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20. 馬車での距離
しおりを挟むゲルント駐屯地配属の隊員たち、また物資や武器を運ぶために駆り出された隊員たちがぞろぞろと馬に乗って歩いていた。列の真ん中では荷物が積まれた屋根のない簡易な馬車がゆっくりと走っていた。
御者からいくつもの荷物を挟んで荷台に座っているのはビアンカ・リッツである。
彼女は、馬車を囲む隊員たちの中に紛れて馬に乗っている未来の夫となる男の後ろ姿をじっと見つめていた。
彼は視線を感じて恥ずかしそうにしながらも、しっかりと周囲に気を配り、警備に徹してくれている。
そんな彼に、ビアンカは自然と笑みがふっと浮かんだ。
「イグナーツ・トット准尉は根は良い奴だが、軍部では吹けば飛ぶような男だ」と、義父ユルゲン・リッツからは聞いていた。
「戦地で活躍したところで、平民の地位はそれ以上上がらん。貴族の家系からすればとるに足らん存在だし、入隊したての若造には娼婦の息子だなんだとばかにされてやがる。口下手なくせに人の心情に敏感な男だからあいつもわかってるんだ、けどどうしようもないからって諦めてるところがあってな……」
義父の話にビアンカはもどかしく思った。自分でも調べたところ、一等兵や軍曹などの低い地位の兵士はその上官によって守られるが、彼はその範囲ではないらしい。
「准尉」という地位は、我が帝国において平民の一番トップの座だ。それが同期や後輩たちからはやっかみの対象でもあり、将校たちの中では疎まれて同等に扱われることはなかった。そのため、何か問題が発生したとき、味方が少ないと危険な立場におかれるのだ。
以前、ビアンカが誘拐されたときなどは、軍の命令に従わなかったことから見せしめとして銃殺刑が下されるところだった。
あのときはランクル少佐が会議を長引かせ、論理的に解決しようと動いてくれたから助かったのだと聞いている。
人格者であるランクル少佐が味方でいることは大きいが、それでも軍部にはさらに上がいる。准尉の地位が将校であろうと、イグナーツなどは取るに足らない存在なのだ。
だからビアンカは、自分が社交界で築いてきた地位を彼のために最大限に活かしたいと思った。
父親が罪人となったことは痛手だが、幸いなことに皇族との繋がりは保たれている。これまで虚しいと思いながらも頑張ってきたことはすべてイグナーツ様を支えるために使いたい、ビアンカは心からそう思った。
レントの町への道のりで、半分くらいまで来たとき、前の方を歩いていた馬が止まった。
どうしたのかしら。
ほどなくして、ビアンカの乗っている馬車も止まる。イグナーツも含めた隊員たちが馬から降り、集まって何やら話している。
「馬の足が……」
「……を踏んでこうなったんだ」
「そこにある村で手当を……」
「……レントまで距離が……」
「でもそれなら……がついて……」
ぼそぼそと聞き取る声から、ビアンカはなんとなく状況を理解した。
どうやら隊員の一人の乗っていた馬が道で何かを踏み、足を怪我してしまったらしい。かわいそうに。やっぱり帝都からレントの町への道はきちんと舗装した方が良いのかもしれない。大昔に作られた道がそのまま使われているのだが、あまり人が利用しないため、ぼろぼろになっているところが多いのだろう。道の舗装について皇女に相談してみようか。
ビアンカがそんなことを考えていると、イグナーツが困ったような表情でタタタッと馬車の方へやってきて、御者となにやら話し始めた。どうしたのかしら。
御者が頷くと、イグナーツは今度はビアンカの方に駆け寄ってきた。
ビアンカの方が先に口を開いた。
「大丈夫ですか? 馬に何かあったようですわね。もし村にお寄りなることが必要なら私はかまいませんから……」
彼は「あ、いや、その」と困ったように言った。
「その、お、おっしゃる通り、隊員の一人が乗ってた馬が足を怪我して……まだ先は長いので、近くの村で手当してもらった方がいいということになりました。ただ小さな村にこんなに大勢で押しかけるわけにもいきませんから、一番馬が懐いている隊員一人だけで行ってもらうことにしたんです。でも」
イグナーツはビアンカから目を逸らすと「言いにくいんですが」と言って続けた。
「その、怪我をした馬と仲の良い馬が一頭おりまして、離れようとしないんです。その馬がいた方が怪我した方を導いてくれるので、二頭一緒に村に連れて行くということになりまして」
「そうですか」
ビアンカは馬のことはよくわからなかったが、それが一番良いと判断されたならそうするべきだと思った。
だが、馬が二頭もいないのなら、誰かが歩くことになってしまうのではないか。
ビアンカはそこまで考えてから、目の前の男が「その、あの、それで、それでですね」と言いづらそうにしている様子にはっと気づいた。
「まあ、では……イグナーツ様が私とこの馬車をご一緒してくださるのですね!」
ビアンカの言葉に、イグナーツは顔を隠すようにして恥ずかしそうに俯いた。
「は、はい、すいません。大きな馬車ならともかく、こんな軍部の荷運び用みたいな狭い馬車だというだけでも申し訳ないのに、俺も一緒だなんて……」
「謝るなんてとんでもないですわ。怪我をした馬にとっては気の毒でしたが、私にとっては幸運です、イグナーツ様と一緒に馬車に乗れるなんて!」
ビアンカが思った通りに言うと、イグナーツは顔を真っ赤にさせて「じゃ、そ、そその、では、みんなに伝えてきます」と言って前列の方に走っていった。
ビアンカはいそいそとクッションをおいやってスペースをつくる。イグナーツが言っていた通り大きな馬車ではないので、ようやく一人が座れる程度であった。
そのうちに青年が戻ってきた。ややふくれた顔をしているから、友人にからかわれたのだろうということがわかる。
しかし、にこにこしているビアンカの隣に空けられたスペースが目に入ると、とたんに緊張したような顔になって、「お、おおお邪魔します」と言いながら馬車に乗り込んだ。
そうして一行は再び前へ進んだ。
ガタガタと揺れる馬車の中、イグナーツは身体を氷のようにカチコチに固まらせたまま座っていた。こんなに狭いというのに、ビアンカに腕や脚が当たらないように一生懸命身体を縮こめている。
「どうかお寛ぎになって。そんなに警戒されずとも、何もいたしませんからご安心ください」
ビアンカがそう言ったのに、イグナーツははっとした顔で「け、警戒なんて」と視線を下に向けて言った。
「ああ、あの、き、昨日ちゃんと隊舎で風呂に入ったんですけど、やっぱり馬に乗ると汗をかくので……その、に、匂いがしたら、申し訳ありません」
ビアンカは目を丸くさせた。そうだ、彼はそういうことに気を配ってくれる人だった。
「ちっとも気になりませんわ。それに私、イグナーツ様の匂いが好きですからご安心ください」
「うっ、またそういうことを……」
イグナーツは片手で目元を覆って息を吐いた。
彼がため息を吐いたとき、ビアンカはもしや彼をがっかりさせてしまったのではないかといつもドキリとする。しかし、その後にこちらをちらちらと見る瞳は温かいので、その度にほっと胸を撫で下ろすのだ。
社交界で生きてきたビアンカは、相手の考えを読むことなど造作もないことだった。単純であればあるほど、相手に言わせたい言葉を言わせ、望んだ通りに行動させることもできる。
ところが、この目の前の青年は単純そうにみえてそう簡単にはいかなかった。イグナーツの考えを読もうと思えば思うほどに、彼の無欲さや優しさがあらわになるのである。
匂いだけでなく、イグナーツ様ご自身も大好きだということも知っておいてくださいなんて言ったら、彼はどういう顔をするかしら。
そんな風に考えながらも、ビアンカは照れ屋な男のためにそうは言わずにただ微笑むだけにした。
それから少しの間沈黙が流れたが、一行の列の一番前で馬に乗っている男がこちらをちらちらと振り返っているのがビアンカの目に入った。
あれは、イグナーツ様のご友人だわ。
イグナーツもそれに気づいたようで眉をしかめながら「あいつ……」と呟いている。
義父曰く、彼は常人よりも目が良いらしい。こんなに離れているが、友人の顔の表情が見えるのだろうか。
ビアンカは言った。
「ご友人はデニス様とおっしゃるのでしたわね。イグナーツ様のことをとても大事にしているようにお見受けいたしました。仲がよろしいのね。どのくらい前からお知り合いですの?」
「もう十年以上の付き合いになります……いいやつです。何度も助けてもらってる。調子にのると遠慮がないし、過剰にベタベタひっついてくることもありますが」
ビアンカがちらと横を見ると、イグナーツは優しい顔をしていた。彼にとって良き友人なのだ。いいなあとビアンカは思ったが、自分にもエルネスタという親友がいることを思い出した。遠慮がないと言ったけど、エルネスタにもそういう面があるわね。
「私にも躊躇いなく話しかけてくださいました。昨日も気を遣って私たちを二人だけにしてくださったし、とても素敵な方ですのね。落ち着いたらぜひお家に招待したいですわ」
「……あんまり褒めると調子にのるので気をつけてください。ビアンカさんが不快に思うような下品なことを言うかもしれません。今だって、こっちを見ながら下世話なこと言ってましたし……」
「今?」
ビアンカはきょとんとした。
「お声が聞こえたのですか? 私にはこちらを振り向いただけのように見えましたが」
イグナーツは「あ、いや」と頭に手をやった。
「声は聞こえないんですけど、その、唇が読めたんです、あいつのはとくに読みやすくて」
唇を読んだ……この距離で?
ビアンカは目を瞬かせ、前を行くデニスの方を見た。彼がいるのは長い列の一番前なのだ、ここから100メートル、いやもっとあるのではないか。
ビアンカはもう一度隣の青年の方を見た。
狙撃手は人より視力があると聞いてはいたが、ここまでとは。いつかの舞踏会で、皇女がイグナーツのことを“敵にまわしたくない”と言っていたが、確かに猛禽類並みの視力をもつ狙撃手となれば大きな戦力となるだろう。
ビアンカのまじまじとした視線に、イグナーツは気まずそうな表情を浮かべて「あっ、で、でも」と言った。
「今のは見ようと思って見ただけで、そう思わなければ見ないんです! だからその、常に人の唇を読んでいるわけじゃなくて」
言い訳しようとするイグナーツに、ビアンカはふふっと笑った。
「私、知りませんでしたわ、イグナーツ様の特技だというのに。どうかほかにももっと教えてくださいまし」
「え、い、いや、俺はもうこれだけというか、こんなのしかなくて恐縮です……あ、と、特技といえば!」
イグナーツは思い出したように言った。
「ビアンカさんは刺繍がお上手でしたね。よくされるんですか」
急に刺繍の話を振られたので、ビアンカはさっと顔を赤くさせて外の景色に視線を逸らした。
「上手だなんてとんでもない。しばしば針を動かすくらいですの。その……今度はきちんと帝国軍の紋章を刺繍いたしますから。前にお渡ししたあんな形の崩れた薔薇なんかより、もっときれいに施してみせます」
「俺の宝物にけちをつけないでください。俺は薔薇のほうがいいんです、軍の紋章なんか見飽きてますから」
そう言われてビアンカはますます顔を赤くさせた。なぜかわからないが、彼はあの刺繍のハンカチをとても大事にしてくれているらしい。どうせ返さないからと思って練習台として縫ったものなのだと言えばがっかりさせてしまうだろうか。
結婚したらこっそり探し出して、ほかの刺繍のハンカチと入れ替えてしまおうかしら。そうだわ、そうしましょう、いい考えだわ。
ビアンカがそんな風に考えているのを見透かしたように、イグナーツが「だめですよ」と言った。
「あれは絶対に返しませんからね。俺、あれもらった時めちゃくちゃ嬉しかったんです。今でも毎晩寝る前に眺めた後に寝てますから、ちゃんと形も覚えてますし……」
そのとき、突然イグナーツは言葉を途切らせたかと思うと、ビアンカの先の向こうの景色のある一点を見つめた。
どうしたのかしら。振り向いたが、特に何もなさそうだ。
しかしイグナーツはさっと険しい顔になってどこからか双眼鏡を取り出すと、向こう側に見える森の方にレンズを向けた。
「イグナーツ様……?」
ビアンカが呼びかけると、イグナーツはすぐに双眼鏡を下ろした。そして急にビアンカに身を寄せたかと思うと、「失礼」と言って片手で抱き抱えるようにして彼女に覆いかぶさってきたではないか。ビアンカの身体はイグナーツの手に支えられたまま座席に横たえられてしまった。
「え……あの、え……?」
脈絡もなくこんなところで、あの照れ屋なイグナーツが一体どうしたというのだろうか。
ビアンカが混乱の極みに達したちょうどその時、ダァンと音が響いた。
反射的にビアンカの身体がびくりとする。銃声!? なぜ? また戦争なの?!
すぐに真上からイグナーツの声で「遠いから大丈夫です」と聞こえた。ビアンカはやっとこの体勢が、外からの攻撃に備えてイグナーツに守られているのだということを理解した。
「さっき森の中でちらっと光ったのでなんだろうと思ったんですが……ランクル少佐っ!」
イグナーツが上官に呼びかける声がした。
ビアンカは相変わらず仰向けでイグナーツに抱き抱えられている状態なので、外の景色は見えない。しかしランクル少佐は近くにいたらしく、すぐに馬の足音が近づいてきた。
イグナーツが真剣な声で言った。
「少佐、ここから四時の方向です。見たことのない軽装の男が一人、単独のようで複数ではありません、小銃でおそらく単発の……」
「トット准尉」
ランクル少佐の声がした。
「わかっています、大丈夫です。落ち着いてください、あれは猟師ですよ」
「一体何が目的かわかりませんがもしかしたら…………え、りょう、し?」
イグナーツの声が固まる。
「はい、猟師です。私も先ほど目に入りましてね、狙いの方向先を窺ったら、目的は狩猟のようです。警戒はといて大丈夫ですよ。双眼鏡を覗いてみてください」
ランクル少佐に言われるまま、イグナーツは双眼鏡を手に持った。「鴨、もってる……」と呟く小さな声が下にいるビアンカにも聞こえた。
猟師。では先ほどの銃声は、鴨狩りのために放たれたものだったのだわ。そういえば、レントの町までの道のりにある大きな森では狩猟が盛んだと皇女から聞いた気がする。
「え、え、それじゃ、おお俺っ……!」
イグナーツは声を震わせた。彼はがたがたと震えている手で、倒したままだったビアンカの身体をそっと起こしてくれた。
しかし、ビアンカがもとの体勢に戻ると、イグナーツはぴゃっと飛び退くようにしてビアンカから距離をとった。まるでねずみのような素早さである。
「す、すす、す、すいませんビアンカさん!」
イグナーツは身体を小さくさせて頭を90度下げた。
「お、おおお、俺、勘違いを……その、敵襲かと思って、勝手にいろいろ、もう、ほんとにすいません! け、けけけ怪我はありませんか、その、い、嫌な思いをさせてしまって、申し訳ありません!」
ビアンカは「そんな」と声をかけようとして、ふと周りからの視線を感じた。
振り返ると、馬車の周りを囲っていた隊員たちが笑いを堪えているようだ。馬を横につけながらランクル少佐も微笑ましそうな表情で彼を見ている。
「あの、イグナーツ様、頭を上げてくださいまし。私は……」
ビアンカは言いかけてやめた。
イグナーツは気の毒なくらい震えていた。先ほど敵襲かと警戒しているときは震えの一つもなかったのに。
たしかに突然だったが守ろうとしてくれたのだ、不快に思うことなど何もない。それよりもビアンカは、戦場にいるときの彼を目にしたような気がして、少し驚いていた。
刺繍の話をしているところを彼は一瞬にして空気を変えた。あれが軍人としての彼であり、あの状況が彼の生活の一部でもあるのだ。
こんなに恥ずかしがり屋な彼を、冷静沈着にさせる戦闘状態とは実際どれほどのものか計り知れないとビアンカは思った。
煌びやかな社交界にいたままでは、知り得なかったことだ。
ビアンカはこちらに向けているイグナーツの頭を見つめた。
「私はほんとうに……イグナーツ様を前にすると、自分がいかに無知であるかと思い知りますわ」
「えっ」
イグナーツが顔を上げたのに、ビアンカはなんでもありませんと首を振った。
「怪我もしておりませんし、嫌な思いもしていませんからご安心ください。でもお願いがございます」
ビアンカはイグナーツの目を見て言った。
「有事のときでも、どうかご自分を盾にするのはおやめください。もしほんとうに敵襲だったら、イグナーツ様が撃たれていたかもしれません。そのようなこと、絶対に嫌ですわ」
ビアンカ自身、イグナーツの軍服に視界を遮られていたので何も見えなかったが、イグナーツの身体は馬車から突き出していたかもしれない。弾から防ぐために覆いかぶさってくれたのだ。もし私のせいで彼が撃たれたなんてことになったら。
「約束してくださいまし、次からはイグナーツ様も一緒に身を守るようにすると。咄嗟のことなので難しいことかもしれませんが、イグナーツ様の身に何かあったら私、生きていけませんわ」
「え? お、俺ですか? で、でも……」
イグナーツが変なことを言われたなとでも言いたげな顔でビアンカの方を見た。
「俺は、この状況じゃ別に、その、大丈夫なんです」
「まあ、大丈夫なんてことありませんわ、生身の人間ですもの。この前だって怪我をされたのでしょう、大きな傷を負ったと聞きましたわ」
ビアンカの強い言い方に、イグナーツは「それはそうなんですが、その、遠距離では別に」とぼそぼそと何か言っている。
見かねたのか、ランクル少佐が「口を挟むようで申し訳ありませんが」と声を上げた。
「軍では入隊後、どんな状況下でもまず自分の身を守れるよう訓練するんです。自分が怪我をしてしまえば、助けるべき命もまた危険に晒しますし、誰かのために命を捨てろという構造では兵士の人権にも関わりますからね。その点は安心していただいて大丈夫なのですよ。先ほど銃声がしたときも、トット准尉はちゃんと自分の身を隠せていました」
「まあそうなのですか。それならよろしいのですけれど」
彼が自分を犠牲にするようなことはないのかと、ビアンカは少しほっとした。ランクル少佐は「それに」と続けた。
「前回トット准尉が怪我をしたのは接近戦です。彼は遠距離ではほぼ無敵なんですよ。狙われたときの気配もうさぎのように察知しますし、相手が撃つ前に自分で撃ってしまいますから」
イグナーツは「う、うさぎ……」と複雑そうな表情を浮かべた。「でもビアンカ嬢」とランクル少佐は嬉しそうに言った。
「あなたがトット准尉に対して、自分を大事にするよう言ってくださるのは私としても非常にありがたいことです。彼は謙虚すぎるところがありますからね、私も心配しておりましたーーあなたという人物が味方でほんとうによかったと思っています、これからもよろしくお願いします」
少佐の言葉には多くの意味が込められているようで、ビアンカも笑みを浮かべた。
「その点はどうぞお任せください。それに、こちらこそランクル少佐が味方であることにほっとしています。なにかあればおっしゃってくださいね、できる限りのことはいたしますから」
もし軍の内部でイグナーツ様に不利なことが起これば、自分のもつ力を使って必ず守ってみせる。ビアンカの気概を感じ取ったのか、ランクル少佐はどこか嬉しそうに歯を見せて笑った。
「たのもしいですね……では、私は下がります。お二人の邪魔をして申し訳ありませんでした」
そう言うと、ランクル少佐は馬を引いて列の後ろの方へと下がった。そして近くを囲っていた隊員たちに声をかけ、馬車からやや距離をとるようにと言ってくれた。
ほんとうに気の利く将校だーーというより、おそらくこの気配りはイグナーツだけに対するものなのだろう、とビアンカは思った。
それにも関わらず、イグナーツは次のように言った。
「ビアンカさんって、結構ランクル少佐と懇意にされてますよね。今の会話も意味ありげでしたし……新しい勲章のこともあの人の提案でしょう」
ビアンカは目をぱちくりさせた。
「勲章に関しては確かにあの方から意見を伺いましたが、そこまで深く会話をしたわけではありませんわ。軍部のことはすべてユルゲン様を通していますもの。目的が同じなので気は合うのかもしれませんけど」
味方であることは確かなのだが、やはり腹の底が読めないので探るような姿勢になってしまう。しかし社交界でこういうのは慣れているので、違和感なく親しげに話しているように見えたのかもしれない。もしや疎外感を抱かせてしまっただろうか。
「イグナーツ様、あのお方も私も、大事に思う人物が一緒なのです。二人ともどうにかしてその方を幸せにしたくて必死なのですわ。彼の幸せを誰よりも願っていますのよ」
ビアンカはそう言いながらそっとイグナーツに身を寄せて彼の手に自分の手を乗せた。彼は顔を赤らめたが、もう以前のように離れてくださいと懇願したりはしなかった。
イグナーツは言った。
「……俺、自分の幸せなんて、考えたこともありませんでした。やらなきゃいけないことがたくさんあるし、毎日生きるのに精一杯で」
「あら、それは私もです。でも……ある方が私に、自分が好きなように生きるべきだと言ってくれたのですわ。今後はそのようにさせていただく所存です」
「じ、自分が好きなようにって……! ビアンカさんはほんとうにそれでいいんですか」
「それで、ではなくて、それがいいのです。こうしてご一緒しているだけで幸せなのですから。イグナーツ様といると、私は自分が心のある人間だったのだと言うことを思い出せるのです。私ばかり幸せで申し訳ありませんが、どうかご勘弁ください。その代わりイグナーツ様のためなら全力を注ぎますから」
「……なんですかそれ、もう……」
イグナーツは空いている方の手で目元を覆った。
ビアンカは、彼が呆れたような声を出したと思ったが、すぐに小さな声で「俺だってもう死んだっていいくらい幸せですよ、もったいないので絶対死にませんけど」と言うのが聞こえると、なぜだか泣きたいくらいに嬉しくなって、笑い声をあげた。
レントの町はもうすぐそこに見えていた。
おしまい
最後までお読みいただき、ほんとうにありがとうございました。
しばらく休載が続いてしまったのにもかかわらず続けてお読みくださった方、また新たに見つけて最後までお読みくださった方、感謝の思いでいっぱいです。
はじめに申し上げた通り、この話は架空の世界が舞台となっており、実際の国々とはいっさい関係しておりません。
このご時世で軍人を主人公に書くのに難しさを感じました。作者自身、一刻も早く世の中に平和が訪れることを願っております。
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イグナーツとビアンカが尊すぎる……。
お互いを想い合うがゆえのじれじれが微笑ましかったです、
心理描写がとても丁寧で、文章も綺麗で、デニスなど周りの登場人物もみんな本当に存在しているようにイキイキしていて……あっという間に物語に引き込まれました。
素敵なお話をありがとうございました!
まり様
お楽しみいただけて嬉しく思います。
なんとか二人が幸せに暮らしていけるだろうというところまでもっていくことができました。
お褒めの言葉をいただけて背筋が伸びる思いです。軍の皆さんを描くときは特にどんな考え・信条をもっているかと試行錯誤いたしました。
貴重なご感想ありがとうございました!