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第四話 唯一の本物
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焦げ茶色の線で物体を形作り続けなければ日々を過ごせない理由は、説明のしようがない。
紙に色が混ざった絵の具を塗りたくったり、自分のことより彼女のために環境を整えようとしたり、毎週フットサルで同じような試合をしたりしなければ日々を過ごせない人がそれぞれいるように。
本人にしか分からないんだ。
「はい。今?いいよ。電話なったから部室から出てきたとこ」
『吉祥寺散策サークル』や『犬猫観察会』などの張り紙がゆるい空気を漂わせている廊下を、携帯片手に通り過ぎる。
「暇なの?あー、誰もいないんだ。私は暇つぶしのためにいるのですかね?あー、嘘だね。生活の中心、主にボール蹴ることじゃないかー」
階段を下りて、眩しい世界につながる建物の外に出る。
「鹿子が帰ってきたら、練習も休むよ」
外の空気に触れると、電話越しの大樹君の声がクリアになった気がした。
大樹君は私を「鹿子しかこ」とあだ名で呼ぶ。
「お金ないから夏休みまで帰れないよ。夏休みにいっぱい会おうよ」
「8月は俺、長期合宿だよ。来月は試合がない土日あるけど?」
「えー……、でもお金ないからそんな気軽に土日のためだけとかに帰れないよ」
「バイトしないの?」
「うーん……、こっちでなんとなくやりたいことあるから、できればしたくないなぁ……」
「俺もボール蹴りたいから、したくないや」
お互いまだ『働いてお小遣いを稼ぐ』という欲が湧いてきていなかった。
きっと『自由』というものに溺れていたんだ。
一年ほど、受験勉強で『自由』という場所を遊泳禁止され続けたから。
私と大樹君は高校二年生の冬に塾で出会った。
東京にある、距離もレベルも遥か彼方の同じ大学を目指していた私たちは意気投合をした。
二人の苦しみの量は同じだったはずなのに。
私に合格通知が届いた日、大樹君への電話がつながらなかった。
大樹君からの折り返しの電話は一週間後。
『俺はここに残って、ボールでも蹴ってるよ』
不合格だった大樹君は地元の大学に。私は東京の大学に。
まだ記憶に遠くない、ほろ苦く寂しい分岐点。
現実の私は、影になっている向かい側の建物にもたれながら携帯を耳にあてていた。
すると目の前を、前髪パッツンまぶたの上で切りそろえられた黒髪ストレートの女が、コンクリート地面にヒールを勢いよくならしながらクラブハウスに入って行った。
「そっちでなんとなくやりたいことって何?芸術家の真似事?」
大樹君は私が『アートサークル』という、彼にとって理解し難いサークルに入ったことに良い印象を持っていなかった。
「そんなすごいことしたいわけじゃないけど…」
「あ、じゃあ人来たから」
大樹君の部室に誰か入って来たらしく、一刻も早く電話を切りたそうだ。
「分かった、じゃあね」
電話は何のためにあるのだろう。
『相手への想い』を、電波に乗せられない不器用な私達。
「遠距離の彼氏と電話?」
文学部校舎の方からリカさんがにこにことして現れる。
図工室以外で会うリカさんは、ただただ可愛い服と恋バナで日々を満たす普通の女子に見えるのに。
「はい。でも電話切られちゃいました」
「電話だけじゃなく会いに来てくれたらいいのにねー」
リカさんに促されて、再びクラブハウスへ足を踏み入れる。
「会いに来てとは言いにくいんですよ」
「なんで?」
薄暗い階段を上る。
「彼氏、この大学落ちたんです。プライド高いから、あんまりここに近づきたくないかもしれないし」
「面倒くさい男だね」
「そうなんです」
そう答え小さく微笑みながら図工室の扉を開けると、すぐにのけぞってしまったほどに、室内は一人の女性のわめき声一色の世界になっていた。
「なんでないの???私の彫刻刀っ。誰がどこにやるっていうの???」
先程の前髪パッツンまぶたの上で切りそろえられた黒髪ストレートの女が、髪を振り乱しながらヒステリーを起こしていた。
「あんたたちは知ってる???」
わめき声の世界に新たに足を踏み入れてしまった、私とリカさんに詰め寄る黒髪ストレートの女。
鬼のような迫力と、間近で気づかされたその美貌に私は言葉が出ない。
「ごめんなさい。彫刻刀は見てないです」
『協力できなくてごめんなさい』という申し訳なさを穏やかに表情として提供するリカさん。
「あぁー、最悪っ。どこにあるの???」
そうわめいて、私とリカさんの間をさくように図工室を飛び出して行った。
普段は自分の作業に没頭しているみなさんが、こちらの方を向いて放心状態になっている。
「……初めて見ました。あんな本当に芸術家っぽい先輩もいるんですね」
リカさんにこそっとつぶやく。
「三玲みれいさんはここで唯一の本物よ」
唯一の本物。
「本当に芸術家として成功するかもしれないの。今度、個展開くんだから。そんな人、ここの歴代の先輩の中にもいないらしいよ」
芸術家として成功。
「あと、矢崎さんの彼女よ」
世界は不思議な保護で溢れている。
矢崎さん、『あんな支える必要もないような強そうな人を支えられる環境』があなたの作品になるのなら。
完成する日は来るのですか?
紙に色が混ざった絵の具を塗りたくったり、自分のことより彼女のために環境を整えようとしたり、毎週フットサルで同じような試合をしたりしなければ日々を過ごせない人がそれぞれいるように。
本人にしか分からないんだ。
「はい。今?いいよ。電話なったから部室から出てきたとこ」
『吉祥寺散策サークル』や『犬猫観察会』などの張り紙がゆるい空気を漂わせている廊下を、携帯片手に通り過ぎる。
「暇なの?あー、誰もいないんだ。私は暇つぶしのためにいるのですかね?あー、嘘だね。生活の中心、主にボール蹴ることじゃないかー」
階段を下りて、眩しい世界につながる建物の外に出る。
「鹿子が帰ってきたら、練習も休むよ」
外の空気に触れると、電話越しの大樹君の声がクリアになった気がした。
大樹君は私を「鹿子しかこ」とあだ名で呼ぶ。
「お金ないから夏休みまで帰れないよ。夏休みにいっぱい会おうよ」
「8月は俺、長期合宿だよ。来月は試合がない土日あるけど?」
「えー……、でもお金ないからそんな気軽に土日のためだけとかに帰れないよ」
「バイトしないの?」
「うーん……、こっちでなんとなくやりたいことあるから、できればしたくないなぁ……」
「俺もボール蹴りたいから、したくないや」
お互いまだ『働いてお小遣いを稼ぐ』という欲が湧いてきていなかった。
きっと『自由』というものに溺れていたんだ。
一年ほど、受験勉強で『自由』という場所を遊泳禁止され続けたから。
私と大樹君は高校二年生の冬に塾で出会った。
東京にある、距離もレベルも遥か彼方の同じ大学を目指していた私たちは意気投合をした。
二人の苦しみの量は同じだったはずなのに。
私に合格通知が届いた日、大樹君への電話がつながらなかった。
大樹君からの折り返しの電話は一週間後。
『俺はここに残って、ボールでも蹴ってるよ』
不合格だった大樹君は地元の大学に。私は東京の大学に。
まだ記憶に遠くない、ほろ苦く寂しい分岐点。
現実の私は、影になっている向かい側の建物にもたれながら携帯を耳にあてていた。
すると目の前を、前髪パッツンまぶたの上で切りそろえられた黒髪ストレートの女が、コンクリート地面にヒールを勢いよくならしながらクラブハウスに入って行った。
「そっちでなんとなくやりたいことって何?芸術家の真似事?」
大樹君は私が『アートサークル』という、彼にとって理解し難いサークルに入ったことに良い印象を持っていなかった。
「そんなすごいことしたいわけじゃないけど…」
「あ、じゃあ人来たから」
大樹君の部室に誰か入って来たらしく、一刻も早く電話を切りたそうだ。
「分かった、じゃあね」
電話は何のためにあるのだろう。
『相手への想い』を、電波に乗せられない不器用な私達。
「遠距離の彼氏と電話?」
文学部校舎の方からリカさんがにこにことして現れる。
図工室以外で会うリカさんは、ただただ可愛い服と恋バナで日々を満たす普通の女子に見えるのに。
「はい。でも電話切られちゃいました」
「電話だけじゃなく会いに来てくれたらいいのにねー」
リカさんに促されて、再びクラブハウスへ足を踏み入れる。
「会いに来てとは言いにくいんですよ」
「なんで?」
薄暗い階段を上る。
「彼氏、この大学落ちたんです。プライド高いから、あんまりここに近づきたくないかもしれないし」
「面倒くさい男だね」
「そうなんです」
そう答え小さく微笑みながら図工室の扉を開けると、すぐにのけぞってしまったほどに、室内は一人の女性のわめき声一色の世界になっていた。
「なんでないの???私の彫刻刀っ。誰がどこにやるっていうの???」
先程の前髪パッツンまぶたの上で切りそろえられた黒髪ストレートの女が、髪を振り乱しながらヒステリーを起こしていた。
「あんたたちは知ってる???」
わめき声の世界に新たに足を踏み入れてしまった、私とリカさんに詰め寄る黒髪ストレートの女。
鬼のような迫力と、間近で気づかされたその美貌に私は言葉が出ない。
「ごめんなさい。彫刻刀は見てないです」
『協力できなくてごめんなさい』という申し訳なさを穏やかに表情として提供するリカさん。
「あぁー、最悪っ。どこにあるの???」
そうわめいて、私とリカさんの間をさくように図工室を飛び出して行った。
普段は自分の作業に没頭しているみなさんが、こちらの方を向いて放心状態になっている。
「……初めて見ました。あんな本当に芸術家っぽい先輩もいるんですね」
リカさんにこそっとつぶやく。
「三玲みれいさんはここで唯一の本物よ」
唯一の本物。
「本当に芸術家として成功するかもしれないの。今度、個展開くんだから。そんな人、ここの歴代の先輩の中にもいないらしいよ」
芸術家として成功。
「あと、矢崎さんの彼女よ」
世界は不思議な保護で溢れている。
矢崎さん、『あんな支える必要もないような強そうな人を支えられる環境』があなたの作品になるのなら。
完成する日は来るのですか?
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