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第一幕 ハイランドとローランドの締結

契りの紅き徴8

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 私はゆっくりとイザベラの寝室の扉を押しあけた。もし眠っていたら、そのまま回れ右をして自室に戻ろうと思ったからだ。が、イザベラ用のベッドには誰も横にはなっておらず、室内は静かだった。

 人の気配はある。

 この部屋に、あいつがいる気配があるのに、目に届く範囲には姿がなかった。

「うっ、おぇ」
 衝立の向こう側から、何やら嗚咽のような奇妙な声が聞こえた。私は室内に足を踏み入れると、そっとドアを閉めた。

「おい、いるのか?」
 がたっと音がした。あいつが驚いて、何かにぶつかったのか。

「ちょ……待て。来んなよ」
「何をしている?」

「いいから! 来るな。落ちついたら、俺がそっちに行く……うっ」

 げぼっという音が聞こえ、あいつが嘔吐しているのがわかった。激しい吐き気に襲われているのだろう。

 食あたりか? それとも体調が悪いのか。何にせよ、他人に嘔吐姿など見せたくないだろう。

 私はベッドに腰を下ろすと、ごろりと横になった。

 吐き気がおさまったら来るだろう。それまでゆっくりとしていよう。この部屋にいる分には、ドリュの嫌味からも解放されるしな。

 1時間は待たなかったと思うが、しばらくして、やつれた青白い表情のあいつが衝立の向こう側から顔を出してきた。

 よろよろと足取りのままらない状態で、私のいるベッドを通り過ぎてソファにどすんと倒れ込むように尻を落とした。

「ベッドに横にならないのか?」
「あんたが今、横になってるだろ」

「ここはお前のベッドだ。気にせず、横になれ」
「気になるだろ! 男と二人で寝れるかっつうの」

 強情なヤツだな。体調の悪いときくらい気にせずとも良いのではないか?

「くっ、あっ」と表情を歪めたあいつが、身体を丸めるとお腹を押さえた。

「どうした?」
 私は起き上がると、「煩い」と苦しそうな声をあいつが漏らした。

「おいっ、腹が痛いのか?」
 私の返答に、あいつは何の応答もせずに、身体を丸めて小さくなっているだけだった。かたく瞼を閉じて、じっとしている。

 痛みが遠のくのを待っているみたいに、数分間、筋肉を緊張させていた。

「はあ」と深い息を吐きだしたあいつが、ほっとした表情で身体の筋肉を解す。
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