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第5章 束の間の休息(5日目)
5ー4 友達2
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三歳までのケララ州に住んでいた時のことはよく覚えていない。転勤族の父に従いマリアはその後しばらくタミルナードゥの州都チェンナイにいた。
家の中ではマラヤラム語、タミル語もそこまでマラヤラムとは違わず、学校ではヒンディー語の成績も良かった。だから小学校の終わりに今のUP州に越すことになっても心配しなかった。
学校の授業こそ英語なので問題なかったが、時に先生がはさむヒンディー語のジョークがわからず、クラスの子たちとのヒンディー語の会話にもついていけなかった。
今では普通にクラスメートと話せるが、ヒンディー語ネイティブの友人たちほど自在には言葉を操れない。
マリアは昔もっとおしゃべりな女の子だったように思う。
だからといって今の自分が嘘でもない。ただ変わったな、というだけだ。
ラジューも同じだとわかった。
口数が少ないのは立場で控えているのかと思ったが、マラヤラム語になれば結構しゃべる。
初めに目が止まったのは掃除が家のメイドよりずっと丁寧だったことだ。
言うと仕事はきちんとしたいのでと答えた。見た目からは年下に見えたが聞けば同い年、中身は自分よりずっとしっかりしていて落ち着いている。社会に出たならそうなれるのだろうか。
ヴィノードやナイナは結構彼にひどいことを言っている。自分も昔、ヴィノードたちにからかわれ気が重かった。回りはおとなしく我慢したと思っているようなのだが、実は結構言い返している。語気は弱く内容にも説得力がなくて先生が叱ってくれるまで押し留められなかったからその印象になっているのだろう。
ラジューは使用人だから自分のようには返せずただ耐えている。
見ていて辛かったのと同時に彼の強さも伝わってきた。
大人になって家を切り盛りする女主人になった時にはメイドに我が家の味を出させなくてはいけない。だから自分でも料理出来ることが必要だ。家でも親戚の間でもそう言われていてマリアは母から台所仕事を習い続けている。おかげで南の料理しか作れない自分でも野菜の皮むきなど何とかここでも役に立っている。
(だけど、ちゃんと指示するためならなんで掃除や洗濯は自分でやらないんだろ?)
長年の、素朴な疑問だ。
ルチアーノがやっていたという洗濯物畳みを手伝おうとしたところ斜めにあちこち折り目が付く有り様で、
『洗い直しになるので……』
とラジューに困り顔で止められた。洗濯や掃除はメイドがやるのを遠く見るだけで何もわからない。
「ラジューは恐くない?」
彼は丁寧に女子棟の白い床を掃く。たいしてほこりも舞っておらず掃く必要があるのかわからない。
「恐いです」
答えは意外に素直だった。
会議で常に票を入れられること。それに、
「誰かに狙われていることが、です」
ダウドを殺した仕掛けは自分に向けられたものだとラジューは考えている。
「夜の会議でのことならわかるんです。学生さんは皆さん同じクラスですから、除け者にするとなったら仲間はずれのわたしがやりやすいでしょう」
「そんな!」
ラジューは一瞬ほうきを止めて振り向き微笑んだ。
「皆さんお友達でしょう? 当たり前だと思います」
「友達って言うのかな。皆がそうとは言えないなあ」
ガーラヴやヴィノードは友人とは違うと思う。
「一緒に勉強する『仲間』かな?」
「それはわかります」
明るい声のまま返してきた。
「わたしも、前の家のご主人様には言葉を学ぶことを勧めてもらった恩義を感じています」
それでマリア以外の学生ともヒンディー語で何とか意思の疎通ができる。
「同じような情って言うのでしょうか、大事にしたい思いは皆さんにあるのだと思うんです」
処刑者に選ばれることが恐い。だが会議で標的になりやすいのは理解出来る。
「わたしに何か悪意を抱いていらっしゃるなら会議でどうにでも、と思うのですが。わざわざわたしたちの場所に入ってまで、というのがわからなくて恐いです」
言葉を探して上を見て、
「不気味です」
と締めた。
ラジューは素直に本音を語っていた。
母語ですら言葉に迷う、自分への悪意の正体がつかめない感覚。
落ち着いた女子学生、アディティの指摘の通りあの仕掛けはゲームのルール内のことなのだろうがあの場所に仕掛けた意図は読めない。
「そういえば、ルチアーノ様に言われたんですがー」
無事に帰れたなら学校へ戻ることを考えた方がいい。そのことについて、
「マリアさんにもご意見を伺うようにと……」
「え! わたし? どうして?」
やたらと慌てる。
「成績がご優秀だからだそうです」
学業のことは成績がいい人間に聞くべきだと。
「そんなに変わらないけどなあ。うちのクラスで優秀っていうのはスティーブンだよ」
声に寂しさが混ざる。
「七年生の途中で止めてるんだよね。どうやって編入とか出来るんだろ?」
「そこは、修道会の施設の方に聞けばわかるかもとおっしゃってました」
「ああそうだ。ルチアーノも頑張り屋さんだもんね。ラジューと同じで」
「わたしは別に……」
反応出来ない。
結局、学校は行けたら行った方がいいよとマリアも言った。
「ねえ。ラジューも友達はいるんでしょ?」
虚をつかれた。腕の動きが止まったことに気付きすぐに掃き作業を再開する。
色とりどりの衣服が種類ごとに段ボールにまとめられたロビーの向こうでニルマラが古典舞踊らしき練習をしている。彼女はうるさくはないが同室のナイナが厳しいので気をつけなくてはならない。
「……村にはいます」
手紙も途絶えだちになったが。
「学校には?」
学院という職場では、
「わたしは新米で教えを乞う立場ですから」
「だったら前の、その良い方のお家にはお友達はいた?」
興味津々という様子だ。そこも使用人の人数は少なく指示をする人か教える後輩のどちらかしかいなかったと語る。
「……お勤めに出たら友達は出来ないのかな? お父さんは会社のお友達のお話もするんだけれど」
「マリアさんのお父上は大きな会社にお勤めなのではないですか?」
「そうだね」
電気技師で、何年もかかるプロジェクトの現場を担当し完成したらまた次の現場へ移る仕事をしているという。
「でしたらわかります」
同じような仕事をする同じくらいの年の人が多くいたなら友達も出来るだろう。
「じゃあわたしがラジューの友達になるね!」
いきなりだった。
「ラクナウには友達がいないんじゃ寂しいでしょ?」
「……友達って、なるって言ってなるものだったでしょうか?」
「そうだよ!」
マリアは屈託がない。素直な育ちの良さがここぞと発揮されている。
口元が緩んだ。
「はい。ならばお友達にならせていただきます」
「そう! 友達!」
ーーーーー
「……友達!友達! ってはしゃいで馬鹿みたい! ああいうの何て言うの? 聞いてて胸に痰が詰まる? 喉がかゆい?」
「そうは言わないんじゃね?」
広間に戻りまくし立てたシャキーラにイジャイが突っ込み、
「友達なら問題ないだろ」
あっさりアッバースもいなす。
「ロマンス系だったらちょっと問題だけどな」
ナラヤンも斜め上を仰ぎながら答えた。相変わらず顔がいい。と、
「ってか君もマラヤラム語わかるの?」
いきなりその顔を向けられシャキーラは慌てた。無駄に大きく首を横に振る。
「前に何かの映画で出てきて覚えていただけ。マラヤラム語で『友人』はスーハラットゥっていうって」
「ふうん」
「これがスイートハートだったら洒落にならねえけどさ」
イジャイはにやつきアッバースは、
「マラヤラムでスイートハートって何て言うんだろうな?」
真顔で首を傾げる。
「知ってる?」
「知ってるわけないでしょ!」
イジャイに返す。
「スイートハートはsweetheartだろ。英語だろうが」
ナラヤンは呆れ顔だ。
(全く男ってのはガキなんだから)
シャキーラには理解出来ない。昨夜はたまたま犠牲者が出なかった。それだけで今夜これから、またスティーブンやダウドのことを考えれば昼間だっていつどのように襲われるかわからない。いつまでここに閉じ込められるのか見当もつかなくて先のこと、この後の自分の命だって不明だ。友達どころか誰が自分を狙う殺人者なのかもわからない。
くだらないことでふざけている場合ではない。
掃除しながらいちゃついているのはもっと場違いだ。
男子に関しては、誘拐されていることへの危機感が違うからある程度仕方ないのかもしれないが。
(でも)
先ほどアディティからの「残念なお知らせ」をアッバースに伝えたが彼は顔色も変えず、
『ん。わかった』
とだけ答えた。自分が彼女から聞いた時は思いっきり顔に出してしまったのに。
彼がどうこうというのではなく、結婚するならアッバースのような人がいいとは思う。信頼に足る人柄で、狂信的でも怠慢でもない適度な信仰のムスリムだ。
「ラジュー女子棟だよな。昨日見てないから例の水場を見ておきたい」
昨日の午後以降、ナラヤンとバーラムはダウドに付きっきりで広間に出ていなかった。ダウドが倒れた使用人用のスペースを見たいとナラヤンが言い出す。
「あいつに断ってねえぞ」
「断ったら意味ないだろ?」
「そういうことな」
少し沈んだ顔でアッバースは飲み込み連れ立って奥へ向かった。
そこに寄り添っているはずだったスティーブンはもういない。後ろ姿に強く胸が締め付けられる。
もう嫌だ。こんな酷いところ、耐えられない!
ーーーーー
体の芯がふらりと揺れる。
内容はわからないが楽しげなマリアとラジューの会話にニルマラはいらついた。
今日は体が固まってまともに動かない。
だがオーディションでは誰もが必ず緊張する。どのような状態でも踊れる体を作れるのがプロだ。
自分の中で激怒と強い恐怖、ふたつの感情がせめぎ合う。
どちらが大きいのかわからない。
今なら怒りと恐怖は上手く表現出来るかもしれない。
平安だけは踊れそうにない。
家の中ではマラヤラム語、タミル語もそこまでマラヤラムとは違わず、学校ではヒンディー語の成績も良かった。だから小学校の終わりに今のUP州に越すことになっても心配しなかった。
学校の授業こそ英語なので問題なかったが、時に先生がはさむヒンディー語のジョークがわからず、クラスの子たちとのヒンディー語の会話にもついていけなかった。
今では普通にクラスメートと話せるが、ヒンディー語ネイティブの友人たちほど自在には言葉を操れない。
マリアは昔もっとおしゃべりな女の子だったように思う。
だからといって今の自分が嘘でもない。ただ変わったな、というだけだ。
ラジューも同じだとわかった。
口数が少ないのは立場で控えているのかと思ったが、マラヤラム語になれば結構しゃべる。
初めに目が止まったのは掃除が家のメイドよりずっと丁寧だったことだ。
言うと仕事はきちんとしたいのでと答えた。見た目からは年下に見えたが聞けば同い年、中身は自分よりずっとしっかりしていて落ち着いている。社会に出たならそうなれるのだろうか。
ヴィノードやナイナは結構彼にひどいことを言っている。自分も昔、ヴィノードたちにからかわれ気が重かった。回りはおとなしく我慢したと思っているようなのだが、実は結構言い返している。語気は弱く内容にも説得力がなくて先生が叱ってくれるまで押し留められなかったからその印象になっているのだろう。
ラジューは使用人だから自分のようには返せずただ耐えている。
見ていて辛かったのと同時に彼の強さも伝わってきた。
大人になって家を切り盛りする女主人になった時にはメイドに我が家の味を出させなくてはいけない。だから自分でも料理出来ることが必要だ。家でも親戚の間でもそう言われていてマリアは母から台所仕事を習い続けている。おかげで南の料理しか作れない自分でも野菜の皮むきなど何とかここでも役に立っている。
(だけど、ちゃんと指示するためならなんで掃除や洗濯は自分でやらないんだろ?)
長年の、素朴な疑問だ。
ルチアーノがやっていたという洗濯物畳みを手伝おうとしたところ斜めにあちこち折り目が付く有り様で、
『洗い直しになるので……』
とラジューに困り顔で止められた。洗濯や掃除はメイドがやるのを遠く見るだけで何もわからない。
「ラジューは恐くない?」
彼は丁寧に女子棟の白い床を掃く。たいしてほこりも舞っておらず掃く必要があるのかわからない。
「恐いです」
答えは意外に素直だった。
会議で常に票を入れられること。それに、
「誰かに狙われていることが、です」
ダウドを殺した仕掛けは自分に向けられたものだとラジューは考えている。
「夜の会議でのことならわかるんです。学生さんは皆さん同じクラスですから、除け者にするとなったら仲間はずれのわたしがやりやすいでしょう」
「そんな!」
ラジューは一瞬ほうきを止めて振り向き微笑んだ。
「皆さんお友達でしょう? 当たり前だと思います」
「友達って言うのかな。皆がそうとは言えないなあ」
ガーラヴやヴィノードは友人とは違うと思う。
「一緒に勉強する『仲間』かな?」
「それはわかります」
明るい声のまま返してきた。
「わたしも、前の家のご主人様には言葉を学ぶことを勧めてもらった恩義を感じています」
それでマリア以外の学生ともヒンディー語で何とか意思の疎通ができる。
「同じような情って言うのでしょうか、大事にしたい思いは皆さんにあるのだと思うんです」
処刑者に選ばれることが恐い。だが会議で標的になりやすいのは理解出来る。
「わたしに何か悪意を抱いていらっしゃるなら会議でどうにでも、と思うのですが。わざわざわたしたちの場所に入ってまで、というのがわからなくて恐いです」
言葉を探して上を見て、
「不気味です」
と締めた。
ラジューは素直に本音を語っていた。
母語ですら言葉に迷う、自分への悪意の正体がつかめない感覚。
落ち着いた女子学生、アディティの指摘の通りあの仕掛けはゲームのルール内のことなのだろうがあの場所に仕掛けた意図は読めない。
「そういえば、ルチアーノ様に言われたんですがー」
無事に帰れたなら学校へ戻ることを考えた方がいい。そのことについて、
「マリアさんにもご意見を伺うようにと……」
「え! わたし? どうして?」
やたらと慌てる。
「成績がご優秀だからだそうです」
学業のことは成績がいい人間に聞くべきだと。
「そんなに変わらないけどなあ。うちのクラスで優秀っていうのはスティーブンだよ」
声に寂しさが混ざる。
「七年生の途中で止めてるんだよね。どうやって編入とか出来るんだろ?」
「そこは、修道会の施設の方に聞けばわかるかもとおっしゃってました」
「ああそうだ。ルチアーノも頑張り屋さんだもんね。ラジューと同じで」
「わたしは別に……」
反応出来ない。
結局、学校は行けたら行った方がいいよとマリアも言った。
「ねえ。ラジューも友達はいるんでしょ?」
虚をつかれた。腕の動きが止まったことに気付きすぐに掃き作業を再開する。
色とりどりの衣服が種類ごとに段ボールにまとめられたロビーの向こうでニルマラが古典舞踊らしき練習をしている。彼女はうるさくはないが同室のナイナが厳しいので気をつけなくてはならない。
「……村にはいます」
手紙も途絶えだちになったが。
「学校には?」
学院という職場では、
「わたしは新米で教えを乞う立場ですから」
「だったら前の、その良い方のお家にはお友達はいた?」
興味津々という様子だ。そこも使用人の人数は少なく指示をする人か教える後輩のどちらかしかいなかったと語る。
「……お勤めに出たら友達は出来ないのかな? お父さんは会社のお友達のお話もするんだけれど」
「マリアさんのお父上は大きな会社にお勤めなのではないですか?」
「そうだね」
電気技師で、何年もかかるプロジェクトの現場を担当し完成したらまた次の現場へ移る仕事をしているという。
「でしたらわかります」
同じような仕事をする同じくらいの年の人が多くいたなら友達も出来るだろう。
「じゃあわたしがラジューの友達になるね!」
いきなりだった。
「ラクナウには友達がいないんじゃ寂しいでしょ?」
「……友達って、なるって言ってなるものだったでしょうか?」
「そうだよ!」
マリアは屈託がない。素直な育ちの良さがここぞと発揮されている。
口元が緩んだ。
「はい。ならばお友達にならせていただきます」
「そう! 友達!」
ーーーーー
「……友達!友達! ってはしゃいで馬鹿みたい! ああいうの何て言うの? 聞いてて胸に痰が詰まる? 喉がかゆい?」
「そうは言わないんじゃね?」
広間に戻りまくし立てたシャキーラにイジャイが突っ込み、
「友達なら問題ないだろ」
あっさりアッバースもいなす。
「ロマンス系だったらちょっと問題だけどな」
ナラヤンも斜め上を仰ぎながら答えた。相変わらず顔がいい。と、
「ってか君もマラヤラム語わかるの?」
いきなりその顔を向けられシャキーラは慌てた。無駄に大きく首を横に振る。
「前に何かの映画で出てきて覚えていただけ。マラヤラム語で『友人』はスーハラットゥっていうって」
「ふうん」
「これがスイートハートだったら洒落にならねえけどさ」
イジャイはにやつきアッバースは、
「マラヤラムでスイートハートって何て言うんだろうな?」
真顔で首を傾げる。
「知ってる?」
「知ってるわけないでしょ!」
イジャイに返す。
「スイートハートはsweetheartだろ。英語だろうが」
ナラヤンは呆れ顔だ。
(全く男ってのはガキなんだから)
シャキーラには理解出来ない。昨夜はたまたま犠牲者が出なかった。それだけで今夜これから、またスティーブンやダウドのことを考えれば昼間だっていつどのように襲われるかわからない。いつまでここに閉じ込められるのか見当もつかなくて先のこと、この後の自分の命だって不明だ。友達どころか誰が自分を狙う殺人者なのかもわからない。
くだらないことでふざけている場合ではない。
掃除しながらいちゃついているのはもっと場違いだ。
男子に関しては、誘拐されていることへの危機感が違うからある程度仕方ないのかもしれないが。
(でも)
先ほどアディティからの「残念なお知らせ」をアッバースに伝えたが彼は顔色も変えず、
『ん。わかった』
とだけ答えた。自分が彼女から聞いた時は思いっきり顔に出してしまったのに。
彼がどうこうというのではなく、結婚するならアッバースのような人がいいとは思う。信頼に足る人柄で、狂信的でも怠慢でもない適度な信仰のムスリムだ。
「ラジュー女子棟だよな。昨日見てないから例の水場を見ておきたい」
昨日の午後以降、ナラヤンとバーラムはダウドに付きっきりで広間に出ていなかった。ダウドが倒れた使用人用のスペースを見たいとナラヤンが言い出す。
「あいつに断ってねえぞ」
「断ったら意味ないだろ?」
「そういうことな」
少し沈んだ顔でアッバースは飲み込み連れ立って奥へ向かった。
そこに寄り添っているはずだったスティーブンはもういない。後ろ姿に強く胸が締め付けられる。
もう嫌だ。こんな酷いところ、耐えられない!
ーーーーー
体の芯がふらりと揺れる。
内容はわからないが楽しげなマリアとラジューの会話にニルマラはいらついた。
今日は体が固まってまともに動かない。
だがオーディションでは誰もが必ず緊張する。どのような状態でも踊れる体を作れるのがプロだ。
自分の中で激怒と強い恐怖、ふたつの感情がせめぎ合う。
どちらが大きいのかわからない。
今なら怒りと恐怖は上手く表現出来るかもしれない。
平安だけは踊れそうにない。
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