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12.遠野
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取るに足らない程のきっかけだった。
去年の冬のことだ。
私はいつものように、天使のような薄ピンクのチュールスカートを揺らしたちいちゃんとデパートの10階にある書店の絵本コーナーに訪れていた。
そう、後に私がアルバイトとして働く書店。
当時はまだ入園前で私もちいちゃんと毎日一緒に居て、無造作にうなじ辺りで束ねられた黒髪にグレイのパーカーとジーンズ、黒スニーカー、片腕にはベージュのダウンという姿が日常だった。
「ママー、あれ見たーい」
三歳児にはあともう少しで届かない、本棚の平台の奥に置かれた絵本を代わりに取ってあげる。見本シールの貼られた絵本の表紙には、可愛いお姫様の微笑み。
お城の中で踊るお姫様を嬉しそうに見つめるちいちゃん、その隣に存在する私。
何気なくスマホを開いてみると、旦那から写真付きのメッセージが来ていた。昨日行った遊園地で係員の人に撮ってもらった家族写真を、ふと思い出したかのように送ってくれたらしい。
私は画面上のその写真をタップしてみた。
拡大されると同時に、取るに足らない程の言葉が突然蘇った魔物のように私を襲う。
『やっぱり、なんか老けたね』
それはもう本当に、取るに足らない程の言葉で、いちいち傷ついていられない程の感想で、大切で小さな命を第一優先で守り続けるために犠牲にせざるを得なかった結果で。
係員の人からスマホを受け取った旦那が、冗談混じりでからかうようにその言葉を発した時、私は笑い返すことが出来なかった。
事実だったから。
そんな先日の記憶にがんじがらめにされて、絵本コーナーで画面を見ながら佇む私。
別に、自然なことなんだ。
私は、もう。
「すまんのぅ、さざえさんってどこじゃろ?」
探している本のチョイスとよく通るしわしわの声に意識が持っていかれ、私はつい目線を向けてしまった。
そこには腰を曲げたおじいちゃんと若い書店員の男性の姿が。
「あ、はい!さざえさんですねー……」
もし、長い人生の中で片手に収まるくらいの奇跡が起こると最初から決まっているのなら、この時だったのかもしれない。
優しい物腰と表情、見覚えがある気がした。
臙脂色のエプロンの左胸についている名札には『埴』。
ダウンを片腕にかけた私の眼球に、季節外れの桜が舞い吹雪く。
あの子だ。
セーラー服を卒業する間際のあの春の図書館で、よく見かけた男の子。
あまりによく見かけるものだから、『どんな本読んでるんだろう』と後ろから覗いてみたことが一度あった。
その時に貸し出しカードの名前が見えたんだ。
『珍しい名前だな』
そう思った、だから忘れられなかった。
あの時期、心をえぐられるような失恋で茫然自失としていた私に、魔法の言葉をくれた男の子。
『綺麗です……』
ねぇ、君なら。
もう一度私に、魔法をかけてくれるんじゃないだろうか。
その書店での再会後、私は何か良からぬものに取り憑かれるようにその魔法の実現に向けた準備に夢中になった。
まず幼い子を持つ主婦にとっては難しい夕方の時間から働けるよう、旦那への説得、母への協力の懇願、預かり保育を利用しながらもちぃちゃんが納得できる段取り作りをひとつひとつ果たしていく。
本好きという自分はとうにもう存在していなかったが、とにかく良い妻、良い娘、良い母でい続け、「家のことはちゃんとやるから、書店員という夢を叶えたい」と秘めていた思いを告白するかのように頭を下げた。
そしてもしかしたらアルバイトに欠員が出るのではないかという三月に、賭けた。
また、一番心血を注いだのは、自分をどのように見せればいいのかに対する追求。
自身を『演出』をしようと思った。
自然体では敵わない。
まだ着ぬ書店員エプロンの臙脂色が、赤い毒のように身体に廻っていくのを感じた。
今、私は事の経緯を埴くんに話した。
君は恋人から受け取ったスマホを握りしめたまま、何かに傷ついたような表情をしていた。
お互い様だと、思った。
「おばさんの遊びに付き合ってくれて、ありがとうね」
君のことは全然嫌いじゃないよ。
「たぶん、そのうちここも辞めるから」
恋心はないけど。
「ほんとに、ありがとう」
元気が出たよ、本当に。
身動きが出来ないままでいる君の横を通り過ぎ、仕事に戻ろうとした。
するとすぐそばの本棚と本棚の間で、口元に手をあてて並ぶ本を伏せ目がちで見るような形で佇む真子さんの姿が。
その背後には、彼女の両耳を優しくふさいでいる有岡くんも。
出勤日じゃない彼らが、この現場にたまたま居合わせてしまったのも、悲しい奇跡なのかもしれなかった。
きっと全部見ていたのだろう。
ごめんなさい。
あなたの好きな人を利用してしまって。
それぞれの陽だまりに、赤い毒を廻して。
去年の冬のことだ。
私はいつものように、天使のような薄ピンクのチュールスカートを揺らしたちいちゃんとデパートの10階にある書店の絵本コーナーに訪れていた。
そう、後に私がアルバイトとして働く書店。
当時はまだ入園前で私もちいちゃんと毎日一緒に居て、無造作にうなじ辺りで束ねられた黒髪にグレイのパーカーとジーンズ、黒スニーカー、片腕にはベージュのダウンという姿が日常だった。
「ママー、あれ見たーい」
三歳児にはあともう少しで届かない、本棚の平台の奥に置かれた絵本を代わりに取ってあげる。見本シールの貼られた絵本の表紙には、可愛いお姫様の微笑み。
お城の中で踊るお姫様を嬉しそうに見つめるちいちゃん、その隣に存在する私。
何気なくスマホを開いてみると、旦那から写真付きのメッセージが来ていた。昨日行った遊園地で係員の人に撮ってもらった家族写真を、ふと思い出したかのように送ってくれたらしい。
私は画面上のその写真をタップしてみた。
拡大されると同時に、取るに足らない程の言葉が突然蘇った魔物のように私を襲う。
『やっぱり、なんか老けたね』
それはもう本当に、取るに足らない程の言葉で、いちいち傷ついていられない程の感想で、大切で小さな命を第一優先で守り続けるために犠牲にせざるを得なかった結果で。
係員の人からスマホを受け取った旦那が、冗談混じりでからかうようにその言葉を発した時、私は笑い返すことが出来なかった。
事実だったから。
そんな先日の記憶にがんじがらめにされて、絵本コーナーで画面を見ながら佇む私。
別に、自然なことなんだ。
私は、もう。
「すまんのぅ、さざえさんってどこじゃろ?」
探している本のチョイスとよく通るしわしわの声に意識が持っていかれ、私はつい目線を向けてしまった。
そこには腰を曲げたおじいちゃんと若い書店員の男性の姿が。
「あ、はい!さざえさんですねー……」
もし、長い人生の中で片手に収まるくらいの奇跡が起こると最初から決まっているのなら、この時だったのかもしれない。
優しい物腰と表情、見覚えがある気がした。
臙脂色のエプロンの左胸についている名札には『埴』。
ダウンを片腕にかけた私の眼球に、季節外れの桜が舞い吹雪く。
あの子だ。
セーラー服を卒業する間際のあの春の図書館で、よく見かけた男の子。
あまりによく見かけるものだから、『どんな本読んでるんだろう』と後ろから覗いてみたことが一度あった。
その時に貸し出しカードの名前が見えたんだ。
『珍しい名前だな』
そう思った、だから忘れられなかった。
あの時期、心をえぐられるような失恋で茫然自失としていた私に、魔法の言葉をくれた男の子。
『綺麗です……』
ねぇ、君なら。
もう一度私に、魔法をかけてくれるんじゃないだろうか。
その書店での再会後、私は何か良からぬものに取り憑かれるようにその魔法の実現に向けた準備に夢中になった。
まず幼い子を持つ主婦にとっては難しい夕方の時間から働けるよう、旦那への説得、母への協力の懇願、預かり保育を利用しながらもちぃちゃんが納得できる段取り作りをひとつひとつ果たしていく。
本好きという自分はとうにもう存在していなかったが、とにかく良い妻、良い娘、良い母でい続け、「家のことはちゃんとやるから、書店員という夢を叶えたい」と秘めていた思いを告白するかのように頭を下げた。
そしてもしかしたらアルバイトに欠員が出るのではないかという三月に、賭けた。
また、一番心血を注いだのは、自分をどのように見せればいいのかに対する追求。
自身を『演出』をしようと思った。
自然体では敵わない。
まだ着ぬ書店員エプロンの臙脂色が、赤い毒のように身体に廻っていくのを感じた。
今、私は事の経緯を埴くんに話した。
君は恋人から受け取ったスマホを握りしめたまま、何かに傷ついたような表情をしていた。
お互い様だと、思った。
「おばさんの遊びに付き合ってくれて、ありがとうね」
君のことは全然嫌いじゃないよ。
「たぶん、そのうちここも辞めるから」
恋心はないけど。
「ほんとに、ありがとう」
元気が出たよ、本当に。
身動きが出来ないままでいる君の横を通り過ぎ、仕事に戻ろうとした。
するとすぐそばの本棚と本棚の間で、口元に手をあてて並ぶ本を伏せ目がちで見るような形で佇む真子さんの姿が。
その背後には、彼女の両耳を優しくふさいでいる有岡くんも。
出勤日じゃない彼らが、この現場にたまたま居合わせてしまったのも、悲しい奇跡なのかもしれなかった。
きっと全部見ていたのだろう。
ごめんなさい。
あなたの好きな人を利用してしまって。
それぞれの陽だまりに、赤い毒を廻して。
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