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助けて……(過去回想)
しおりを挟む学校や家の近所では知っている者が多く、落ち着いて話ができないと、帝一は気を遣って車で遠出しようと提案してくれた。連れてこられたのは、日本海側の海辺にある如月家の別荘だ。真冬の海辺は凍えるように寒い。しかし洋館風の別荘はふたりを待ち構えていたように温かく、通された広い大広間の暖炉には火が灯っていた。
恐らくここの管理人に帝一が事前に連絡していたのだろう。
彼の用意周到さを改めて実感していると、四人掛けのソファに座るよう促される。ベルベットの生地で、座り心地はとてもいい。しかしそれで寛げるような心境ではなかった。
「ここなら誰も来ない。話を聞かれることもない」
「……ごめんね。忙しいのに」
「今のお前を放っておくほど忙しいわけじゃないよ」
そうやって笑ってくれる帝一だが、心苦しさはぬぐえなかった。
黙って俯いていると、向かいの一人掛けのソファに座った帝一は「皇と何かあったのか」と問いかけてくる。
「怒らせ……ちゃったんだ」
今まで、華月はあれほど怒った皇司を見たことがない。本気で怒らせてしまったときの対処法も、何もわからなかった。
皇司を怒らせてしまった経緯をぽつぽつと話していると、帝一は「そうか」とだけ言って、しばし逡巡する。
「で? それだけじゃないんだろ?」
「え……?」
「聞く限り、あいつが勝手に怒ってるだけみたいだし、それくらいのことで、お前、あんなに泣かないだろ」
「…………」
付き合いが長い分、帝一にはすべてお見通しのようだ。
本当は隠しておきたかった。皇司はもちろん、帝一にも心配をかけたくない。
「お前、悠にも言ってただろ。水臭いって。皇には知られたくないことなんだろう?」
「……言ったら、また皇ちゃんに怒られるよ。それに、帝ちゃんを頼るのも間違ってる気がするんだ」
「でも俺なら何とかしてやれるかもしれない。それにあいつが怒ってるのは、何の力もない自分に対してだ。華月を嫌いになったわけじゃない」
頼られたいのであれば、それなりの力を身に着けるべきだと、帝一は呆れ顔で言い放つ。
「今回ばかりは、帝ちゃんでも無理だと思うな……」
これは氷見家の問題だ。いくら関係性の良い如月の嫡男である帝一にも、どうすることもできないだろう。それに、こんなことに彼を巻き込みたくなかった。
「オメガに生まれた僕の宿命……ってやつだよ。アルファの帝ちゃんに、僕の気持ちなんかわからない」
華月はわざと突き放すような言い方をした。これ以上優しくされたら別れが辛くなる。だからこのまま、皇司に嫌われ、帝一に呆れられて、この関係を壊してしまうのが一番なのだ。そうすれば傷つくのは自分だけで済む。自己犠牲が過ぎる考え方だと自覚はあったが、暗い未来しか見えない華月は、自暴自棄気味になっていた。
「俺がアルファだから話せない? じゃあ、オメガだったらいいのか」
「そういうことじゃないよ」
「だったらなんだ? お前、昔っからそうやっていつも一人で我慢して。傷つくのは自分だけって、そう思ってる節があるよな」
真っ直ぐに見つめてくる帝一の瞳には、静かな怒りの色が宿っていた。彼の瞳を前に、何も言い返せない。すべてを見透かされているような錯覚に、華月は思わず顔を反らした。
「今の俺にとって、一番大切なのは悠だ。それなのにどうしてこんなところまでお前を連れてきたと思う?」
「…………」
「お前のことも、悠と同じくらい大切だからだよ」
彼の優しさが、今の華月にはただ苦痛だった。そんな風に言わないでほしい。また彼を頼ってしまいそうになる。手が白くなるほど強く握りしめ、ギュッと唇を噤んでいると、不意に帝一が立ちあがった。
そして華月の傍まで来ると膝を折り、握りしめた手のひらに自分のそれを重ね合わせてくる。
「……本当は、お前の口から聞きたかったんだけどな」
華月を見上げるように向けられる双眸は、悲し気に歪んでいた。
「お前の卒業後のこと、聞いたよ」
「ッ……!」
耳を疑った。何故彼がそのことを知っているのだろうかと。だが、氷見と如月の間柄だ。知らない方が、おかしいのかもしれない。
「安心しろ。皇は知らないはずだ」
重ね合わされた手に、力がこもる。
「……嫌なんだろ。どこの馬の骨ともわからないヤツの番になることが。それを俺や皇に、知られたくなかったんだよな」
全部、知られていた。そうわかった途端、全身から力が抜けていく。張り詰めた糸はプツリと切れ、力の抜けた体はソファの背もたれへ沈み込んだ。
「言ってみろ。どうしてほしい……?」
静かに問われる。それは母のような決定事項を言うための前置きではない。華月の望みを聞くためだけの、優しい希望に溢れた問いかけだ。
「…………助けて、ほしい……」
絞り出したその言葉に、帝一はしっかりと力強く頷いたのだった。
あれから夜遅くに氷見邸へと帰ってきた華月は、帝一の提案に頭を悩ませていた。
このままじっとしていても状況が好転することがないとはいえ、彼の提案はあまりにも実行することが難しい。否、きっと帝一であればあっさりやってのけることなのだろうが、華月にはその行動力がないのである。
どうしたものか、と大きな溜息を吐き、机の上に突っ伏す。
悶々と考えこんでいると、不意にスマートフォンのバイブレーションが着信を知らせてきた。こんな時間に誰からだろうか、と何気なく画面を見ると、ポップアップに悠の名前が表示される。
通信アプリを開いて確認すると、『まだ起きてる?』とだけ書かれていた。アプリの特性で既読マークがついているので、必然的に「起きている」ということになる。
彼も気づいたのだろう、続けざまに『電話で話せる?』とこちらの返事を待たずメッセージが表示された。
その返答に「大丈夫」と短く返すと、独特の着信音が部屋に鳴り響いた。通話ボタンをタップすると、悠の声が聞こえてくる。
『夜中にごめん。明日でもよかったんだけど、学校じゃ誰かに聞かれると思って』
その口ぶりは、華月の現在の状況を知っている風だ。
「――帝ちゃんに聞いたの?」
彼でなければこのことが悠の耳に入ることなどありえない。そう確信しての問いだ。
『うん。でも帝一さんを責めないでな。オレが、無理矢理聞き出したんだ。今日の華月、すごく元気がなかったから心配で』
自分ではいつもと同じ態度でいたつもりなのだが、大切な友人を心配させてしまうくらい、華月の様子はおかしかったのだろう。
華月のことを話した帝一も、悠であれば信頼できると思って打ち明けたに違いない。
周囲の人間に恵まれている環境がむず痒かったが、それ以上に嬉しかった。ひとりで考えていても埒が明かないと思っていたところだったのだ。同じオメガである悠であれば、今抱いている不安や焦燥を分かり合える気がする。
「心配させてごめんね」
『何言ってるんだよ。オレたち、親友だろ?』
親友、という言葉が、じわじわと心に染み渡っていく。帝一と皇司以外に、自分のことを想ってくれる人がいる。それを実感できただけでも、冷たかった心の中にじんわりとした温もりを抱かせてくれた。
『でさ、帝一さんから聞いた。酷過ぎないか!? まるで華月の気持ちは無視じゃねーかよ!』
子どもの意思をまるで無視した決定を下す親など親ではない、と憤慨してくれる悠は、顔が見えなくても頬を膨らませて怒っているだろうことが伺える。
『オレ、華月や帝一さんみたいな名家の人の考えってよくわからないけど、時代錯誤だと思うんだ』
悠の意見はごもっともだった。グローバル化が叫ばれているこの日本で、閉鎖的にも旧きを重んじている家はどれくらいあるのだろう。地方都市に名を馳せる名家で、土地柄もあって情報の流通に時差があるとしても、氷見はあまりにも古風な考え方を突き通す家である。
『ここに来る前、オレずっと東京にいたけど、帝一さんから話聞いて、思わずいつの時代だよ、ってツッコんじゃったよ』
世界の最先端で活躍している両親を持ち、時代を先取りするような人々に囲まれていた彼なら、そう感じるのも無理はない。
だが言いたい放題な悠の言葉があまりにも清々しくて、華月は耐えられず笑ってしまった。
「そうだね。ほんと、時代錯誤も甚だしいよね」
悠に言われて自信が湧く。ずっと、不満に思うこと自体が間違いだと思っていた。この地に縛られていた華月は、広い世界を知る機会がまったくなかった。この状況が普通だと、だから変えることなど難しいのだと諦めていた。だが違う。華月にも、自由に生きる権利はあるのだ。
そう――家に縛られず自分の夢を見つけた、帝一のように。
『オレさ、オメガだけど、オメガだからこそ、生み出せる何かがある、ってそう育てられた。オメガであることで後ろ指さされても鼻で笑ってやれ、って。母さんがオメガだからかもしれないし、オレの生き方を押し付けたいわけじゃないけど……、それが普通だと思うんだ』
広い視野を持つよう育てられた悠。きっと帝一が悠の魂の番ではなかったとしても、彼は悠に惹かれていたことだろう。
それくらい、悠はこの土地の人間にはない感性を持っている。
「素敵なお母さまだね」
羨ましくなる。オメガであってもそれを誇れと、そんな風に言われたことなどなかった。オメガは汚らわしい存在で、アルファに害をもたらすことしかできないと、ずっとそう言い聞かされてきたのだから。
「悠くんが親友でよかった……」
しみじみとそうつぶやくと、悠は『オレも華月に会えてよかった』と照れながら返してくれる。
『それでさ、本題なんだけど……』
そうだった。何も友情を確かめ合うために彼は電話をしてきたのではなかった。と頭を切り替えた。
『帝一さんの提案が、一番現実的で、華月が自由になれる方法だと思う』
「……僕にはとてもではないけど、現実的とは思えないよ」
『そうかもしれないけど、如月くんのためにも、一番いい選択なんじゃないかな』
「皇ちゃんのため……。そうかなぁ?」
『怖がってるだけじゃ、何も始まらないよ』
その通りだ。怖がって拒絶するだけなら、誰でもできる。だがそれによって得られるものは何もない。それどころか、ただ失うだけだ。失うにしても、後悔しない方法がいいに決まっている。
「わかったよ」
帝一と悠に背中を押してもらったのだ。ずっと、ずっと迷っていた感情に、答えを出さなければ。
たとえそれが、間違った選択だったとしても……。
翌日の早朝、いつもより早く屋敷を出ると、如月邸の前ですぐにでも会いたい少年を待つ。
この周辺は閑散としていて活気がなく、人通りが少ない。そのせいなのか、いつもより肌寒く感じた。
凍えそうになる手に息を吹きかけて擦っていると、ガラリ、と戸が開く音がした。そして待ちわびた『少年』と称するには大人っぽい雰囲気の彼が目を丸くして立ち尽くす。
「華月……」
気まずそうに目を背ける皇司に向かって、いつもと変わらぬ笑顔を見せる。
――うまく、笑えているだろうか。
「おはよ、皇ちゃん」
「あ、うん。おはよう……」
昨日、華月を置いて行ってしまったことを気にしているに違いない。だからこそ、華月は積極的に皇司の手を取り、一緒に行こうと腕を引っ張った。しかしその瞬間、「わっ」と手を離されてしまう。
「おい、いつからここで待ってたんだよ!」
拒絶されたのかと思ったが、皇司は両手で華月の手を包み込むと、はぁ、と暖かい息を吹きかけてくれた。彼の手も息も、とても暖かい。
「ごめんね。冷たかった?」
「いつから待ってたんだって!」
「えーっと……、三十分前くらい?」
「そんなに早く来てるなら、うちの中で待ってればいいだろ!」
連絡くらいできたはずだ、と彼は憤慨する。
「待ってるのが楽しくて、うっかりしてたよ」
本心からそういうと、皇司はあからさまに呆れたような溜息を吐いた。
「昔っからぽわぽわしてるって思ってたけど、ちょっと直した方がいいと思う」
「そうかな? しっかり者だと自負してるけど」
「過剰な自己評価は身を滅ぼすって、なんかの授業で習ったぞ」
軽く頭をポン、と叩かれた。「痛いなぁ」と痛くもないのに唇を尖らせて不貞腐れると、皇司はくつくつと笑ってくれる。やっと、笑顔が見られた。それが嬉しくて、華月もつられて笑ってしまう。
「お前ら、こんなところでイチャイチャするなよ」
そこへ、帝一がやってくる。
「あ、帝ちゃん、おはよ~」
声をかけると、帝一はニヤニヤしながら、弟の背中を力強くパァンと叩いた。
「痛……! 何するんだよっ!」
「早く仲直りしちゃえよ。昨日からイライラして、どうせ華月と喧嘩したんだろ。さっさと謝っちまえ」
「うるさい! 兄さんには関係ないだろ」
「お前がイライラしてると家の中の門下生が怯えるんだよ。ただでさえ顔が怖いんだ。自重しろ」
そう言い残すと、帝一は「じゃあな」とひらひらと手を振って家の中へと戻っていく。
「何しに出て来たんだよ……」
ぶつくさと文句を言っている皇司だったが、華月と向き合うと、しょんぼりと項垂れた。
「その……昨日はごめん」
素直に謝ってくる彼に、ふるふると頭を左右に振る。
「ううん。僕の方こそ、心配させちゃってごめんね」
言いながら、昨晩悠に助言されたことを思い出す。ちらりと周囲に人がいないことを確かめ、華月は自分より頭一つ分高い位置にある皇司の制服の襟元を掴んで自分の方へと引き寄せた。
突然のことに成すがまま前かがみになった皇司の唇に、かすめるようなキスをする。
それは本当に一瞬で、華月は恥ずかしくてすぐに皇司から距離を取った。彼はぽかんとしていて、自分が何をされたか理解ができていないようだ。
「え~っと……。嫌、だった?」
不安になって問いかけると、皇司の顔が真っ赤に染まる。
「え、いま……えぇ!?」
彼らしくなく慌てる様を見て、華月はほっと胸をなでおろす。
悠には「絶対喜ぶはず」と言われていたが、予想以上の反応である。
「これで、仲直り。でいい?」
上目遣いに見つめて首を傾げた。これも、悠からの入れ知恵だ。その顔でそんな仕草をして堕ちなかったら男ではない、と似た分類の容姿である悠が自信満々にそう言っていた。
帝一もこの方法で最終的には堕とされたのかな、という疑問は敢えて口にはしなかったし、弟だからとはいえ皇司にも通用するのか? という重要な問いも、やってみないとわからないので言わなかった。
だが心配するまでもなく、効果はてきめんのようだ。
「う、ん……」
顔を真っ赤にして口元を覆った皇司の反応に、華月は遅れて自分のしたことへ羞恥心がわいた。
子どもの頃、ふざけてキスをすることは度々あったけれど、当時はその行為の意味すらわかっていなかった。それを理解した上でしたのは、これが初めてである。
(ファーストキス……で、良いのかな)
自分の唇にそっと指を添えると、そこはまだ皇司の温もりが残っているようだった。胸の奥がキュッと締め付けられるが甘くじんわりと染みる、そんな愛おしい痛みだ。
「あとね、はい。これ」
華月はまだ陶然としている皇司へ、ポケットの中から取り出したひとつの鍵を差し出す。とても小さいそれは特殊な形状をしていて、、細身のチェーンで繋がれている。これは華月にとって、とても大切なものだった。
「なに?」
指先で摘まむように受け取った皇司へ、華月は自分の首輪を指差しながらクスリと笑う。
「僕の首輪の鍵。渡すって約束だったでしょ?」
「華月の……」
「うん。なくさないでね。スペアはないんだ」
世界で一つだけ。氷見が特別に作らせた特注品の首輪の鍵だ。スペアも作っていないのではない。どんな腕利きの鍵職人であっても『作れない』のだという。それくらい、華月の首輪は強固かつ精密に作られていた。
「皇ちゃんだから渡すんだからね? この意味、わかる……?」
誤魔化さず、自分の気持ちを真っすぐに伝えること。これも悠だけではなく、帝一からも言われていることだった。
そこまでふたりに念押しをされてしまうと、自分は恋すらまともにできていなかったのだと自覚せざるを得ない。だからこそ、意を決して口にした。握りしめた指は寒さのせいではなく震えているし、膝もガクガクと笑っている。立っているのも精一杯で、華月にはこれが限界だ。
「――華月、ちょっと」
「うん?」
鍵を握りしめた皇司は、華月を路地裏へと連れ込む。狭くて薄暗いその路地で、ギュッと抱きしめられた。気のせいではなく、背中に回る彼の手は小刻みに震えていた。
しばらくそのまま抱きしめられていると、ふと二人の間に空間ができる。
顔を上げると、大きく優しい手で後頭部を包み込まれた。次にやってくるものを予想して、華月はそっと瞼を落とす。唇に押し付けられる温もりは、先ほどのかすめるようなキスよりも深く、薄く口を開くと中にぬるりとしたものが侵入してくる。
「んっ……! っ……」
彼に応えようと舌を絡めようとするが、うまくいかない。まだ中学生なのに、皇司のキスはとろけそうになるほど上手かった。
「ん、んっ……待っ……て……」
身体の中心が甘く疼き始め、華月は身じろいでやんわりと抵抗する。背中に回した手で制服を引っ張るが、キスが終わる気配はない。それどころか、今にも砕けそうになる腰を支えられ、塀に押し付けられて、足の間に彼のそれが差し込まれる。体格と腕力の違いをまざまざと見せつけられた。
ようやく唇が離れた頃には、もう華月は自分の力で立つことさえできず、はぁ、と熱い息を吐きながら、生理的に潤んだ瞳でぼんやりと宙を見つめた。
「ごめん。嬉しくて、つい……」
「ん……」
力が抜けた体を支えてくれる広い胸板に顔を押し付けると、心音が聞こえてきた。バクバクと早鐘を打っていて、制服越しからも彼の気持ちが伝わってくるようだった。
いつもより遅い時間に教室に入ると、悠がニヤニヤと楽しげに待ち構えていた。教室まで華月を見送った後、廊下を歩き去っていく皇司の横顔も窓越しに眺め、「よし!」とガッツポーズまで飛び出した。
「ちゃんとできるじゃん」
「……できたかどうかわかるの?」
「うん、華月たち見てたら一目瞭然。なんか色っぽくなってるし」
「え!?」
それが本当なのか、たんなる揶揄なのか。窓際に移動してガラスに映る自分を見てみるが、よくわからなかった。
「華月もやればできるんだな。で? どこまで進んだ?」
「き……キス、まで……」
思い出すだけでも顔が熱くなってくる。両手で顔を覆った華月の様子に、悠は唇が緩むのが止まらないらしい。通りかかったクラスメイトが引くくらい、せっかくの整った顔が台無しになるほどニマニマ笑っている。
「ちょっと心配だったけど、華月もやればできるんじゃん!」
「えっと……」
「あれ? もしかしてミイラ取りがミイラになっちゃった?」
「どっちでもいいでしょ!? 悠くんに教えてもらった通りにやったんだから」
顔を真っ赤にしてむくれる華月ではあるが、悠には感謝している。
彼の助言があったから、積極的になれたのだ。
今までの自分であれば、あんな真似はできなかった。手をつなぐのがせいぜいだろう。
「まっ、先は長いしな」
「そうだね……」
あと一年。それまでに、華月にはしなければならないことがある。
初めてキスをした日から何かのタガが外れたのか、皇司は頻繁に華月を路地裏や学校の人気のないところに連れ込み、キスをしてくるようになった。悠や帝一に恥を忍んで相談すると、「いいんじゃないのか?」と呑気な返答しか返ってこなかった。
決して嫌なわけではない。ただ、日々キスが上達していく皇司とは違い、華月はされるがままの状態だ。
いつまで経っても慣れない華月を、彼は「かわいい」と言ってくれるが、年上としてどうなのかと疑問に思う。
そんな些細なことで悩ましい毎日を送っていた華月は、同時に違うことでも悩まされることになった。
「初めまして。華月くん」
「………初めまして」
母屋の居間。向かい合うように座らされている華月は、自分よりも二十歳は年上の男と対面していた。母が選んだという氷見の門下生で卒業後に世話になる家。華月が番わされる男がやってきたのだ。一年後には養子という名の番になるが、その前に一度くらいは会った方が良いだろう、という考えの元この場は設けられている。
さすがはアルファというべきか、とても優秀な男だそうで、今は氷見が経営している物流関係の会社の役員なのだという。見た目も悪くはなく、母が気に入りそうな物腰の柔らかさと彫りの深い顔立ちをしていた。
この場に合わせてなのか、一部の隙もなくスーツを着こなしていて、大人の男と言った風体だ。
「奥様のおっしゃる通り、とても美しいね。さすがはオメガと言うべきか」
「いえ……、お褒めにあずかり光栄です」
「楽に話していいよ。緊張しなくていいから」
「――はい」
男はそういうが、無理に決まっている。一年後、帝一たちとの計画が失敗すれば、この男に組み敷かれることになるのだ。考えただけで吐き気がしてきて、顔を見ているだけで背筋に悪寒が走り表情が強張ってしまう。
「私は三竹豪という、好きに呼んでくれて構わない」
「……はい」
それ以降の会話は、一方的なものだった。どこか遊びに行こう、だとか、食事でもどうか、とそういった内容だった気がするが、ほとんど覚えていない。終始、「はい」か「そうですね」と曖昧な相槌を打つだけで、華月はただこの場が早くお開きになることだけを祈っていた。
小一時間ほどでようやく帰っていった三竹を外の門まで見送ると、どっと疲れが出た。
「華月ぼっちゃん。大丈夫ですか? 顔色が……」
共に三竹を見送っていた高崎は「失礼します」と断り、額に手を重ねてくる。熱でもあるのかと心配になったようだ。
「少し熱いですね」
「うん……少し、休むよ……」
「今日のお食事は栄養がある消化が良いものにしましょう。早くお休みになられた方がいい」
「ありがと……」
ふらふらと離れへと戻り、倒れるように布団に横たわる。
アルファの、支配者特有の空気に当てられてしまった。それは帝一や皇司と一緒にいるときには感じない、オメガを従えようとする時に発せられる独特なものだ。
あの男は物腰こそ柔らかいものの、モノを見るような目で舐めまわすように華月を眺めていた。一切触れては来なかったが、気色が悪い双眸を思い出すと、胃の中のものがせりあがってくる。
「うっ……!」
堪らなくなってトイレに駆け込んだ。吐き出せるものをすべて出してしまうと、ある程度すっきりしてくるが、疲労感で座り込んでしまう。
食事を運んできた高崎が見つけてくれるまでその場で動けないでいたが、彼に抱きかかえられて今は布団に戻されている。
「お医者様を呼びますか?」
「ううん。大丈夫。休めば時期に落ち着くと思うから。さっきの人の……アルファの雰囲気に圧倒されただけだと思うし」
「そうですが……。私はベータなのであまりよくわからないのですが、そうおっしゃるのであれば信じます」
「そっか、高崎って、ベータなんだっけ……」
アルファに比べて、ベータは一般人と称されることが多い。それなのにアルファばかりのこの氷見家で高崎は優秀な部類に入ると言える。そのため忘れそうになるが、彼はベータの中でも珍しい、限りなくアルファに近い部類の人間なのだ。
考えてみれば、彼もアルファであれば華月の身の回りの世話はできない。ベータだからこそ、アルファばかりの氷見家で彼だけが華月の傍に居られるのだ。
「何か欲しいものはありますか?」
「ううん。平気」
「――皇司様をお呼びした方がよろしいでしょうか?」
「え? どうして皇ちゃんを?」
「ここ数日、とても仲睦まじくいらっしゃるようですので」
どこか含みのある言い方に、華月は身体を固くする。
「ご心配には及びません。私は、下世話なことを告げ口するような愚かな人間ではありませんので」
「高崎……」
思わず起き上がろうとしたが、優しく肩を押されて制された。
「私には何の力もありませんが、華月ぼっちゃんの幸せを願っております。そのためならば私はこの身にできることはなんでもしましょう。ですので、まだこの場所にいる間だけは、私のことも頼ってください」
「…………」
氷見の中で、華月はずっと孤独だった。けれど彼のような人が身近にいた華月は恵まれている方なのだ。アルファばかりの家の中で、高崎だけがベータだ。アルファの中にはベータを馬鹿にする者も多い。恐らくは彼の方が、華月よりも深い孤独を知っている。だからこそ、彼は同じ身の上である華月に自らを重ねているのかもしれない、
「それでは、どうかごゆっくりと」
高崎は頭を下げると静かに離れを去っていく。
ひとりになり、華月は見慣れた天井の模様を見上げた。オメガ性であることがわかってここに部屋を移された日、慣れない離れの閑散とした雰囲気と、あの天井の模様が怖くて泣いたことがある。そのとき一番に駆けつけてくれたのが高崎だった。
天井の模様が怖いと言うと、高崎はあの模様は湖の模様なのだと、色がついていないから他のカタチにも見えてしまうかもしれないが、本当はとても広くて綺麗な湖の模様だから大丈夫だと、そう言い聞かせてくれた。子どもというのは単純で、今まで人の顔のように見えていた天井の模様も、大人にそう言われると徐々に湖のように見えたものだ。
目の前にあるのは湖で、その上を漂っているだけだと思うと、ぐっすり眠れたことを思い出す。
そして誰とも会うことすらできなくなった華月の元へ、当時から仲が良かった如月兄弟を内緒で連れてきてくれたのも、彼。
「色々、してくれてたんだ……」
ぼんやりと昔のことを思い出していると、気持ち悪さが軽減していくように感じる。
気遣ってくれた高崎のためにも、早く元気にならなければと瞼を閉じた。
今日は、良い夢が見られるだろうか。
春になり、華月と皇司は揃って三年生へと上がった。
桜が咲き誇る桜並木をふたりで歩けるのも、これが最後だ。
状況が好転してもそうではなくても、華月は来年には卒業してしまう。
「あと一年かぁ……」
ぽつりとつぶやくと、隣を歩く皇司が「何が?」と訊ねてくる。
「学生生活もあっという間だなぁって」
「まだ一年あるだろう」
進級したばかりなのに何を言っているのかと額を小突かれる。
そんなやりとりをしていると、学園の門の前に高級車が停まっているのが見えた。学園の誰かの送迎車だろうか。この学園にはそれなりに生活に余裕がある家の生徒が多いので、高級車は珍しいことではない。
だが、嫌な予感がする。
「…………」
皇司の影に隠れるようにして車の運転席に座る人物の顔を確かめた。
「っ!」
登校してくる生徒から誰かを探すような仕草をした、三竹の姿がそこにはあった。
幸い、あの男は華月には気づいていない。
「華月? どうした?」
真っ青になって立ち止まる華月に、皇司は心配そうに声をかけてくれる。
「あ……、その……」
まだ皇司にはこのことを話していない。タイミングを見てちゃんと話そうとは思っていた。だが、そのタイミングが掴めずにいたのだ。
そうこうしていると、三竹が車から出てきた。まっすぐにこちらに向かってくる。
どうやらあっさり見つかってしまったようだ。
華月は覚悟を決め、静かに皇司から離れると、限りなく感情を無にして男と対峙した。
「やあ。進級おめでとう」
「ありがとうございます。このような場所にどのようなご用件でお見えになられたのでしょうか?」
無表情になると冷たい印象に見えるという自分の容姿を理解した上で、口調の抑揚も一切消して三竹に尋ねた。
「後ろの彼は如月家のご子息かな?」
だがこの男には通用しなかったようだ。不快な視線が皇司へと向けられる。
「はい。如月の方々とはとても親しくさせていただいています。おくさ……母より、そのお話もお耳に入っているものかと」
「彼が着ている制服は中等部のモノかな? いやあ最近の子は大きいと聞くけど、高校生のようだね」
この男から皇司の話をされることさえ、わざとらしくて腹立たしい。ふたりの関係を知っているわけではないだろうに、皇司の話題を振ってくるのはどういう魂胆だろうか。
「あの、失礼ですがどちら様でしょうか?」
静かな苛立ちに身を焦がしていた華月の態度に何かを察したのだろう。皇司は眉根を寄せて男を睨みつけている。
「これは失敬。私は三竹と申しまして、華月くんの――」
「三竹さん」
その先を、この男から言ってほしくない。怒気を強めて制すると、男は面白いものをみるような目で華月を見下ろしてくる。
「このような場所でお話するようなことではありません。申し訳ありませんが、場所を弁えていただけますと幸いです」
「たしかに。華月くんの言う通りだ。礼儀を欠いてしまって申し訳ない」
「いえ。ご理解頂けたのであれば問題ありません」
このやり取りですら、この男は楽しんでいるのだろう。まだ一度しか会っていないが、雰囲気でわかってしまった。人を見下す人間がする、特有のその雰囲気で。
「今日は始業式だけで授業がないと聞いてね。どうだい? 放課後、どこかへ出掛けるというのは」
あぁ、と目の前が暗くなっていく。華月の意思を訊ねているように見えて、この男の言い方は決定事項を述べていた。これが、オメガとアルファの、支配する側とされる側の本来の関係なのだ。
本当は行きたくないのに拒否権など用意されていない。
内心深いため息と絶望を胸に、華月は俯いた。
「……は……」
「申し訳ありませんが、華月兄さんは放課後、俺の茶の練習を見てもらうことになっています」
返事をしかけたところに、皇司が割って入ってくる。皇司が華月のことを『華月兄さん』と呼ぶのは、他人の、特に警戒するべき人物の前でだけだ。この男に自分たちの関係を悟られたらいけないと、華月の様子から察してくれたのだろう。
「では申し訳ないけど、彼の時間を私に譲ってくれないかい?」
「それは出来かねます。先約は俺ですので」
「良いじゃないか。茶の練習なんて、お兄さんやお父君に見てもらえば」
「『なんて』ですか。如月も馬鹿にされたものですね」
鋭い眼光が、三竹を射抜く。すると彼は少なからず動揺したようで、一歩後ずさった。
「いや……失敬。失言だった」
「父や兄に頼むより、華月兄さんに頼んだ方が勉強になるんです。華月兄さんは舌が肥えていますし、作法についても勉強させていただいているんですよ」
「そ、そうかい……」
「こんなこと、如月の名もありますし父にも兄にも言えません。俺が勝手に華月兄さんに見てもらっているんです。春の茶会も近いので、それまでに自分の実力を高めておきたいんです。ですから、今、華月兄さんに見てもらわないと困るんですよ」
皇司の話は本当と嘘が入り混じっていた。春の茶会が近いのは本当だが、華月は皇司に作法を教えたことは一度もない。さらには、如月の名を出しつつもメンツを潰さないよう、自分のために、というところを強調していて、双方のことを考えた言い返しだった。
こんな風に言われれば、誰も異を唱えられないだろう。
「ご理解いただけましたか?」
「あ、あぁ……」
「でしたら結構です」
そして、わかったらさっさと消えろ、と皇司は言葉に出すことなく眼光だけで言外に告げる。すると三竹は「ではまた」とそそくさと車に戻り逃げるように去って行った。
最後までアルファ同士のこのやり取りを近くで聞いていた華月は、結局一言も口を挟むことができなかった。
「これでよかったのか?」
苛立ちを含んだ低い声で聞かれ、コクリと頷く。だが怖くて皇司の顔が見られなかった。
「始業式終わったら、あの男とどういう関係なのか、話してくれるよな?」
「――うん。……ううん。聞いて……ほしい……」
小刻みに震える手で皇司の制服の左腕の裾を掴む。
「だから……聞いても、嫌いにならないで……」
「当たり前だろ」
裾を掴んだ手に、皇司は右手を添えた。ギュッと力を込められると、徐々に震えが治まっていく。ゆるゆると手を離すと、そっと肩を引き寄せられる。
無言で学校の敷地内に入り、昇降口で上履きを履き替えるや否や、教室がある方向とは真逆へと促され、わけもわからないまま空き教室へと連れ込まれた。皇司は後ろでに鍵をかけ、薄暗い教室の壁に華月の両肩を掴んで押しつけた。
「ちょ……、皇ちゃ……」
「黙って」
言い終わるか否か、唇を塞がれた。いつもよりも性急で、荒々しいキスだった。息をも奪われるようなそれに、華月は小さく喘いだ。だがその声も、すべて呑み込まれてしまう。
「はっ……ふぅ……」
頭が痺れてきた頃、唇を離される。甘い吐息を零すと、チュッと額にキスが落ち、そのまま大きな腕の中に包み込まれた。
「俺がどんなことがあっても、華月を嫌いになんかならない。だから、逃げるなよ」
「ん……。わかった」
胸板に顔を押し付け、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。名残惜しいけれどもう行かなければ、と華月は緩慢な仕草で皇司から離れる。潤んだ瞳で見上げた皇司の瞳は、愛おしいものを見つめる優しい眼差しをしていた。
華月は大きな手を両手で包み込むと、祈るように唇を寄せる。
「放課後、待ってるね」
彼に重荷を背負わせるようなことを言うのは気が引けるけれど、言わなければならない。これを伝えないと、先には進めないのだから。
始業式が終わり、中等部と高等部の生徒たちが校門から出ていく様子を一望できる教室で、華月はひとり皇司が来るのを待つ。
何をどこから話そうか、ぐるぐると思考が巡っている。けれど、下手に隠し立てをするつもりはなかった。
「ちゃんと……言わなきゃ……」
ぽつりとつぶやいたとき、ふわりと春風が教室の中になだれ込んでくる。風に乗ってきたのか、桜の花びらが一枚、ひらひらと華月の目の前を舞っている。
思わず笑みをこぼしてその花びらを手のひらで捕まえようとしたとき、ガラリ、と教室のドアが開いた。
「悪い、待たせたか?」
こちらを見つめながら、彼は後ろ手にドアを閉める。
「ううん」
皇司の顔を見た途端、頭を巡っていた考えが霧散した。
あったことをその通りに話そう。ひとりそう胸に決め、華月は皇司に緩慢な仕草で歩み寄る。すると皇司は近くにあった椅子に腰を下ろした。そして彼は「それで?」と早々に訊ねて来た。
それに促され、華月は俯きがちになってぽつぽつと話し始める。
「今朝の人……。あの人はね、僕の……家が決めた番だよ」
「番……?」
「そう。僕は卒業したら、あの人の番になるんだ」
正月明けにそう言われた、と続けると、皇司はあのとき元気のなかった華月の様子の原因がこれであったとすぐに察したのだろう。
顰めた顔には青筋が立ち、憤りを抑えているように見えた。
「――華月はそれでいいのか?」
「皇ちゃんはそう思うの……?」
せめて泣かないでいようと心に決めていたのに、ぐしゃりと顔が歪んでしまう。
「僕には拒否権がないんだ。氷見での僕の存在がその程度って、知らないわけじゃないでしょ……?」
「…………」
「だからね、僕、このままだとあの人と番わないといけないんだ……」
「このまま……?」
察しの良い皇司は、ちょっとした言葉にもすぐに気づいてくれる。
「…………あの人の番になる前に、僕は他の人に番になってもらおうと思ってる」
「なっ……!」
淡々と言葉を紡ぐ華月に、皇司は絶句していた。想定内の反応に内心微苦笑を浮かべながらも、華月は更に続けた。
「番になってくれるなら誰でも良いってわけじゃないよ。僕は――……、好きな人と一緒になりたいと思ってる。それが誰なのか、皇ちゃんもわかるよね……?」
自分の首輪に指をかけ、不器用な笑顔で皇司を見つめた。
こんなに早く彼に選択を迫るつもりなどなかった。彼はまだ中学生であり、これから多くの人間と出会うだろう。氷見に縛られ、下手をすれば一生軟禁状態になる運命しかない華月に比べて、彼の未来は可能性に満ち溢れているのだ。
家族愛や友愛を恋愛と勘違いしているかもしれない皇司は、今でこそ華月を「好き」だと言うが、本当の恋を知るチャンスを奪うようなことはしてはいけないと思っていた。
たとえ彼が華月と番った後、他に好きな人ができても、番の契約はそう簡単には解消できない。どちらかが死ぬまでか、アルファが強い意志を持って番の解消を宣言しなければならないのだ。
そしてその強い意志は、一度「番」という関係になってしまえば、たとえアルファでも容易に口にできるものではない。番という関係は、どんなに憎しみ合っていても、お互いがお互いを深く求め合ってしまう、そんな厄介な関係のことを指すのだ。
自分でも狡い言い方だと分かっていた。
そうと分かっていても、こんな言い方しか思いつかなかった。
皇司から逃げ道を奪いたくなかったからだ。
華月という番の存在に、彼を一生縛り付けるつもりはないのである。
番というのは、アルファにとってはなくても良い存在だ。ヒートを起こしたときアルファの精を受けなければならないオメガとは違い、アルファは何もオメガから生涯の伴侶を決める必要はない。華月や皇司の両親はアルファ同士の夫婦だ。
皇司が今後如月家を継ぐのであれば、その相手はオメガである華月ではなく、アルファの女性から選ぶことを求められるだろう。
「でも安心して。皇ちゃんにいつか本当に好きな子ができたら、僕はちゃんと皇ちゃんの前から消えて、番が解消しやすくするようにする。これだけは約束するよ」
それまでの間の、期間限定の番契約でも構わない。
心にもない言葉に徐々に声が震えていく。
嫌われるような言葉を何度も口にして、胸の奥が苦しくなって息ができない。
「だ、からね……、あと一年で、決めて……ほしい……。大丈夫……、何て言われても、皇ちゃんを恨んだりしない……」
手は、じんわりと嫌な汗を掻いていて、気づかれないように制服の裾を握りしめた。
「俺に首輪の鍵を渡したのも、今回の件のためか?」
「違う……ッ!」
それだけは否定したかった。
決して、三竹の存在があったから渡したわけではない。あの男がいるから、妥協で皇司を番にしようとしているだなんて、思ってほしくなかった。
「僕は……!」
言いたい言葉が頭の中に浮かんでは消えていく。
だがまだ言えない。
自分の気持ちを言葉にするのが怖かった。
「――……」
ふぅ、と小さく息を吐きだす。落ち着け、と自らに言い聞かせながら、用意していた言葉を頭の中で反芻しながら唇に乗せる。
「皇ちゃんはまだ本当の恋愛をしたことがないから、僕のことを好きって、そう言ってくれるけど、いつか本当に――帝ちゃんみたいに魂の番に出会えたら、僕は――……」
「そんな適当な気持ちで華月のことを好きなわけじゃない!」
突然の怒声にビクリと肩が震えた。
「俺のこと馬鹿にするのも、いい加減にしろよ!!」
怒らせてしまった。当然だ。仮契約のような番など、彼には必要あるまい。華月を番にすることで、自由も制限されてしまう。他の――例えば可愛い女の子と付き合いたいと思っても、華月との番契約が邪魔をする。一言「もう終わりだ」と華月を拒絶すればいいだけの話だが、優しい皇司にそんなことできるはずもない。
「馬鹿になんかしてないよ」
「してるだろ! 本当の恋愛ってなんだよ!? 俺は華月のことが好きだ! これは子どもの頃から変わらない。ずっと、華月だけが好きなんだ!」
がっしりと肩を掴まれ、俯きかけた顔を無理やり上向かされた。見下ろしてくる双眸は真剣そのもので、皇司の強い想いに胸の奥がジワリと熱くなっていく。
「できることなら発情期が来たら、無理やりにでも華月を俺の番にしたいと思ってる。でも、今の俺と番になったら、問題になるだろ」
彼が言う問題というのは、世間的な外聞ではなく、氷見家での華月の立場のことを言っているのだろう。十中八九、華月の立場は悪くなる。
だが皇司と番になるというこの話は、帝一が提案したものでもあった。氷見の目的は華月をそれなりのアルファの番にし、世間に白い眼で見られないような方法で家から追い出すことだ。だが氷見家ではその相手に皇司の名は上がっていない。氷見にとって華月は政略結婚の駒に過ぎず、同じ名家とはいえ別々の道を究めた双家に政略的な関係が必要なかったからだ。けれど名家のアルファの元へ番に出す、という氷見の目的だけを言うのであれば、その相手が皇司でも問題はない。ただ年齢だけを差し引いた話ではあった。
「――だから皇ちゃんは、僕に誑かされたってことにすれば良い。こんなに傍に居るんだもの。発情期に一緒にいたとしても、不思議はないでしょ?」
「それって、俺のことは、何とも思ってないってことなのか?」
こんな言い方をしてしまえば、皇司がそう思うのは無理もない。
そんなわけない、と言いかけた口ははくはくと開閉を繰り返し、結局その言葉は喉の奥にしまい込まれた。
「――なぁ華月。ちゃんと華月の気持ちを言ってほしい。お前はいつも肝心なことは言ってくれない」
「…………」
帝一にも、似たようなことを言われた。「ひとりで我慢しすぎる」と。
「昔、兄さんよりも俺が好きだって言ってくれたよな? あの時は幼馴染みとして、ってことだったんだろうけど……。今は違うんだろ? 俺に首輪の鍵をくれたのも、キスしてもちゃんと答えてくれるのも、俺のことが好きだからだろ……?」
頬に大きな手のひらがそっと添えられた。
おずおずと頬ずりをすると、皇司が身を屈めて額同士がこつんと合わさった。
「大人になるまで俺の気持ちはなかったことにするとか、自分だけのせいにして番になろうとか、どうしていつもお前だけが傷つくようなこと言うんだよ……」
「……僕は……」
「ずっと華月を見てきたから、華月が俺を一番に思って自分の気持ちを押し殺そうとしてるのはわかってる」
「…………」
「でもさ……、俺は華月の口で、ちゃんと華月の気持ちが聞きたい」
さらりと、頭を撫でられる。まるで泣いている子どもをあやすような仕草に、鼻の奥がツンと痛んだ。
「……ダメだよ……」
「なんで?」
「だって、一度言っちゃったら、いつか皇ちゃんに他に好きな人ができたとき、僕はちゃんと祝福してあげられる気がしない」
ぽろりと、本心が顔を覗かせた。華月はいつも皇司のためと言っておきながら、結局は自分が傷つくことを恐れているのだ。華月も子どもの頃から皇司のことが好きだった。それを恋だと自覚したのはつい最近だが、それを自覚すればするほど、想いだけが募っていく。
「そんな奴、できるわけないだろ」
「わからないじゃないか……! 皇ちゃんはこれから色んな人と出会うんだ。その中に、皇ちゃんが好きになる人がいないなんて保障、どこにも……」
「なぁ、それって、俺にも同じことが言えること、わかってるのか?」
「え……?」
「華月も俺以外の誰かを好きになることだってあり得るだろ。華月だってこの先、誰とも出会わないわけじゃない。だから俺は華月が俺以外の誰かを好きになる前に、俺の番にしてお前を縛りたいと思ってる。俺は華月ほど優しくないから、他に好きな奴が出来ようが、番の契約を解消する気はない」
思ってもみなかったことを言われ、華月は皇司がどうしてずっと傍に居ようとするのか、その理由が彼の嫉妬心からなのだと悟ってしまった。幼馴染みという関係の延長で一緒に居たわけではない。余計な虫が近づいてこないよう、皇司は独占欲から華月の傍から離れないようにしていたのだ。
「大丈夫だよ。僕は皇ちゃん以外の人を好きにはならないから」
「言い切れるのか?」
「当たり前でしょ」
「なら、それは俺も同じだよ」
優しい声音に、あぁそうか、と華月はそっと、瞼を閉じた。
ぱたり、と大粒の雫が頬を伝い、床に落ちて弾け飛ぶ。
頬を流れる涙を、指先で拭われる。
まっすぐに見下ろしてくる双眸は、熱っぽく潤んでいて、その瞳に映る自分も、同じ顔をしていて……。
「華月が俺以外好きにならないって言うなら、もういいだろ? いい加減、ちゃんと言葉にして、言ってくれよ」
太い指先が唇をなぞって、艶やかに言葉を要求してくる。
「僕……」
「うん」
「僕ね、ずっと……」
「うん」
「ずっと――皇ちゃんのことが好きだった……。だからね、皇ちゃんが、僕を番にしてくれたら……死ぬほどうれしい……!」
自分の思いを言葉にした瞬間、優しく額に口づけを落とされた。
「最初からそう言えばいいのに」
くすりと笑われ、華月は泣きながら頬を膨らませる。
「だって……!」
こればかりはオメガの性なのだから仕方がない。アルファである彼を縛る言葉を、オメガである華月が言えるわけがない。――否、もしかしたらこの考えは、先入観なのかもしれない。親や兄たちにそうやって言い聞かされてきたから、無意識に自分の気持ちを押さえつけていたのだ。
決してアルファに逆らってはいけないのだと。
「あっ! んっ!!」
春の陽射しの中、華月は組み敷かれている。自分を抱くのは、ずっとほしいと思っている少年だ。
背徳感に苛まれるかと思ったが、それすらわからないよう、皇司は激しく華月を突き上げてくる。
「痛いか?」
薄っすらと額に汗を掻き、熱の籠った眼差しを向けてくる皇司に、頭を左右に振って答えた。
発情期ではないため、初めて貫かれる痛みはあるものの、充分に愛撫してもらったからか、それとも心が歓喜しているせいか、痛みも快楽に変わりつつあった。
「気持ち、良い……よ……」
逞しい首筋に腕を巻きつけ、膝の上に乗る形で腰を緩やかに動かす。熱い吐息を零すと、皇司からも甘く唸る声が聞こえてくる。
なんて、心地よい時間だろうか。
身体の奥で、皇司の逞しい猛りの形を感じ取れる。
「もっと、奥……ほしい……ッ」
我儘を口にすると、ただでさえ大きい彼のソレがさらに質量を増した。
「だめ、だろ……。子ども、出来る……」
辛そうな声が鼓膜を刺激するだけでもう達しそうだ。
「だい、じょうぶ……。発情期、じゃ、ない……から……ぁっ、あんっ!」
発情期以外の性行為で妊娠する確率は低い。特に同性はゼロに近いと言われていた。
「くそッ!」
汚い言葉を吐いたかと思うと、皇司は腰を激しく打ち付け、華月の中に精を吐き出した。
「あ、ぁああああっ!!」
それと同時に、華月も達する。
くたり、と広い胸板に力を失った肢体が受け止められる。胸で荒い呼吸を繰り返すと、ずるりと中から彼の牡が引き抜かれた。
「んっ!」
それすら感じてしまう。
びくびくと痙攣を繰り返す華月を優しく抱きしめた皇司は、首筋を強く吸い上げた。
「やっ! あぁ……っ!!」
痛みと快楽の狭間で嬌声を上げると、彼はニッと唇の端を吊り上げる。
「まだ、欲しい?」
意地悪く問いかけてくるのは、帝一譲りだろうか。
潤んだ瞳で睨むと、啄むような口づけが落とされた。
「身体の相性は良いみたいだし、番になったら、もっと気持ちいいんだろうな」
「――皇ちゃんの言い方、エロおやじみたい……」
はぁ、と熱い息を零しながら憎まれ口を叩くと、皇司がふぅんと鼻を鳴らした。
「何? もう一回突き上げてほしい?」
まだ力を失っていない猛りが、濡れそぼった最奥の入り口へと押し付けられる。
「あっ! だめぇ……!」
華月の最奥はいとも簡単に彼の猛りを呑み込んでしまう。
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「あ、あぁっ!!」
皇司は余裕で華月の良い場所を突き始める。彼の白濁の蜜と自身の先走りの蜜で濡れそぼったところは、淫猥な水音を立てて泡立っていく。
「やっ! あっ! んんっ!!」
無慈悲とも思えるほど、華月は絶え間なく喘ぎ声を上げさせられた。
誰もいない教室の中、何度も何度も精を吐き出し、最後は泥沼に沈むかの如く失神させられ、気づいたときには夕方になっていた。
「発情期になったら、俺の番になってもらうからな」
「うん……」
番になるためには、発情期を迎えなければならない。
こんな交わりは、本当は意味のない行為だ。
けれど、華月の心は満たされていた。
「次の発情期、楽しみだね……」
「そうだな」
発情期が楽しみだなんて、そんな風に思えたのは初めてだ。
なのに――。
数か月ごとに来るはずの華月の発情期は半年間、なぜか訪れることがなかった――。
秋の匂い香る十月。放課後、オメガクラスの棟がある人気のない屋上に続く薄暗い階段の一番上で、華月は悠と一緒に座り込んでいた。
「発情期が来ない……か」
「うん……たぶん、ストレスかなって」
半年もの間、抑制剤も使っていないのに発情期が来ない。その原因のひとつとして濃厚なのが、ストレス性のフェロモン周期異常だ。
卒業の日までに皇司と番にならなければならないプレッシャーや、週に一回訪れる三竹との面会。さらには気の早い母が華月の引っ越しの準備を着々と済ませている事実。
これらの重圧がストレスになって、華月の発情期周期を狂わせているに違いなかった。
「こうなったら、誘発剤、使ってみるか?」
「それも考えたけど……」
誘発剤とは、発情期を無理やり早めるためのものだ。打てば数分も経たずに発情期と同じ状態になることができるのだが、華月はどうしてもそれの使用には踏み切れなかった。
「なんだか……、皇ちゃんの自由を誘発剤で奪うみたいで……さ」
「まだそんなこと言ってるのか!? 何だったら、あの……なんだっけ? ミシマ? ミヤケ??」
「三竹さん?」
「そう、その三竹ってやつが誘発剤を使ってくるかもしれないんだぞ?」
勢いをつけて立ち上がった悠は、物凄い剣幕で捲し立ててくる。
「そいつに誘発剤を使われたら一発で終わりだ! いくら首輪の鍵を如月くんが持ってるからって、番にさせられない保証はないんだぞ!」
首輪など、本気で壊そうと思えばどうとでもなるだろう。鍵があればスムーズに外せるというだけで、こちらが抵抗できない状態であれば、時間をかけて首輪を壊すことくらい容易いのだ。
「そりゃあさ、同意なく誘発剤を使ったら、犯罪者として刑務所行きなのその人も知ってるだろうけど……」
それは現代社会の人権団体が訴え、認められた世界的な法のひとつだった。対象のオメガに同意なく誘発剤を使用し、無理やり番にすることは禁じられている。アルファが支配者階級だとしても、こうしたことについて人権団体は黙っていないのである。
「その人、色々ちょっかいかけてくるんだろ?」
悠の言う通りだ。三竹は面会する度に「早く番になりたい」だとか「子どもは何人作ろうか」と訊ねてくる。まったくこちらにその気がないことなど気づいていながら、である。それがアルファ特有の支配欲からなのか、華月の反応を見て楽しんでいるかまではわからないが、卒業前に番にさせられる危険性がないわけではなかった。
「――いっそ、脅しでもなんでも、その人が誘発剤ちらつかせてくれたら、こんな話なかったことにできるかもしれないけど」
ぽつりと呟いた悠の言葉に、華月はこてん、と首を傾げた。
「どうして?」
「だってそうだろ? いくら氷見の人が華月を早く余所にやりたいからとはいえ、同意のない誘発剤使用は犯罪だ。華月が犯罪者の番になるのなんて、華月の家の人たち嫌がりそうだろ?」
確かにその通りだ。しかも母が決めた番でもある。もし三竹が野蛮な行為に出たとしたら、母は激高し自分の保身のために話をなかったことにするに違いない。
「まぁそれを証明するのが難しいんだけどさ」
合法の誘発剤は別だが、違法の誘発剤は使用後に発見されにくいよう改良されているらしい。無理やりオメガを番にしようとする輩が使用するものなど、違法のモノ以外有り得ないだろう。こうした知識は、すべて学校での授業で教わる常識だった。資産家の子どもが多いこの学園のオメガクラスだからこそ、学園側も身を守る術を教えることに力を入れているのだろう。
学園の外を出たとき、オメガとして堂々と生きていけるように、と。
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「ふ……、っ……!」
今も、身体の奥に愛しい猛りを感じながら、口の中に詰め込まれたハンカチで声が漏れないよう必死で耐えていた。
教室で抱かれたその後からは、華月の部屋が蜜月を過ごす場所となっている。
「っ……! 華月、締め付けすぎ……」
耳元で熱い吐息交じりに囁かれ、身体の奥がまたキュウッと切なげに締まってしまう。
「んッ……、ッ!」
中で皇司が大きくなるのがわかる。内壁を擦る彼の逞しい猛りをもっと感じたくて、無意識に腰が動いた。お互い、もう何度も精を吐き出している。それなのに疲れを知ることなく獣のように求めあってしまうのはどうしてだろう。
グチュグチュと淫猥な水音だけが部屋中に響く中、肌寒い季節だというのに汗だくになって、皇司の上を跨いで一方的に絶頂を迎えようとしていると、剥き出しの胸の粒を抓られた。
「ぁ!!」
痛い、と目で訴えたが、皇司は眩しいものを見るような瞳で見つめ返してくると、華月の薄い胸元に顔を埋めた。そしてチュッと薄い肌を吸い上げられる。チクリとした痛みに肩を震わせると、身体の奥深くを抉ってくる。一番良いところを突かれ、華月は痙攣しながら透明になった精を吐き出し、同時に身体の中にも彼の迸りを感じた。
しばらく抱きしめ合ってから身体を離すと、体中精液と汗でべとべとだ。華月に至っては、全身紅い花のような痕が残っている。日を置かず抱かれているせいで、この紅い花弁は消えることがない。けれどそうやってこの体に痕を残してくれることが、「お前は俺のものだ」と証明してくれているようで嬉しい、というのは皇司には言っていないのだが。
「お風呂、入ろっか……」
余韻に浸りたいのはやまやまだったが、このままでは風邪をひいてしまう。
布団から抜け出し、立ち上がろうとすると、すかさず長い腕に体を巻き取られた。
「どうせ腰が立たないんだ。危ないから、運ぶ」
「え?」
何を? と問い返す前に、軽々と横抱きにされた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
ふたりとも全裸のまま、離れの浴室に入ると、湯船にはもうお湯が張ってあった。準備が良すぎるのは恐らく、高崎の仕業だろう。ご丁寧にもバスタオルやバスローブも二人分用意してある。ふたりがこういう仲であることに薄々気づかれているのは分かっていたが、あからさまに準備をされていると、恥ずかしくなってくる。
浴槽で中に出したものまで皇司に処理され、再び部屋に戻り、しばらくの間、ふたりで他愛もない話をする。そして夜が更ける前に皇司は自分の家へと帰っていく。これがここ数カ月の日課になっている。
だが思うのだ。なぜか皇司は、華月の発情期が遅れていることを聞いてこない。オメガの発情期について、皇司もある程度の知識はあるはずだ。それなのに遅れている理由や、番のことはどうするのか、などの相談は一切ない。
その気遣いが嬉しくもあり、少し寂しくもあった。
「僕のため、かなぁ……」
ひとりで抱え込みがちな華月を追い詰めないよう、皇司も配慮してくれている。本当に年下だろうか、と疑問になるくらい、彼は出来た男だ。
精と汗の臭いが籠った部屋の空気を換えるために障子を全開にして十月の肌寒い空気を部屋の中に取り入れていると、コンコン、と玄関をノックする音が聞こえてきた。
「はい……?」
こんな時間に誰だろう? と返事を返す。
「華月ぼっちゃん、今、よろしいでしょうか?」
「高崎? どうしたの??」
玄関へと急いで向かい、扉を空ける。
月明りに照らされてそこに立っていたのは、高崎だけではなかった。
「あ……」
「へぇ、ここが君の暮らしている離れか」
こんな夜更けに何の用なのか、三竹がいた。
「み、たけ……さん」
「こんな時間にすまないね。近くまで来ていたから、ついでに寄ったんだ」
にっこりと笑った三竹だったが、華月の姿を見て一瞬眉間に皺を寄せた。
ハッとしてバスローブの胸元を両手で掻き合わせる。
「すみません。こんな姿で。お風呂に入っていて……」
「……そうかい。その前は何を?」
その言い方に引っかかった。地を這うような低音のドスが効いた声音と見下ろしてくる鋭い双眸に、思わず後ずさる。すると傍にいた高埼が華月を庇うようにして、二人の間に割って入ってきた。
「よろしいでしょう。華月ぼっちゃんはご就寝前です。少し顔を見たいというご希望はこれで叶ったのですから、もうご用事も済んだでしょう」
有無を言わせない物言いに、三竹は一瞬眉根を寄せたが「そうだね」と踵を返して去って行く。その後ろ姿を睨むように見つめる高崎は、すぐに表情を柔らかくして華月を振り返った。
「夜分遅くに申し訳ありませんでした」
頭を下げる彼に、華月は両手を振って「大丈夫だ」と笑顔で繕った。
「ううん。高崎のせいじゃないから」
「お気遣い、感謝いたします」
それだけ言うと、高崎は三竹を追って門の方へと速足に追いかけていく。高崎の姿が見えなくなるまで見送って、華月は部屋へと戻った。
「こんな時間に来るなんて……」
皇司と鉢合わせしなくてよかったが、時間を選ばなくなってきた三竹の行動に華月は警戒心を強くする。ぎゅっ、と拳を握りしめ、家の門の方を静かに睨みつけていた。
高崎は三竹を門の外に停められている車まで見送った。
「あの子の相手はお前か?」
すると車に乗り込む前、三竹がそんなことを聞いてくる。
「相手、というのは、目付け役という意味でしょうか?」
「ふん。察しが悪いな。あの子の体、キスマークがついていただろ」
その瞬間、高崎の眉間に皺が寄る。高崎の位置からは見えていなかったのだ。
「その様子じゃ、お前じゃなさそうだな」
「言っている意味が分かりかねますが」
「あくまでシラを切るということか」
まぁいい、と三竹はニヤリと嗤う。その顔が、高崎の癇に障った。
「……お気をつけてお帰りください」
また来る、と言い残して車に乗り込んだ三竹に、心の中で二度と来るなと罵倒し、門を閉めた。そして中庭の人気のない場所で、高崎は考えた末に着物の裾からスマートフォンを取り出す。
ある電話番号を呼び出すと、ややあって困惑げな声が聞こえてきた。
『はい……?』
知らない番号からかかってくれば、当然の反応である。相手を安心させるためにも、高崎は早々に名乗った。
「高崎です。夜分遅く失礼します」
相手はしばらく黙った後、クスクスと声を立てて笑った。
『俺の番号教えてたっけ? いや、まずは久しぶり、かな?』
「恐れ入ります、帝一様」
そう、高崎が電話をかけたのは、帝一であった。
『それで? ――華月に何かあったのか?』
察しの良い帝一の声が、ワントーン低くなった。やはりアルファだな、と内心感心しながら、高崎は続ける。
「ご聡明な帝一様を見込んで、ご報告したいことがあります」
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嶌国の第四皇子・朱燎琉(α)は、貴族の令嬢との婚約を前に、とんでもない事故を起こしてしまう。発情して我を失くし、国府に勤める官吏・郭瓔偲(Ω)を無理矢理つがいにしてしまったのだ。
その後、Ωの地位向上政策を掲げる父皇帝から命じられたのは、郭瓔偲との婚姻だった。
納得いかないながらも瓔偲に会いに行った燎琉は、そこで、凛とした空気を纏う、うつくしい官吏に引き合わされる。漂うのは、甘く高貴な白百合の香り――……それが燎琉のつがい、瓔偲だった。
戸惑いながらも瓔偲を殿舎に迎えた燎琉だったが、瓔偲の口から思ってもみなかったことを聞かされることになる。
「私たちがつがってしまったのは、もしかすると、皇太子位に絡んだ陰謀かもしれない。誰かの陰謀だとわかれば、婚約解消を皇帝に願い出ることもできるのではないか」
ふたりは調査を開始するが、ともに過ごすうちに燎琉は次第に瓔偲に惹かれていって――……?
※「*」のついた話はR指定です、ご注意ください。
※第11回BL小説大賞エントリー中。応援いただけると嬉しいです!
αは僕を好きにならない
宇井
BL
同じΩでも僕達は違う。楓が主役なら僕は脇役。αは僕を好きにならない……
オメガバースの終焉は古代。現代でΩの名残である生殖器を持って生まれた理人は、愛情のない家庭で育ってきた。
救いだったのは隣家に住む蓮が優しい事だった。
理人は子供の頃からずっと蓮に恋してきた。しかし社会人になったある日、蓮と親友の楓が恋をしてしまう。
楓は同じΩ性を持つ可愛らしい男。昔から男の関心をかっては厄介事を持ち込む友達だったのに。
本編+番外
※フェロモン、ヒート、妊娠なし。生殖器あり。オメガバースが終焉した独自のオメガバースになっています。
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