愛の物語を囁いて

ひなた翠

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一線を越える夜

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 ジャラと金属がぶつかりあう音と一緒に、「伊坂?」という驚きの声がして僕は顔をあげた。

 英先生が眉間に皺を寄せると、「小暮先生か」と呆れた声で呟いた。

「ごめんなさい。行く場所がなくて、先生の家に来ちゃいました」

 先生が僕の隣に立つと、玄関のドアに鍵を差し込んだ。

「学校でしか甘えられないってわかってるけど。殴られて腫れた顔で、友達に家に行けないし。ダチにこの顔を見せたら、絶対にいろいろと追及されるし。小暮に殴られた……なんて、言えない」

 英先生が、ポンポンと僕の肩を優しく叩いた。

「ほんとにごめんなさい」

「親に連絡は?」

「ダチんちに泊るってメールだけしておきました」

 先生がドアを開けると、玄関の中に入る。

 僕はゆっくりと閉まっていくドアを見つめた。

 先生から許可の言葉を貰ってない。先生の家にあがっていいものなのか。僕はわからなかった。

 パタンとドアが閉まると、先生の姿が家の中に消えた。

 僕はぎゅっと鞄のストラップを掴むと、ガチャとドアが再度、開いた。

「何してる。入れ」

「いいんですか?」

「ここまで押し掛けておいて、今さら遠慮するな」

 英先生がふっと笑って、玄関をさらに大きく開けてくれた。

 僕は一歩二歩とゆっくりと足を踏み出して、先生の玄関をくぐり抜けた。

 一度だけ来たことのある先生のアパート。前回、来たときと同じように、小ざっぱりとしていた。

 男所帯とは思えないほど、きちんと部屋は片付けられている。

 英先生が、冷蔵庫を開けるとガラガラと氷がぶつかりあう音が聞こえてきた。

「腫れてる箇所を冷やすだろ?」

「あ……はい」と僕は返事をしながら、革靴を脱いだ。

 紺色の靴下で、先生の部屋にあがる。ひやっと床が冷たくて気持ち良かった。

「夕食なんだが、一人分しか用意してないんだ。何か食べたいものはあるか? 宅配サービスに頼むから」

 濡れたタオルに氷を挟んでいる英先生が、僕に背中を向けて話をしている。

 僕は玄関のところに鞄を置くと、そろそろと部屋の中心部へと進んだ。

 食べ物のことを考えると、吐き気がこみあげてくる。

 小暮の感触がまだ残っている。口の中に食べ物を入れる気にはなれない。

「僕のことはお構いなく。一晩、ここに泊めてもらったら……出て行きますから」

 英先生が手を止めると、冷蔵庫の扉を閉めた。

 僕のほうに身体を向けると、ジッと顔を見つめてくる。

「出て行ってどうする? 行く場所が無いから、ここに来たのだろ? 家に帰れるのか?」

「家に帰る気は……ない、ですけど」

 小暮の顔なんて見たくない。あいつを見たら、殺したくなる。

「じゃあ、友人の家を転々とするのか? 殴られて腫れた顔じゃあ、友達の家にも行けないって言っていたのに」

「まあ、そうだけど。だからって先生のアパートに居座るわけにいかないし」

 英先生が、氷を包んだタオルを僕に差し出した。僕はそれを受け取ると、殴られて熱をもった頬にそっとあてた。

 迷惑はかけられない……と思っているのに、先生にばかり迷惑をかけている気がする。

 僕はどうしたらいいんだろうか。

「問題が解決するまでなら、ここに寝泊まりしていい。ただ長期滞在は困る」

「……ええ。わかってます。問題解決、できるかな?」

 僕は今できる精一杯の笑顔を先生に見せると、くるっと背を向けた。

 涙がじわっと溢れてくる。

「伊坂?」

「何でもないです。ちょっと、くしゃみが出そうになったから……」

 僕は垂れてきた鼻水をすすると、上を向いた。

 涙がこぼれないようにしつつ、一秒でも濡れた目頭が早く乾燥するように祈った。
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