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第二章

10 赤の集落、移動する

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※ 

「へえ、水が沸いて、ねえ」 

 一晩寝て昨夜の葛藤など吹っ切れた楽天的なラフィアは起床早々に息巻いて、アースィムと共に赤の氏族長ディルガムの元を訪れた。 

 精神の旅をして水脈を辿ったラフィアとハイラリーフは、砂竜さりゅうが平静を失う現象について、一つの結論を導き出した。その結果を告げるための訪問である。

 どうやら地熱の関係で、砂漠南方の地下水が常にない音を立てているようなのだ。当然、水脈で繋がる間歇泉かんけつせんにも影響が出ている様子である。 

 人間の五感では感じ取れぬほどの僅かな異変。しかし水神の使徒天竜てんりゅうの子である砂竜達にとっては、水の騒めきは敏感に察せられるはずだ。おそらく、ラフィアが地下で感じたような不快感を地上にいても感じているのではなかろうか。ゆえに、少しでも南方から離れようとして囲いを抜け出し北上し、白の集落の辺りまで迷い込んだのだろう。 

「――だから、できる限り北側に集落を構えるのが良いと思うの」 

 辿りついた真相を語り終え、ラフィアは前のめりの体勢になっていたことに気づいて少し姿勢を立て直した。 

 腕を組み、じっとラフィアを見つめるディルガム。間接的にとはいえ、彼らの聖地間歇泉が原因の一つだと指摘したことで、不快にさせてしまったのだろうか。心配になり、「あの」と声をかけようとした時、ディルガムが不意に腰を上げた。

「よし、じゃあ準備だ!」 
「え?」 
「皇女様の話だと、今この瞬間も砂竜達が音と揺れに酔っているかもしれないんだろ。俺もガキの頃に駱駝酔いしたことがあるけど、ありゃ本当に辛い。砂竜を囲って逃げ場すら奪っているなんて可哀想だ。すぐに北上しよう。おおい皆、天幕を畳むぞ」 

 あまりの即断即決に、提案者であるラフィアの方が呆気に取られてしまう。 

「あの、今から?」 

 戸惑いの声は、慌ただしく方々に指示を出すディルガムには届かない。ラフィアの困惑の眼差しを受けたアースィムが苦笑混じりに返した。 

「砂竜族は遊牧民ですから、移動慣れしているんですよ。まあ、白はさすがにこれほど即座に行動しませんけど」 

 そういうものなのか。ラフィアは新たな知見を得て、際限なく湧き出ずる知的好奇心をまた一つ満たすこととなった。 

 そうこうしているうちにも、天幕の解体が順調に進む。 

「アースィム、うちの砂竜が白の集落に逃げたってことは、北西はきっと妙な音がしないんだよな。俺達もそっちの方に向かうから、途中まで一緒に行くか」 

 歯を見せて豪快に笑いながら戻って来たディルガムが、すれ違い様にアースィムの背中に友愛の張り手を食らわせた。アースィムは少し迷惑そうに頬を引き攣らせてから頷いて、出立の準備を始めたのだった。 

 ※

 赤の氏族と共に北西へと向かう旅は、二日続いた。 

 赤の縄張りとされる地域の北西端、巨大な砂岩が砂地を分断する辺りに今宵、黒い天幕の群れが姿を現した。集落の端には砂竜と家畜の囲いがそれぞれ作られる。一面灰色の砂地であった平地に人の営みが生まれる過程を、ラフィアは赤い砂岩の上から見守った。遊牧の民の手慣れた作業に感心している間に、気づけば月が皓々と輝く時刻になっている。

 明日の早朝、アースィムとラフィアは二人旅に戻る。その前に交友を深めようと、ディルガムはラフィア達を焚火の側へと誘った。 

「いやあ、今晩は砂竜が静かだなぁ」 

 駱駝ミルクの泡を口の周りにつけたまま平べったいパンを両手に持ったディルガムは、上機嫌である。 

「皇女様の言う通り、地下水が原因だったみたいだな。医術師の卵だって聞いたけど、医術は帝都で学んだのか?」 
「え、いいえ。白の集落に師匠がいるの。全部彼女から学んだわ」 
「へえ、そんなに腕の良い医術師が? ちょっとうちの奴らを弟子入りさせてやってくれよ。赤の医術師は若いのが一人いるだけだからさ。勉強させてやりたいんだ」 

 カリーマの弟子が増えることを想像し、ラフィアは談笑に口角を上げたまま妄想を巡らせる。赤の氏族から初々しい医術師の卵が数名やって来て、愉快な仲間が増える。人手があれば、試してみたい創薬の材料集めも捗るはず。考えるだけで胸が高まった。 

「それはとても良」 
「発想が豊かな医術師であることは確かです。日々変な薬を作ってますがね。ですが残念ながら、彼女は他に弟子を取るつもりはないんです。一人が好きな質で」 

 こほん、と咳払いをしてから口を挟んだアースィムは、あからさまに話の流れを変えた。 

「それに、今回妻がことの真相を明らかにしたのは、医術の賜物というよりも、砂竜の心を理解する能力に長けているからです」 
「へえ? 何だそりゃ。砂竜と話でもするのか?」 
「話せはしないけれど、何というか……水の心を感じるの」 
「はぁ、まるで、いにしえ精霊王せいれいおうみたいだな」 
「精霊王?」 

 初めて耳にする名称に、ラフィアは首を傾ける。ディルガムは頷いた。 

「知らないか? 帝都ではあんまり有名な話じゃないのかな。遥か昔、まだ天竜様が砂漠に降臨される前。この一帯には今よりもずっとたくさんの精霊ジンが住んでいた。その中で最も水と近しい存在が精霊王。彼は水の声を聞き水の道を辿り世界を目にし、水に連なる眷属に対し、決して抗えない命令を下すことができたという」 

 世界についてのラフィアの知識はほとんど全て、後宮ハレムの泉に住まう精霊から得たものだ。唯一の友であり理解者でもあった彼の口から、精霊王の話が出たことはなかったと記憶している。 

「ま、そこまでじゃなかったとしても、皇女様には水神にお近づきになる素質があるのかもな。もしかして母君が聖職に就いていたとか?」 
「私の母は異国から来た踊り子だったの。水神マージのご加護もない遥か東方の出身だわ」 
「ふうん、まあ皇家の血脈には色々あるって聞くしな。それにしてもアースィム」 

 焚火の朱に照らされて、ディルガムの蒼穹を思わせる色の瞳が赤く染まっている。ぎらり、とどこか不穏な煌めきを見た。 

「良い嫁をもらったなあ。ともかく、これからも仲良くしてくれよ二人とも。同じ砂竜族だし、縄張りを接するお隣さんなんだし」 

 アースィムは口の端だけを持ち上げて、笑んだ。 

「何があれば助け合いましょう。もちろん、紫にも青にも困った時には手を差し伸べますよ。同じ砂竜族ですから」 

 二人の族長はしばらく視線を交わし合う。やがて、ディルガムの眼光から鋭さが消え、彼らしい気楽な色が戻る。

「マルシブ帝国西方、砂漠守護のかなめ、砂竜族。俺達は兄弟も等しい存在だ。助け合って生きていこう。アースィム、おまえは氏族長の中で最年少なんだから、紫や青から無理難題を突き付けられたらすぐに相談しろよ」 
「ええ、頼りにしています」 

 どこか含みのあるやり取りに感じられたものの、駆け引きに疎いラフィアには、違和感の正体を言語化することは叶わない。しかし当のアースィムとディルガムは険悪になるでもなく、元の調子を取り戻して談笑しているので、先ほどの不穏はラフィアの思い過ごしだったのかもしれない。 

 やがて夜が更けて宴が終わる。夜間のうちに赤の氏族の面々との別れを済ませてから就寝したラフィア達は、日が昇るよりも早く簡易天幕を畳み駱駝の背に乗せて、北へと出立した。 
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