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失意の逃避行

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リラはひとり、呆然と自分の部屋で窓の外を眺めている。
ディランのラットを抑えるため、屋敷には娼館からひとりのオメガが派遣され、一晩が過ぎたが彼らは一度も寝室から出てきていない。

「役立たず……」

あれから一睡もできず、リラは大量に買い貯めた鎮静剤を舐め続けている。
もう、何度も泣いた。
涙は枯れ、ディランのフェロモンと他のオメガのそれが混ざり合う香りをこの部屋で感じる度、激しい嫉妬と絶望感で気が狂いそうになるのを、手を噛んで耐え続けている。
そんなリラを他の使用人たちが心配して度々様子を伺いに来るが、今は誰にも会いたくなかった。
寝台の上に座り、膝の上に乗せた少ない荷物が入ったカバンを抱きしめる。

「きっと、私のせいだ……」

ディランの発情期が急に訪れたのは、リラの発情期に誘発されたからだろう。そうでなければ、もう何度となく乗り越えた発情期をディランが読み間違えるはずがない。
いつも、本格的な発情期がくる前に、彼は屋敷を出て、三日ほどで帰ってきていた。
その時期がずれた理由として考えられるのが、オメガの発情期に誘発された場合だ。

「全部……私のせい……」

隠そうとせず、発情期が来たことを伝えていればよかったのだ。
そうすればディランに苦しい思いをさせずに済んだのである。
そして今回、ディランがリラをオメガとして扱わない理由を知った。
ディランのために呼ばれたオメガは、男性だったのだ。
恐らく彼は女の身体より、男の身体を好むのだろう。
ただの偶然かもしれないが、リラを抱こうとしない理由として、第一の性である男女の肉体の差があると、薄々勘づいてはいた。
ドレイクは男女ではなく見た目の色でオメガを囲っているらしいが、ディランは恐らくそこにこだわりがあるタイプである可能性が高い。

「最初から……私ではダメだったのね……」

ははっ、と乾いた笑いが込み上げ、それと同時にまた眦が熱くなってきた。
ボロボロと零れ落ちる涙をそのままに、リラはまた鎮静剤を指で舐め始める。
しばらくぺろぺろと薬を舐め進め、お仕着せに入れておいた分がなくなってしまったことに気づいた。
残りは机の引き出しの中に入れている。
薬を口に含んでいないと果てしない焦燥感が耐えられず、リラは残りの分にも手を付けることにした。
のろのろと寝台から立ち上がり、机の方へと向かう。そして引き出しを開けたその時、異変に気付いた。

「これ……私が買った薬じゃない……」

スラム街で買ってきた薬は、包装が乱雑で紙質も悪いものだった。だが引き出しに入っているものは、どれも上等の――。初めてリラが買った鎮痛剤と同じ包装だ。

「どう……して……? ぅ!?」

不意に、激しい吐き気に見舞われ、リラは床に膝をついていた。

「うっ……! ぉえ……ッ!!」

何かがせり上がってくる感覚に耐えられず嘔吐し、それを目にした瞬間、リラは驚愕した。

「血……?」

真っ赤な鮮血が、床一面に広がっている。
そしてすぐに目の前が暗くなり、リラは意識を手放していた。




次に目が覚めた時、真横には見知らぬ白衣姿の人物が立っていた。
リラが目を覚めたことに気づいたのだろう、仁王立ちしたその人物は開口一番にこう言った。

「ほんと、馬鹿な子ね」

ハスキーなその声に、目覚めたばかりだというのにリラの頭に「?」マークが浮かぶ。

「あんな粗悪品を買うだなんて。ほんっっとうにオメガは馬鹿な子ばっか!!」

口調は女性なのだが、まだぼんやりしている視界に映っているその医師らしき人物は長髪で綺麗な顔立ちの男性だった。
ベータだろうか?
アルファであれば彼ら特有のフェロモンの香りするはずであり、オメガであればその首には首輪ネックプロテクターが付けられているはずである。
それ以外の人間たちがベータなのだが、目の前にいるこの医師からはアルファ特有のフェロモンではない、自信や支配者然とした形容しがたい何かを感じた。

「良いこと? あんたもオメガなら、ちゃんとした知識でちゃんとしたものを買いなさい!」
「……申し訳ありません」

自分が悪いことをしたと自覚があるため、リラは素直に謝った。

「スラム街にもね、ちゃんとした薬屋はあるのよ! あんたが買った薬は娼館の子たちでも買わないどうしようもない薬なのよ!?」

それは知らなかった。
娼館の傍にあるのだから、多くのオメガたちが手にしているものだと思っていたのだが、考えが浅かったようだ。

「あんたが寝てる間に色々調べさせてもらったけどね、このままじゃあんた、妊娠できなくなるわよ」

医師の言葉に、リラの心は一ミリも動かなかった。

「そうですか」

医師から視線を外し、リラは見慣れた天井を見上げた。
すると医師は綺麗な柳眉を吊り上げ、「それでいいの?」と尋ねてくる。

「治療をするっていうなら、あたしが面倒見てあげるけど?」

薄い反応しかしないリラに何か感じるものがあったのだろう。医師の口調が少しだけ優しくなった。

「私はもうすぐ、このお屋敷のオメガではなくなります。そうなれば、お支払いするものが残るかもわかりませんので、私のことはこのままにして頂いて構いません」

医師はふんっと顎を上げると、すっと手を伸ばし、リラの額を小突いた。

「あんたの旦那様はそんなに薄情なアルファなの? だったら、このあたしが拳でわからせてあげてもいいわよ」

ぐっ、と拳を握りしめる医師に、リラは小さく笑った。
妊娠できないオメガを囲い続けるアルファはいない。きっと、その事情を察して慰めてくれているのだろう。

「いいえ。とてもお優しい方なのです。私が愚かだっただけのこと。お気遣い、感謝いたします」

重たい身体を何とか起こし、医師へ頭を下げる。

「あらそう。まっ、助けが必要になったらここにいらっしゃい。数日間はここに滞在してるから」

医師は、一枚の紙を差し出した。
そこには王都にある宿の名前と簡単な地図が書かれている。

「王都の方ではないのですか?」
「そうよ。いつもは北部の国境近くでオメガ専用の診療所をやってるの。でもこっちにも診療所を持っててね。今回は視察に来てたんだけど、数日後には帰るわ」
「――そうですか」

王都と北部に診療所がある、ということは、優秀な医師なのだろう。ならば彼……彼女はアルファである可能性が高いが、稀にベータでも優秀な人材が輩出されることがあるとも聞く。
どちらにせよ、もう会わない人だ。
アルファでもベータでも、リラには関係ないことだった。

「しばらくは安静にしていなさい。それから、もう馬鹿なことはしないこと! 良いわね」

それだけ言うと、医師は部屋を出て行った。
ひとりになり、ふぅ、と小さく息を吐く。

(そういえば、誰があのお医者様を呼んでくださったのかしら……)

屋敷の使用人の誰かだろうか。
あとで誰かに聞いて、礼を言わねばならない。

(私……子供も産めなくなったのね……)

あの薬を服用する前から、そうなる可能性は理解していた。
医師は治療さえすれば妊娠の可能性があるようなことを言っていたが、今のリラにはそれをする気力もない。
きっと、誰かの口からディランにもこのことは報告されるだろう。
あんなことをした後に、また問題を起こしたリラを、今回ばかりはディランも見放すかもしれない。

「でも……その方がいいわね……」

自嘲気味に微笑み、リラは先ほど医師から受け取った紙を床に落ちていたバッグの中へと押し込み、横になった。
数刻後、侍女長が部屋を訪れた。医師を呼んだのも彼女らしく、礼を言った後、ディランから「しばらく暇を出す」という言伝を伝えられた。
もう屋敷の中にはディランと他のオメガのフェロモンは漂ってこない。リラが意識を失っている内に、発情期が終わったのだろう。それでもリラの様子すら見に来ない、ということは、それは暗に「出て行け」ということだ。

「行かなきゃ……」

夜明けを待ち、リラは辛うじて動ける身体で部屋の中を綺麗に整え、懐いていた犬たちにだけ別れの挨拶をした。

「元気でね。私がいなくても、イイ子にしているのよ……」

聡い犬たちはリラが二度と戻ってこないことを察したのだろう。悲しそうに「くーん」と鳴き、自分たちも連れて行ってとばかりに身体を擦りつけてくる。

「あなたたちはご主人様のモノだから、連れて行けないの。でも……そうね。代わりにこれを置いて行くわ」

言いながら、ディランから「絶対に外すな」と命じられていた自分の首輪を一頭の犬に咥えさせた。

「もうそれは私には相応しくないものだから、あげるわ。大事にしてね……」

五頭いる犬たちの頭を順々に撫でていき、リラは追いすがる彼らを置いて屋敷を出て行った。
行先は決めてはいないが、頭の隅に、北部の国境、という言葉がよぎった。
そこで生きていく術など持ち合わせていないが、どうせ当てもない旅だ。王都に留まることは最初から考えてはおらず、行くならうんと遠くがいいと漠然と思った。
この王都から北部の国境の町まで、どれだけ日数がかかるかはわからない。その道中、野垂れ死ぬかもしれない。だが、それでいいのだ。
ディランと再会してしまう可能性がない場所に行きたかった。
それが、リラのケジメだった。
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