ワンダラーズ 無銘放浪伝

旗戦士

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第二章: 銀騎士は紅に舞う

第二十一伝:嘲笑う銀の狼

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<騎士団詰め所・リュシアンの執務室>

 ヴィクトールが騎士団から失踪したという報せが流れてから、約10時間の時が流れた。
明るく照らされていた周囲は瞬く間に群青色の暗い空に包まれ、日中に比べて人通りは数えるほどしか大通りには出ていない。

そんな中、多くの書物が綺麗に整頓された本棚に囲まれた初老の男性、リュシアン・クラークは日が落ちた夜になっても構わずに書類仕事に精を出している。
使い古された金属製の万年筆のペン先を契約書や報告書の記入欄に押し付け、自身の名前を慣れた手つきで描いていく。

リヒトクライス騎士団では残業などの営業時間外活動は推奨されておらず、夜まで仕事を行う場合には届け出を事務所へ出す必要がある。
執政官であるリュシアンもその枠に含まれており、その申し込みを終えて彼は自身の執務室で仕事を行っていた。

上に立つ人間はまず下にいる人間の苦しみを理解する事に始まる――。
そんな事を頭に思い浮かべながら、リュシアンは書き終えた報告書を机の隅に追いやった。

「……ふぅ」

短いため息を吐きながらペンを机に置き、傍にあったマグカップを手に取る。
口を付けて縁を傾けると黒く苦い液体が彼の喉元を通り過ぎ、疲れが伴っていた彼の身体をカフェインによって強制的に呼び覚ました。

「まだまだ。現役時代に比べれば、この程度の苦労……」

カップを机に置こうとした瞬間、部屋に立て掛けられた彼の剣が視界に入る。
彼の祖父の代から伝わる宝剣はかつて多くの敵を斬ってきた。
しかしその年季を感じさせない程、柄の煌びやかな銀の装飾が蝋燭の火を反射する。

そしてマグカップの中身が空になろうとしたその時。
リュシアンの執務室の扉が何者かによってノックされる。

僅かに余ったコーヒーを一瞥し、リュシアンは椅子から立ち上がると青銅製のドアノブを捻った。

「おや、貴女は……」
「夜分遅くに失礼するっす、リュシアン執政官。御耳に入れたい事があったので馳せ参じました」
「ご苦労様です。今コーヒーをお持ちしますね」
「お気遣いなくっすよ。とりあえず報告だけなので」

猫の様な可愛らしい双眸とパーマがかった黒髪のボブカットを揺らしながら、レーヴィンのもう一人の副官であるイングリット・マルギースが夜にも関わらず緩い雰囲気を携えてやって来た。
笑顔で彼女を迎え入れると、イングリットはリュシアンと向かい合わせになるように椅子に座る。

「それで、報告とは? 」

彼の穏やかな口調の中には、多少なりとも厳格な雰囲気を漂わせていた。
イングリットはそれに臆する事なく前髪を指先で弄びながら、鎧の懐に空いていたもう片方の手を突っ込む。

に関して私が聞き込んできた情報っす。やはり、私たちの中にスパイがいるかと」
「そうですか……虚しいものですな。同じ志を持った人間に裏切られるとなると……」

綺麗に切り揃えられた灰色の顎髭を撫でつつ、二人の間に生じた虚空を仰いだ。
被っていた縦長帽子を机に置き、リュシアンは壁に立て掛けられていた宝剣を手に取る。

「……その剣を、お使いになられるので? 」
「はい。いずれにせよ……裏切り者がどんな人物であるかは関係ない。"裏切った"、その事実に基づき私は公平に決断を下す。……分かってくれますね? 」
「勿論っす。その為に来たんですから」

鞘から刀身を少しだけ抜き、銀色の剣腹をじっと見つめるリュシアン。
先ほどの穏やかな眼差しはとうに消え失せ、彼の双眸には殺意の籠った覚悟が宿る。

リュシアンにとって、自身の手を汚す事は恐れるに足らない。
指導者はまず下につく者へ示しを見せる――。
嘗て彼の父親が死に際に放った一言を脳裏に浮かべ、自嘲気味に笑みを浮かべた。

たとえ裏切り者が騎士団長でもその副官であろうと、義に反した者は斬る。
不義は義によって裁かれるべきであり、今回の一件もその枠に留まるものに過ぎない。

「……リュシアン執政官」
「えぇ。……そろそろ隠れるのは止めにして、姿を現したらどうですか? 」

宝剣を鞘ごと左手で掴み取り誰もいない執務室の片隅へ剣を抜き払うと、リュシアンはその切っ先を向ける。
剣先から不気味な笑い声が聞こえたと同時に執務室に張り込んでいた暗殺者――否、ヴィクトール・パリシオが姿を現した。

しかし、彼の服装は普段着用している騎士団の正式装備とは明らかに異なる。

姿を隠す事だけに特化した軽装に加え、暗闇に身を隠すための真っ黒な塗装。
その立ち振る舞いと醸し出される雰囲気は、正に一流の暗殺者そのものであった。

「あらま、バレてました? リュシアン執政官殿」
「はい。貴方の行動は逐一監視させてましたから。ですが驚きましたよ、まさか本当にヴィクトール副隊長が裏切り者だとは」
「男のストーカーはモテないっすよ? まあ別にいいですけどね、ここで死ぬんですし」
「……これは傑作だ。貴方はまだ、自分が助かると思っている。明日にはあの事件の犯人として、皆に知らされるでしょう」

リュシアンの言葉を聞くなり、一瞬だけ呆気に取られた表情を浮かべた後顔を俯かせ、再びヴィクトールは口角を吊り上げる。
歴戦の戦士であるイングリットとリュシアンでさえも、その笑顔からは狂気を感じられた。

「……襤褸ぼろが出たな、大馬鹿野郎」
「はて? 何か仰いましたか? 」

「いんや。他に言い残す事は? 」
「いいえ。特にはありませんねぇ」

どこからともなく取り出した折り畳み式の十字槍を右手に握り、その穂先をヴィクトールはリュシアンに向ける。
直後彼を庇うようにイングリットが二振りの短剣を逆手に構え、彼の前に立ちはだかった。

「――後悔するなよ。俺はもう……あんた達のだ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「まさか……貴方が裏切るとは思っていませんでした。副隊長」
「良く言うよ。本当は全部分かってたんじゃないの? 」

ヴィクトールはリュシアンに向けた槍の穂先を突き出すも、×字状に構えられた双剣にその切っ先を阻められる。
彼の言葉を一瞥しながら、後方へ飛び退いたヴィクトールを追撃するようにイングリットは縦一文字に右手の剣を振り下ろした。

「おおっとぉ」

相も変わらず口元から笑みを崩さないヴィクトールはは槍の太刀打ちの部分で向かってきた銀の反った刃を受け止め、その拍子に石突を彼女の足元目掛けて払う。
上方へ飛び上がる事によってこれを避け、がら空きになった彼の頭頂部目掛けてもう片方の手の中にあった片刃の短剣を突き出した。

頭上から感じた殺気を取り払うようにヴィクトールは両手を掲げ、手にしていた銀の槍を一回転させてイングリットを無理やり引き剥がす。
直後前方から全身の毛が逆立つような悪寒に襲われ、彼はその方向へと視線を見やった。

「――ほう」
「おいおい……あんたまで出てくるのかよ……」
「えぇ。傍観している訳にはいきませんから」

穏やかな口調とは裏腹に、恐ろしいまでの殺意の籠った白い一閃がヴィクトールの眼前に迫る。
不敵な笑みを浮かべていた彼も流石に焦りを感じたのか、冷や汗を額に浮かべながら十文字槍の鎌の部分でリュシアンの剣を引っ掛けようと銅金を握り締め、突き出された剣を鎌に引っ掛けた。

だがリュシアンは弾かれた反動のまま剣を後方へ飛び退き、投擲された剣は先ほど彼が座っていた椅子の背凭れに突き刺さる。

その隙をヴィクトールが逃すはずも無く、手にしていた口金から持ち手を鏑巻きまで移動させるとそのまま片手で十文字槍の穂先を突き出した。

鉄製の槍はリュシアンの身体に触れる事は叶わず、彼の身に纏っていた深紅のローブにだけ傷を付ける。
舌打ちをしながら彼は再び右方から感じ取った殺気の方向へ槍を薙ぎ、イングリットの双剣と一度だけ火花を散らした。

一人の相手と鍔競り合った状況になるのは確実に隙を晒す事になる。
イングリットだけであるならまだしも、あのリュシアンも相手取らねばならないのはヴィクトールにとって決定的に不利だった。

(あの爺さん……普段は自分の力を隠してやがったな……)

そんな事を頭の片隅に浮かべながら、右手の中だけで槍を回転させた後自身の背中を経由して左手に持ち替える。
流れるような動作でイングリットの足元から胴体目掛けて槍を振り上げ、胸の前に構えていた双剣を弾いた。

「少し眠ってな、イングリット」

その後彼は彼女の下腹部目掛けて右足を勢い良く伸ばし、足の裏に肉を蹴った気持ちの悪い感触が走る。
イングリットが執務室の本棚に叩きつけられている光景を一瞥すると眼前に迫ったリュシアンの剣を肉薄し、横一文字に槍を薙いだ。

「ちぃっ! 」

一対一の戦闘ならヴィクトールにも分が在るのだが相手は二人、加えて幾多の戦場を乗り越えてきた相手となると話は別だ。

彼の扱う槍は剣を用いる相手に対して得物の長さで勝っている分、二対一の戦いには不利な状況に立ってしまっている。
双剣と長剣を相手取るのには幾分か取り回しが悪く、必ず隙を作り上げるという理由があった。

「さて……先ほどの威勢はどこに行きましたかな? 」
「さあね。俺ぁ忘れっぽい質でなッ! 」

穂先と剣腹が鍔競り合っている様子を見かね、ヴィクトールはその状態からリュシアンの宝剣を弾く。

がら空きになった彼の腹部へ石突を突き出し、リュシアンの身体の内部に溜め込まれた酸素を強制的に吐き出させた。
呻き声と共に後方へ吹っ飛ばされる彼を見逃すはずもなく、両手に握った槍を縦一文字に振り下ろす。

ヴィクトールが感じたのはリュシアンの腹部を捉えた肉を斬る感触でも、鋼がぶつかり合う固い感触でもない。
目の前にイングリットが飛び出し、彼女の肩口の筋肉を切り裂いた心地の悪い感覚がヴィクトールの掌に走った。

「ぐっ……! 」
「イングリットさん! 」

片腕を犠牲にしてまでイングリットは追撃を加えられそうになっていたリュシアンを庇い、鎧の隙間から生温かい液体が流れ落ちるのを一瞥する。

「その心意気は褒めてやるよ、イングリット。だが――」

相手が悪かった。
そう言わんばかりにヴィクトールは無慈悲にも渾身の力で槍を握り締め、彼女の胸部目掛けて穂先を突き出した。
使えなくなった片腕を捨て、もう一方の短剣で防ごうとしたイングリットは執務室に飾ってあった騎士団の鎧を巻き込んで壁に叩きつけられる。

「……さぁて。残るはあんた一人だな、リュシアン」
「何故……何故あなたは……! 」

口から鮮血を吐き出しながらもリュシアンは再び剣先を対峙するヴィクトールへ向け、射殺すような視線で彼を睨みつけた。

「怖いねぇ。せめてもの情けだ、苦しませずに逝かせてやるよ」
「ぐっ……! 」

既にヴィクトールからは笑みなど消え失せ、地面に伏せるリュシアンを見下ろすように槍の穂先を彼に向ける。
最早忠誠など彼にはない。
あるのはたった一つの狙いのみ――リュシアンを殺す事。

残酷に向けられた視線を一瞥し、リュシアンの双眸には銀色に煌くヴィクトールの槍だけが映った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 「な、に……? 」

自分は確かに止めを刺したはずだ。
それなのに何故――自身の腹部から赤い液体を纏った銀の刃が伸びているのか、ヴィクトールには理解できなかった。

全身から力が抜けていく。
致命傷を負わされた痛みは不思議と感じないが、彼の身体はそのまま音を立てて執務室の床に倒れた。

そして、微かに聞こえるブーツの足音。
見覚えのある靴であることはとうに理解していた。

「相手が勝ち誇った瞬間がとなる。お教えしませんでしたかな、ヴィクトール副隊長」

リュシアンの声が、朦朧とした意識の中でヴィクトールの頭の中に響く。
――。
あの時自分が見せられていたのはすべて幻であったと、彼はようやく理解する。

「へ、へへっ……」

次第に全身から温度が失われていき、自由自在に動かしていた両腕でさえもわずかな距離でしか動かない。
不思議と恐怖は感じなかった。

「不義には義を以て制す。この騎士団の掟です」
「ば、馬鹿……が……」

死ぬその最期まで不敵な笑みを絶やさず、辛うじて動く首を傾けリュシアンの顔を見上げる。
下種な笑いを浮かべてやがる、とヴィクトールは自嘲気味に笑みを浮かべた。

「せめてもの情けです。止めは苦しまずに……」
「か、掛かった……な……」

向けられた剣先を臆することなく見つめ、彼はその銀の凶刃が自身の首を刈り取るその時まで剣を見続ける。
不敵な笑みを浮かべながら、間もなくヴィクトールの意識はそこで途切れた。
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