昔の恋を忘れましょう

ひなた翠

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エピソード2 萌

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「別の場所で話を聞こうか」と上司が、五十嵐の肩を叩いた。

「武井課長、申し訳ありません。後日、改めて謝罪しに伺いますので」
「謝罪は結構です」と俺は鞄を手にとった。

 こいつが、いきなりキレた理由ならわかっている。謝られても困る。

 俺は瞬きをしてから、五十嵐を見やった。
 睨んではいるが、さっきの怒りに任せた勢いは失っていた。


「おい。萌をどこにやった? お前が隠したんだろ」と帰ろうとエレベータ待ちしていた俺の背後から低い声が聞こえた。

「は?」と俺は振り返る。
「居場所を知ってるんだろ。どうせお前の入れ知恵だろ? 友人の引っ越しの手伝いをしてくるって言ったっきり帰ってこない」
「知らない。俺は会ってない」
「嘘をつけ」

 俺はフッと笑う。

 朝陽の引っ越しで会って以来、俺も会ってない。どこにいるかは知ってるが。

「お前は奪うと言った」
「バーベキューでね」
「実行したんだろ」
「実行されるようなことしたんだ?」
「殴られたいのか?」

 拳を握って脅しをかけてくる五十嵐に、「バカだろ、あんた」と本音が飛び出した。

「俺が怖いんだろ? 殴りたいなら殴ればいい。不利になるのはあんただ」
 殴られるようなことをしている俺も俺だが。

 萌の笑顔を見るためなら、別になんでもない。

「人の女を寝取っておいて。すました顔をしやがって」
「寝取られるような夫婦生活になってる時点で終わってるだろ」

 殴りかかってくる五十嵐を俺は避けた。バランスと崩した五十嵐の腰を蹴り、壁に体がぶつかった。
 五十嵐の腕を背中に捻り上げて、壁に顔を押し当てる。

「くっ」と苦しい声を五十嵐があげた。

「『人の女』だと? ふざけ。妻から笑顔を奪って、恐怖で従わせて。気に入らなければ、暴力を振るう。萌は、お前の人形じゃねえんだよ」
 俺は腕を離すと、反撃をしようとする五十嵐の脇腹に蹴りを入れた。

 床に倒れた五十嵐の肩を踏みつける。

「素直に殴られたからって、俺が喧嘩に弱い男だと思うなよ? あれはパフォーマンス。あんたの立場が悪くなるのを見越して、な」
 俺は足を退けると、下りのエレベータに乗り込んだ。

 扉が閉まると、俺は長い溜息を吐き出した。

 なんて日だ。
 殴られるなんて。

 外回りがこれからあるっていうのに。


「ああっ! いってぇ!!」
「あ、ごめ。痛かった?」

 萌がシップを貼り損ねて、申し訳なさそうな顔をした。
 杏のマンションで、俺は萌に背中の痣にシップを貼ってもらおうとしていた。

「萌、こういうのはこうやればいいの」と夏木がシップを奪うと、バチンっと勢いよく張り付けた。

「いってぇ……! 馬鹿か! 痣になってるところを叩くやつがいるかよ」
「全身痣だらけ。顔面を腫らして、外回りができないからってサボりにきといて、甘えないで」
「朝陽以外には冷たいなあ」
「今度は蹴りながら、貼ってさしあげましょうか?」

 夏木がニヤッと笑う。

「丁重にお断りします。萌に貼ってもらう」
 俺は氷水で頬を冷やしながら、夏木に舌を出した。

「武井くん、どうして……」
 萌がひどく心配した表情だ。

「バカが殴りかかってきた。ムカついたから、人目のないところで張っ倒してきた。肩の関節も外してやろうかと思ったけど、それはやめておいた」
「ほんっと短気だよね。武井って。いっつも凛が嫌がってたよ」

 夏木がソファに座って、「やだやだ」と呟いた。

「言っておくけど。朝陽だって、ひどいからな? サッカーのプレー中、やばいから。審判の目を盗んで」
「武井の場合は、ただの喧嘩だから!」

 朝陽だって同じようなもんだっての。

「ごめんね?」と萌が申し訳なさそうに声をだした。

「謝んなって。バカの味方をされたみたいで、気分悪いから。さて、と。仕事に戻るか。外回りはもう無理だから。事務仕事をしてくるわ」
 俺はワイシャツに手を通した。

「大丈夫?」
「ああ。平気。あとは、萌の離婚を待つだけ、だな」

―陽太side終わりー
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