上 下
84 / 115

第八十四話 アトレ

しおりを挟む
「私のことをご存じなのですか!?」
「ああ……忘れるはずもない。まさか、生きてくれていたとは……!」

 彼は深いシワが刻まれた目じりに沢山の涙を貯めながら、噛みしめるように言葉を紡いだ。

 やっぱりここは、私の故郷で間違いないんだ……本当に、帰ってこられたんだ!

「あの、お母さんはどこにいるんですか!?」
「……アトレは……」
「アトレ? ご老人、今確かにアトレと仰りましたか?」
「ええ。彼女の母はアトレという名じゃ」

 アトレ……私達の薬屋と同じ名前だ! もしかして、自分では思い出せないくらいの深い記憶の中に、お母さんの名前が刻み込まれていて、それが薬屋の名前を出す時に出てきたというの?

 きっとそうに違いない。自分で気づけていなかっただけで、私はお母さんと一緒にたくさんの人を救っていたんだ……!

「それで、アトレは……あそこに見える家におる」
「あの家ですね!」
「あ、エリン! そんなに走ったら危ないぞ!」

 オーウェン様の注意の声なんて全く耳に入らないまま、教えてもらった家の中に飛び込んだ。

 家の中は、驚く程ボロボロだった。家具は半分以上使い物にならなさそうだし、壁や屋根には穴が開いている。

 そんな家の隅に置かれたベッドの上で、一人の女性が眠っていた。

 ……間違いない。この人は私のお母さんだ。私の奥底に刻まれた記憶だけじゃない……私の体の全てが、この人は間違いなく私のお母さんだと言っているのがわかるの。

「……お母さん……?」

 お母さんに呼び掛けてみるも、一切の返事はなかった。

 既に外は明るくなってから時間が経過しているのに、寝ているのはおかしいと思ったけど……枕元でよくお母さんのことを見てみると、明らかに普通ではない。

 頬は痩せこけ、顔の一部が紫色に変色し、髪にも艶が一切無い。どう見ても、健康な人間には見えない。

「お母さん? ねえ、返事をして……お母さん!」
「……んんっ……」
「お母さん!」
「……? どちら様でしょうか……?」
「私だよ、お母さん! エリンだよ!」
「エリン……?」

 なるべく顔がわかるように、シュシュと眼鏡を取ってお母さんによく顔を見せた。

 お母さんは寝ぼけているのか、半分だけ開いた目で、私のことをジッと見つめる。それから間もなく、その目を丸くさせた。

「そんな……その顔、確かに面影が……いえ、あの子はもう帰ってこない……きっとこれは夢ね……あの日から何度も見た……愛する娘との幸せな時間を過ごす……夢……」
「夢じゃないよ! 私は帰ってきたんだよ!」

 私はボロボロになった掛け布団の中に手を入れて、お母さんの手を強く握る。お母さんの手は、骨と皮しか無いといっても過言ではないくらいに痩せ細り、冷たくなっていた。

「暖かい……これは、夢じゃないの? 本当にエリンなの……?」
「そうだよ! ずっと……ずっと会いたかった!」
「エリン……ああ、私の愛しい娘……帰ってきてくれたのね……!」
「お母さんっ!!」

 微かではあったけど、私の手を握り返してくれたお母さん。その目からは、一筋の喜びの涙が流れた。

 もちろん私も嬉しくて……感情を抑えきれなくなり、子供のように声を上げて泣いてしまった――


 ****


「エリン、落ち付いた?」
「うん……ごめんねお母さん。やっと会えたのが嬉しくて、つい子供みたいに……」
「いいのよ。お母さんもね……あなたが帰って来てくれて、本当に嬉しいもの」
「エリン、本当に良かったな」

 私が泣き止んでお母さんと話していると、まるでタイミングを見計らったように、オーウェン様が家の中に入ってきた。その隣には、先程の男性も立っている。

「オーウェン様! はい……! これも、全部オーウェン様のおかげです!」
「俺はほんの少しエリンの手伝いをしただけだよ」
「エリン、そちらの方は……?」

 そうだ、お母さんはオーウェン様のことを知らないのに、勝手に話を進めてしまったわ。ちゃんと紹介をしないと!

「紹介するね! この方はオーウェン・ヴァリア様! 私の恋人で、一緒に薬屋をしているのよ!」
「恋人……? 薬屋……?」
「はじめまして、アトレ殿。ご紹介にあずかりました、オーウェン・ヴァリアと申します。彼女とは縁があり、一緒に薬屋を営みながら、交際させていただいております」
「まあ……! エリンが帰ってきただけじゃなくて、恋人まで連れてくるなんて……やっぱりこれは夢じゃないかしら?」
「お母さんってば、これは夢じゃないから!」

 どうしよう、お母さんと話していると思うだけで、顔がニヤニヤしちゃう。オーウェン様の時もニヤニヤしちゃうんだけど、それとはまたちょっと違った感情なのよ。説明が難しいけど……。

「……ごめんなさい……エリン、オーウェンさん。本当はエリンを抱きしめたいし、オーウェンさんと親愛の握手を交わしたいのだけど……体が思うように動いてくれないの」
「お母さん、やっぱり調子が悪いの……?」
「お二人共、これ以上はアトレの体に障る。話の続きは、ワシの家でさせてほしい」
「……わかりました。お母さん、また後で来るから、ちゃんと休んでてね。話したいこと、たくさんあるんだ」
「ええ。ありがとう、エリン。楽しみにしているわ」

 後ろ髪を引かれる思いで家の玄関まで行くと、エリン……と私を呼ぶ声が聞こえてきた。

「なに、お母さん?」
「……おかえりなさい」
「っ……! うん、ただいま!」

 ――おかえりなさい。

 それは、たった一つの言葉だというのに、お母さんのたくさんの気持ちが含まれていた。それが嬉しくて……どうしようもないくらい嬉しくて。私は涙を流しながら、大きく頷いて見せた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】キズモノになった私と婚約破棄ですか?別に構いませんがあなたが大丈夫ですか?

なか
恋愛
「キズモノのお前とは婚約破棄する」 顔にできた顔の傷も治らぬうちに第二王子のアルベルト様にそう宣告される 大きな傷跡は残るだろう キズモノのとなった私はもう要らないようだ そして彼が持ち出した条件は婚約破棄しても身体を寄越せと下卑た笑いで告げるのだ そんな彼を殴りつけたのはとある人物だった このキズの謎を知ったとき アルベルト王子は永遠に後悔する事となる 永遠の後悔と 永遠の愛が生まれた日の物語

精霊の愛し子が濡れ衣を着せられ、婚約破棄された結果

あーもんど
恋愛
「アリス!私は真実の愛に目覚めたんだ!君との婚約を白紙に戻して欲しい!」 ある日の朝、突然家に押し掛けてきた婚約者───ノア・アレクサンダー公爵令息に婚約解消を申し込まれたアリス・ベネット伯爵令嬢。 婚約解消に同意したアリスだったが、ノアに『解消理由をそちらに非があるように偽装して欲しい』と頼まれる。 当然ながら、アリスはそれを拒否。 他に女を作って、婚約解消を申し込まれただけでも屈辱なのに、そのうえ解消理由を偽装するなど有り得ない。 『そこをなんとか······』と食い下がるノアをアリスは叱咤し、屋敷から追い出した。 その数日後、アカデミーの卒業パーティーへ出席したアリスはノアと再会する。 彼の隣には想い人と思われる女性の姿が·····。 『まだ正式に婚約解消した訳でもないのに、他の女とパーティーに出席するだなんて·····』と呆れ返るアリスに、ノアは大声で叫んだ。 「アリス・ベネット伯爵令嬢!君との婚約を破棄させてもらう!婚約者が居ながら、他の男と寝た君とは結婚出来ない!」 濡れ衣を着せられたアリスはノアを冷めた目で見つめる。 ······もう我慢の限界です。この男にはほとほと愛想が尽きました。 復讐を誓ったアリスは────精霊王の名を呼んだ。 ※本作を読んでご気分を害される可能性がありますので、閲覧注意です(詳しくは感想欄の方をご参照してください) ※息抜き作品です。クオリティはそこまで高くありません。 ※本作のざまぁは物理です。社会的制裁などは特にありません。 ※hotランキング一位ありがとうございます(2020/12/01)

そんなに聖女になりたいなら、譲ってあげますよ。私は疲れたので、やめさせてもらいます。

木山楽斗
恋愛
聖女であるシャルリナ・ラーファンは、その激務に嫌気が差していた。 朝早く起きて、日中必死に働いして、夜遅くに眠る。そんな大変な生活に、彼女は耐えられくなっていたのだ。 そんな彼女の元に、フェルムーナ・エルキアードという令嬢が訪ねて来た。彼女は、聖女になりたくて仕方ないらしい。 「そんなに聖女になりたいなら、譲ってあげると言っているんです」 「なっ……正気ですか?」 「正気ですよ」 最初は懐疑的だったフェルムーナを何とか説得して、シャルリナは無事に聖女をやめることができた。 こうして、自由の身になったシャルリナは、穏やかな生活を謳歌するのだった。 ※この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「アルファポリス」にも掲載しています。 ※下記の関連作品を読むと、より楽しめると思います。

悪役令嬢と呼ばれて追放されましたが、先祖返りの精霊種だったので、神殿で崇められる立場になりました。母国は加護を失いましたが仕方ないですね。

蒼衣翼
恋愛
古くから続く名家の娘、アレリは、古い盟約に従って、王太子の妻となるさだめだった。 しかし、古臭い伝統に反発した王太子によって、ありもしない罪をでっち上げられた挙げ句、国外追放となってしまう。 自分の意思とは関係ないところで、運命を翻弄されたアレリは、憧れだった精霊信仰がさかんな国を目指すことに。 そこで、自然のエネルギーそのものである精霊と語り合うことの出来るアレリは、神殿で聖女と崇められ、優しい青年と巡り合った。 一方、古い盟約を破った故国は、精霊の加護を失い、衰退していくのだった。 ※カクヨムさまにも掲載しています。

偽物と断罪された令嬢が精霊に溺愛されていたら

影茸
恋愛
 公爵令嬢マレシアは偽聖女として、一方的に断罪された。  あらゆる罪を着せられ、一切の弁明も許されずに。  けれど、断罪したもの達は知らない。  彼女は偽物であれ、無力ではなく。  ──彼女こそ真の聖女と、多くのものが認めていたことを。 (書きたいネタが出てきてしまったゆえの、衝動的短編です) (少しだけタイトル変えました)

自業自得って言葉、知ってますか? 私をいじめていたのはあなたですよね?

長岡更紗
恋愛
庶民聖女の私をいじめてくる、貴族聖女のニコレット。 王子の婚約者を決める舞踏会に出ると、 「卑しい庶民聖女ね。王子妃になりたいがためにそのドレスも盗んできたそうじゃないの」 あることないこと言われて、我慢の限界! 絶対にあなたなんかに王子様は渡さない! これは一生懸命生きる人が報われ、悪さをする人は報いを受ける、勧善懲悪のシンデレラストーリー! *旧タイトルは『灰かぶり聖女は冷徹王子のお気に入り 〜自業自得って言葉、知ってますか? 私をいじめていたのは公爵令嬢、あなたですよ〜』です。 *小説家になろうでも掲載しています。

運命に勝てない当て馬令嬢の幕引き。

ぽんぽこ狸
恋愛
 気高き公爵家令嬢オリヴィアの護衛騎士であるテオは、ある日、主に天啓を受けたと打ち明けられた。  その内容は運命の女神の聖女として召喚されたマイという少女と、オリヴィアの婚約者であるカルステンをめぐって死闘を繰り広げ命を失うというものだったらしい。  だからこそ、オリヴィアはもう何も望まない。テオは立場を失うオリヴィアの事は忘れて、自らの道を歩むようにと言われてしまう。  しかし、そんなことは出来るはずもなく、テオも将来の王妃をめぐる運命の争いの中に巻き込まれていくのだった。  五万文字いかない程度のお話です。さくっと終わりますので読者様の暇つぶしになればと思います。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

処理中です...