宿泊先にご用心

ヨージー

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序章

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 ベッドの上で端末を操作して、今日行われた講演会の報告をまとめている。講演会自体は、最新の印刷技術に関する内容で、真新しい物として志木玲子が感じたのは、今回の報告書のメインとしても活用するが、深紅ケース内で中空に印刷する技術だった。これは今までの机上に印刷することしかできなかった機種と比較して、形状的な優位性があった。けれど、内側に空洞ができてしまう印刷対象では、取り出した際に精度が下がる場合も見られるらしい。
 玲子としては、自社のオンボロ装置を思うと、最新技術を目にするだけ、虚しくしかならないと思っている。玲子はスーツのまま、ホテルのベッドで作業を進めている。シワが気になるが、それ以上に玲子は疲労が積み重なっていた。急遽先輩の代役として派遣されたため、日常業務も残してきており、その事も玲子の疲労を強く感じさせていた。
 本来、この業務を任されていた先輩の森田圭衣は、昔の顧客からのクレームで来られなくなっているため、圭衣の方が一層負担を受けていそうで、連絡をとっていたが、幸いすぐに収集がついたらしい。急遽あてがわれた玲子の方をむしろ心配してくれていた。圭衣は仕事で外泊をした経験は、社員旅行を除けばはじめてのことであったが、正直こりごりな気分だった。一日中歩き回りながら挨拶をして周り、報告書のための情報収集に努めた。学生のころも決して体力に自信がある方ではなかったが、社会にでてからの体力の落ち込み方も、気分を暗くさせた。玲子は子どものころ、よく地元の海で泳いだ。その事もあって体力ごとで、目立つほどではないにしても平均点はだせるつもりでいたのだが、今日を振り替えると、それすらも怪しく思えてきた。
 折角電車ではるばる時間をかけて移動してきたので、講演会のあとは呑みに出掛けようか、などとも考えていたが、そんな体力は残っていない。夕食をとるのも億劫で、今晩はこのまま何も食べないつもりだ。ホテルに帰りついた時点で、予定された夕食の時間帯が始まっており、それに間に合うよう、部屋に急ぎ入ったが、途端に再度外へ出ることが億劫になってしまった。
 時間をもて余し、部屋のなかで出きることは仕事くらいしか思い付かなかった。作業に没頭していられる内はいいが、すでに玲子のなかでは虚しさが勝っていて、夕食の時間もすでに終了してしまっていた。今は時折返信のある圭衣との連絡くらいしか気持ちの拠り所がなかった。

 低い音とともに部屋の灯りが消灯した。「え、わっ」部屋の灯りは玲子の操作する端末だけになった。ベッドから手探りで立ち上がると、灯りが戻った。室内冷蔵庫が低い唸り声をあげる。玲子は肩をすくめてベッドに倒れ直した。早速圭衣に今の停電を連絡してみた。すぐには連絡が帰ってこない。圭衣は仰向けになって天井を見上げた。廊下から、停電のお詫びのアナウンスが聞こえていた。トラブルの際の迅速な対応が下げた印象をプラスに切り替えることで有効だと、何かの記事で読んだことを思い出した。

 玲子はアイスを食べている。そのアイスは子どものころ両親がよく買ってきてくれていたもので、大人になった今でもたまに食べている。古びたベンチは、玲子が地面に届かない足を振るごとに軋んでゆれた。玲子は何の狙いもなく、両足を交互に揺らして、ベンチを軋ませた。玲子の足からサンダルがずれ落ちた。落ちたサンダルに目線を向けたとき、視線を感じて頭をあげるとそこには玲子のよく知る男の人が立っていた。

 玲子は何がおきたのかわからなかった。大きな音が聞こえる。先ほど聞いたアナウンスとはボリュームが異なる。どうやら玲子は、ベッドでそのまま眠りに落ちていたらしい。アナウンスはホテル内の火災を告げるもので、玲子は飛び起きた。玲子は端末と貴重品をつかんで、急いで部屋の外へ出た。通路には他にも飛び出してきたと思われる宿泊客が見られた。スーツなのは玲子だけだった。
 通路の人々はエレベーターや階段に向かい歩いていて、エレベーターにはすでに何人もが並んでいた。ここは確か三階だったはず、と玲子は階段の方へ向かった。そして、階段から他の宿泊客たちが響く音を立てて階段を下るのを見ながら、ホテルに対して反感を抱いた。それから、自分の不運さに悲しさが込み上げてきた。玲子はため息を一つついてから、階段を下り始めた。

ホテルのロビーには十数人の宿泊客が密集して立っており、玲子もそこへ加わった。腕時計を確認する。時刻は午前を少し回っていた。端末に圭衣からの連絡が入ってきていた。送られてから一時間くらい経過している。現状の火災についての連絡を返しておいた。スタッフ通用口から恰幅のよい紳士がでてきた。ハンカチで頭部の汗を押さえている。
「先ほどのアラートは誤報ということがわかりました。大変申し訳ありませんでした」
男は姿勢をただしてから頭を深く下げた。宿泊客の集団の中から舌打ちが聞こえた。
 集まっていた宿泊客たちは各々エレベーターに乗り込んでいく。わずかに階段を使う人も見受けられたが、玲子は大人しくエレベーターを待つことにした。おそらく三回程度の乗り降りを待てばエレベーターへ乗れそうに思えた。列が減るのを待つ間に圭衣に追加で火災が誤報だったと連絡した。まだ火災の連絡は読まれていなかった。
 
 玲子が部屋に戻った頃には外からバイクなどの走行音が聞こえてきていた。どんな時間帯でも働いている人がいるようだ。それは社会人として一人立ちしてからなんとなく感じていることだった。玲子はシワのついたジャケットをクローゼットのハンガーにかけた。

 玲子は講演会の二日目に参加するために、身なりを整えていた。昨晩はほとんど睡眠が取れていないが、それを理由に講演会を欠席するつもりはなかった。朝から強い日差しがあり、今日は暑くなるかもしれない、と更に気落ちしそうになってくる。ホテルの外はすでに活動を感じさせる喧騒が聞こえてくる。その時、平常の喧騒に加えて、サイレンが聞こえた。どうやら近づいてきている。音からするに救急車のようだ。玲子ははめ殺しの窓から、ギリギリ見える道路に救急車が停車したのを確認した。急病人だろうか?昨日の出来事を思えばそういう人が居てもおかしくはないように思えた。昨日見かけたホテルのオーナーらしき男を思いだし、さらに負担が増えることへ同情した。その男とは昨日、正確には今日だが、玲子はごたごたの合間に話をしていた。男は心底参っている様子だったが、かなり紳士的に対応していたように感じられ、玲子は少なくとも、その男に対しての反感はもうなかった。
 玲子は化粧を進めながら、化粧のりが普段と比較して悪いと感じた。昨日、化粧を落とさずに数時間眠ってしまったためだろうか。体調を気遣いながら働くというのは、なかなかどうして両立が難しい、と最近玲子は考えている。仕事で成果をあげたいと思うほどに、自分に対しての丁寧さが失われてしまう。年数を重ねれば、妥協点が見えてくるのだろうか。玲子が化粧をしていると、またサイレンが聞こえてきた。先ほどの救急車が動き出したのではなく、音が異なっていた。今度はどうやらパトカーらしい。しかも、パトカーもこのホテルの周辺に停まったようだ。昨日の出来事に事件性があったのだろうか。

 玲子が身なりを整えたころ、部屋の戸が叩かれた。なんだろうか。玲子は戸を開ける。戸の外には男と女が一人ずつ立っていて、スーツ姿だ。「なんでしょう?」玲子は自体がつかめず、二人を交互に見ながら話した。
「私達は警察です」女の方が話すと、男の方が、いわゆる警察手帳を開いて見せた。「警察がどうして」男と女は一度アイコンタクトをとったあと、女の方が話し始めた。どうやらどちらが話すかを確認したらしい。「このホテルの宿泊者がお一人亡くなられました」
「なくなられた?死んでいた、ということですか?」
「その通りです。個室のなかでお亡くなりになられていましたが、殺人と見られています」
「殺人、ですか…」
 玲子は事態を言葉ではわかっても、完全に理解ができなかった。
「はい」
 女の方がそこまで話すと、男の方が咳払いをして話し手を引き継いだ。
「昨日の停電はご存知ですね」
「ええ、まあ」
「その停電ですが、どうにも人為的な物のようです」
「誰かがわざと停電させたのですか」
「そうです。そして、詳しくは言えませんが、その実行犯は、殺人の方にも関与している可能性が高いです」
「なんで…、停電に意味があったのですか」
「調査中です。ただ、停電に関しては、この建物への送電線が切られたことが原因とわかっています」
 玲子はふと部屋の奥の窓から外を伺った。電線を切る。感電しないのだろうか。なぜそんなことをしたのだろう。部屋の灯りはすぐに灯っていたはず。
「そこで志木さん、あなたは他の宿泊客から、その後に起こった火災による避難騒動の時、一人だけスーツ姿だったと聞いています」
「え、はあ」
「我々は停電の時間帯から見て、夜の暗さに紛れて犯人が送電線を切断したと考えています」
「はい」
「夜とはいえ、深夜です。皆さん部屋着でいたのではないかと思います。松木さん、あなたはどうしてスーツだったんです?」
「え、いや、昨日は疲れていて…」
「はあ、スーツのまま寝てしまった?」
「ええ、そういうことです」
「志木さん、現状ではあなたはかなり疑わしく思われてしまっています」
 玲子はあなたたちが思っているわけで、そんな大多数が思っているような言い回しをしないで欲しいと思った。
「私ではないです」
「ええ、わかります。そのお話の真偽を確かめるためにご同行お願いできますか?」
「そんな、私はこれから仕事があって…」
「志木さん、人が亡くなっているんです。そこは…」
「…、会社に連絡してもいいですか?」
「ええ、もちろんです。お待ち致します」

 刑事たちは北牧と佐藤という名前だということがあとからわかった。男の方が北牧で、女の方が佐藤というらしい。玲子は幸い昼過ぎには解放された。昨日の夜のことや、ホテルへ泊まった経緯などを聞かれた。玲子が、聴取を終えたころ、警察署内で見知った男を見かけた。確か中島という名前だった。彼とは昨日の展示会で顔を合わせている。確か名刺ももらっているはずだ。確か線路の細かな部品を制作していると、話していたような気がする。彼も同じホテルに宿泊していたのだろうか。
 警察署内では他にもホテルで見かけた人がおり、自分だけが特別標的となっているわけではないことがわかり、少し安心した。

 会社からは心配する連絡が入っていたので、解放された旨を連絡しておいた。講演会には行かなくてもいいといってもらえた。けれど、巻き込まれた事件に関しても後日報告しなくてはならないだろうな、と少し気を重くした。ホテルへ一度戻って荷物を取りに行かなくてはならない。今日は、講演会の二日目を終えてすぐ直帰の予定だったので、このまま泊まらず帰らなくてはならない。明日は休みにしてもらっているが、新幹線の指定席券は既に購入済みだった。納得のいかないことだが、警察は自分達で連れてきたくせに、帰りの車はだしてもらえなかった。このタクシー代はどこへ請求しろというのだろうか。なんだか警察に関わるとこんなに疲労しなくてはならないのか、となんだか警察を見る目が変わってしまった気がした。
 
 ホテルにつくと、なるほどホテルへ繋がっていた電線が切られて垂れ下がっていた。とても目立っていたので、これは日中に犯人が切断したとは思えなかった。それに夜間だったとしても、誰にも怪しまれずにできる作業だろうか。そもそも、電線を切断すること事態にリスクがありそうだ。電線に触れたら、と思うとぞっとした。
 ホテルから出る時に周囲を見渡したが、どうやら半日の作業で、ある程度、収拾がついたようで、チェックインのときとあまり変わらない印象をうけた。不意に空腹感を感じた。朝のビュッフェも食べられなかった、とそこで気づいた。領収書による後日精算となるため、一時的とはいえ、損した気分だ。また、警察に対するなんともいえない感情がぶり返してきた。時間としては講演会終わりに比較してゆとりがあったので、せめてこの最後の食事くらいは少し観光気分を味わえるところにしようか、と端末で検索しようとしたが、体を襲う疲労感がその考えを妨げた。
「駅のコンビニで済ませよう」
 玲子はふらつく足で駅へ向かった。
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