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第一章
第1話 歪み始めた日常。(5)『絵』
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5.
放課後。
矢場に追加制裁と言わんばかりに資料整理を手伝わされた透哉はプリントのインクで黒くなった手を洗うと二年五組の教室に鞄を取りに戻った。
教室内は無人、と思いきや人影があった。
「ん、なんだ? 源、まだ残ってたのか?」
夕日が差し込む教室に一人残っていたホタルが熱心にノートにシャーペンを走らせている。
「なんだとはなんだ。私はお前を待っていたのだぞ?」
顔を上げたホタルがムスッとした表情で透哉を非難する。
「……はぇ?」
思いがけない言葉の応酬に変な声が出た。
放課後の教室、二人きり。
ときめきを禁じ得ないシチュエーションだが、胸が高鳴る間もなく早合点だったと知る。
「先生に戸締りを頼まれたのだが、御波が返ってこないせいで足止めを食らっていたのだ」
ホタルは半眼を作ると教室のカギを鳴らして見せた。待っていたと言っても色っぽい事情は皆無でクラス委員としての任をこなすためだった。透哉は肩を落とす、と言うより安心に近いため息を吐くと自分の席に向かい帰り支度を始める。
「……っておい!」
「なんだよ?」
一人鞄を担ぎそそくさと教室を去ろうとする透哉をホタルが呼び止めた。
「薄情な奴だな、仮にも私はお前を待っていたのだぞ? 恩を着せるわけではないが待っていた人間を置いて先に帰るつもりか?」
「ちっ、外にいるから早くしろよ」
透哉は露骨に嫌そうに舌打ちしながら廊下に出るとホタルを待つ間の暇つぶしとして窓の外に目を転じた。
傾き始めた陽光の中にあきれ返るほどの平穏があった。
白い光に包まれた世界が徐々に夕日で赤褐色に染まっていく。
しかし、透哉は外の景色を眺めながら、別の景色に思いを馳せていた。
十年前のあの日に失われた、学園という一つの世界。
『幻影戦争』から新しい学園が立つまでに八年。
そこから更に二年が経過した。
淡くフィルタリングされた苛烈な記憶がセピア色で蘇る。
郷愁にも似たトラウマを振り返りながら、自分がこの場に存在することを、自分の存在そのものを過ちや偽りのように思ってしまった。
「済まない。待たせたな」
声に振り替えると片づけと戸締りを済ませたホタルが透哉の陰鬱な気持ちなど知る由もなく立っていた。
「……待たせておいた張本人が白々しい」
思わず憎まれ口が出た。平穏の中を生きる者への醜い嫉妬だった。
「同じ言葉をそのまま返そう」
言葉の裏に潜んだ悪意など知らず、単なる憎まれ口と取ったホタルは半眼で透哉に答えた。
同時にバチっとホタルの体から紫電が溢れ、髪の毛に沿って光が走る。
「イライラを表現するたびに逐一発電するのは止めろ。この危険人物め」
「これは意図したものではない。言わば体質だ」
銀髪に沿って流れる紫電を指して言う。ホタルに呼応するように一定の間隔で輝くさまはネオンサインのようだった。
「それにこれは静電気程度のもので、仮にあたっても少し痛いくらいなので無害だ」
「痛みを感じる時点で有害だろ?」
「――ところで御波、何故あんな目をしていた?」
ホタルは透哉の訴えを軽く無視すると隣に並び同じように視線を外に向けた。
ばっちり見られていたらしい。
「あ?」
「何と言うか、悲しそうに見えた」
目聡いなと思った。心情を的確に言い当てられていたからだ。
「悲しそう?」
透哉は誤魔化したくてホタルを怪訝な目で見る。
「うまくは言えないが、お前一人、この学園を蚊帳の外から見ている風だった」
「放っておいてくれ。俺ははみ出し者なんだ」
ホタルの指摘を否定せず透哉は睨みを利かせ半ば強引に話を切り上げる。
「お前はどこか私に似ているな」
「意味が分からん」
透哉はぶっきらぼうに答えると一人先に廊下を歩きはじめる。
深く詮索されることが嫌だった。それ以上によく理解もできないくせに表層だけを見て哀れに思われるのが嫌だった。
(何も知らないくせに……)
ホタルは駆け足で透哉に追いつくと、もの言いたげに隣に並んで歩く。
「……」
「……なぁ、御波」
「クラス委員といい、生徒会の仕事といい色々と大変そうだが、実際どうなんだ?」
透哉が食い気味に尋ねた理由は複数の役職を兼任するホタルを労うためでも、気まずい空気を埋めるためでもない。余計な話題を振らせないために言ったに過ぎない。
「ああ、生徒会は立場上強制だから仕方がないが、クラス委員は好きでやっていることだから苦ではない」
ホタルはどこか釈然としない表情をしつつも律儀に聞かれたことを答える。
夜ノ島学園における生徒会の選任は選挙などの公的な法を用いて行われない。あくまでエンチャンターとしての能力を基準に全学年通して上から十人前後が選び抜かれ、新入生が加わる四月に教員たちの手で自動的に決まる。
通称『春の十選』と呼ばれる恒例行事で、以前の学園の慣習をそのまま引き継いでいる。
そのため、メンバーは毎年大きく様変わりする。生徒会内での役職も能力順に生徒会長、副会長、会計、書記、庶務と振り分けられ、余名は雑務と言った構成になっている。
例外として生徒会長だけは三年生の主席が務めることが決まっていてその年の学園内の空気にも大きく影響する。
「仕事だから仕方がないとはいえ、夜間のパトロールだけは好きになれそうにないな」
「パトロール?」
「お前は知らないだろうが夜間の校内の警邏は生徒会のメンバーが当番制で行っているのだ」
「何でそんなこと生徒にやらせるんだよ?」
「御波の意見は妥当だ。しかし、ここは普通の学校とは勝手が違うことを忘れていないか? 下手な警備を雇うよりも生徒の方が信頼できるだろう?」
「なるほど」
いくら夜ノ島学園がエンチャンター専科の学園とは言え校内警邏の人員にまで適当な人間を用意できるとは限らない。警備員を用意したところで不測の事態に対処できなければ意味がないし、何より一般人を巻き込むのは避けるべきと言うのが学園側の判断らしい。
「そして、今日の当番が私なのだ」
ホタルは鬱屈そうな顔で言ってため息を吐いた。
「へー、ご苦労さん」
「他人事だと思って」
珍しくぶちぶちと愚痴を言う。
「まぁ、実際そうだし」
「深夜に駆り出される身にもなれ。睡眠不足はもちろん、生徒をしかも女子を独り歩きさせる規則があるか普通?」
ついさっき自分でこの学園は普通とは勝手が違うと言ったのを忘れたのだろうか。
「睡眠時間を搾取されるのは確かに嫌だな。でも、あとは源なら大丈夫だろ?」
「それはどういう根拠だ?……なるほど、御波も『雷王』の餌食になりたい、そういうことか?」
紫電を過剰にバリバリ迸らせながら上目で思いっきり睨まれた。
「その鬱憤は侵入者が現れたときにでも取っておいてくれ」
透哉は適当に誤魔化しながら目線を逸らせる。幸い追及はされずホタルは鼻を鳴らすと話を戻した。
「まぁ、パトロールと言ってもこれを起動させて点検するだけなのだがな」
言ってホタルは鞄から一冊の本を取り出して見せた。
大きさは文庫本程度ながらハードカバーに覆われて表紙に鍵穴までついた重厚な造りの本だ。
「なんだそれ? 魔道具か?」
「そうだ。『箱庭』と呼ぶ探索用の魔道具だ。起動すると学園内の見取り図が立体で表示される――こんな風に」
ホタルは『箱庭』を開き、中をパラパラとめくり透哉に見せた。描かれているのは学園内をいくつもに切り分けた図面。間もなく浮かび上がったのは校舎全体を細部まで表現した蛍光色のホログラム。
透哉はほう、と感嘆を打った。
「こんな便利なものがあるのか」
「御波が知らないのも無理はない。これは生徒会のメンバーにしか渡されていないはずだからな」
「そんなもん見せびらかしていいのか?」
「これ自体に害はないし、口止めもされていない。日頃真面目に働いているのだからこれくらいは問題ないだろう?」
「さすがは生徒会ってとこか?」
透哉が若干の皮肉を込めて言うと「別にそんな言い方しなくてもいいだろ」とホタルが目で訴えてきた。
「何度も言うが、私が副会長をしているのは学園が定めたからだ。実際は分からないだろ?」
ホタルの言う通り、結局のところ生徒会の役職の選出とは学園側が勝手に位置づけしているだけなのだ。個々の生徒の魔力を実数で表した記述が存在しない以上、学園側に都合の良い采配と言う邪推もできる。
ホタル自身、なんとなく生徒会になっている程度の認識しかなく、他の生徒の上に立っているという意識はなかった。
「私からすれば御波が生徒会に選ばれなかったことの方が不思議だ」
「入学してすぐに騒動を起こすような奴が選ばれるはずがないだろ?」
「誤魔化すな。それを言うなら周囲の反応こそ違えど私も同じだ」
「だから、そういうことだろ? 事実が同じでも周囲の評判が悪い奴を望んで学園の中核に置くか?」
「た、確かに」
筋の通った論説にホタルは押し黙った。
並んで昇降口を下りながらホタルが不意に自虐的にほほ笑む。
「こんな場所だから評価されるだけで、普通の学校の生徒からすれば私たちはただの化け物だ」
「化け物……っ」
ホタルの口から出た予想外の言葉を反芻しながら透哉は顔を上げた。沈み始めた日に照らされたホタルの顔はどこか寂しげで、今にも消え入りそうなものだった。
ホタルの言う通り、夜ノ島学園とは『こんな場所』なのだ。
十年前、当時国内最大とされたエンチャンター専科の学園で起きた謎の集団殺傷事件。
通称『幻影戦争』
原因は今でも不明。
当日学園内に居合わせたと思われる生徒、教員全てが死傷、もしくは失踪した。
事故直後は失踪した者の中に犯人が混ざっているという話になったが、学園全土を飲み込む大規模な騒動を引き起こすことの不可能性と判別できないほどに損壊した死体が多すぎたせいで特定ができなかった。
外部からの謀判も囁かれたが噂の域を出ず、不気味なほど何の進展も見せぬまま時間が経過し、場所を移し新たに学園を開設するに至った。
学園を再建するに辺り、同様の事件が発生するのではと危ぶまれ、反対意見も多数生まれたが最終的にはエンチャンターを保護する場所として放逐する場所として必要と言う意見が強まった。
事件が原因でエンチャンターの風当たりは日増しに強くなり、過剰に煽り立てるゴシップにより何の罪もないエンチャンターまでもが虐げられこととなった。
夜ノ島学園のみならず世間ではエンチャンター専科の学園はさながら収容所のような扱いを受けているのが現状である。
言葉に詰まる透哉にホタルは聞いた。
「私を含め、他の土地から夜ノ島に通っている人間は少なからずそういう目で見られた経験があると思う。御波はないのか?」
「俺は特に……まぁ、俺自身の能力が周囲から分かりにくいのもあるだろうけどな」
ホタルの言葉を真摯に受け止め、自身の認識の甘さを改める。
ホタルの顔はさっきの寂しげな表情よりも弱弱しく、触れたら壊れてしまいそうでそれ以上言葉が出てこなかった。
「源……?」
「……私はここにくれば普通でいられると思った。私は安心したかった。自分よりも大きな存在に会って自分は大したことなかったって」
言葉だけを聞けば思い上がっている風に思えた。
しかし、その姿が鬼ごっこの鬼を代わって欲しくて泣いている小さな子供のように映った。押し付けられた嫌な役を変わって欲しいと言っているように聞こえた。
「自意識過剰なんじゃないのか? この場所じゃお前なんて大したことないだろ?」
「――え?」
意味が分からないといった様子でホタルは口をぽかんと開けた。しかし、透哉の言葉をフォローと受け取ったホタルは苦笑した。
「ふふっ、そうだな。そうかもな! まさか私が望んでいた言葉を御波、お前からもらうとは思わなかったぞ。っと、御波、どこへ行くのだ?」
ホタルの言葉に透哉の体が硬直する。
二人は話をするうちに校門を潜り公道に出ていた。それ自体に問題はないが、透哉の足はホタルとは反対方向へと進もうとしていた。
「……ちょっと寄り道だ」
「そっちには山しかないはずだが?」
透哉は馬鹿正直に現在の住居に向かっていた自分の迂闊さを呪わずにはいられない。そのうえ、咄嗟に吐いた下手なごまかしのせいで墓穴を掘った。
「なんだ、御波お前は山にでも住んでいるのか?」
ホタルは冗談めかしくそう言って苦笑した。
ほとんどの生徒たちが学生寮を寝泊りの拠点として生活する夜ノ島学園において、それ以外の選択肢の存在自体が稀有なのだ。
当然ホタルの足は学生寮の方を向いているし、異なる事情を持つ者に興味や好奇を抱くのは自然なことである。
反応に困る透哉は目を瞬かせる。奇妙な空気の変化を敏感に感じ取ったのか、ホタルは遠慮気味に目を背けた。
「済まない。気づかいが足りなかった」
そして、まるで何かを察し話題を逸らすように謝罪した。
何故ホタルが謝るのか分からなかったが透哉は適当に答えた。
「気にするな」
校門の前二人は沈黙した。
なんとなくこの場を去るタイミングを逃してそのまま立っていた。
「……御波、実は前々から御波に尋ねてみたいことがあるのだが」
「なんだよ……?」
しかし、その均衡をホタルが破った。
聞き返さずにこの場を去っていればよかったと本気で呪った。
「御波、〈悪夢〉と言う存在を知っているか?」
「……〈悪夢〉? 確か、十年前の事件の失踪者の別称……だったか?」
ホタルは神妙な顔つきで何も言わずに頷く。
〈悪夢〉とは十年前の事件を境に世間に浸透したエンチャンターの蔑称の一つでもある。
「うむ、その通りだ。そして、その〈悪夢〉がこの学園に潜んでいるといううわさを耳にしてな」
「――なっ!? 何だってそんなことを源が知っているんだ?」
「……詳しい理由は話せないがわけあって〈悪夢〉を追っている」
世間話にしては物騒でとっ拍子もない話に一つの疑問が浮かんだ。
「何で、そんな話を俺にする?」
「他意はない。御波なら何か知っていそうな気がしたからかな?」
全く笑っていない目でそう言ってホタルは透哉を真っ直ぐに見つめる。
「ん? あんたたちまだ残ってたの? 用がないならさっさと帰りなさいよ?」
二人して声に振り向くと腰に手を当てた担任の矢場嵐子がくたびれた表情で立っていた。言われて時計を見ると下校時刻をとうに過ぎていた。
そして、矢場の肩にはなぜかデッキブラシの束が担がれていた。
「あー、これは明日プール掃除をするからそのための準備よ」
透哉とホタルの視線に気づいた矢場は説明しながら十数本にも及ぶ束を担ぎ直す。たかがデッキブラシとは言え、束になれば相当な重さになるだろうが矢場の顔にはまだまだ余裕が見受けられた。大工の女棟梁と言われても納得してしまいそうなほどの勇ましさと力強さがあった。
「と言うわけで、御波、源。明日プール掃除よ」
「なんでだよ!?」
「私もか!?」
「んー? 私と出会ったから」
そんなエンカウント方式でメンバーを決めているのか。
「まぁ、初夏の思い出だと思って観念することね」
雑用を思い出になどしたくないが、ニコニコ顔の矢場は聞き入れてくれそうもない。ちらりと隣を見るとホタルはすでに諦めた表情でため息を吐いていた。
「てなわけで、さっさと帰りなさい。でもやっぱり折角だし雑用でも手伝わせてあげるわ」
矢場はプールの方に目配せしながらやはり楽しそうに笑う。
明日のプール掃除は確定してしまったので諦めることにしても、これ以上仕事を手伝わされることだけは避けたい。
「――源! さすがにそろそろ帰るか?」
透哉は少し急き立てるように隣のホタルに言う。
「――では、また明日な御波!」
が、ホタルはすでに離れたところからこちらに向けて手を振っている。
「――源!? お前裏切ったな!?」
「野暮用があるので先に失礼する!」
何とも嘘くさい理由を残し、ホタルは一目散に去っていった。
「貴重な戦力が一人減ったのは残念ね。あー、じゃあ代わりに御波を倍働かせたらいっか」
背後で恐ろしいことを呟く担任に恐る恐る振り返る。
「冗談よ。でもせっかくだからこれだけプールの入り口まで運んでくれる?」
がさりと建築資材のような量のデッキブラシを手渡された。
「ったく、これ以上はなしだからな?」
透哉は一人愚痴りながらも、矢場の乱入に胸を撫で下ろした。
透哉はデッキブラシを担ぐと門から顔を出し、振り返る。
自らを化け物と称し、〈悪夢〉を追うエンチャンターの少女。
目を凝らすと点ほどの大きさになったホタルの後ろ姿が見えた。
「――源、お前が知らないだけでこの学園は化け物だらけなんだぞ?」
何も知らないホタルの背を見ながら透哉は嘲笑した。
放課後。
矢場に追加制裁と言わんばかりに資料整理を手伝わされた透哉はプリントのインクで黒くなった手を洗うと二年五組の教室に鞄を取りに戻った。
教室内は無人、と思いきや人影があった。
「ん、なんだ? 源、まだ残ってたのか?」
夕日が差し込む教室に一人残っていたホタルが熱心にノートにシャーペンを走らせている。
「なんだとはなんだ。私はお前を待っていたのだぞ?」
顔を上げたホタルがムスッとした表情で透哉を非難する。
「……はぇ?」
思いがけない言葉の応酬に変な声が出た。
放課後の教室、二人きり。
ときめきを禁じ得ないシチュエーションだが、胸が高鳴る間もなく早合点だったと知る。
「先生に戸締りを頼まれたのだが、御波が返ってこないせいで足止めを食らっていたのだ」
ホタルは半眼を作ると教室のカギを鳴らして見せた。待っていたと言っても色っぽい事情は皆無でクラス委員としての任をこなすためだった。透哉は肩を落とす、と言うより安心に近いため息を吐くと自分の席に向かい帰り支度を始める。
「……っておい!」
「なんだよ?」
一人鞄を担ぎそそくさと教室を去ろうとする透哉をホタルが呼び止めた。
「薄情な奴だな、仮にも私はお前を待っていたのだぞ? 恩を着せるわけではないが待っていた人間を置いて先に帰るつもりか?」
「ちっ、外にいるから早くしろよ」
透哉は露骨に嫌そうに舌打ちしながら廊下に出るとホタルを待つ間の暇つぶしとして窓の外に目を転じた。
傾き始めた陽光の中にあきれ返るほどの平穏があった。
白い光に包まれた世界が徐々に夕日で赤褐色に染まっていく。
しかし、透哉は外の景色を眺めながら、別の景色に思いを馳せていた。
十年前のあの日に失われた、学園という一つの世界。
『幻影戦争』から新しい学園が立つまでに八年。
そこから更に二年が経過した。
淡くフィルタリングされた苛烈な記憶がセピア色で蘇る。
郷愁にも似たトラウマを振り返りながら、自分がこの場に存在することを、自分の存在そのものを過ちや偽りのように思ってしまった。
「済まない。待たせたな」
声に振り替えると片づけと戸締りを済ませたホタルが透哉の陰鬱な気持ちなど知る由もなく立っていた。
「……待たせておいた張本人が白々しい」
思わず憎まれ口が出た。平穏の中を生きる者への醜い嫉妬だった。
「同じ言葉をそのまま返そう」
言葉の裏に潜んだ悪意など知らず、単なる憎まれ口と取ったホタルは半眼で透哉に答えた。
同時にバチっとホタルの体から紫電が溢れ、髪の毛に沿って光が走る。
「イライラを表現するたびに逐一発電するのは止めろ。この危険人物め」
「これは意図したものではない。言わば体質だ」
銀髪に沿って流れる紫電を指して言う。ホタルに呼応するように一定の間隔で輝くさまはネオンサインのようだった。
「それにこれは静電気程度のもので、仮にあたっても少し痛いくらいなので無害だ」
「痛みを感じる時点で有害だろ?」
「――ところで御波、何故あんな目をしていた?」
ホタルは透哉の訴えを軽く無視すると隣に並び同じように視線を外に向けた。
ばっちり見られていたらしい。
「あ?」
「何と言うか、悲しそうに見えた」
目聡いなと思った。心情を的確に言い当てられていたからだ。
「悲しそう?」
透哉は誤魔化したくてホタルを怪訝な目で見る。
「うまくは言えないが、お前一人、この学園を蚊帳の外から見ている風だった」
「放っておいてくれ。俺ははみ出し者なんだ」
ホタルの指摘を否定せず透哉は睨みを利かせ半ば強引に話を切り上げる。
「お前はどこか私に似ているな」
「意味が分からん」
透哉はぶっきらぼうに答えると一人先に廊下を歩きはじめる。
深く詮索されることが嫌だった。それ以上によく理解もできないくせに表層だけを見て哀れに思われるのが嫌だった。
(何も知らないくせに……)
ホタルは駆け足で透哉に追いつくと、もの言いたげに隣に並んで歩く。
「……」
「……なぁ、御波」
「クラス委員といい、生徒会の仕事といい色々と大変そうだが、実際どうなんだ?」
透哉が食い気味に尋ねた理由は複数の役職を兼任するホタルを労うためでも、気まずい空気を埋めるためでもない。余計な話題を振らせないために言ったに過ぎない。
「ああ、生徒会は立場上強制だから仕方がないが、クラス委員は好きでやっていることだから苦ではない」
ホタルはどこか釈然としない表情をしつつも律儀に聞かれたことを答える。
夜ノ島学園における生徒会の選任は選挙などの公的な法を用いて行われない。あくまでエンチャンターとしての能力を基準に全学年通して上から十人前後が選び抜かれ、新入生が加わる四月に教員たちの手で自動的に決まる。
通称『春の十選』と呼ばれる恒例行事で、以前の学園の慣習をそのまま引き継いでいる。
そのため、メンバーは毎年大きく様変わりする。生徒会内での役職も能力順に生徒会長、副会長、会計、書記、庶務と振り分けられ、余名は雑務と言った構成になっている。
例外として生徒会長だけは三年生の主席が務めることが決まっていてその年の学園内の空気にも大きく影響する。
「仕事だから仕方がないとはいえ、夜間のパトロールだけは好きになれそうにないな」
「パトロール?」
「お前は知らないだろうが夜間の校内の警邏は生徒会のメンバーが当番制で行っているのだ」
「何でそんなこと生徒にやらせるんだよ?」
「御波の意見は妥当だ。しかし、ここは普通の学校とは勝手が違うことを忘れていないか? 下手な警備を雇うよりも生徒の方が信頼できるだろう?」
「なるほど」
いくら夜ノ島学園がエンチャンター専科の学園とは言え校内警邏の人員にまで適当な人間を用意できるとは限らない。警備員を用意したところで不測の事態に対処できなければ意味がないし、何より一般人を巻き込むのは避けるべきと言うのが学園側の判断らしい。
「そして、今日の当番が私なのだ」
ホタルは鬱屈そうな顔で言ってため息を吐いた。
「へー、ご苦労さん」
「他人事だと思って」
珍しくぶちぶちと愚痴を言う。
「まぁ、実際そうだし」
「深夜に駆り出される身にもなれ。睡眠不足はもちろん、生徒をしかも女子を独り歩きさせる規則があるか普通?」
ついさっき自分でこの学園は普通とは勝手が違うと言ったのを忘れたのだろうか。
「睡眠時間を搾取されるのは確かに嫌だな。でも、あとは源なら大丈夫だろ?」
「それはどういう根拠だ?……なるほど、御波も『雷王』の餌食になりたい、そういうことか?」
紫電を過剰にバリバリ迸らせながら上目で思いっきり睨まれた。
「その鬱憤は侵入者が現れたときにでも取っておいてくれ」
透哉は適当に誤魔化しながら目線を逸らせる。幸い追及はされずホタルは鼻を鳴らすと話を戻した。
「まぁ、パトロールと言ってもこれを起動させて点検するだけなのだがな」
言ってホタルは鞄から一冊の本を取り出して見せた。
大きさは文庫本程度ながらハードカバーに覆われて表紙に鍵穴までついた重厚な造りの本だ。
「なんだそれ? 魔道具か?」
「そうだ。『箱庭』と呼ぶ探索用の魔道具だ。起動すると学園内の見取り図が立体で表示される――こんな風に」
ホタルは『箱庭』を開き、中をパラパラとめくり透哉に見せた。描かれているのは学園内をいくつもに切り分けた図面。間もなく浮かび上がったのは校舎全体を細部まで表現した蛍光色のホログラム。
透哉はほう、と感嘆を打った。
「こんな便利なものがあるのか」
「御波が知らないのも無理はない。これは生徒会のメンバーにしか渡されていないはずだからな」
「そんなもん見せびらかしていいのか?」
「これ自体に害はないし、口止めもされていない。日頃真面目に働いているのだからこれくらいは問題ないだろう?」
「さすがは生徒会ってとこか?」
透哉が若干の皮肉を込めて言うと「別にそんな言い方しなくてもいいだろ」とホタルが目で訴えてきた。
「何度も言うが、私が副会長をしているのは学園が定めたからだ。実際は分からないだろ?」
ホタルの言う通り、結局のところ生徒会の役職の選出とは学園側が勝手に位置づけしているだけなのだ。個々の生徒の魔力を実数で表した記述が存在しない以上、学園側に都合の良い采配と言う邪推もできる。
ホタル自身、なんとなく生徒会になっている程度の認識しかなく、他の生徒の上に立っているという意識はなかった。
「私からすれば御波が生徒会に選ばれなかったことの方が不思議だ」
「入学してすぐに騒動を起こすような奴が選ばれるはずがないだろ?」
「誤魔化すな。それを言うなら周囲の反応こそ違えど私も同じだ」
「だから、そういうことだろ? 事実が同じでも周囲の評判が悪い奴を望んで学園の中核に置くか?」
「た、確かに」
筋の通った論説にホタルは押し黙った。
並んで昇降口を下りながらホタルが不意に自虐的にほほ笑む。
「こんな場所だから評価されるだけで、普通の学校の生徒からすれば私たちはただの化け物だ」
「化け物……っ」
ホタルの口から出た予想外の言葉を反芻しながら透哉は顔を上げた。沈み始めた日に照らされたホタルの顔はどこか寂しげで、今にも消え入りそうなものだった。
ホタルの言う通り、夜ノ島学園とは『こんな場所』なのだ。
十年前、当時国内最大とされたエンチャンター専科の学園で起きた謎の集団殺傷事件。
通称『幻影戦争』
原因は今でも不明。
当日学園内に居合わせたと思われる生徒、教員全てが死傷、もしくは失踪した。
事故直後は失踪した者の中に犯人が混ざっているという話になったが、学園全土を飲み込む大規模な騒動を引き起こすことの不可能性と判別できないほどに損壊した死体が多すぎたせいで特定ができなかった。
外部からの謀判も囁かれたが噂の域を出ず、不気味なほど何の進展も見せぬまま時間が経過し、場所を移し新たに学園を開設するに至った。
学園を再建するに辺り、同様の事件が発生するのではと危ぶまれ、反対意見も多数生まれたが最終的にはエンチャンターを保護する場所として放逐する場所として必要と言う意見が強まった。
事件が原因でエンチャンターの風当たりは日増しに強くなり、過剰に煽り立てるゴシップにより何の罪もないエンチャンターまでもが虐げられこととなった。
夜ノ島学園のみならず世間ではエンチャンター専科の学園はさながら収容所のような扱いを受けているのが現状である。
言葉に詰まる透哉にホタルは聞いた。
「私を含め、他の土地から夜ノ島に通っている人間は少なからずそういう目で見られた経験があると思う。御波はないのか?」
「俺は特に……まぁ、俺自身の能力が周囲から分かりにくいのもあるだろうけどな」
ホタルの言葉を真摯に受け止め、自身の認識の甘さを改める。
ホタルの顔はさっきの寂しげな表情よりも弱弱しく、触れたら壊れてしまいそうでそれ以上言葉が出てこなかった。
「源……?」
「……私はここにくれば普通でいられると思った。私は安心したかった。自分よりも大きな存在に会って自分は大したことなかったって」
言葉だけを聞けば思い上がっている風に思えた。
しかし、その姿が鬼ごっこの鬼を代わって欲しくて泣いている小さな子供のように映った。押し付けられた嫌な役を変わって欲しいと言っているように聞こえた。
「自意識過剰なんじゃないのか? この場所じゃお前なんて大したことないだろ?」
「――え?」
意味が分からないといった様子でホタルは口をぽかんと開けた。しかし、透哉の言葉をフォローと受け取ったホタルは苦笑した。
「ふふっ、そうだな。そうかもな! まさか私が望んでいた言葉を御波、お前からもらうとは思わなかったぞ。っと、御波、どこへ行くのだ?」
ホタルの言葉に透哉の体が硬直する。
二人は話をするうちに校門を潜り公道に出ていた。それ自体に問題はないが、透哉の足はホタルとは反対方向へと進もうとしていた。
「……ちょっと寄り道だ」
「そっちには山しかないはずだが?」
透哉は馬鹿正直に現在の住居に向かっていた自分の迂闊さを呪わずにはいられない。そのうえ、咄嗟に吐いた下手なごまかしのせいで墓穴を掘った。
「なんだ、御波お前は山にでも住んでいるのか?」
ホタルは冗談めかしくそう言って苦笑した。
ほとんどの生徒たちが学生寮を寝泊りの拠点として生活する夜ノ島学園において、それ以外の選択肢の存在自体が稀有なのだ。
当然ホタルの足は学生寮の方を向いているし、異なる事情を持つ者に興味や好奇を抱くのは自然なことである。
反応に困る透哉は目を瞬かせる。奇妙な空気の変化を敏感に感じ取ったのか、ホタルは遠慮気味に目を背けた。
「済まない。気づかいが足りなかった」
そして、まるで何かを察し話題を逸らすように謝罪した。
何故ホタルが謝るのか分からなかったが透哉は適当に答えた。
「気にするな」
校門の前二人は沈黙した。
なんとなくこの場を去るタイミングを逃してそのまま立っていた。
「……御波、実は前々から御波に尋ねてみたいことがあるのだが」
「なんだよ……?」
しかし、その均衡をホタルが破った。
聞き返さずにこの場を去っていればよかったと本気で呪った。
「御波、〈悪夢〉と言う存在を知っているか?」
「……〈悪夢〉? 確か、十年前の事件の失踪者の別称……だったか?」
ホタルは神妙な顔つきで何も言わずに頷く。
〈悪夢〉とは十年前の事件を境に世間に浸透したエンチャンターの蔑称の一つでもある。
「うむ、その通りだ。そして、その〈悪夢〉がこの学園に潜んでいるといううわさを耳にしてな」
「――なっ!? 何だってそんなことを源が知っているんだ?」
「……詳しい理由は話せないがわけあって〈悪夢〉を追っている」
世間話にしては物騒でとっ拍子もない話に一つの疑問が浮かんだ。
「何で、そんな話を俺にする?」
「他意はない。御波なら何か知っていそうな気がしたからかな?」
全く笑っていない目でそう言ってホタルは透哉を真っ直ぐに見つめる。
「ん? あんたたちまだ残ってたの? 用がないならさっさと帰りなさいよ?」
二人して声に振り向くと腰に手を当てた担任の矢場嵐子がくたびれた表情で立っていた。言われて時計を見ると下校時刻をとうに過ぎていた。
そして、矢場の肩にはなぜかデッキブラシの束が担がれていた。
「あー、これは明日プール掃除をするからそのための準備よ」
透哉とホタルの視線に気づいた矢場は説明しながら十数本にも及ぶ束を担ぎ直す。たかがデッキブラシとは言え、束になれば相当な重さになるだろうが矢場の顔にはまだまだ余裕が見受けられた。大工の女棟梁と言われても納得してしまいそうなほどの勇ましさと力強さがあった。
「と言うわけで、御波、源。明日プール掃除よ」
「なんでだよ!?」
「私もか!?」
「んー? 私と出会ったから」
そんなエンカウント方式でメンバーを決めているのか。
「まぁ、初夏の思い出だと思って観念することね」
雑用を思い出になどしたくないが、ニコニコ顔の矢場は聞き入れてくれそうもない。ちらりと隣を見るとホタルはすでに諦めた表情でため息を吐いていた。
「てなわけで、さっさと帰りなさい。でもやっぱり折角だし雑用でも手伝わせてあげるわ」
矢場はプールの方に目配せしながらやはり楽しそうに笑う。
明日のプール掃除は確定してしまったので諦めることにしても、これ以上仕事を手伝わされることだけは避けたい。
「――源! さすがにそろそろ帰るか?」
透哉は少し急き立てるように隣のホタルに言う。
「――では、また明日な御波!」
が、ホタルはすでに離れたところからこちらに向けて手を振っている。
「――源!? お前裏切ったな!?」
「野暮用があるので先に失礼する!」
何とも嘘くさい理由を残し、ホタルは一目散に去っていった。
「貴重な戦力が一人減ったのは残念ね。あー、じゃあ代わりに御波を倍働かせたらいっか」
背後で恐ろしいことを呟く担任に恐る恐る振り返る。
「冗談よ。でもせっかくだからこれだけプールの入り口まで運んでくれる?」
がさりと建築資材のような量のデッキブラシを手渡された。
「ったく、これ以上はなしだからな?」
透哉は一人愚痴りながらも、矢場の乱入に胸を撫で下ろした。
透哉はデッキブラシを担ぐと門から顔を出し、振り返る。
自らを化け物と称し、〈悪夢〉を追うエンチャンターの少女。
目を凝らすと点ほどの大きさになったホタルの後ろ姿が見えた。
「――源、お前が知らないだけでこの学園は化け物だらけなんだぞ?」
何も知らないホタルの背を見ながら透哉は嘲笑した。
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