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16. レントの町
しおりを挟む翌日の早朝のまだ暗いうちに、ビアンカ嬢はエルネスタとともに馬車に乗って帝都に帰っていった。
「妻になるための準備に加えて、二人で住む家の準備もさせていただきます……イグナーツ様がお帰りになられるのを楽しみにしておりますわ」
発つ前にビアンカ嬢はそう言っていた。
彼女は一体どんな家を望んでいるのだろうか。イグナーツは少しだけ想像しようとしたが、リッツ大佐の住んでいる豪邸が頭に浮かんだ。帝都であんな屋敷に住むのか? 娼館と隊舎でしか暮らしたことのない俺が? イグナーツは一ミリも住める気がしなかったが、もしビアンカ嬢が住みたいと言ったら断れないかもしれないなと思った。
それから十日後の昼を過ぎた頃、リッツ大佐によって崩壊していた壁の修復作業はようやく終わりを迎えた。
表門の作業場では皆が揃って喜びの万歳をし、労いあい、讃えあった。
「これで帝都に帰れる……」
「煉瓦とはもうおさらばだぜ!」
「早く剣振りてえ」
しかし全員が一斉に帰路につくのではなく、一人ずつ本部の部屋でエンゲルマン大佐から指示を受けてからとのことであった。
本部の扉まで隊員たちがずらりと並ぶ列の中に、イグナーツはデニスとともに混じっていた。
デニスは壁が完成してからというもの、ずっと浮き足立ったようにはしゃいでいた。
「たぶん今回の作業の給料が追加されるんじゃねえかなあ、そいでその修復代はここでもらえるとか! そしたら帝都についたら中央本部に行く前に一杯酒場でひっかけちまおうかなあ、ぜってえうめえぞ、ひひひ」
デニスがそれはそれは嬉しそうににやにやしながらそう言うので、イグナーツは呆れたような表情を浮かべたが、ただ「酔っぱらい過ぎるなよ」と嗜めるだけにしておいた。
列はどんどん進み、イグナーツの番になった。
入った本部の部屋の様子は、十日前にビアンカ嬢とともに入った時とほとんど変わっていなかった。当たり前のことだが、エルネスタの存在がその場にないことにイグナーツはほっと胸を撫で下ろした。
エンゲルマン大佐は、修復作業をしている隊員たち全員を相手にしているためか、やや疲れた表情をしていた。
彼は部屋に入ってきた青年の顔を見ると、「イグナーツ・トット准尉だな……」といつにも増して低い声で言いながら用紙を取り出し、イグナーツに渡した。
「壁の修復代はそこに記している通り皆一律だ。お前は明日以降に帝都に戻り、中央本部で正式な給与を受け取るように。所属は前と変わらず第三部隊だ。明日を含めて十日間の休暇とするが、その後は部隊の訓練に戻るように」
「はい」
イグナーツはぴっと敬礼をした。そのまま終わりかと思って回れ右をしようとしたが、エンゲルマン大佐は「それからお前の276万クロンの返金についてだが」と続けた。
「皇帝陛下にそのままそっくり返金しては確実にご不興を買うことになるから、こちらで勝手に処置させてもらった。お前の望み通り遺族のもとに流れるよう手配した」
イグナーツは目を細めると頭を下げ、「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べた。
「エンゲルマン大佐のご尽力、ほんとうに感謝してもしきれませ……」
「いや、トット准尉。まだ続きがある」
エンゲルマン大佐が遮って言ったのに、イグナーツは「へ?」と顔を上げた。
「お前の意向を聞いた遺族は皆20万ずつ受け取った。だが、それ以上お前から取り上げるのは死んだ隊員たちも望まないだろうと主張してな。結局196万クロン残った」
「えっ……の、残ったって、じゃあどうするんですか?」
「しょうがないからお前の給料になっている。いいかトット准尉、よく聞け……そんな顔をするな」
“どうせめんどうだったからじゃないか”と言いだけな顔をしていたイグナーツは慌てて隠すように顔を背けた。
大佐は言った。
「前にも言った通り、殉職した隊員の遺族の生活は皇帝陛下によって保障されている。罪悪感から給料を受け取れないのもわかるが、もう観念して受け取れ」
イグナーツは俯きながらぎゅっと口を結んだ。エンゲルマン大佐が「顔を上げろ、トット准尉」と言ったので、しぶしぶ命令に従う。目の前の上官はやはり厳しい表情を浮かべていた。
大佐は言った。
「金というものはな、死者のものではない。生きている人間のためにあるものだ。お前が受け取り、お前が使うべき時に使えばいい。陛下も納得して割り振った。汚い金でないことは確かなのだから堂々と受け取れ。それが准尉であるお前の職務の一つであり、軍人としての義務だ。お前が受け取らなければお前より下の地位にあるものは皆それに従って受け取れないということになる」
大佐の言うことはもっともであった。これ以上拒めば、中央本部に目をつけられるかもしれない。
イグナーツは目を細め、黙って聞いていたが、やがて小さな声で「わかりました」と答えた。
イグナーツが部屋を出ると、入れ違いににこにこ顔のデニスが入っていくところであった。
「あとで給料いくらか聞かせてくれよ、俺のも教えるからさ! それ次第で帰った時の飲み代決めようぜ!」
デニスは調子よさそうにウインクまですると、「しっつれいしまあすっ!」と勢いよく部屋に入っていった。
バタンと扉が閉まるのを見届けたイグナーツはその場を立ち去ろうとした。しかしそのとき、別の方から「トット准尉」と呼び止められたので振り返る。
「これはランクル少佐」
イグナーツはぴっと敬礼した。ランクル少佐は目を細めながら本部の扉を見つめた。
「今本部に入っていったのはロルム軍曹でしたか」
「はいそうです、俺の後です」
ランクル少佐は「そうでしたか」と少し渋い表情を浮かべると、イグナーツに言った。
「トット准尉、今日はこの後予定はありますか」
イグナーツがきょとんとしながらも「いえ」と答えると、ランクル少佐は小さく笑みを浮かべて言った。
「よかった。でしたら、今夜はレントの町まで付き合ってくれませんか。飲みに行きましょう。ロルム軍曹もお誘いしてください。準備ができましたら厩舎に行ってくださいね。馬を用意しておきますから。では後ほど」
ランクル少佐はそれだけ言うと、ひらりと身を翻して去っていってしまった。
イグナーツは目を瞬かせた。ランクル少佐が“飲みに行きましょう”だって? あの人は一人静かに飲むのが好きなはずだ。しかもデニスを誘えとは、珍しいこともあるものだ。
イグナーツが不思議そうに首をかしげていると、本部の扉がガチャリと開いた。デニスが出てきたらしい。
次の隊員が緊張した顔で本部に入っていくのを見送りながら、イグナーツは「あ、デニス。今ランクル少佐が……」と言いながら友人の方を見て――言葉を途切らせた。
デニスは真っ青な表情を浮かべており、今にも泣きそうだったのだ。
「どうした?! 給料、もらえなかったのか?」
デニスはよたよたと歩いていたが、駆け寄ってきた友人の顔の方を見ると、「イグナーツ、どうしよう」と震える声で言った。
「俺の配属、ここになっちまった……第三部隊から外れてここに異動になっちまった!」
イグナーツは目を丸くさせた。
「なんだって?」
「中央の決定だから特段理由がない限りは断れねえんだと。うう、俺が何したってんだ……もう、もう終わりだ、何もかもが終わった」
デニスは廊下の隅にふらふらと身を寄せると、顔を両手で覆ってその場にうずくまった。
イグナーツはとっさに彼のすぐ横にしゃがみ込もうとしたが、急にぐっと首が絞められたような感覚に襲われて、立ち尽くしてしまった。
デニスがゲルント駐屯地配属。目の前の友人の様子からして冗談ではないらしい。ここに配属ということは、彼はランクル少佐とともに残ることになるのだ。
イグナーツは心臓がドクンと波打ったのを感じた。突然彼が――デニスがうらやましくなったのだ。
しかし友人の「ううう」といううめき声で我に返ると、イグナーツはしゃがみ込んで友人の肩に手を置いた。
「あーデニス、その……そんな、そんな大げさに落ち込むなって」
イグナーツがそう言うと、デニスは「大げさだと!」とキッとした顔を向けてきた。
「お前は第三部隊に戻れるんだろ! くっ……だから中央の連中はいけすかねえんだ、なんで、なんで俺だけこんな辺境の地に」
デニスがそう言ったので、イグナーツは、“ランクル少佐がいるだろう”と言おうとして、先ほどのランクル少佐の言動を思い出した。
ああ、そうか。
少佐はデニスがここに残ることを知っていたから飲みに行こうと誘ったんだな。
イグナーツは妙に納得した。そして下を向いて鼻をすすりながら「ほんとついてねえ」「これだから権力者は」「いじめだ絶対」などとぶつぶつ雑言を呟いている友人に、「デニス」と呼びかける。
「これからランクル少佐と飲みに行くんだ、お前も誘ってくれって言われてる。レントの町だから時間はかかるけど……よかったら一緒に行かないか?」
デニスはふと顔を上げ、虚を突かれた表情をイグナーツに向けた。
「え……飲みに……ランクル少佐と?」
レントの町は、馬でアッダ村からは2時間、ゲルント駐屯地からは3時間かかるところに位置する、商業のさかんな町だった。鉄道が敷かれ広場には市も出ている――そして、デニスが楽しみにしていた酒場もあった。
ランクル少佐が紹介してくれた酒場はなかなか感じの良いところで、荒れた客もいないようだった。
「ここのエールは帝都と同じ味なんですよ」
しかし少佐はイグナーツとデニスを席まで丁寧に誘導しエールを二つ注文すると、「申し訳ありません」と二人の青年たちの方を振り返って言った。
「私は帝都に送る書状を郵便局に出しにいってきます。どうか先に始めていてください。すぐに戻りますので」
ランクル少佐はそう言って店を出ていった。その背中が見えなくなると、デニスは急に肩の力が抜けたように「ふええっ」と息を吐いてテーブルの上に顔をはりつけた。
「やっぱ緊張すんなあ。俺、あの人の前で酒なんか飲める気しねえや」
イグナーツは苦笑いを浮かべた。
「何言ってるんだ、今まで部隊の宴会で散々飲んでたじゃないか……これからはもっと直接関わる機会が増えるんだから、今のうちに慣れておけ。少佐だって、そのために誘ってくれたんだろ。今いないのも、お前が緊張してるから酔いがまわるまではって、席を外してくれたのかもしれないぞ」
「いやいやいや、俺はエール一杯くらいじゃ酔えねえぜ。もっときっついやつを五、六杯は飲まねえと……」
ところが、エールが運ばれてきてまもなくのことだった。ぐす、と鼻をすする音が聞こえた。イグナーツはおやと向かいに座る友人の方を見た。
驚いたことに、デニスは涙と鼻水をだらだらと流していた。
「ううっ、うまい……エールってこんなにうまかったんだなあ……ううっ」
何が、“酔えねえ”、だ。ひと口でべろべろじゃないか。イグナーツはため息を吐いた。
デニスは鼻水を袖で拭きながら、最初はひたすら「うまい」と繰り返していただけだったが、そのうちに「うう、俺が、こんな辺境地に、ううっ」という嘆きにかわった。
「なんで俺なんだよう……前の戦争だって今回の作戦だって、問題なんか一つも起こさなかったんだぜ? どうせクジかなんかで決めたんだ、ほんと、中央は理不尽な奴らばっか……ううっ、かわいそうな俺」
「わかった、わかったから、もう泣きやめって」
イグナーツは、店内にいる客たちの視線を気にしながら友人をなだめた。
デニスは鼻をすすった。
「もう俺ここに住みたい……ここで働く。駐屯地には戻らねえ。少佐みてえなおっかねえ人と一緒なんて無理だ。うん、そうする」
イグナーツは飲んでいたエールを吹きそうになるのを堪えた。今ここにランクル少佐がいなくてよかった。
「馬鹿言うなよ、駐屯地だって別にやることは第三部隊のときと大して変わらないだろ」
イグナーツは咳払いしながら肘でこづいたが、デニスは顔を歪めて首を振った。
「嫌だ。イグナーツがいねえんなら訓練だって何もかんもつまんねえし、ここで酒飲んでた方がいいに決まってる。俺はもうここを離れねえ」
つまるとかつまらないとかって問題なのか。このままごねたらやっかいだなとイグナーツが眉をしかめたとき、後ろから誰かが「そりゃいい」と楽しそうな声で言った。
「ここに来たら安くしてもらおうか。元軍人がいるってことで、町の治安も維持されていいことだ」
驚いて振り返ると、そこにはディーボルト中尉が立っていた。
「え、ディーボルト中尉……?! どうしてここに」
中尉はデニスの横の席に座りながら「俺はここの常連だ」と答えると、通りかかった店員に「あ、エール一杯追加で頼む」と注文した。
「駐屯地から帝都への届け物は全部この町を経由するんだ。俺は頻繁にここまで通ってんだぞ。お前たちは……ああそうか、別れを惜しむ会ってわけだな」
「俺たち、ランクル少佐に誘われたんです。今は郵便局に行かれてて……たぶんすぐに戻られますよ」
イグナーツがそう答えたのにディーボルト中尉が目を丸くさせ「へえ、あの人が? そいつは意外……」と返そうとしたが、デニスが「うわあんディーボルト中尉ぃ!」と声を上げたのに中断された。
「聞きましたか? 俺、残留組になっちまったんですよう! どうにかしてくださいよ、イグナーツは元の部隊に戻るのに……俺が何したっていうんですかあ」
顔をぐちゃぐちゃにしながら泣きわめくデニスを見て、ディーボルト中尉は彼の頭を動物にするようにわしゃわしゃとなでた。
ちょうどそのときエールが運ばれてきたので、中尉は待ってましたとばかりにそれをぐびぐびっと飲んで「はーうまいな」と満足そうに言った。
そしてすぐ横からじっと見ているデニスの視線に気づくと、咳払いして言った。
「まあ……諦めろ。中央の決定はよほどの理由がないと覆せん。それに一生ゲルントでの配属が続くわけじゃない。二、三年で移動になると思うぞ」
デニスは「他人事だと思って」と上官を睨みつけた。
「いいですよ、もう。俺、ほんとに軍を抜けちゃいますから。エールだって、軍人には倍の値段で売ってやりますから。この店の名前だって、そのうち“デニス亭”とかになってますよ」
「それはちょっと困りますね」
突然別の方向から聞き覚えのある声がしてデニスは氷のように固まったが、イグナーツはほっと笑みを浮かべ、ディーボルト中尉は「おっ!」と嬉しそうな声を上げた。
「おでましですね、ランクル少佐! 珍しいじゃないですか、部下を誘って酒盛りとは」
「酒盛りというほどでは」とランクル少佐は微笑むと、イグナーツの隣に腰かけた。
「私は少しでもお二人を労えたらと思ったのですよ。駐屯地では壁の修復という上官の尻拭いをさせてしまったわけですからね……お待たせいたしました、トット准尉にロルム軍曹。どうですか、久しぶりのエールは」
デニスは押し黙ったままだったが、イグナーツは「おいしくいただいております」と答えた。
「ほんとうに帝都で売られてるエールと同じ味でびっくりしました。デニスなんか、うまいうまいって言って泣き出したんですよ」
「お、おい、イグ、ナーツっ!」
デニスが焦ったように立ち上がったが、ランクル少佐は「そうですかそうですか」と頷いた。
「喜んでいただけて何よりです。私が出しますから、今夜はどうか遠慮しないでくださいね」
デニスはもう酔いがすっかりさめているようで、先ほどまでだらだらと流していた涙を引っ込めて、今度は汗をだらだらと流しながら「どどど、ども」とただ頷いた。
ディーボルト中尉が「しかし」と言った。
「やはりどんな仕事をしていても、こういう場所は必要ですねえ。早くティーボ橋が直ればいいのにな」
「ティーボ、橋? なんのことですか」
イグナーツが目をぱちくりさせると、ディーボルト中尉が「あれ?」と言った。
「言ってなかったか。駐屯地からこのレントの町まで、今は三時間かかるだろ。実は去年の夏に嵐で川が氾濫してな、壊れちまった橋を直してないからなんだ。あそこが通れるようになれば、二時間弱、馬を飛ばせばもう少し早く行き来できるようになる」
そんなに短縮できるのか? 驚いたイグナーツの横からデニスが「え、そ、そそ、それなら」と小さな声で問いかけた。
「去年の夏にぶっ壊れて、なんでまだ直ってねえんですか?」
「帝国側が辺境地にまで予算を割く気はない、というかそもそも関心がないんだろう。利用者も少ないし、再度要請しない限りあのまんまだろうな」
イグナーツは顔をしかめ、デニスは残念そうに拳を握った。
「直ってるんなら毎日ここまで通えるってのに! お偉方はほんとに自分たちのことばっかりですね」
そのとき、別のテーブルから「なんだ、軍人さんたち知らねえのかい!」と声がした。
振り返ると、この町の住民らしい屈強な男たちが杯を交わしているようだった。彼らはジョッキを持ったまま赤ら顔で口々に言った。
「この国のお偉方も、捨てたもんじゃねえぞ」
「ついこの前のことだ、帝都から皇女様がやってきたんだ! そいで、不満はねえかって俺たちに声かけてくれたんだぜ」
「驚いたね、ありゃあ」
「最初は皇子が来たかと思ったら、えらくべっぴんなお嬢さんでよお」
「しかも町の子どもが気安い態度で話しかけてもちっとも怒りゃしねえ、ありゃあご立派なお人だ」
皇女……もしかしてあの人かな。イグナーツは、少し前に舞踏会場で見た、颯爽とズボンをはいて貴婦人とダンスをする皇女の姿を思い浮かべた。
「へえ、知らなかったなあ、お忍びかい?」
ディーボルト中尉の問いに彼らの中の一人が頷いた。
「おうよ、何人かお供の人連れてたけどな」
ランクル少佐が小声で部下たちに「ヘルミーネ殿下です、あの方はよくお忍びで帝国内を視察していますから。中央の一部の将校にしか知らされていませんのでご内密に」と言った。
男たちのうちの一人が続けた。
「そいでさ、誰かが皇女様にティーボの橋が壊れたまんまだって言ってよ、近いうちに必ず直すって請け合ってくれたってわけだ! あの人最高だぜ!」
彼の言葉に、周りの仲間たちもわあわあと歓声をあげた。
「だから軍人のあんちゃんもそうしょげこむなよ、今に新しい橋ができあがるさ」
そう言われたデニスは、目をぱちくりさせてから「あ、ああ」と頷いて頭をかいた。
先ほどまで絶望に濡れていた友人は、「なんだ、それならもう少し楽にここまで通えるようになるのか」と呟いた。そうしてややほっとしたような表情を浮かべたので、見守っていたイグナーツはよかったなと思った。
その半面、友人を羨む気持ちがイグナーツの心の中にふらりともたれてきたが、ぐっと唇を噛み締めて気づかないふりをした。
しかしその様子は隣に座るランクル少佐によってしっかり観察されていた。
ランクル少佐は向かいの席に座るデニスに「さて、ロルム軍曹」と呼びかけた。彼の背筋がピシリと伸びる。
「先ほど軍を抜けてデニス亭を経営するという話でしたが、考え直していただけましたか」
その話、まだ続いてたのか。デニスが明らかにぎくりとした顔になっているのが目に入り、イグナーツは笑いそうになって口元にぐっと力を入れた。
ランクル少佐は真面目な顔で続けた。
「もちろん無理にとは言いませんが、あなたのように信頼できる隊員には、できれば脱隊しないでいただきたいのです。毎日はさすがに難しいと思いますが、休みの日であれば帝都にいるときのように骨休みしていただいてかまいませんので……どうかもう少し我々と仕事をしてくれませんか」
相変わらず腰の低い言い方をするな、この人は。イグナーツは目を細めた。
帝国軍の将校たちの中で、彼のような男はほんとうに珍しい。こうした姿勢は策略として使うときもあるが、部下のために全力で動いてくれることもイグナーツは知っていた。そしてやはり、彼のもとで任務に就ける友人がうらやましいと思った。
デニスはというと、口を開けて目を瞬かせて頬を紅潮させた。“信頼できる隊員”と言われて驚いたのだろう。
デニスはすぐに首振り人形のようにこくこくと頷いてからビシッと敬礼した。
「は、ははは、はい! 全身全霊を捧げてつとめさせていただきますっ!」
ランクル少佐は「よかった」と言って微笑んだ。
「では皆さん、二杯目をいただきましょうか。遠慮せず飲んでください」
杯を重ねるとデニスも緊張がほぐれてきたようで、通常通りのほろ酔いの調子になっていた。
「あーあ、ディーボルト中尉もたまには遊びに来てくださいよう。でないと俺、退屈で死んじまいます」
デニスの言葉に中尉は「お前なあ」と呆れたように言った。
「仕事をしろ、仕事を。壁の修復のときだって、お前が毎日サボってるってヴェルナーの奴から文句が来てたんだぞ」
「あっ、ちょ、そ、そんな、それは言わないでくださいよ……」
デニスは慌てたように斜め向かいに座るランクル少佐の方をちらちら見ながら言った。
「お、俺だってやるときゃやるんですって。ただ……ほら、ランクル少佐だって、信頼できる人がいた方がいいって言ってたじゃないですか。うんうん、そうそう!」
デニスは気を紛らわすようにごくごくエールをあおった。
「全く調子のいいやつだ。もっと周りの人間に感謝するべきだぞ、お前。わかってるのか?」
「わかってます、っていうか中尉には言われたくないですよ……なあなあ、イグナーツ!」
上官に向かって舌を突き出したデニスは、今度は向かいに座るイグナーツに声をかけた。
「お前もさ、こっちに残ってくれよ! お前がいた方がぜってえ楽しいんだからさあ」
イグナーツはエールをちびりと飲みながら「だめだ」と厳しい声で言った。
「今日エンゲルマン大佐から、俺は第三部隊に戻れと言われたんだ。俺は帝都に帰る」
「だから志願してくれって頼んでるんだろ。なあ、いいじゃねえか。俺だけじゃねえ、ランクル少佐だって、きっとお前にここにいてほしいって思ってるぜ。ね、そうですよねえ、少佐」
デニスが珍しく少佐に話を振ったが、彼は眉尻を下げて薄く微笑んだ。
「一応エンゲルマン大佐からの話は中央から下りてきた命令ですからね。そうなるとトット准尉の上官という立場にある私からは何も言えないのですよ。配属移動のお願いができるのはご友人であるロルム軍曹の特権ですね」
「ちぇっ、少佐からの命令だったらぜってえ従うのになあ。っていうかイグナーツ、お前そんなに帝都に未練あったのかよ、借金は全部返したって言ってなかったか」
「返したよ。でも俺は…………。むしろこっちに残る理由なんてない」
「はあ? お前、俺という親友がなによりの……」
デニスは眉を寄せて声を荒げようとしたが、途中で言葉を途切らせた。
イグナーツが顔を歪めて俯いているのに驚いたのだ。言い方は頑ななのに、その顔はなんだよ。まるでここに残りたいって言ってるみてえじゃねえか。
デニスが戸惑っていると、ランクル少佐が見かねたように「失礼」と言って立ち上がった。三人も一斉に立ち上がる。
少佐は言った。
「申し訳ありませんが、少しの間外でトット准尉と二人で話をさせていただいてもよろしいでしょうか。すぐに戻りますから。いいですか、トット准尉」
三人とも目をぱちくりさせた。イグナーツは「え、は、は……い」と頷いた。
ランクル少佐は通りかかった店員に「すぐ戻るので」と一言告げると、イグナーツを連れて店の外へ出た。
外はもうすっかり暗かったが、この繁華街の通りはガス灯によって煌々と照らされており、人通りも多かった。
店のドアから少し離れたところに立ったランクル少佐は、通りの向かいにあるパン屋を眺めながら口を開いた。
「……帝都ほどではありませんが、やはり賑やかな街ですね。治安も悪くない。ほら、若い女性も何人かこの時間にパンを買いに来ていますよ」
イグナーツは、少佐は何を言いたいのだろうかと考えながら「そうですね」と同調した。
少佐は続けた。
「第三部隊のときは帝都の市街地を見回る任務がありましたが、ここの町の見回りはもっぱらゲルント駐屯地からの派遣だそうです……それからこの町にはときどきジーク族の方々も商業目的で訪れるんですよ。彼らだけじゃない、ほかの諸地域からもです。国境が近いですからね。それでも異なる文化に慣れているからか喧嘩やもめごとはあまり起きません。きっとどなたでも住みやすいと思います」
「はあ」
そんなことは俺じゃなくデニスに教えてあげたらいいのにと思いながらイグナーツは頷いた。
ランクル少佐は部下の気のない返事にふっと笑みを浮かべながら「回りくどい言い方をしてしまってすみません」と言った。
「本題に入ります……トット准尉が帝都に帰ると決めているのは、彼女に約束なさったからですか」
イグナーツは肩をびくりとさせて固まった。
しばらく沈黙した後、視線をさげて小さな声で「約束したわけでは」と言った。
「あの人は……俺に、ここに残りたいんじゃないかって訊いてくれました。でも、彼女は帝都での暮らしにやっと慣れてきたところだと思います。け、結婚した後だって、俺は軍にいる時間が長くなるし、その、彼女にとっては住み慣れないところにいるよりリッツ夫妻が近くに住んでいるところの方がいいに決まっています」
イグナーツは自分に言い聞かせるようにそう言った。
それに、もし俺がゲルント駐屯地に所属することにしましたと彼女に言ったら、帝都から出たくないから別れましょうと言い出すかもしれない。イグナーツはそれが一番恐ろしかった。
苦悩の表情を浮かべている青年を、ランクル少佐は目を細めた。
「お互いに気遣っているのは結構ですが、あなた方はもう少し話し合った方が良いでしょうね……まあ、今回は任務が入ってしまったから仕方ありませんが」
ランクル少佐が小さく呟くように言った後、咳ばらいをしてから「トット准尉」と呼びかけた。
「先ほど店の客たちが、ヘルミーネ殿下がこのレントの町に来たと話していたことを覚えておいでですか」
「……はい」
「殿下はこの町での暮らしぶりを聞いて、ティーボ橋のことも解決してくれるということでしたね」
「はい」
「なぜ殿下が動かれたのか、わかりますか?」
「え……?」
イグナーツはきょとんとした。
「ええと、殿下はよくお忍びで各地を視察なさる方だって、さっきランクル少佐が……」
「ええ、確かに彼女はそういうお方です。ですが橋が崩壊したのは半年以上前のことです。なぜ今になってお気にされるようになったのでしょうか」
「……」
イグナーツは眉を寄せた。何か意図があったんだろうか。皇族の考えることなんて俺にわかるわけがない。
ランクル少佐は続けた。
「トット准尉はヘルミーネ殿下と言葉を交わしたことがありますか」
「そんなのあるわけな…………あっ、いえ、その、一度だけ、ぶ、舞踏会で」
「そうですか。どういう伝手があって、その機会に恵まれましたか」
「ええと、ビアンカさんが紹介……」
イグナーツはここまで言うと、はっとして隣に立つ上官を見上げた。
まさか。
「え、もしかして彼女が殿下に相談したというのですか……? なんのために?!」
ランクル少佐は相変わらずパン屋を見ながら「あなたとここに住むため、と考えるのは早とちりでしょうかね」と言った。
「本人に直接伺ったわけではありませんので真偽のほどはわかりませんが、偶然にしてはできすぎていると思いまして。ただ軍の内部の事情は義父であられるリッツ大佐を通してご存じでしょうから、トット准尉のことを彼女なりに考えたはずです。あなたが駐屯地に勤めることができるようにと」
そんな……そこまで? イグナーツは目を見開き、唇を噛んだ。
ランクル少佐は言った。
「もしかしたらヘルミーネ殿下ご自身が良かれと思って動かれたのかもしれません。何事も憶測で動いてはいけませんよ……でも私はビアンカ嬢が殿下に話していたとしても、それがおかしなことだとは思いません。遠慮がちなあなたがこちらに住むと言い出しやすい状況を作ろうとしたのかもしれませんし」
ランクル少佐は目を細めて「それに」と言った。
「そもそも壊れた橋がそのままになっていること自体どうにかするべきだった。きっとヘルミーネ殿下に“どうして直してくれるのか”とわけをお尋ねしたとしても、皇族として当たり前のことをしたと言うだけですよ。こちらとしても通いやすくなるし、もしもあなたが駐屯地所属に加わるとなったら万々歳です。どれほど嬉しいことか」
イグナーツは、心臓がぎゅっと握られた感覚になり、思わず拳を握った。
いや、だめだ。絶対に彼女に無理をさせている。だってこのゲルント駐屯地は、帝都から離れすぎているのだ。
ただでさえ貴族から軍人将校の養女になったのだ。こんな辺境の土地に来てもらうなんて暮らしの変化が大きすぎる。
険しい顔になっているイグナーツに、ランクル少佐が「休暇は一週間だけですか?」と訊いてきた。イグナーツはゆるゆると首を振る。
「今日を含めて十日もいただきました……まずは中央本部で給料を受け取るようにと言われています」
ランクル少佐は頷いた。
「よかった。それなら彼女とお会いする時間はありそうですね」
イグナーツは「はい」と頷いた。そうだ、会って話をしなければならない。
もしかしたら、彼女は無理をして俺のために帝都から離れようとしているのかもしれない。せっかく父親から解放されて自分のために生きる道を歩み始めたというのに、彼女の意志と反対方向に進んでいるのなら、なんとしても阻止しなければ。
「ランクル少佐」
イグナーツは言った。
「俺……今から郵便局に行ってきます。帝都に帰ったらすぐにリッツ邸に行きたいので、手紙を書いておきます」
「ええ、どうぞ」
ランクル少佐は笑みを浮かべた。そして青年の背中を見送りながら「やはり今夜はこのレントの町に来てよかったですね」と呟いた。
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※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります
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※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
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