のある泥のようにこびりついて剥がれない。
問題は痛みではなく刺さった場所だと直感した。
それは個人の深層、秘密と言った普通では届かない場所。そんな場所に正確に突き刺さっていた。
「お前って相変わらず神出鬼没だなと思って……?」
もう三度目になる邂逅になれてしまったのか、軽口が自然と出た。
長針はあることに気づいた。
ここは一軒家の二階である。塀から一階の屋根に飛び移り、壁伝いに来れば窓からの侵入は可能とはいえ、目の間の華奢な少女がそんな力任せの正攻法で訪れたとは思えない。
それ以前に窓が開いた気配はしなかったし、鍵もかけていたはずだ。
「マジでどうやって入ってきた!?」
「お姉さんは神出鬼没なのだ」
質問に答える気はないらしく自慢げにそう言って胸を張る。校舎裏で消えたときにしても、今にしても普通の人間にできる技ではない。恐らくもっと人知と理解を超えた何かによるものだろうが、変にそう言った事情に慣れてしまったせいかそれ以上の驚きはなかった。
「お姉さんって……」
「だってアテナちゃんは長針君より一個上。じゃあ、私も長針君の一個上」
アルトは長針の方を向き、『それ』を注視しながら言う。
アルトが部屋に入ってきたときの違和感の正体はこれだ――この視線だ。
普通の人間には決して向けることができない物にアルトの視線は注がれている。
気付くと全身が総毛だっていた。
「お、お前、今さっきなんて言った?」
震えかけた声で長針は聞く。
「え……神出鬼没?」
「違う、その前だ」
ケロッとした声で答えるが、そんなことではない。
急かすように、恐れるように。余裕のない長針の態度から察しがついたのかアルトは何ともなしに言う。
「……ああ、長針君が死にかかっているなって思ったのが声出ちゃっただけっしょ? なんか変なこと言った私?」
「変って、アルトお前!?」
「――変って言えば、本当に変なのは長針君、君の方だよ。ホント、ブルー入ってると思ったら落ち着き過ぎ。とても死を間近に控えた人間とは思えないっす~」
声を荒げる長針とは対照的にアルトは冷ややかな目線を向け小馬鹿にしたように言う。受け取り方次第では軽蔑とも憐憫とも取れるその本質が図れなかった。
「本当に時計が、見えるのか?」
「うん。見えるよ」
何故か退屈そうに、まるで慌てる長針の姿を期待してここにきて期待を裏切られたみたいに。今にもあくびの一つでもしてしまいかねない、そんな顔だった。
「あ~あ、テンパってる長針君をなでこなでこして慰めてあげようと思ってきたのに、失敗失敗~」
本来の目的(?)を暴露しながら長針の隣に座る。過去にないほど近くにいるアルトに戸惑いつつ、少し距離を広げる。
「……アテナと同じような力なのか?」
「……」
アルトは僅かに黙る。思案するためではなく悪巧みをするような間に長針は少し身構えてしまう。アルトは長針が広げた距離以上に詰め寄ると上目遣いで囁く。
「時計が見えるっていう結果は同じだけど、原理は違うかな?」
アルトは思わせぶりに唇を指先でなぞりながら長針に語り掛ける。ふと、アルトが今晩ここを訪れたときに口にした言葉が蘇る。
(……よ、夜這い……)
「アテナちゃんの能力は本人のものだけど私は発現した時計を介して力を借りているだけだから」
「時計の力?」
長針がアテナから教わった『時計』と言うのは人の運命を示す命の別の形であり、別次元に存在し通常は目視することができない物……だったはずだ。
ところがアルトの言い方を聞くと用途に合わせて自由に使える道具のようなものに思えてしまった。
冷静に分析しつつ、さらに近づいてくるアルトから逃れるため長針は身を捩じらせた。
もちろんアルトが嫌いなわけではなかったが、ミステリアスなアテナとは違う怪しげな魅力が今夜のアルトからは漂っていた。
一口含むだけで心を奪われてしまいそうな酩酊感に満ちた毒。
「も~、逃げちゃダメっすよ~?」
アルトはそう言って手を伸ばすと飛びかかる猫の俊敏さで長針が体重を預けていた腕を掬い取った。
「――あ、うわぁ!?」
バランスを失った長針はそのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。ベッドのスプリングがきしみ、マットレスを介して反発力が背中に伝わる。その上からすかさずアルトが四つん這いで覆いかぶさってきた。
「つっかま~えた!」
アルトは長針の両腕を抑え込むと雌豹の笑みを浮かべ狼狽する長針を見下ろす。
「アルト!? 悪ふざけはよせって!」
「可愛いねぇ長針君。じゃあさ、じゃあさ、本気だったらいいってこと?」
鼻先が触れ合うほどの近距離でアルトは妖艶にほほ笑む。年の差にして一つしか違わないのにアルトの方が一回りも二回りも大人びて見えた。アルトが口を開くたびに肌にかかる吐息が、首筋をくすぐるように這う長い髪が、身動きするたびに漂う香水とは違う芳しい匂いが、その全てが長針の体中を羽毛で撫でるように包み込む。
「ダメに決まってる!」
押し付けられたままの長針は声を大にした。
「え~、なんで?」
「お、俺には彼女が……アテナがいるから」
声に出して恥ずかしさが込み上げてきた。そっくりな顔を前にまるで告白した直後の様な気になってしまい、アルトの顔を直視できなかった。アルトから迫られていることとは別の理由、自らが発した言葉で体が熱くなっていた。
「アテナちゃんが羨ましいなぁ。形だけとは言え長針君に彼女って言ってもらえて~」
険のある言い方の割にアルトは拗ねた子供のように頬を膨らませる。
「そう思うなら離してくれないか?」
依然拘束されっぱなしな長針は急に子供っぽい仕草になったアルトに言う。
「どうせ明日死ぬんだから好きなことやっちゃえばいいじゃん? 逆に私を押し倒すとか?」
さりげなくすごいことを提案されているが、そこにいたのがいつものアルトだったから冷静に言葉を返した。
「明日死ぬからこそだ。だからこそちゃんと裏切らずにいたいんだ」
その言葉にアルトは面食らったように身をそらした。
「あちゃー、妬けちゃうなぁアテナちゃんには。私も惚れちゃいそう」
そう言ってアルトは腕の力を抜くと長針を開放する。体重を乗せられていたからとはいえ、同世代の女の子に一対一で組み伏せられた情けなさに軽くブルーを再発させながら身を起こす。
「本当はこのまま帰るつもりだったけど~なんか気分いいからいいこと教えてあげる」
「いいこと?」
長針が顔を上げると頬をかきながら顔を赤らめたアルトに出くわした。
「そ、私が何者なのか」
「……何で横向いてんだ?」
アルトの正体はもちろん気になる。しかし、目下の奇異さに長針の疑問はぶつかった。
「我ながらちょっと大胆すぎたかな~と反省中。ごめんね?」
自身の行動を思い返しているのかアルトは長針とは目を合わせず静々と謝る。改まって謝られたせいで気恥ずかしさが込み上げてきた。半ば強引に話の方向を修正する。
「――そ、それで結局アルトは何者なんだ?」
「何者だと思う?」
依然顔が赤いままのアルトがオウム返しに聞き返してきた。
「アテナにそっくりだけどアテナとは違う誰か?」
「半分正解。今はアルトって呼んでもらってるけど本当は私も『アテナ』だよ」
「それじゃあわかんないっての!」
長針は問題以上に厄介な答えに困り顔を浮かべる。教える気があって焦らしているのか端から教える気がないのか定かではない。
「じゃあさ、こういうのはどうかな? アテナちゃんが『葉書坂アテナ』で、私が『魚土アテナ』ってことでいい?」
いきなりの提案と、聞きなれない苗字(前後の会話から判断)に長針は首を傾げる。
「ウオツチ? なんだ、変わった苗字だな」
アルトの言い方からして『魚土』と言う苗字は架空の物のようにも聞こえた。
「はい、教えるのはここまで~これ以上はダメっす! 乙女の秘密っす! 真相が知りたければアルトルートに入って私をメインヒロイン化するっす!」
突然いつものテンションに戻るとアルトは一方的に話を終えた。
「いや、結局何もわかんねーんだけど……?」
「そう? まぁ気にしない気にしないっと。つまり、人間針の動きと時の流れには逆らえない物なんだよ。気の向くまま、針の向くままってね? やば、私超哲学的じゃない?」
自らの論に越に言っているアルトは呆然としている長針に同意を求める。
「へいへい。そーですね」
「うわ、急に冷たくなった! もしやこれが倦怠期、と言う奴っすか!?」
最早苦笑するしかなかった。
「じゃあね~長針君。あ、〝次〟に会うときはもっとオシャレしてくっから楽しみにしててね?」
アルトは意味深にほほ笑むと軽く指を弾き、背後に跳んだ。
「あ、」
まるで空気に溶けるように、忽然と音もなく、アルトが消えた。水面のように揺れる何もない空間がアルトの去った余波として残っているだけだった。
「魚土……アテナか」
正直、ノーヒントと変わらない。
そして、それとは別にアルトの言った言葉が頭から離れなかった。
『形だけとは言え長針君に彼女って言ってもらえて~』
言われた瞬間胸の奥がズキリと痛みを上げ、今も後味の悪い疼きとなって残っていた。
(もう寝るか……)
眠りにつくまでの間、疼きは収まらなかった。
(アテナ……お前はいったい何者なんだ?)
魚土アテナ、その名前の意味を知るまでそう時間はかからなかった。
その夜届いたメールは絵文字も顔文字も使わない実にアテナらしい文面だった。
『こんばんは。夜分遅くに失礼します。明日は特に時間は指定しませんので都合のよい時間にいつでもお越しください』
ベッドで仰向けになって画面を眺めていた長針は身を起こした。
「……適当だな」
丁寧な割に内容は正直どうでもいいものだった。
しかし、数回の改行を経て書かれた一文に目が留まった。
『今日はとても楽しかったです』
間違いなくアテナの本心だ……そう思いたい。
でも、今の長針にはこの文章が薄っぺらい社交辞令に見えてしまった。本当なら喜びで緩む頬を叱咤しながら、それでもやはりにやけながら返信するはずだ。
もっとも、それは自分の命が明日で終わると知らなければの話。
「明日、俺は死ぬ……っ!」
無意味な独白は震えていた。
明日で終わってしまう。自分自身の人生も。アテナとの恋人ごっこも。戸惑いから始まった関係だった。日数にして僅か二日だったが、その間に得たものは今までの人生の中にはない貴重な物ばかりだった。
(アテナ……っ)
縋るように心の中で呼びながら目を閉じた。
そもそも、自分の思いは恋ではなかった。
それでも……
アテナの端麗な容姿と異常性に惹かれただけ――とは思いたくなかった。
アテナも憐れみだけで自分に恋人の提案をした――と思いたくなかった。
裏に打算や思惑が渦巻いていたとしても、何かしらの思いを持って自分に接してきたのだと思わせてほしかった。
長針は突然起き上がると携帯にある検索ワードを入力した。
むしろ何故今までここに至らなかったのか、そう後悔しながら。
『葉書坂家蒸発事件』
珍しい名前なせいか苗字を入力した段階で十年近く前のニュース記事がヒットした。
学園で孤立し、死を示す時計を見ることができる少女。
アテナを取り巻く境遇、その背景とも言える事件を何故関連付けなかったのか。
「あった。これか……」
ディスプレイに表示された文字を目で追いながら、体の芯から熱が失われていくのを感じた。
内容はたった一文で記されていた。
『一人娘を残し全員が蒸発し、行方不明』
葉書坂家の異変に周辺住民さえも気づいていなかった。驚くべきことに事件前日の葉書坂家は普段通りだったというのだ。
屋敷内に荒らされた様子はなく一家でボイコットしたものと考えられている。
今になって急に思い至ったのは自分に残された時間が限られているから。
そして、初めて葉書坂アテナと言う少女のことを知りたいと思ったから。
(なんなんだよ、アテナ。お前)
携帯を握ったままベッドに仰向けに倒れると目を閉じた。
しかし、不意に瞼越しに感じていた蛍光灯の光が何かに遮られた。
閉じていた瞼を開くとこちらを覗き込んでいるアルトがいた。
「あんま女の子の過去を詮索する男は嫌われるっすよ?」
「……っ!?」
「ま、長針君はそう言うことも知っておかなきゃダメだけどね?」
「ど、どういう意味だよ!?」
「さぁ?」
アルトは白々しい程に即答し、わざとらしく首を傾げた。
「ちょりーっす! 夜這いに来ましたー! っと思ったらブルー入ってる?」
負のスパイラルから抜け切れていない長針は疲労感そのままにこんな時間にもかかわらず制服姿のままのアルトを半眼で見つめる。
「なんすかその非歓迎的な目は!? わ、つーか時間激やばじゃん」
チクリ、と妙な違和感を覚えた。
魚の小骨が刺さった程度の痛みだ。気にするほど痛みはない。だが、奇妙な違和感が粘性のある泥のようにこびりついて剥がれない。
問題は痛みではなく刺さった場所だと直感した。
それは個人の深層、秘密と言った普通では届かない場所。そんな場所に正確に突き刺さっていた。
「お前って相変わらず神出鬼没だなと思って……?」
もう三度目になる邂逅になれてしまったのか、軽口が自然と出た。
長針はあることに気づいた。
ここは一軒家の二階である。塀から一階の屋根に飛び移り、壁伝いに来れば窓からの侵入は可能とはいえ、目の間の華奢な少女がそんな力任せの正攻法で訪れたとは思えない。
それ以前に窓が開いた気配はしなかったし、鍵もかけていたはずだ。
「マジでどうやって入ってきた!?」
「お姉さんは神出鬼没なのだ」
質問に答える気はないらしく自慢げにそう言って胸を張る。校舎裏で消えたときにしても、今にしても普通の人間にできる技ではない。恐らくもっと人知と理解を超えた何かによるものだろうが、変にそう言った事情に慣れてしまったせいかそれ以上の驚きはなかった。
「お姉さんって……」
「だってアテナちゃんは長針君より一個上。じゃあ、私も長針君の一個上」
アルトは長針の方を向き、『それ』を注視しながら言う。
アルトが部屋に入ってきたときの違和感の正体はこれだ――この視線だ。
普通の人間には決して向けることができない物にアルトの視線は注がれている。
気付くと全身が総毛だっていた。
「お、お前、今さっきなんて言った?」
震えかけた声で長針は聞く。
「え……神出鬼没?」
「違う、その前だ」
ケロッとした声で答えるが、そんなことではない。
急かすように、恐れるように。余裕のない長針の態度から察しがついたのかアルトは何ともなしに言う。
「……ああ、長針君が死にかかっているなって思ったのが声出ちゃっただけっしょ? なんか変なこと言った私?」
「変って、アルトお前!?」
「――変って言えば、本当に変なのは長針君、君の方だよ。ホント、ブルー入ってると思ったら落ち着き過ぎ。とても死を間近に控えた人間とは思えないっす~」
声を荒げる長針とは対照的にアルトは冷ややかな目線を向け小馬鹿にしたように言う。受け取り方次第では軽蔑とも憐憫とも取れるその本質が図れなかった。
「本当に時計が、見えるのか?」
「うん。見えるよ」
何故か退屈そうに、まるで慌てる長針の姿を期待してここにきて期待を裏切られたみたいに。今にもあくびの一つでもしてしまいかねない、そんな顔だった。
「あ~あ、テンパってる長針君をなでこなでこして慰めてあげようと思ってきたのに、失敗失敗~」
本来の目的(?)を暴露しながら長針の隣に座る。過去にないほど近くにいるアルトに戸惑いつつ、少し距離を広げる。
「……アテナと同じような力なのか?」
「……」
アルトは僅かに黙る。思案するためではなく悪巧みをするような間に長針は少し身構えてしまう。アルトは長針が広げた距離以上に詰め寄ると上目遣いで囁く。
「時計が見えるっていう結果は同じだけど、原理は違うかな?」
アルトは思わせぶりに唇を指先でなぞりながら長針に語り掛ける。ふと、アルトが今晩ここを訪れたときに口にした言葉が蘇る。
(……よ、夜這い……)
「アテナちゃんの能力は本人のものだけど私は発現した時計を介して力を借りているだけだから」
「時計の力?」
長針がアテナから教わった『時計』と言うのは人の運命を示す命の別の形であり、別次元に存在し通常は目視することができない物……だったはずだ。
ところがアルトの言い方を聞くと用途に合わせて自由に使える道具のようなものに思えてしまった。
冷静に分析しつつ、さらに近づいてくるアルトから逃れるため長針は身を捩じらせた。
もちろんアルトが嫌いなわけではなかったが、ミステリアスなアテナとは違う怪しげな魅力が今夜のアルトからは漂っていた。
一口含むだけで心を奪われてしまいそうな酩酊感に満ちた毒。
「も~、逃げちゃダメっすよ~?」
アルトはそう言って手を伸ばすと飛びかかる猫の俊敏さで長針が体重を預けていた腕を掬い取った。
「――あ、うわぁ!?」
バランスを失った長針はそのままベッドに仰向けに倒れ込んだ。ベッドのスプリングがきしみ、マットレスを介して反発力が背中に伝わる。その上からすかさずアルトが四つん這いで覆いかぶさってきた。
「つっかま~えた!」
アルトは長針の両腕を抑え込むと雌豹の笑みを浮かべ狼狽する長針を見下ろす。
「アルト!? 悪ふざけはよせって!」
「可愛いねぇ長針君。じゃあさ、じゃあさ、本気だったらいいってこと?」
鼻先が触れ合うほどの近距離でアルトは妖艶にほほ笑む。年の差にして一つしか違わないのにアルトの方が一回りも二回りも大人びて見えた。アルトが口を開くたびに肌にかかる吐息が、首筋をくすぐるように這う長い髪が、身動きするたびに漂う香水とは違う芳しい匂いが、その全てが長針の体中を羽毛で撫でるように包み込む。
「ダメに決まってる!」
押し付けられたままの長針は声を大にした。
「え~、なんで?」
「お、俺には彼女が……アテナがいるから」
声に出して恥ずかしさが込み上げてきた。そっくりな顔を前にまるで告白した直後の様な気になってしまい、アルトの顔を直視できなかった。アルトから迫られていることとは別の理由、自らが発した言葉で体が熱くなっていた。
「アテナちゃんが羨ましいなぁ。形だけとは言え長針君に彼女って言ってもらえて~」
険のある言い方の割にアルトは拗ねた子供のように頬を膨らませる。
「そう思うなら離してくれないか?」
依然拘束されっぱなしな長針は急に子供っぽい仕草になったアルトに言う。
「どうせ明日死ぬんだから好きなことやっちゃえばいいじゃん? 逆に私を押し倒すとか?」
さりげなくすごいことを提案されているが、そこにいたのがいつものアルトだったから冷静に言葉を返した。
「明日死ぬからこそだ。だからこそちゃんと裏切らずにいたいんだ」
その言葉にアルトは面食らったように身をそらした。
「あちゃー、妬けちゃうなぁアテナちゃんには。私も惚れちゃいそう」
そう言ってアルトは腕の力を抜くと長針を開放する。体重を乗せられていたからとはいえ、同世代の女の子に一対一で組み伏せられた情けなさに軽くブルーを再発させながら身を起こす。
「本当はこのまま帰るつもりだったけど~なんか気分いいからいいこと教えてあげる」
「いいこと?」
長針が顔を上げると頬をかきながら顔を赤らめたアルトに出くわした。
「そ、私が何者なのか」
「……何で横向いてんだ?」
アルトの正体はもちろん気になる。しかし、目下の奇異さに長針の疑問はぶつかった。
「我ながらちょっと大胆すぎたかな~と反省中。ごめんね?」
自身の行動を思い返しているのかアルトは長針とは目を合わせず静々と謝る。改まって謝られたせいで気恥ずかしさが込み上げてきた。半ば強引に話の方向を修正する。
「――そ、それで結局アルトは何者なんだ?」
「何者だと思う?」
依然顔が赤いままのアルトがオウム返しに聞き返してきた。
「アテナにそっくりだけどアテナとは違う誰か?」
「半分正解。今はアルトって呼んでもらってるけど本当は私も『アテナ』だよ」
「それじゃあわかんないっての!」
長針は問題以上に厄介な答えに困り顔を浮かべる。教える気があって焦らしているのか端から教える気がないのか定かではない。
「じゃあさ、こういうのはどうかな? アテナちゃんが『葉書坂アテナ』で、私が『魚土アテナ』ってことでいい?」
いきなりの提案と、聞きなれない苗字(前後の会話から判断)に長針は首を傾げる。
「ウオツチ? なんだ、変わった苗字だな」
アルトの言い方からして『魚土』と言う苗字は架空の物のようにも聞こえた。
「はい、教えるのはここまで~これ以上はダメっす! 乙女の秘密っす! 真相が知りたければアルトルートに入って私をメインヒロイン化するっす!」
突然いつものテンションに戻るとアルトは一方的に話を終えた。
「いや、結局何もわかんねーんだけど……?」
「そう? まぁ気にしない気にしないっと。つまり、人間針の動きと時の流れには逆らえない物なんだよ。気の向くまま、針の向くままってね? やば、私超哲学的じゃない?」
自らの論に越に言っているアルトは呆然としている長針に同意を求める。
「へいへい。そーですね」
「うわ、急に冷たくなった! もしやこれが倦怠期、と言う奴っすか!?」
最早苦笑するしかなかった。
「じゃあね~長針君。あ、〝次〟に会うときはもっとオシャレしてくっから楽しみにしててね?」
アルトは意味深にほほ笑むと軽く指を弾き、背後に跳んだ。
「あ、」
まるで空気に溶けるように、忽然と音もなく、アルトが消えた。水面のように揺れる何もない空間がアルトの去った余波として残っているだけだった。
「魚土……アテナか」
正直、ノーヒントと変わらない。
そして、それとは別にアルトの言った言葉が頭から離れなかった。
『形だけとは言え長針君に彼女って言ってもらえて~』
言われた瞬間胸の奥がズキリと痛みを上げ、今も後味の悪い疼きとなって残っていた。
(もう寝るか……)
眠りにつくまでの間、疼きは収まらなかった。
(アテナ……お前はいったい何者なんだ?)
魚土アテナ、その名前の意味を知るまでそう時間はかからなかった。
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