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幸せだったあの日(過去回想)
しおりを挟む氷見の中で、華月の扱いが粗悪になったのは、六歳で第二の性がオメガだとわかってからだった。アルファである兄弟たちの悪影響にならないように、と母屋からは追い出され、離れで暮らすようになった。外へ出ることは許されず、室内で一人、本を読む毎日。学校へも行かせてもらえず、まるでいない者扱い。
当時、氷見家の門下生だった高崎は、家族から隔離されている華月を不憫に思ったようで、よく幼い帝一と皇司を連れて来てくれた。
「華月! 今日はこれ持ってきたよ」
高崎に連れられて毎日決まった時間に訪れる帝一は、お菓子が入った包みを持っていた。
「わぁ! 帝ちゃんありがとう!」
差し出されたのは、華月が見たこともないものばかりで、マドレーヌやマフィン、パウンドケーキのような洋菓子が主だった。
「華月ぼっちゃん。お食事はちゃんと召し上がれておられますか? お口に合うかはわかりませんが」
そして高崎は、日々やつれていく華月のために、手作りの弁当を持参してくれる。オメガであるとわかった途端、氷見の人間は華月に辛く当たるようになり、食事すらまともに与えてはもらえていなかった。そのため、高崎や帝一の差し入れは何よりも楽しみになっていた。
「かーづ! かづ!」
そして、まだ四歳の皇司は、庭で見つけくるのだろう、キレイな花や落ち葉を持ってきてくれる。今日は燃えるような鮮やかな色の紅葉の葉を、小さな手いっぱいに差し出された。
「皇ちゃんも、ありがとうね」
「うっ!」
舌っ足らずであまり言葉を喋れない皇司は、言葉で伝えるよりも行動で想いを表現することが多い。手のひらいっぱいの紅葉の葉は、その表れだ。伝えきれない「大好き」という感情を精一杯表現している。
小さな頭を優しく撫でた時の、てへ、と愛らしく笑う顔が、華月の心を癒してくれた。
「それでは、私はこれで。帝一様。お夕飯の時間には、皇司様を連れてお屋敷にお戻りくださいね」
高崎はそう言い残し、こっそりと母屋へ戻っていく。
それを見送ってから、帝一は真面目な顔をして弁当を広げ始めた華月の隣に座った。
「大丈夫か?」
大好物のタコさんウィンナーに箸を伸ばしかけたとき、静かに問われる。
「…………」
反射的にギュッと、箸を握る手に力がこもった。
帝一は怖い顔をして、着物の裾をたくし上げてくる。
「て、帝ちゃん!」
抵抗しようとしたが、遅かった。
「…………これ、陽一がやったんだろ」
陽一とは、華月の歳の離れた実兄のことだ。
腕には青あざが痛々しく残っている。それも一か所だけではない。複数個所に亘り、華月のキレイな白い肌は青くくすんでいた。
「また殴られたのか」
「…………」
答えられなかった。
華月は曖昧に笑い、腕を掴む帝一の手を、やんわりと払う。
「仕方ないよ。僕は――オメガだから」
「…………」
帝一が黙り込むと、皇司が帝一とは逆の位置に座り、華月の顔を覗き込んできた。
「かづ、どーちたの?」
「なんでもないよぉ~」
幼い幼馴染の前で悲しい顔をするわけにはいかない。敢えていつもより笑顔を深くした。けれど、皇司は何かを察したのだろう。急に大きな瞳に涙を浮かべた。
「こ、皇ちゃん!?」
ぷくぅと頬を膨らませながら、皇司はポロポロと大粒の涙を零し始める。これには華月だけではなく、帝一も狼狽えた。
「皇、急にどうしたんだよ。なんで泣いてるんだ」
弟の顔を服の裾で乱暴に拭う帝一に、皇司は「だって」と泣きじゃくる。
「かづ、いたいいたいしてる。やだ」
「は……?」
お子様言葉がイマイチ理解できていない帝一は、助けを求めるように華月へと視線を向けてきた。
「大丈夫だよ。もう痛くないから」
「ほんと?」
「うん。だって、僕の代わりに皇ちゃんが怒ってくれたから、痛いの飛んでっちゃった」
ありがとう、と小さな頭を撫でてやると、皇司の涙はぴたりと止み、満面の笑みに変わった。
要は、華月が何か辛そうにしていたので、皇司は大好きな華月を傷つけた『何か』に対して怒ったのだが、感情の制御が出来ず一緒に涙も出てしまったというわけだ。
「……子どもって理解不能だ」
「何言ってるの。帝ちゃんの弟でしょ?」
「八つも離れてるんだぞ?」
とはいえ、華月も四つも歳が離れている。それでも帝一より皇司の言いたいことが理解できるのは、どういうことなのだろう。と言いたかったが、敢えて口には出さなかった。それを言ったところで意味がないからだ。
「ほら、皇ちゃん。一緒にお菓子食べよ?」
今日の帝一の差し入れは、クリームがたっぷり乗ったカップケーキだ。
「あんまり食べ過ぎるなよ。夕飯食べれなくなるんだから」
「かづ! あーん! あーん!」
帝一の忠告を無視して、皇司は大きく口を開けて「あーんして!」とせがんでくる。ちょっとだけだよ、と言いながら華月がフォークで小さく切ったケーキを食べさせてやると、嬉しそうな笑顔を向けてくる。
この瞬間が、この時間が、華月にとっては何よりも幸せなひと時だった。
華月が中学に上がる年頃になると、帝一は高校三年生、皇司は小学四年生だ。
如月家と氷見家の人間は例外なく、歴代の当主が通っていた中高一貫校へ入学することが義務付けられており、ようやく外に出ることを許された。中学ではオメガとアルファは机を並べて学ぶことは許されていなかったが、それも些末な問題だ。
学校が終われば、校門で帝一を待って一緒に下校できるからである。昼休みも食堂や屋上で、ふたりでランチを摂ることが多かった。あまりにも頻繁なので、ある日、同級生との時間は良いのか? と訊ねたことがある。
すると彼は「良いんだよ。友だちって言えるヤツも少ないし」と、嘆息交じりに返してきた。如月の長男ということで、彼は彼で、自分のクラスに居ると息が詰まるのだという。周囲に集まってくるのは、権力やコネが欲しい邪な輩ばかりのようだ。しかも眉目秀麗なアルファである帝一は、妙に絡まれるらしい。
「お前も気を付けろよ。氷見のオメガだからって狙ってる奴も多いんだから」
いつかの帰り道。帝一はそんな忠告をしてきた。確かに氷見のオメガというだけで、学年問わずアルファから声をかけられることは多々あった。だからこそ、帝一も自分の時間を多少なりとも犠牲にして、華月の傍にいてくれる事も知っていた。
「皇ちゃんにもこの前、同じこと言われたよ」
「あいつが?」
「可愛いよねぇ。僕はほわほわしてるから心配なんだってさ」
「へぇ。いっちょ前に生意気なこと言えるようになったのか。子どもの成長って言うのは早いものだな」
「なに近所のおじさんみたいなこと言ってるの」
くすくすと笑いながら話していると、前方から小さな影が近づいてくる。
「かづ!」
「あれ? 皇ちゃん?」
小さな幼馴染へ手を振ると「皇ちゃんて呼ぶな!」と怒られてしまう。
「ランドセル背負ってる子どもなんて、『皇ちゃん』で充分だろう」
ぷっくりと頬を膨らませる弟の頭をガシリと鷲掴みにし、帝一は面白そうに揶揄っている。
「こんなところまでどうしたの? もしかして僕たちのことお迎えにきてくれたの?」
兄に揶揄われて更に怒っている様子の皇司を宥めるため、華月は同じ目線になるようにしゃがむと小首を傾げて尋ねてみた。すると彼は、「うん!」と大きく頷き、手をつなごうとねだってくる。断る理由もなく、小さな手に自分のそれを重ねると、ギュッ、力強く握り返される。子どもらしい温もりに安心感を抱かずにはいられない。
この時、華月は彼らと、ずっとこんな風に幸せな時間が過ごせると思っていた。
――数年後の、ある事故に遭うその日までは。
華月が高校に上がると、小さい子どもだと思っていた皇司は中学生になった。
中学で急激に成長を遂げた皇司は、まだ二年生だというのに身長百八十センチに達しようとしている。一方の華月は小柄のまま成長期が終わってしまったようで、二人並ぶとどちらが先輩なのかわからない体格差だ。
そのため周囲からはお姫様と騎士のようだ、と揶揄されている。もちろん、お姫様は華月で、騎士は皇司のことである。
そう揶揄されるのも、皇司は登下校の他に、各時間の中休みや昼休みには必ず高等部のオメガクラスへ顔を出しては、ほかの者たちが華月にちょっかいをかけないかと牽制するからだ。
「華月」
そして今日も、昼休みが数分過ぎた頃、皇司はオメガクラスへとやってきた。
短く名を呼ばれ、自分の席でぼんやりしていた華月は、出入り口付近で待つ彼へ笑顔を向ける。
「皇ちゃん。ちょっと待ってね」
「あぁ」
席を立って足早に彼の元へ行くと、当然のように腰を抱かれる。こういう仕草が、彼が「騎士」と揶揄される要因なのだろう。さらには、中学を上がった辺りから性格も落ち着いてしまい、無邪気に笑うこともなくなってしまった。口数は元々多い方ではなかったが、かなり減ってしまったようにも思える。
だがそれが、他の人間の前だけであることを、華月は知っていた。
校舎を出て食堂のある棟まで移動する道すがら、高い位置にある皇司の顔を見上げる。
「……なに」
視線に気づいたのか、少し不機嫌そうに眉を寄せてくる。皇司のその仏頂面を崩したいという悪戯心がわいた。
「かっこよくなったよね、皇ちゃん」
「なっ……!」
たったこれだけで、たちまち茹蛸のように赤面する皇司は、やはり子どもの頃と変わらぬ可愛い幼馴染みである。
「あははっ! かーわいいなぁ~!」
ちょっと揶揄かうと、皇司は途端に不機嫌になった。
「可愛いっていうな。なんだよ、冗談かよ」
ぷいっと顔を背けて拗ねたポーズを取る皇司は、自分のその仕草が子どもっぽかったと自覚があるらしい。ギリギリと奥歯を噛みしめて恥ずかしそうにしている。
「冗談じゃないよ。皇ちゃんはすっごくかっこよくて、可愛い。帝ちゃんとは大違い」
本当に兄弟なのかと疑いたくなるくらいだ。
皇司が騎士であれば、帝一は王子様と称されることが多い。それは体格が大きく不愛想で不器用な皇司に対し、帝一は長身であることは同様であるものの、愛想が良く飄々としていて肝が据わっているところがあったからだ。
「……やっぱり華月も兄さんの方が良いのかよ」
「え? 僕は二人とも好きだよ?」
きょとんとして返すと、皇司は急に屈んで顔を近づけてくる。
「敢えて言うなら、どっちが好き?」
「っ……!」
端正な顔が近づくと、ドキリと胸が高鳴る。見慣れているはずなのに、どうしてだろうか。帝一も似たような動作をすることはあるが、こんな風に胸がときめくことはなかった。
「皇ちゃん……かな」
特に誤魔化すことをしないのは、華月にとってこの感情が何なのか、その正体がわからないからだ。
「本当に?」
「うん。嘘をついても仕方ないでしょ?」
「――そっか」
すっと離れていく皇司はしかし、腰に回した腕に力を込め引き寄せてくる。自然と体が密着した。
「いっそ華月が、俺の物になれば良いのに」
ぼそりと呟いた皇司の声は、あまりにも低くて華月には届かない。
「ねぇねぇ皇ちゃん。そういえば今日の学食、皇ちゃんが好きな西京焼きだって。楽しみだね」
無邪気にほほ笑みかけたとき、皇司は微妙な表情で、だが「そうだな」と返してくれるのだった。
最近、体調が悪い。
「……発情期、来るかな」
はぁ、と熱いため息が出る。ホームルーム前の教室で机に突っ伏していると、クラスメイトが心配そうに話しかけてきた。
「どうした?」
彼は高校に上がってから編入してきた有名デザイナーの息子で、有野悠という少年だ。
デザイナーを親に持つだけあって、制服の着崩しはオシャレである。オメガ性は顔立ちが整っている傾向にあるが、彼は飛び抜けた美形で、家柄と容姿で目立ってしまう華月の隣に居ても、見劣りしないオメガは彼くらいだろう。さらに彼は権力やコネにあまり興味がない、この学園にしては珍しい人物であり、初めてできた友人でもあった。
「体調悪いのか?」
「うん……体が、熱い……」
身体の奥が熱い。風邪とは違う気だるさもあり、初めて味わう感覚だ。
「まさか発情期……?」
この歳になると、オメガとしての性がいつ目覚めてもおかしくはない。クラスメイトも何名かは、初めての発情期を迎えた者は少なくなかった。
「もし発情期なら、部屋を移った方が良いな。万が一、ここでヒートしたら大変だから」
「そう……だね」
この学園にはオメガが発情期を迎えたときのために、オメガホルモンを外部に漏らさない特殊な部屋がある。学園でオメガホルモンが放たれれば、大勢のアルファが反応し大混乱になるからだ。
「行こう。あそこに行けば強い抑制剤も置いてあるはずだ」
悠の肩を借りて教室を出る。そして地下へと続く階段を降りると、そこにはシェルターのような部屋がいくつも併設されていた。これが、対オメガホルモン用の部屋だ。
その中の空いている部屋に入ると、中は真っ白い壁に囲まれており病院の個室のようだ。ただ違うのは、窓がないということくらいだろう。
華月はふらふらとベッドに腰掛け、そのまま倒れ込む。
「ちょっと待ってろよ。今、抑制剤探すから」
甲斐甲斐しく面倒を見てくれる悠は、室内にある引き出しという引き出しを開け、抑制剤を探してくれる。ややあって注射器の形をした抑制剤を手に戻ってきた。
それは所謂『シリンジ型』と呼ばれる形状のそれだ。
「あり、がと……」
「自分で打てる……わけないよな。安心しろ。オレ、錠剤は体に合わなくて、いつもコレ使ってるから。使い方はわかってる」
慣れた手つきで注射器を取り出すと、彼は迷わず首元へとそれを打った。
「効果が出るまでちょっと時間がかかるんだ。寝てれば効いてくるよ」
担任には言っておくからゆっくり休めよ、と悠は部屋を出ていった。足早に去っていったのは、華月の体の変化に気づいたからだろう。
一人になった華月は、ゆるゆるとベルトを外し、形を変え始めていた自分のモノを握りこむ。性への関心があまりなかったため、自慰をしたことがなったが、本能が勝手に手を動かした。
「ん……、あ……」
びくびく、と体が震えると、手の中に熱い白濁の密が飛び散った。薬が効いてきたのか体の奥の熱は徐々に冷めつつある。だが、一度高まってしまった性は止められなかった。
「ん、んぅ……」
何度も自慰を繰り返し、白濁の密が出なくなるまでそれを続ける。
「……オメガでも、精液って出るんだなぁ」
しとどに濡れた手を見つめ、冷静になった頭で、どうでも良いことを思わず呟いてしまった。ベッドの近くに置いてあるティッシュで手を拭っていると、いきなり部屋の扉が開いた。
「華月!!」
「こ、皇ちゃん!?」
全力疾走してきたのだろう。皇司の息は荒く、額からは汗が滴っている。彼は後ろ手に鍵をすると、ベッドに横たわる華月の上に覆いかぶさってきた。
「ちょ、ちょっと! どうしたの、なんで皇ちゃんがここに……」
「華月のクラスメイトから聞いた。発情期だって……」
悠が気を遣ったのだろう。ご丁寧に鍵まで渡したようだ。
「大丈夫。抑制剤が効いたか――……」
最後まで言い終わる前に、華月は言葉を止めて固まった。今の今まで処理をしていたから、手はまだベトベトで、しかも下腹部は丸出しだ。
こんなあられもない姿を、彼に見られてしまった。しかも覆いかぶさられているせいで、局部を隠すこともできない。
「こ、皇ちゃん、あの……どいて……ッ!」
真っ直ぐに見下ろしてくる双眸が見れない。恥ずかしくて、耳まで赤くなっているのが自分でもわかる。
穴があったら入りたいとはこのことだ。
「……ひとりで抜いてたのか?」
「き、聞かないでよ。仕方ないでしょ!?」
「俺が手伝おうと思ってたんだけど」
「え……?」
大きな手が小さくなった華月のソレを優しく撫でていく。
「き、汚いよ……」
尖端を指の腹で擦られ、曖昧な快楽に肌が粟立つ。声が出ないよう口に手を当てると、やんわりと手首を掴まれて顔の横で縫い留められてしまった。
「気持ちいい?」
「っ……!」
涙目で睨みつけると、皇司は嬉しそうに目尻を細め、額に唇を落としてきた。こんな風に触れられるのは初めてで、どうすればいいのかわからない。困惑と動揺に身動きが取れないでいると、彼は華月の乱れた下肢を整えてくれる。そしてごろんと隣に横たわり、華奢な身体を包み込むように抱きしめてきた。鼻腔をくすぐる彼の香りが、甘く感じる。
「さすがに中等部の教室から走ってきたから、疲れた……。このまま休ませて」
「――うん」
しっかりと華月を抱きしめたまま、皇司は目を閉じた。そして華月も、広い背中へ恐る恐る腕を回してみる。こんな風に触れるのは、彼がまだ小さかった頃以来だろうか。あの時の皇司は、華月より一回りは小さく腕にすっぽり納まるサイズだったのに、いつの間にか体格差が逆転してしまった。
「僕も……疲れちゃった……」
何度も性を吐き出したせいだろう。急激に眠くなってくる。普段あまり寝つきが良くない華月だが、この時だけはスッ……と眠りに落ちてしまった。それは初めての自慰のせいなのか、それとも――。
華月に発情期の兆候が見えた日から、皇司は今まで以上に傍にいるようになった。
中等部のアルファクラスと高等部のオメガクラスは直線距離にして三百メートルは離れている。今までは登校時は昇降口までで別れていたのに、最近はクラスの前まで見送ってくれる過保護ぶりだ。
早く教室に行った方が良い、と注意しても言うことを聞いてくれない。「また華月が発情期になったらどうするんだ」と、譲ろうとしないのだ。
教師たちも、如月家が学園に多額の寄付をしている手前、皇司に強くは言えないらしい。この地域で如月家に逆らえる者など、氷見家の人間くらいだろう。故に、如月家と氷見家の子どもたちが仲睦まじくしていることを喜ぶ声もあるらしい。
「……帝ちゃんに注意してもらった方が良いのかなぁ」
高校を卒業後、家が決めた大学に進学してはいるものの、帝一の存在は偉大だ。如月の長男であり次期当主でもある彼が注意をすれば、皇司も従わざるを得ないはずである。
「……だめかな」
しかしすぐに思い直した。
帝一にはまだ発情期が近いことを言っていない。皇司と同じくらい過保護な帝一のことだ。それを知ってしまえば、車で送り迎えまでしてきそうである。自意識過剰かもしれないが、如月兄弟には本当の兄弟かそれ以上に思われている自信があった。
「なぁに百面相してるんだ?」
教室でごちゃごちゃ考えていたところに、悠がやってくる。
「悠くん……」
「発情期は大丈夫? 面倒だよなぁ。オメガの発情期って。特定のアルファがいないと薬漬けの一生だもんなぁ……」
「そうだね……。最近は強めの抑制剤飲むようにしてるよ」
「あれ? 華月にはもうカッコイイ騎士くんがいるんじゃないのか?」
薬など飲まなくても彼に治めてもらえばいい、と言わずもがな伝わってくる言い方である。
「皇ちゃんはそういうのじゃないよ」
「え!? でもあっちはその気だろ?」
心底驚いた顔で悠は身を乗り出した。見ていればわかるだろう、と半ば責められるが、違うものは違うのである。
「家が近所で、幼馴染みってだけだよ。それにまだ中学生だよ? そんな皇ちゃんに変ことさせられない」
「……たしかに。ガタイが良いから同級生か上級生って感覚だったけど、年下なんだっけ」
あちゃー、という顔をしている悠が、何を考えているのかすぐにわかった。発情期になりかけていた華月のところへ皇司を送ったのは悠である。彼なりに、悪いことをしたと思ったのだろう。
「えっと……」
言葉を濁す友人に、華月は大丈夫だと笑顔を見せた。
「何もなかったから。大丈夫だよ」
あのときは一緒にベッドで寝ただけ。寝てる間のことはわからないが、体に違和感はなかったので、何もなかったはずだ。そう悠に伝えると、彼はほっと胸を撫で下ろした。
そうこうしているうちに、ホームルーム開始のチャイムが鳴り響く。その音と共に、教室に担任教諭が入ってきた。
連絡事項を聞くでもなく、華月は中等部がある棟の方へと意識を向ける。
悠にはあぁ言ったものの、皇司に体を触られてから胸の奥のざわめきが治まらない。離れているだけで辛く、早く会いたいとも思う。
(……早く授業終わらないかなぁ)
学校が終わると、いつものように皇司と共に帰宅する。
屋敷の門の前まで見送ってもらった華月は、別れがたい思いを押し殺し、息をひそめて離れへと入った。
「遅かったな」
誰もいないと思っていたのに、不意に不機嫌そうな声に迎えられる。
「……陽一兄さん」
あまり会いたくない人の出現に、思わず顔が引きつる。華月がオメガ性だとわかる前から馬が合う人ではなく、父の次に苦手な相手だった。
「如月んところの次男と仲が良いみたいじゃないか。長男の次は次男も誑し込むつもりか?」
如月と氷見の家は昔から仲が良いのだが、それは両親が、というだけだ。昔から陽一は自分より優秀な帝一を敵対視しており、華月が如月の兄弟と親しくしていることを快く思っていなかった。
「そんなつもり……」
「所詮オメガだな。アルファ相手にフェロモン撒き散らしてんだろ。汚らわしい」
「…………」
いつもこれだ。陽一は何かスイッチが入ると、こうやって罵詈雑言を浴びせてくる。門下生たちの前では落ち着いた佇まいで大人の雰囲気を纏っているが、華月の前ではその仮面はあっけなく剥がれ落ちるのだ。
自分の第二の性がオメガだとわかった当初は、こんな風に言われることが悲しかった。だが、言われていく内に、慣れてしまった。否、オメガの本質はこの男の言う通りなのだからと、自分の中で消化してしまったのかもしれない。
それでも汚いものを見るような目で冷たく言われると、チクチクと胸に突き刺さるものがある。
典型的なアルファである陽一は、根っからのオメガ嫌いだ。この男のように、フェロモンで翻弄するオメガの存在を、動物以下だと軽蔑するアルファが一定数いるのはもう知っている。そしてそれを弁解することが無駄であるということも、すでに経験していた。
いつの時代も、誰かを下に見ないと気が済まない輩はいる。
この世界からいつまで経っても差別は消えないのはそのせいだ。
「お前みたいなヤツが一族にいるなんて、とんだ笑い者だ。どうしてお前なんかが氷見に生まれたんだか」
「…………」
存在を否定されたところで、生まれて来てしまったのだから仕方がない。オメガとして生まれたことを恨むしかないが、こんな理不尽を耐えるしかできない自分が情けなかった。
陽一は一通り嫌味と軽蔑の言葉を吐き散らすと、華月を突き飛ばす勢いで離れから出ていく。
やっとひとりになれたと安心して離れの中に入ると、部屋は見事に荒らされていた。これも嫌がらせのひとつだ。
障子の紙はところどころ破け、机の上に整頓してあった教科書やノートはぐちゃぐちゃになっている。部屋着として来ていた寝間着など、いっそ見事なくらい引き裂かれていた。
ストレス発散という名の嫌がらせであの男がここで暴れるのはこれが初めてではない。華月は悲しみと苛立ちが入り混じった複雑な思いを大きく息を吐くことで逃がし、散らかった部屋の掃除に取り掛かる。
「……抑制剤、持ち歩いててよかった」
発情期が近いオメガ用の抑制剤は特殊な形状をしている。これが見つかってしまえば、発情期が近いことを悟られてしまう。親兄弟に発情期のことを知られれば、この敷地から遠く離れた場所に追いやられる可能性が高くなるのだ。
遠くない未来、いずれそうなるだろう。
だが、今は嫌だ。
皇司と会えなくなる。それだけは絶対に嫌だった。
家にも学校にも、心休まる場所がない。唯一、心が楽になる場所と言えば、皇司の傍だけだ。
彼さえいればどんな不安も消し飛んでしまう。
だから彼に会えなくなる年末年始が一番嫌いだ。
両家の親戚が本家へ集合するため、この時期だけは皇司や帝一に会うことが叶わない。
会おうと思えば会えるのかもしれないが、華月はこの時期だけ、大きな大役を任されている。
「華月様。御仕度の時間でございます」
門下生が数人、大きな包み紙や桐の入れ物を持って離れにやってくる。正座して彼らを迎えた華月は、静かに着物を脱ぎ捨てる。あとは立ったままで、支度は彼らが機械的に行ってくれた。
十二単のような豪奢な衣装に髪飾り。化粧まで施され、華月は親戚たちの前で華道の手前を披露するのだ。
中学に上がる前、どこから嗅ぎ付けたのか、出版社が「美しすぎる少年華道家」として華月は特集され、一躍有名人になったことがある。その頃の評判を今でも覚えている輩が多く、氷見本家の兄や姉よりも目立つ容姿である華月が花を生ける姿を一目見たい、と毎年懇願されるのだという。
年末年始の挨拶に来るのは親戚だけではなく、名だたる著名人や資産家も挨拶に訪れる。
氷見家は使えるものは何でも使おうとする人間の集まりだ。忌々しいオメガ性である子どもだとしても、金の匂いがするのであれば使う。そういう人たちだった。
「……まるで操り人形だ」
豪奢な服を身にまとい、姿見に映る無表情な自分を見て、自嘲気味に呟いた。
「お綺麗でございます。華月ぼっちゃん」
その呟きを聞いていたのかいないのか、高崎が細い目を更に細めて賛辞の言葉をくれたが、全然心に響かなかった。
「ありがと」
高崎が嫌味ではなく本心から褒めてくれているのはわかっている。だが、あまりにも滑稽だと思うのだ。オメガということで蔑まれ、こんな場所に追いやられているというのに、都合の良いときだけ賛辞される自分の存在そのものが。
はぁ、と小さな溜息を吐き、高崎たち門下生に続いて一年ぶりに母屋へと足を踏み入れる。
咽るような香の香りと独特の陰湿は空気に気分が悪くなってくる。慣れない豪奢な着物は歩きにくいし、多くのアルファたちの前に姿を見せるのも嫌だ。
「……これが終わったら、如月の家にご挨拶に行きましょう」
こっそりと、高崎が耳打ちしてくる。
「皇司様には私からお声がけしてあります」
「……!」
一見武骨そうに見える高崎は、実は誰よりも気遣いを心得ている。陰鬱とした表情だった華月を一瞬にして笑顔にすることなど、お手の物だ。
ぱぁっと、その名の通り華のような笑みを浮かべる華月に、高崎は無言で頷いて先を促す。大勢の人間の前で華麗に花を生けたが、このときの作品は十七年という人生史上最も芸術かつ洗練された仕上がりになった。
花を生け終わった後、多くの見知らぬ男たちにそのまま食事に連れて行かれそうになったが、嫉妬心を燃やした兄たちが謀らずとも邪魔してくれたお陰で、華月はすぐ離れへ戻ることができた。
豪奢な衣装がシワになるのも気にせず脱ぎ捨て、施された化粧も綺麗に洗い流す。
手短に着替えを済ませると、高崎の手引きで見回りが少ない裏口から屋敷を出た。するとそこにはすでに、皇司の姿があった。
「皇ちゃん……!」
裏口を出た勢いのまま、広い胸の中に飛び込む。
「どうしたんだ? 珍しく熱烈な歓迎だな」
さすがの皇司も、いきなり抱き着いてきた華月には驚いたようだ。
「だって、会いたかったから」
「兄さんじゃなくて、俺に?」
「うん……。あれ? そういえば帝ちゃんはいないの?」
言われて初めて、帝一がいないことに気が付いた。きょろきょろと薄暗い周囲を見回しても、彼の姿はない。
「……今年は二人きりで初詣、行かないか?」
帝一にも断ってきたと続ける皇司の頬は、寒さのせいだけではなく、赤く染まっている。ふたりきり。その甘美な響きに胸がトクンと甘くときめいた。
「うん……二人で行こうか」
高崎に見送られ、華月たちは神社のある山の方へと向かった。神社には多くの出店が立ち並び、その一帯はお祭り騒ぎである。
「華月。はぐれないようにな」
言いながら、彼は大きな手を差し出してくる。反射的にその手を取ると、当然のように握り返された。
「……皇ちゃんの手、あったかいね」
それに比べて、きっと華月の手はとても冷たかったことだろう。だが彼は熱を分け与えるように、さらに強く握りしめてくれる。
それからは本当に、夢のような時間を過ごした。
出店で色々な物を買い、ふたりで食べ、温かい甘酒を呑みながら新年のカウントダウンをする。吐き出す息は真っ白で、パラパラと雪まで降り出したけれど、全く寒くない。
冬休みに入ってからずっと会えなかった時間を取り戻したい。今日という日を一時でも忘れないよう目に焼き付けたい。たくさんの思い出をふたりで作りたい。煩悩を捨てなければならないというのに、華月の中にはたくさんの願いが溢れてはまた生まれていた。
だから神に願う。
『来年も、その先もずっと、彼の傍に居られますように』と。
初詣を終え、華月たちはゆっくりとした足取りで屋敷へと続く人気のない道を進む。あと数分もすれば、お互いの家に着いてしまう。
この道は嫌いだ。皇司とのひと時の別れを、実感せざるを得ないからである。
降り出した雪は、うっすらと周囲を白くし始めていて、先ほどまでは感じなかった寒さを際立たせるようだ。
そうこうしていると、屋敷の裏口に着いてしまった。
名残惜しいけれど、これでお別れだ。もっと一緒にいたかったけれど、あまり遅くなって家の者に屋敷を抜け出したことに気づかれれば厄介である。
もしかしたら手引きをしてくれた高崎にも迷惑がかかるかもしれない。
「……行くね」
「あぁ」
お互い、そう言いはするものの、繋いだ手を離せないでいる。もっと傍に居たい。近くに居たい。
こんな感情を抱いてはいけないのに、もっと触れていたいという思いが強くなる。これは許されない思いだ。相手は中学生である。邪な感情を抱いてはいけない。
『所詮オメガだな』
脳裏に兄・陽一の侮蔑の言葉が反芻する。あんな男の声など思い出したくもないのに、呪いの言葉は何度も何度も、華月の心を傷つけていく。
「華月? どうした??」
顔に出ていたのだろうか、皇司が心配そうに顔を覗き込んできた。
「……皇ちゃん」
「うん?」
「僕のこと、どう思ってる?」
「え……」
無意識に飛び出した言葉に自分でも驚いたが、皇司はもっと驚いていた。
「あ……、ご、ごめんね。何でもない」
聞いてはいけないことだった、と華月は握られた手を振りほどき、くるりと踵を返す。
「じゃあね、またお正月明けに……」
「好きだ」
裏口の取っ手を取ろうとした手が、ぴたりと止まる。
「好きだよ。子どもの頃から、華月だけが好きだ」
「…………」
甘い響きだった。好き、と子ども同士が言うものではなく、真剣で真っすぐで、甘美な響きのある思いを込めて言われたのは、初めてであった。
そのときだ。どくん、と体の奥で何かが鼓動する。
「っ……!」
この感覚は知っている。
「おい? どうし……」
「僕から離れて……!!」
伸ばされた手を、華月は反射的に振り払った。だめだ、彼の傍にいたら、影響を受けてしまう。
慌てて抑制剤を探したが、ポケットの中には何も入っていない。出るとき、慌てていたから持ってくるのを忘れてしまったのだ。
「早く戻らないと……!」
ただでさえ、屋敷の中には親戚や来賓のアルファがいる。
ここで発情期を迎えてしまったら、フェロモンの影響を受けるのは彼だけではなくなってしまう。
気ばかりが焦る。だが身体が気だるくなり、体の奥の熱が徐々に燃え上がっていくのを止められない。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのだ。華月からフェロモンが放たれればまだ未成熟である彼でも抗えなくなってしまう。
「発情期、みたい……っ……!」
「な……! ……抑制剤は」
「忘れ、ちゃって……、だから……離れて……ッ!!」
徐々に疼きだす熱のせいではなく、涙が零れた。もっと傍に居たかったのに、こんな形で別れたくない。
どうして自分はオメガなのだろうか。否、どうして家を出る前に抑制剤を打っておかなかったのだろう。後悔の念に押しつぶされそうになる。
ぽたり、と頬を滴る涙が地面に落ちた。
その瞬間。
ブスッ、と首元に痛みが生じる。流れ込んでくる薬の感覚に体から力が抜けた。そのまま地面に倒れ込みそうになるが、背後から伸びた腕に抱きとめられる。次に頭の上から聞こえたのは、聞き慣れた声音だった。
「皇。お前は家に帰れ」
その声は、帝一のものだ。どうしてここにいるのだろうか、と考えるより前に、急激な疲れに襲われる。
「兄さん……」
「安心しろ。言っただろう。俺にはもう番がいる。華月のフェロモンには反応しない」
再度「帰れ」と帝一が命じると、皇司は渋々ながらも踵を返し、如月邸の方へと去っていった。
それを帝一の腕の中で見送っていると、不意に横抱きにされる。
「もう立てないだろ。このまま俺が部屋まで連れて行ってやるから」
「……帝ちゃ……、ど、して……」
「話は後だ」
言うが早いか、帝一は慣れた様子で裏口の扉を開けると、子どもの頃から慣れ親しんだ道を歩き離れへと連れて行ってくれる。
部屋に入ると、壁に凭れ掛かる格好で降ろされ、腰元には布団をかけられた。
「辛いだろう。あっち行ってるから、抜くだけ抜いたほうがいい」
「ん……」
言われるがまま、布団の中で下着まで脱ぎ、熱が止むまで溜まってしまったものを吐き出した。荒い呼吸もしばらくして落ち着いてくると、タイミングを見計らって帝一が戻ってくる。
「落ち着いたか?」
「うん……ありがとう」
「――お前さ、もうちょっと危機感を持った方がいいぞ」
「そうだね……抑制剤を忘れるなんて……」
「いや、そうじゃなくて……まあいいけど……」
帝一は何か言いたそうだったが、小さく嘆息するだけに留め、華月の傍に腰を落ち着かせると、「とりあえず明けましておめでとう」とにっこりとほほ笑んだ。
「こうやって会うのは久しぶりだな」
「そうだね。元気だった?」
大学に進学すると同時に、一人暮らしがしてみたいから、と家を出て行ってしまったから、実に三年ぶりの再会である。
「大学は楽しい?」
「あぁ、辞めてきた」
「……えぇ!?」
「特に興味がないことを学んでも仕方ないしな。今後に役立つスキルが欲しいんだ」
「なんで急に……。これからどうするの?」
「デザインを学ぼうと思ってる」
「デザインって……」
華月のように華道の世界であれば花を芸術的に生けるためにデザイン・センスは必要なのだが、茶道の世界では重要視されないように思える。仮に必要であったとしても、帝一がデザインというものに興味があるとはあまりにも意外だった。
「華月の作品をいくつも見てきたからな。昔から興味はあったんだ」
「僕の……?」
離れに隔離されていても、華月は最低限に氷見家の華道を身に着けている。だがそれは氷見の人間として最低限の教養の一環であり、父から直々に教えられている兄たちには到底及ばないものだ。なぜならば華月に氷見の華道を教えてくれたのは、母だったからである。母はもともと他の華道家の家の娘で、オメガとして生まれてしまった華月が汚点だと毛嫌いしていたものの、自分の子どもが花の心ひとつ知らないというのは許せなかったようだ。
また、父よりも世間体を気にする女性でもあるため、オメガだからという理由で子どもに花を教えていない、という噂が立つこともかなり嫌っていた。ゆえに、子どもの頃、「美しすぎる少年華道家」という特集を組みたいと出版社からオファーがあった時、嫌がる父を無視して嬉々と取材を承っていたのは彼女なのである。「たとえオメガでも、氷見はアルファである他の兄弟たちに劣らない教育をしている」と、オメガの差別が問題視されている昨今、氷見家の株を上げるため良き母っぷりをここぞとばかりにアピールしていたのを思い出す。
それを思うと、氷見家の中でまともに華月に向き合ってくれたのは、母だけだった。その母も、世間が華月に飽きた途端に、その後の教育は門下生の中でも優秀な高崎に任せっぱなしで、興味をなくしてしまったようだが。
「まぁ興味があったのはひとつひとつのパーツが組み重なってひとつの作品になる、ってところなんだけどな」
そういう風に考えたことはなかったが、そう取れなくもない。花をパーツと例えるのは華道を心得る華月には違和感があったものの、異論を唱えるつもりはなかった。
「洋服に興味があるんだ。上京して服飾の専門に行こうと思ってる」
「上京!? それに服飾って……。ちょっと待って。家はどうするの? だって帝ちゃんは……」
「俺は家に縛られるのはまっぴらなんだよ。もともと茶道にも興味がないしな」
興味がない、とはいえ、アルファである帝一は何でも完璧にこなしてしまう才能がある。茶道の所作も、実際に見たこともあるが、とても美しく洗練されており、点てるお抹茶もとても美味しい。
言ってしまえば、彼が如月の家に生まれたからとはいえ、その家督を無理に継ぐ必要も、義務すらない。特に帝一は自由奔放なところがある。大学進学と同時に一人暮らしをするのも、相当揉めたはずであるのに結局は親に妥協させたほどだ。
「それに、俺、出会ったんだ。魂の番に」
「そういえばさっきも、僕のフェロモンに反応しないって……」
つまりそれは、本当に番の契約を結んだということだ。広いこの世界で、魂の番に出会える人間はごくわずかである。一生出会えずに終わる人間がほとんどだというが、その『運命』に帝一は出会えたのだという。
「近々紹介する。多分、驚くと思うけど」
「僕が知っている人なの?」
「あぁ」
一体、誰なのだろうか。少し楽しみなようで、怖くもあった。もし氷見家の誰かであったら、本心から祝福できない。
けれど彼の雰囲気では、氷見に関わりがある人間ではなさそうだ。
「お前には、祝福してほしい」
「う~ん……。相手によるかなぁ」
正直にそういうと、彼は微苦笑を浮かべて肩をすくめた。
そして彼は、そろそろ家に戻ると言って、立ち上がった。朝陽はまだ上っていない。ここに入る前に降っていた雪も止んでいて、ところどころ白い部分があるものの積もってはいなかった。これなら足跡で不審者が侵入したと大騒ぎになることはないだろう。
「今日はありがとう。皇ちゃんにごめんねって伝えて」
「お前から連絡した方が、あいつも喜ぶと思うけど?」
「…………そう、だね……」
「華月。丁度いいから言うけど、あいつが好きなら、その気持ちをそのままぶつけた方がいい」
「何言ってるの。皇ちゃんはまだ中学生だよ? これからたくさんの出会いがあるんだ。ただでさえ、僕は皇ちゃんの時間を奪って、学校での友だちとの付き合いを邪魔してるのに……」
「年齢なんか関係ないだろ。それに、それは俺がしてきたことも否定しているのか?」
「帝ちゃん……」
この兄弟は小さい頃から世間知らずな華月のことを誰よりも大切に守ってくれた。
支配者であるアルファに比べ、アルファに従順する対象であるオメガの立場は弱いというのに、華月は氷見家という後ろ盾を持っている。権力が欲しいアルファに目をつけられれば、華月は無理やりにでも番にされてしまうだろう。そうならないために華月がしている首輪はとても強固であり、ちょっとやそっとでは外れないようになっている。
「俺は高校時代、嫌々お前の傍にいたわけじゃない。それは皇も同じだよ」
「……ごめん。わかってるし、ふたりには感謝してるよ」
「違う、そうじゃない。感謝してほしくて傍に居たわけじゃないって言ってるんだ」
帝一が言わんとしていることがわからないわけではなかった。帝一と皇司は、華月を家族同然に想っているからこそ、傍に居てくれるという気持ちを疑ったことなど一度もない。
彼ら兄弟と華月の関係は、血縁である氷見の誰よりも強いということも。
「うん。わかってる。ふたりがいてくれたから、僕は僕でいられるんだ」
氷見の人間にどんなに存在を否定されても、蔑みや侮蔑の言葉を浴びても、擦れずにいられたのはふたりがいたからである。家族に疎まれている華月を「好きだ」と言ってくれる唯一の存在。オメガ性であっても変わらず一緒に居てくれたのは、彼らだけで、優しさを教えてくれたのも、彼らだったのだから。
あと一歩を踏み出せないのは、自分に自信がないせいだ。帝一や皇司に大切に思われている自信があっても、ブレーキがかかる。兄・陽一が放つ言葉が頭を過るのだ。『フェロモンでアルファを惑わす人間以下の存在である』という、その言葉が。
「華月。俺はお前には幸せになってほしいんだ。氷見の人たちがお前に辛く当たる分、今は辛いことが多いかもしれないけど、俺や皇がいる。それに、皇はお前を裏切ったりしない」
もっと他人を信じろ、という彼の思いが伝わってきたが、華月は曖昧な笑みを浮かべるしか術がなかった。帝一はどこか言い足りないような顔をしていたが、これ以上ここに居ればいつ氷見の者に気づかれるかも知れないと、離れを出て行った。
ひとりになった華月はしばらくの間、ぼんやりと床に置かれたスマートフォンを眺める。先ほど変な別れ方をしてしまったし、帝一の言う通り連絡をした方がいいだろう。
変な誤解をされて距離を置かれてしまったら、それこそ耐えられない。
スマートフォンのアドレス帳から皇司の番号を呼び出した。真夜中であるとか、もう寝ているかもしれない、なんて考える余裕などなかった。
短い発信音ののち、『はい』と低い声が鼓膜を震わせる。
「皇ちゃん……?」
『もう大丈夫なのか?』
「うん。治まったよ」
『そっか、よかった。心配だったんだ。声が聞けて安心した』
心からの安堵の声に、胸がギュッと締め付けられる。先ほど別れたばかりなのに、声を聴いただけで電話越しなんかじゃなく、会いたくなってしまう。
「僕も、話せて嬉しい。今度は抑制剤忘れないようにするから、また……どこか行こうね?」
『俺も兄さんみたいに抑制剤を持ち歩くようにする。それなら安心だろ?』
華月は忘れっぽいから、と揶揄されても否定ができない。
「じゃあ、僕の首輪の鍵も皇ちゃんに持っておいてもらおうかな」
『それって……、俺に華月の首輪を外す権利をくれるって意味にとっていいの?』
言われて、自分の失言に気づいた。本心から彼に鍵を渡したいと思ったのは確かだが、なんてことを口走ったのだろうと思わず赤面してしまう。
「ち、違……わないけど、ダメだよ!」
『どうして? 鍵をくれるって、そういう意味じゃないの?』
彼の声音はどこか楽しそうに弾んでいる。華月が特に考えず口にした言葉だとわかっているのだ。
「こ、皇ちゃんって、なんだか帝ちゃんに似てきたよねぇ!?」
意地悪だ、と電話越しで膨れると、くつくつと笑う声が聞こえてくる。
『いいよ。華月がその気になってくれなきゃ、俺も手が出せないし。セックスの最中に泣かれたら嫌だから』
「せっ……! 子どもがそんなこと口にするんじゃありませんっ!」
『俺、華月に比べたらまだ子どもだけど、本気だよ。今日は兄さんに譲ったけど、またさっきみたいなことがあったら、次は俺が華月の発情期を鎮めるから』
もちろん、帝一のように薬で、という意味ではない。彼の言葉の端々に、アルファ特有の支配者の色が見え隠れする。オメガを縛る、アルファの言葉。しかし嫌ではない。むしろ、嬉しかった。
「うん。わかった。そのとき皇ちゃんが自分の将来を決めることができる大人だったら、いいよ。僕の全部を、皇ちゃんにあげる」
『――本当に?』
さすがに華月がそう返すとは思っていなかったのだろう。戸惑いと驚愕が入り混じる声で問い返された。
「そのとき、皇ちゃんが僕の全部が欲しいって、そう思ってくれるなら、だけどね」
彼が大人になったとき、まだ華月に気持ちが向いていている可能性はどれくらいあるのだろう。大人になれば、きっと色々なことがわかってくる。氷見のことも、それに縛られる華月の立場のことも。皇司も理解はしているだろうが、華月と番になるということは面倒事に巻き込まれるということだ。
発情期でヒート状態になったときにアルファの性を受けたら、オメガは高確率で妊娠してしまう。避妊薬を飲むことで妊娠を回避することはできるとはいえ、現代の医療技術でも絶対という保証はないのだ。そしてもしも皇司の子を宿したとき、堕胎など考えられない。
ひとりでも産むつもりだが、氷見がそれを許さないだろう。
だから、彼には知っていてほしいのだ。
オメガである華月を好きでいることの、大きな枷を。
『そのときになって、あれは子どもの時の口約束、とかいうなよ』
「言わないよ。だって僕……」
ずっと君に抱かれることを夢に見ているのだから、という言葉は、喉の奥にしまい込んだ。彼にそれを伝えるには、まだ早すぎる。
「僕、一度言ったことは忘れないから」
『なんだ、それ』
くつくつと笑う皇司に合わせて、華月も笑った。ひとしきり笑ったのち、「またね」と通話を切る。
「僕、どっちなのかなぁ……」
皇司と離れたくないと思う感情と、彼の未来の邪魔になるような存在になりたくない、という両極端な感情が頭の中で渦巻いている。
いつからこんなに皇司を愛してしまったのだろう。
「ずっと、一緒にいたいなぁ……」
けれど……。
その資格が、今の自分にあるのだろうか。
正月が明けると、久しぶりの学校生活が始まる。
華月も皇司も正月は親戚づきあいのせいで忙しく、あれから一度も会えていない。
だからなのか今日はいつもよりも早く起きてしまった。早めに支度を済ませて時間までソワソワしながら待っていると、高崎がやってきた。
「華月ぼっちゃん。ご学友の方がいらしています」
学友、ということは、皇司ではないということだ。華月は怪訝そうに眉を寄せる。
「有野悠様とおっしゃっておられました」
「悠くんが?」
どうして悠がこんなところにいるのだろうか。彼の家はここからは真逆の方向である。新年の挨拶にわざわざやってきた、ということでもないだろう。
華月は「すぐに行く」と彼が待つ裏口へと急いだ。扉を開けると、そこにはやはり、悠が待っていた。
「悠くん……。どうしたの?」
何かあったのかと心配になる。
「いや……あ、明けましておめでとうございます」
ぺこりと頭を下げる悠につられて、華月も「明けましておめでとうございます」とこの時期恒例の挨拶を返してしまう。
「突然ごめん。事前に連絡しようかとも思ったんだけど、びっくりさせようってことになって……」
「なに? どういうこと?」
状況がつかめず目が点になる。するとそこへ、ふたりの長身の男が連れ立って歩いてきた。
「皇ちゃん! ……と、帝ちゃん……」
皇司の顔を見た途端、頬が緩む。すぐにでも駆け寄りたかったけれど、友人の手前、何とか自制した。それにしても見知ったメンツの中に悠も混ざっているというのは、なんとも不思議だ。
帝一と皇司はすでにこの状況の意味をわかっているようで、それも相まってさらに混乱してしまう。
「紹介するって言っただろ。俺、これから少し忙しくなるから今日くらいしか時間取れなくて。悠にも無理言ったんだ」
「紹介……? それに、『悠』って……」
ここまで来て、わからない華月ではない。ハッとして悠の首を見ると、彼にはもう首輪がついていなかった。
「帝ちゃんの魂の番って……悠くんのことだったの……?」
悠へ視線を向けると、顔が引きつっている。不安そうな眼差しは長い睫毛に覆われ、最終的には「ごめん」と言わせてしまった。
「…………」
その様子に、どう返せばいいのかわからない。まさか初めてできた友人が、帝一の魂の番だっただなんてあまりにも予想外で、華月は助けを求めるように皇司を見上げてしまう。
すると帝一が悠の肩を抱き、「話は車の中で」と路地に停めた車へと促してくる。
運転席に帝一が乗り込み、助手席には皇司。後部座席には華月と悠が乗り合わせる。しばらくの間は無言だったが、最初の口火を切ったのは悠だった。
「――黙っててごめん」
また、謝罪されてしまう。
「どうして悠くんが謝るの? かなり驚いたけど、帝ちゃんと番になったんでしょ? それって、おめでたいことじゃないの?」
「華月……、は、嫌じゃないの? オレが幼馴染みとそういう関係なの……とか」
「え? どうして??」
大切な幼馴染の番が親友だった、というのは、「嫌」だと思うものなのだろうか? だがそれよりも、もっと聞きたいことがあった。
「帝ちゃんとはどこで知り合ったの? 悠くんは高等部からの編入だったから中等部の頃じゃないよね? あれ? じゃあ帝ちゃんの大学? もしかして卒業した後の進学希望は帝ちゃんが行ってた大学だったの?」
でも学校見学って三年からだよね? とか、なら他にどこで知り合えるのかな? と質問とも言えない質問が考えるより先に口に出てしまう。
「そんな言い方したら悠が可哀そうだろ」と、すかさず運転席から注意が飛ぶが無視した。
シートベルトが限界まで伸びるくらい身を乗り出して悠に詰め寄ると、彼はぽつぽつと話し始めた。
「は、初めて会ったのは……去年の夏くらいかな……。夏休みに親にショーに連れていかれて……」
「ショー?」
「アパレルの。東京であるやつ。そこに帝一さんがモデルで来てて……」
「えっ! 帝ちゃんがモデル!?」
確かに帝一は長身で細身だ。顔の造作は完璧でサイズも小さく、手足は長い。モデル向きと言えば、そうだと納得できる。しかしどうして彼がモデルをやることになったのだろう。
その問いをバックミラー越しに映る帝一へと、視線で投げかけた。
「父さんの知り合いに老舗の海外アパレルブランドの社長がいてさ。モデルが怪我したってことで、丁度東京にいるんだからって代理で借り出されたんだよ」
そのアパレルブランドの社長と悠の両親が知り合いで、悠は招待される側として、帝一はモデルとして同じ場所に居合わせたのだという。そしてショーが終わった後、関係者だけのパーティーが執り行われた。そこで悠と帝一は初めて出会ったのだという。
「その時は魂の番だってわからなかった。でも、帰り際、悠がヒートを起こしかけて……」
その場にはまだアルファが多くいたのに、互いが惹きつけられるような強いフェロモンを感じたのだという。そして顔を合わせたその瞬間、ふたりは「この人だ」と、そう思ったとも。
「ホテルに俺が連れ込んだ。あとはもうわかるだろ」
いくらアルファであっても、オメガのフェロモンで我を忘れて求めることはない。そうなるとすれば、それが運命の相手ということだ。
「…………でも悠くん、夏休み明けも首輪、つけてたよね」
「だって、言えるわけないだろ? どこの誰ともわからなかった人と番ったんだ。オレだって、悩んだんだよ」
全く知らなかった。悠が半年近くも苦しんでいたことに、全く気付いていなかった自分が、友人として失格なように思えた。
「でもつい最近、帝一さんが華月の幼馴染みの、あの如月の人って知ったんだ」
意図せず番ってしまった二人は、それからもちょくちょく顔を合わせていたようだが、お互いの身の上の話は一切していなかったのだという。けれど、何気なしに「クラスにほわんとしたとてもキレイなオメガの友人がいる」という話をしたとき、あまりにもその特徴が華月に似ていたため、そこでお互いに気づいたらしい。
「……そっか、そういうこと……」
すべての合点がいった。帝一が突然大学を辞めてデザインに目覚めたのも、魂の番である悠の影響だったのだろう。興味を持ったきっかけはたしかに華月の昔の作品の数々だったのかもしれない。けれど、その道に進むよう背中を押したのは悠の存在故なのだろう。
悠の両親はデザイナーで、悠自身もデザイナーを目指していると聞いている。
魂の番に出会うと、その人たちの運命も変わることがある、という話を聞いたことがあった。
「ごめん、華月……! オレ……もっと早く言いたかったんだけど、怖くて……」
「悠くん。目、つむってくれるかな?」
ジッと真剣な眼差しで悠を睨むでもなく見つめる。
「おい、華月……」
さすがの帝一もその言葉に驚いたようで車を止めかけたが、それを皇司が腕で制した。弟の行動の意味を察したのか、帝一は不安そうにバックミラーに映る二人を見守る。
華月は大きく腕を振り上げると、びくんっと震える悠を――、力いっぱい抱きしめた。
「話してくれてありがとう。帝ちゃんのこと、好きになってくれたんでしょう……?」
「うん……」
「なら、僕は嬉しい。大好きな帝ちゃんと悠くんが番になってくれて、嬉しい……!」
「本当に?」
そろそろと、細い腕が背中に回ってくる。
「水臭いよ! 悠くんが帝ちゃんを好きでいてくれるなら、僕は応援する! 何もできないかもしれないけど、僕にできることは何でもするから……! だから、帝ちゃんのこと、よろしくお願いします」
普段は明るく元気で笑顔しか見たことがない悠が、華月の胸の中で静かに泣き始めた。つられるようにして、華月ももらい泣きしてしまう。
「……結婚式じゃないんだから、泣くなよ」
そんな二人に対し帝一が水を差すが、それは彼なりの照れ隠しだったのだろう。皇司は終始黙って前を睨みつけたまま、車は学園傍の路地で停車した。
先に皇司と華月が外へ出る。悠は少し遅れて車を出ようとしていたが、帝一に呼び留められて彼の方を向いたそのとき、彼らの顔が不自然なくらい近づく。悠は唇を奪われて真っ赤になって暴れていたが、帝一はその抵抗をいとも簡単に制すると、ニッと笑ってちらりと華月へ視線を投げてくる。それには思わずくるりと背を向け、声が出そうになった口を咄嗟に抑えた。
「帝ちゃんのばか……」
彼が考えていることなど、幼馴染み歴が長い華月には手に取るようにわかってしまう。彼は「皇司ともこれくらいしとけ」と、そう暗に言っているのだ。正月に「歳の差なんか関係ない」と言っていたのは、こういうことだったのだ。
「華月、どうかしたのか?」
死角になって車内で繰り広げられていたことを見ていなかったのだろう。皇司が不思議そうに訊ねてくる。
「さっ……先に行ってよう!」
「良いのか? あの人、華月の友だちなんだろ」
「良いの!」
皇司の腕を取って、華月はその場を逃げるように立ち去ったのだった。
久々の再会で盛り上がる教室。クラスメイトと新年の挨拶を交わしていると、悠が遅れてやってくる。不自然にならないよう、いつも通りの笑顔で「おはよう」と改めて挨拶すると、彼は気まずそうに下を向いてしまった。
「華月、ごめん。その……さっきの、見てた、よな」
「え~っと……」
言葉を濁していると、ふとあることに気づいた。
「あれ? 首輪……」
悠の首には、いつもの首輪が付けられていた。すでに帝一の番であるのだからつける必要などないのに、である。
「帝一さんが、卒業するまでは一応付けておくようにって」
言われて華月も納得した。番を見つけたといっても、学校ではつけておくに越したことはない。もう誰かの番にされる危険はないが、この歳で首輪をつけていない、というのはあまり褒められることではないのだ。
「そっかぁ~。悠くんのこと、大切にしてるんだね」
「ま、まぁ……ね」
照れ笑いを浮かべる悠を、心から羨ましいと思った。
魂の番は、魂が決めた相手。その相手が帝一であれば、きっとこれから先、誰よりも大切にしてもらえるはずだ。そんな相手に、華月も出会えるのだろうか。願わくば、その相手は皇司であることを、心から望まずにはいられなかった。
「あのさ、もしよかったら、帝一さんの昔の話とか聞いても良いかな? オレ、あの人のこともっと良く知りたいんだ」
「帝ちゃんから直接聞いたら?」
それが聞けない間柄でもあるまいに、と首を傾げた。
「なんていうか……帝一さんから直接聞くと、必ず華月の話題になるんだ。――それが、なんか……」
「嫉妬しちゃう?」
「…………」
真っ赤になって頷く悠は、恋する乙女そのものだった。何て可愛いのだろうか。
「もぉ~~っ! 良いよ! じゃあ皇ちゃんも呼んでさ、僕たちの子どもの頃の話、してあげるよ!」
「あ、あの子は良い。呼ばないで」
「どうして?」
弟である皇司もいれば、華月も知らない帝一のエピソードも聞き出せそうなのに、と続けると、悠は気まずそうに眉根を寄せる。
「今日もすっごく睨まれた……。オレちょっと苦手」
たしかに皇司は年下ではあるものの、自分たちよりも体格が良く、目つきも雰囲気もあまり良い方ではない。寡黙で落ち着きがある、と言えば聞こえはいいが、それを怖いと思う人も中にはいるだろう。
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帝一を狙う者が多かったため、あまり彼のことは口に出さないようにしていた。しかし自慢の幼馴染である帝一の話題を、今なら好きなだけ言い放題だ。どんな話題にしようかとウキウキしてしまう。
悠がもっと帝一を好きになってくれるような、そんな話が良いだろう。
華月は今までの思い出を思い返しながら、ホームルームが始まるギリギリまで、帝一の話題でふたり笑いあうのだった。
新年早々、良い報告が聞けたことが嬉しくて浮足立っていた華月は、屋敷に帰るや否や、その気持ちを打ち壊されることになる。
「華月ぼっちゃん、奥様がお呼びです」
「…………」
屋敷の門をくぐったと同時に高崎にそう呼び止められた。
正月に親戚や来賓の前で、花を活けている最中ですら顔を見せなかった母が何の用だろうか。血の気が引いて冷たくなる指先を握りこみ、華月は高崎に連れられて母屋へと足を踏み入れた。
礼儀に煩い母の気に障らないよう、細心の注意を払って彼女が待つ部屋の襖を開ける。
齢五十後半になる母は、とても若々しく、だが着物が良く似合う女性だ。しかし華月にとっては脅威でしかなかった。
「あの、何か……」
できれば部屋の中には入りたくない。そんな華月の内心を読んでいたのか、母は無言で正座する自分の前に置かれた座布団を扇子で指した。そこに座れ、ということだ。
「…………」
作法を守りながら襖を閉め、今にも崩れそうになる足で畳の緑を踏まないよう、慎重に指定の場所へと腰を落ち着ける。このとき、決して座布団に座ってはいけない。それはただ置かれているだけであり、華月はそこに座る権利を持ち合わせていない。それが、この家のルールだ。
「あなた、今年でいくつになるのかしら」
その言い方だけでも、彼女がアルファであることがわかる。口調ひとつとっても、支配者然とした雰囲気で、今にも押しつぶされそうだ。
「――十八です」
震えそうになる声をなんとか絞り出し、問いにだけ答える。
「そう。高校を卒業したらあなた、どうするの?」
高校を卒業したらどうするのか、ということは、何も決められていない。それを訊ねるということは、何か決定事項があるということだった。
「僕に、決定権はありません」
「そうね。よくわかっているわ」
「…………」
いつか、この日が来ることはわかっていた。
中高の六年間だけ、華月は自由に外へと出られる。そのあとは、氷見が決めたことに従わなければならない。
「あなたにはわたくしが選んだアルファの門下生の養子になってもらいます」
「え……?」
「この家にいつまでもあなたのようなオメガを置いておくわけにはいかないのです。発情期だっていつ来るかわからないのだから。安心なさい。あなたが行くお宅は由緒正しいアルファの家系。年齢は離れているけれど、その方があなたの番になってくださるわ」
きっと、いつか、そういわれると思っていた。わかっていた。
けれど……。
「そんな……母さん」
「わたくしを母と呼ぶのは止めなさい!」
耳をつんざくような金切り声に、体がすくみ上がる。
「っ……」
「あなたのようなオメガに母などと……! あなたを産み落としたことさえ忌々しい消し去りたい過去だというのに……!」
完全に華月の存在を否定する言葉に、胸の奥がヒヤリと冷たくなる。忌々しいものを見る目で睨みつけられ、その視線から逃れるように俯いた。
「――申し訳ありません。……奥様」
「あなたに伝えることは以上です。卒業後はすぐにここから出て行ってもらいます。その顔を見ているだけで不愉快だわ! 早く出てお行き!!」
彼女がパァンッ、と振り上げた扇子で畳を強く叩くと、外で待っていた高崎が静かに襖を開けた。高崎はちらりと双方を見やってから、蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けないでいる華月の肩に触れ、「行きましょう」と促してくれる。
フラフラと立ち上がり、華月は泣きそうになるのを必死で堪えた。
高崎は気を遣って顔を見ないでいてくれ、そっとハンカチを差し出してくれる。
「あり、がと……」
「いえ。どうか、お気を落とさず」
「…………」
それは何に対してだろうか。門下生のアルファの元へ養子に出されることへか、それとも母の冷たい態度へか。きっと両方であろう。
華月は離れに戻ると、布団の上に倒れ込む。途端に堪えていたものがあふれ出し、両手で口を抑え、声を殺して泣いた。
実の子どもに向けるにしてはあまりにも酷な母の態度はどうでもいい。あと一年たらずで皇司と離れ離れにさせられることが、辛くて苦しくて、嫌で嫌で仕方がない。
「いやだ……皇ちゃん……いやだよ……!」
助けを呼ぶ声は、彼に届きはしない。胸の奥が冷たくて、息ができなくなっていく。嗚咽が零れそうになるのをグッとこらえ、華月はただただ泣き続けたのだった。
「華月? どうかしたのか?」
放課後の帰り道の途中、覇気のない華月に、隣を歩く皇司が尋ねてくる。
「うん……」
「何かあったのか?」
「なんでもないよ」
卒業後のことなど、彼に話すべきではない。
これは氷見家が決めたこと。子どもである自分たちにはどうしようもないのだ。
「でも、朝から元気ない。兄さんが番に出会ったこと、やっぱり嫌だったとか?」
昨日の今日だ、そう誤解されても仕方がなかった。
「違うよ。帝ちゃんと悠くんのことは本当に祝福してる」
「だったら……」
「皇ちゃんにはまだわからないことだから」
だから聞かないでほしい、という意味を込めたつもりだった。しかし彼は何を勘違いしたのか、強い力で華月の腕を掴んでくる。
「痛っ……!」
骨がきしみそうな力に、顔が歪む。
「子ども扱いするな。俺には言えないことなのかよ」
彼は明らかに怒っていた。はっきりと理由を言わなかったことが気に障ったのだろう。
「そんなつもり……」
「どうせ、兄さんになら相談できるんだろ!? なんでだよ! どうして華月はいつも兄さんばかり頼るんだ!」
「皇ちゃん……」
パッと手を離すと、皇司は足早にひとりで先に行ってしまう。
「待って……!」
呼び止めたが、彼は足を止めてくれなかった。急いで彼を追いかけるが、歩幅の違いなのか、速度なのか、一向に追いつかない。次第に広い背が遠退いて行き、ひとり取り残された華月は、一人寂しく屋敷へ続く帰り道を俯きがちに歩いていく。
あの家に戻ることが嫌で歩幅が徐々に小さくなっていく。立ち止まりそうになったその時、皇司が去っていった如月家のある方向から、一台の車が走ってきて、目の前で止まった。
「華月?」
ハッとして顔を上げると、運転席から帝一が出てくる。
「どうした? お前……泣いてるのか?」
言われて初めて、自分が泣いていることに気が付く。繕い笑いを浮かべて制服の裾で頬をぬぐったけれど、眦は熱くなる一方で、とうとう嗚咽が零れてしまった。
「うっ……帝ちゃ……っ……う……ッ!」
「何があった? とりあえず、車乗って」
慰めようと優しく撫でてくれる大きな手も、今は華月の涙を誘発する。いつまでも泣き止まない華月を前に、帝一は落ち着くまでただ黙って、傍に寄り添ってくれたのだった。
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彼はヒートがないのをいいことに、ふつうのβと同じように大学へ行き、就職もした。
しかし、ある日ヒートがやってきてしまい、ふつうの生活がままならなくなってしまう。
裕貴は平穏な生活を取り戻すために婚活を始めるのだが、こじらせてる彼はなかなかうまくいかなくて…。
【完結】あなたの恋人(Ω)になれますか?〜後天性オメガの僕〜
MEIKO
BL
この世界には3つの性がある。アルファ、ベータ、オメガ。その中でもオメガは希少な存在で。そのオメガで更に希少なのは┉僕、後天性オメガだ。ある瞬間、僕は恋をした!その人はアルファでオメガに対して強い拒否感を抱いている┉そんな人だった。もちろん僕をあなたの恋人(Ω)になんてしてくれませんよね?
前作「あなたの妻(Ω)辞めます!」スピンオフ作品です。こちら単独でも内容的には大丈夫です。でも両方読む方がより楽しんでいただけると思いますので、未読の方はそちらも読んでいただけると嬉しいです!
後天性オメガの平凡受け✕心に傷ありアルファの恋愛
※独自のオメガバース設定有り
俺のこと好きになってよ! 【オメガバース】
いちみやりょう
BL
泉 嶺二(医者) × 結城 静
先生と初めて話した時は、初めて人間扱いをされたような気持ちだった。
だから俺は、雛鳥が初めて見たものを親だと思うように、俺を初めて人間にしてくれた先生に恋をした。
「先生先生っ、俺18歳になったら孤児院を追い出されるんだけど、そしたらさ、俺を雇ってよ! 俺家事できるし!」
「はぁ? てめぇの世話くらいてめぇでできるわ。アホ」
「で、でもでも、俺、オメガだし就職するの難しいんだよ。雇ってくれるところがないんだよ! ね? お願い!」
ーーー
どれだけ好きだと言っても、先生は答えてくれない。
嫌がらせにあっているのだと言っても、信じてくれない。
先生の中で俺は、孤児で甘え方を知らないうるさいガキでしかなかった。
寂しくて、嫌がらせを受けているなんて嘘を吐くようなガキでしかなかった。
そんなとき、静は事故にあった
※主人公うるさめ
※話のつながりは特にありませんが、「器量なしのオメガの僕は」に出てくる泉先生のお話です。
あなたが愛してくれたから
水無瀬 蒼
BL
溺愛α×β(→Ω)
独自設定あり
◇◇◇◇◇◇
Ωの名門・加賀美に産まれたβの優斗。
Ωに産まれなかったため、出来損ない、役立たずと言われて育ってきた。
そんな優斗に告白してきたのは、Kコーポレーションの御曹司・αの如月樹。
Ωに産まれなかった優斗は、幼い頃から母にΩになるようにホルモン剤を投与されてきた。
しかし、優斗はΩになることはなかったし、出来損ないでもβで良いと思っていた。
だが、樹と付き合うようになり、愛情を注がれるようになってからΩになりたいと思うようになった。
そしてダメ元で試した結果、βから後天性Ωに。
これで、樹と幸せに暮らせると思っていたが……
◇◇◇◇◇◇
もう一度、誰かを愛せたら
ミヒロ
BL
樹(Ω)涼太(Ω)豊(α)は友人であり、幼馴染みだった。樹は中学時代、豊に恋している事を涼太に打ち明け、応援されていた。
が、高校の受験前、涼太の自宅を訪れた樹は2人の性行為に鉢合わせしてしまう。信頼していた友人の裏切り、失恋による傷はなかなか癒えてはくれず...。
そして中学を卒業した3人はまた新たな出会いや恋をする。
叶わなかった初恋よりもずっと情熱的に、そして甘く切ない恋をする。
※表紙イラスト→ as-AIart- 様 (素敵なイラストありがとうございます!)
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