狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

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14. 残留

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 領地奪還から五日後、ようやく帝都からの通達がゲルント駐屯地に届いた。皇帝からは報告に応じた返答、中央の軍部からは今後の駐屯地に関する指示が出た。
 それにより、精鋭部隊の隊員たちは半分が帝都の所属部隊に戻ることが許されたが、もう半分は駐屯地に残って修復に徹することになった。
 しかしその残った隊員たちのなかでも、どこからか命令がくだったのか、日が経つにつれて一人、また一人と帝都に戻されていった。

 修復作業に取りかかってからひと月が経つ頃には、精鋭部隊の隊員としてきた者たちは六人ほどしか残されていなかった。そんなありさまだったので、完成まで結局時間がかかっていた。




「ま、結局残るのは俺たちだよなー」

 デニスは積まれたレンガの上に頬杖をついて目の前に広がる平原を見つめながら言った。

「リッツ大佐とかハネス中佐が行くのはわかるぜ、シュルツ少将がまだ動けねえからよ。けどさ、第一部隊と第六部隊の奴らが全員帰ったのはぜってえコネと金の力だよなあ! ま、お貴族様出身ともなるとこんな辺鄙なとこからは早々におさらばしてえんだろうな。わがまま言える奴らこそ、ここにいるうちに率先して仕事してほしかったぜ」

「デニス、わかったから口ばっかり動かしてないで早くこっち来て手伝え!」

 愚痴をこぼしているデニスは、少し離れた作業場で漆喰の入ったバケツを抱えているイグナーツに呼ばれて顔をしかめた。



 今回の戦いで被害が出たところはもちろん、裏門からの侵入が容易であったことから強固にする必要があるとも命令が下った。しかし数日ここを占拠していたジーク族たちは建物を壊したり荒らしたりはしなかったようで、一番大きな被害を被った場所と言えばリッツ大佐の壊した表門の壁であった。
 当の本人は帝都に帰る前に、がははと笑いながら「悪いな! まあお前たちの給料に上乗せしておくから安心しろ。それより、次はちょっとやそっとじゃ壊れん壁にしてくれよ」と言った。ちょっとやそっとの力じゃ普通壁は壊れないだろうと残された隊員たちは皆思ったが、給料が上がるということを期待して黙って上官を見送ったのである。
 


「トット准尉が全快してこちらの作業場に来てくださって助かりました」

 イグナーツの横でレンガを並べている若い隊員が言った。

「ロルム軍曹ったらいつも作業場からいなくなってるんです、連れ戻すのも一苦労でしたよ。しかも愚痴が多いんです」

 この若者は以前、病室で油を売っていたデニスを引きずっていった男で、クルト・ヴェルナーです、とイグナーツに名乗ってくれた。もともとゲルント駐屯地所属の隊員らしく、以前まで建てられていた壁の造りになるよう指揮を任されているのだそうだ。

「トット准尉は今まで書類の作業に徹してくださっていたんですよね。無理を言ってこちらに来ていただきましたが、大丈夫だったんでしょうか」

 クルト・ヴェルナーの言う通り、イグナーツは怪我を負っていたため、最近まで軍医から肉体労働を禁じられていた。
 仕方なく彼は中央に提出する報告書を延々と書いていたのだが、壁の修復作業の人手不足という点と、本人からの再三の要請により、先日ようやく晴れて軍医から動いて良いと許可が出たのだ。

 イグナーツはバケツを置いて笑みを浮かべると肩をすくめた。

「書類って言ったって、ほんとは毎日書くもんじゃない。それに怪我してからもうひと月経つんだぞ。傷だって浅かったからとっくに大丈夫なんだ。ちょっと大きかっただけでさ。大袈裟な軍医に言われて何日も休んでた分、こき使ってくれてかまわないから、どんどん言いつけてくれ」

「……ちょっと聞きました、ロルム軍曹? 先輩とか上官ってやっぱり徳の高さが違いますねえ!」

 クルト・ヴェルナーがわざとらしく彼に大きな声で言うと、平原に視線を向けていたデニスはむっとした顔で振り返った。そして「うるせえうるせえ、やりゃあいいんだろ」と言いながらやっと作業場にやってきた。

「おいイグナーツ、俺にも漆喰よこせ! ……ったく、こんなのほかの村か町から左官屋とか呼んで任せりゃいいじゃねえか、なんで俺たちがこんなことまでやらなきゃならねえんだよ」

 デニスが作業しながらぶうぶう言っていると、彼の後ろから「相変わらずばかだな」と声がかけられた。
 振り返ると、第二部隊のリール二等兵であった。彼は壁の一部となる煉瓦を荷車に乗せて運んできたようだ。しかしそんな状況でもやはり黒髪はきっちりと撫でつけられており、服装もきちんと整えられている。
 リールは言った。

「今回の出動は公のものではないと何度も聞いただろう。外部の者を呼べばラデッツ国と何かあったのだとすぐに噂になる。それは皇帝陛下の望むところではないのだ」

 彼の言葉に、デニスは顔をしかめて「へん」と鼻を鳴らした。

「そんなに皇帝のご機嫌ばっかり窺ってるんなら、いっそのこと後宮にでも入っちまえ。ってかお前二等兵なんだろ、軍曹の俺のこともっと敬えよ」

「ふん、第三部隊所属の軍曹など敬うに値しない。それに我が帝国に後宮などない。そんなことも知らないのか」

「わ、わかってらい! いちいち気に触る言い方すんなよ!」

「お前こそいつも間の抜けたことしか言わないじゃないか、少しは学んだらどうだ。その頭は飾りか」

「だーーうるせえっ! エリートのお前に俺のことがわかってたまるかってんだ……っ!」

 カチンときて今にも掴みかかりそうになった友人に、その場にいたヴェルナーとイグナーツが慌てて腕を押さえて止めに入った。

「ま、待ってください、ロルム軍曹!」

「どうどう、落ち着けデニス」

「くっそ、止めてくれるな! こいつを一発殴らねえと俺は気が済まねえっ!」

 デニスの騒がしさに、周りで作業していた隊員たちがなんの騒ぎだとこちらに視線を向けてきた。作業中に上官たちに知られてしまったらまずいことになると、焦ったヴェルナーとイグナーツは次のように言った。

「すいません、もう文句は言いませんから! ロルム軍曹は好きなだけ平原で黄昏ててください!」

「デニス、こんなときにこんなところで喧嘩なんかしたら減給と罰則だぞ! ランクル少佐に見つかったらどうする」

「だってこいつが……ぐぬぬ」

 両肩を掴まれたデニスは顔を歪めながらなおも二人から逃れようとしていたが、上官の名前を聞いてほんの少しだけ力を緩めた。

「私は」

 ふいにリール二等兵が口を開いた。
 
「私はエリートなどではない。私は軍人の家に生まれたわけでも資産家の出身でもない。私の親は炭鉱夫だ」

「えっ」

 デニスは驚きの声を漏らし、イグナーツとヴェルナーも目を見開いた。
 リールは三人の視線を受けつつも、無表情のまま荷車から煉瓦を下ろす作業を始めた。そして次のように言った。

「私が人より夜目がきくということは、もう今回のことで知っているだろう。幼少期を炭鉱で過ごしていたから慣れているのだ……もっとも、私は結局軍人になったが」

 リールは続けた。

「第二部隊の所属と決まったとき、軍人として生きていくのにとても苦労した。誰よりもこの国に尽くす軍人らしい軍人になろうと努力を重ねた。だからお前のように学ぼうとしない男を見るといらいらするのだ。だが……言い方が少々失礼だったかもしれない。そのことについては詫びよう」

 彼の態度は相変わらず横柄であったが、デニスは意外な事実に驚いて、怒りはすっかり抜けてしまっていた。リールはもう話すことはないというように、こちらに背を向けて作業に従事し始めた。
 イグナーツとデニス、そしてヴェルナーは顔を見合わせたが、もう何も言わず、彼と同じように壁の修復作業に戻った。



 夕刻になると、作業場にヘルマン少尉が「今日はもう終わりにするぞー」と声をかけに来た。

「駐屯地の隊員はランクル少佐にそれぞれの持ち場の進行を報告してから夕食にしてくれ。ほかの者たちは解散! 明日も同じ持ち場だ、朝礼には遅刻するなよー」

 彼の言葉に、隊員たちは作業場を後にしてそれぞれわいわい言いながら食堂へ向かった。

 襲撃後、ゲルント駐屯地には軍医と一緒に料理人にも来てもらっていた。
 駐屯地周辺は平原に囲まれており、辺りには何もなかった。一番近いアッダ村にも大衆食堂や酒場はなく、そうした場所へは三時間馬を飛ばしたところにある大きな町まで行かなければならなかった。
もちろん一日中壁の修復作業をしている隊員たちに、そんな遠くまで行く気力はなかった。


「豆の煮込み具合はちょうどよし、スパイスも効いてるし、パンも固くない。肉だって第三部隊のやつより良いやつだってことはわかってる……けど、やっぱここはゲルント駐屯地の食堂なんだよなあ」

 デニスは悔しそうにカトラリーを握りしめてそう言った。
 イグナーツは顔を上げずに肉を切りながら「知らなかったのか?」と問うと、友人は「なわけねえだろ、つまりだな!」と声を荒げた。

「何が言いてえかって言うと、酒だ! 酒がねえんだここには。あとは娼館も! 帝都付近だったらちょっと歩けばすぐそこに酒場も花街もあるってのによ、この辺りに住んでる奴の気が知れねえや」

 デニスは不満たらたらそう言ったが、イグナーツはちらと友人の方を見て、「あんまりそういうことは大声で言うなよ、ここに所属してる連中に悪い」と注意する。

「別にばかにしてるわけじゃねえんだぜ。けどさ、これじゃまるで修道士みてえな暮らしじゃねえか。違いと言ったら祈ってねえだけだぜ。ああーもう早く帝都に帰ってエリス亭のエールが飲みてえ」

「そうだな」

 イグナーツは小さく笑ってそう言い、黙々と食事を続けた。
 そんな彼をデニスはじろじろ眺めていたが、「ところでよ」と言った。

「お前、例のお嬢さんから手紙の返事は来たのか?」

「いや……来てない」

 イグナーツは無表情になって首を振った。

 リッツ大佐が帝都に帰るとき、イグナーツは彼の養女であるビアンカ嬢に手紙を書いた。大佐も間違いなく渡すと請け負ってくれたのも記憶に残っている。
 しかしあれから何日も経つのに、ビアンカ嬢からの返事はなかった。リッツ大佐から給与に関する報告書や指示書は届く。だから郵便が滞っているわけではないのだ。
 今までの文通では、自分で書くのは遅いのだが彼女からの返事の方はいつも早かったので、イグナーツは手紙が来ないことをひどく気にしていた。

 デニスはパンを飲み込んでから「やっちまったな」と言った。

「何か余計なこととか、気に障ることでも書いたんだろ。じゃなきゃ、業務連絡みてえな報告だけしかしてねえとか」

「……」

「図星かよ」

 イグナーツは口をへの字に曲げて手紙の内容を頭に思い浮かべた。
 彼は今回の任務の出来事を包み隠すことなく書いて送った。ジーク族によって殺されるところを危うく命拾いしたこと、マリアという想い人がいる兵士の命を奪ったために自分はビアンカ嬢に会う資格がないと思っていたこと、それが間違っていたと思いなおしたこと、そして今は会いたくてたまらないということも。
 だがやはり自分本位に考えていたことを書くのは避けるべきだっただろうか。

 黙っているイグナーツに、デニスが言った。

「あのな、相手は上官じゃねえんだぞ。恋人に業務報告だけしてどうする。愛の言葉でも書いとかなきゃほんとにふられちまうぜ」

 呆れたように言う友人に、イグナーツは慌てたように言った。

「あ、“あなたに会いたい”とは書いたよ! 上官にはそんなこと書かないだろ」

「へーへーそうだろうな。早いとこ帰らねえと、いい加減誰かに掻っ攫われちまうんじゃねえの。リッツ大佐がガードでついてるとは言え、もとは貴族なんだぜ。こっちの帰りが遅くなって、別の男と実は結婚してました、なんてことになってたら笑えねえぞ」

「そんな言い方やめろ。というか、彼女はそんな人じゃ……」

 イグナーツが言い返そうとした時、二人の横から「さすがに貴族でもあの大佐に挑もうとするやつなんかいないと思うけどな」と声がした。

「ディーボルト中尉!」

 ハンサムな上官がやや疲れた顔をして立っていた。
 彼は料理を乗せた膳を持っており、イグナーツの横の席を指して「ここいいか?」と尋ねてきたので、イグナーツは頷いて椅子を引いた。
 ディーボルト中尉は座りながらデニスの方を見て言った。

「あのお嬢さんはなかなかの切れ者だぞ。貴族も軍の上の連中も苦手とするリッツ大佐に目をつけたんだからな。ほかの男になびくなら、初めからそんな選択はしていないって俺は思う」

 そう言われてデニスは肩をすくめた。

「そんならいいんですけど。それより中尉、俺たちいつまでここにいるんですかあ? 早く帰れた奴だっているのに。ずるいんですよ」

「それについては中央の決定だからどうしようもない。その分給料が増すから期待しておけ。ひとまずお前たちに課されたのはあの壁の修復が最後だ。完成して許可が出たらすぐに帰してやるよ。そうだな、まず一番にエリス亭のエールを奢ってやる」

「おっ、言いましたね!? 二言はありませんね?」

 急に目を光らせたデニスが「よっしゃ、明日は全力でやるぜい!」と言いながらガツガツ肉を食べ始めた。
 イグナーツはその様子を目を細めて見ていたが、ふと気にかかることがあって「ディーボルト中尉」と隣の上官に言った。

「壁の修復が終わったら、全員がほんとうに隊舎に帰されるんでしょうか。もともとここの駐屯地に所属していた隊員たちに異動願いを出す人が多く出たって聞きましたけど、ここは大丈夫なんですか?」

 中尉は隣の部下の顔を見て苦笑いを浮かべると「お前はほんと、よく気がつくなあ」と呟くように言った。

「その通り、ここは目下人手不足、精鋭部隊を返したらなおさらだ。中央の軍部じゃ、全部隊から数人ここへ派遣させるって話が出てるらしいが、実はな……ランクル少佐が残留組として志願した」

「「えっ!」」

 イグナーツとデニスは驚きの声をあげた。

「残留って……少佐は帝都には戻られないんですか!」

「俺たちの後にもずっと残るんですか! ここに!?」

 ディーボルト中尉は「そうだ」と頷いた。

「俺も驚いたよ。まあ、少佐は第一部隊にも第三部隊にも所属してたから、どちらからも批判の声は上がるだろう。だが、中央の軍部はもう認めてるからおそらく決定事項だ」

「そ、そんな……」

 イグナーツはショックを受けたような顔をした。デニスは「だ、だけど」と言った。

「ランクル少佐はなんで志願したんですか。こんなに何もないところなのに」

 ディーボルト中尉は「だからだろう」と苦笑いを浮かべた。

「少佐は、人が嫌だと思うことを率先してやるお方なんだ……俺も思わず理由を尋ねたら、“必要だからです”、とさ。咄嗟に俺も残りますって言ったんだが、“あなたは帝都に必要な人ですし、婚約者もいらっしゃるでしょう”って言われた……ほんとうに頭が上がらない」

 ディーボルト中尉が目を細めて言ったのに、デニスは内心『ディーボルト中尉、婚約者いたのか』と驚いたが、話題からは逸らさずに言った。

「ほんっとあの人変わってますよね。こんな、酒場も娼館も娯楽もねえところに置き去りなんて、俺なら気が狂っちまいます。こんな生活、修道士とおんなじじゃねえですか」

「デニス」

 イグナーツはたしなめるように友人の名前を呼んだが、デニスは「だってそうだろ」と言って続けた。

「そりゃランクル少佐はお上品だから、場末の酒場とか娼館なんかには通わねえだろうさ。けど、いくら少佐が独身で女嫌いだからって……」

「それはちょっと違いますね、ロルム軍曹」

 突然後ろから割り込んだ声に、デニスは肩をびくりとさせて固まった。
 イグナーツとディーボルト中尉は、デニスの後ろに立つ人物が誰かわかるとすぐに同時にさっと立ち上がり、「ランクル少佐!」と敬礼した。
 デニスの後ろに現れたランクル少佐は、穏やかな顔で二人に「どうぞかけてください」と言い、固まって動けなくなっているデニスの横に座った。

 デニスはギギギと顔を引き攣らせながら横を向いた。

「ララ、ラ、ランクル少佐、いいい、い、いつからそちらに……?」

 ランクル少佐はいつもの笑みを絶やさずに「今しがたですよ」と答えた。

「話に割り込んでしまって申し訳ありません。ですがロルム軍曹、なにやら誤解をしているようですが、私は決して女性が嫌いなのではありません。女性も男性も愛せないだけです」

「へ……」

 デニスはぽかんとした顔になった。少佐は薄い笑みを浮かべたまま続けた。

「そして、私は子孫を残さなければならない立場でもないので結婚はしません。それだけですよ。ご理解いただけましたか?」

 デニスは顔を青くさせながら「へ、へへい……」と声を漏らした。緊張と混乱で理解が追いつかない。なんだかすごいことを言っている気がする。しかしそれよりも、この人は今までの会話のどこから聞いていたのだろうか。
 少佐の微笑みが怖くて、デニスは顔も身体も動かせなかった。

 隣から視線を受けて一ミリも動けなくなっている友人には気にも留めず、イグナーツは「そんなことより、ランクル少佐!」と声をあげた。

「こちらに残る理由を教えていただけませんか! 別にランクル少佐でなくともいいではありませんか! 押しつけられたんなら俺は納得できません!」

 ようやく上官の視線から解放されて息を吐いているデニスには気付くことなくイグナーツが捲し立てると、ランクル少佐は「そんなことはありませんよ」と小さく笑った。

「ディーボルト中尉がおっしゃっていた通り、私は押しつけられたのではなくちゃんと自分から志願しました。中央はそれを受諾したに過ぎません」

「で、でも、どうして……!」

 ランクル少佐はイグナーツの目を見て言った。

「この辺りの国境は緊張状態です。何かあったとき、できるだけ穏便に解決する道を歩みたいのです……今回のようなことを避けるためにも。とにかく敵も味方も犠牲者が多すぎた。私の失態です。それに」

 ランクル少佐は少し目を細めた。

「私はしばらくこの平原にいるべきだと思ったのですよ。ここを託せる人を探すより、私が就きたいと……それだけです。ただのわがままですから」

 ランクル少佐が笑って言ったのに、イグナーツはぐっと歯を噛み締めた。

 少佐は今回の襲撃の被害を悔いているのだ。そしてあのとき話していたように、平原の国境を憂えているのだろう。

 しかし、同じように考えている将校がほかにどれだけいるだろうかとイグナーツは思った。
 少なくとも自分の知る将校たちは、たいていが出世したいために戦争を望んでいる。地位を確立し、皇帝の覚えがめでたくなるようそのきっかけを望んでいるのだ。そんな連中ばかりが中央にいるなんて。

 イグナーツの悔しい思いを代弁するかのように、ディーボルト中尉が横から言った。

「少佐みたいに平和を望む軍人がこれからの世の中に増えてくれればいいんですけどねえ。俺は現皇帝陛下が先の陛下と違って好戦的でないことが救いだと思っています。それに対して不満を持つ将校がいることも知ってますが」

 中尉がそう言うと、ランクル少佐は「そうですね」と頷いた。

「ディーボルト中尉に帝都に戻ってもらうのは、中央の様子を聞きたいからという理由もあります。実際のところ、あなたは誰よりも情報収集に長けている。頼りにしていますからね……さて、トット准尉」

 ランクル少佐は斜めに座るイグナーツの方に視線を移した。

「何か物言いたげな顔をしていますが、私のことよりも、あなたに大事なお知らせがあるのです」

「大事な知らせ、ですか?」

 ランクル少佐は「ええ」と頷き、上着から時計を取り出してそれを見ながら言った。

「そろそろです……先程帝都のリッツ家から急ぎの電報が届きましてね、今夜、到着するだろうとのことです」

「到着?」

「はい、もうこの辺りは当分大丈夫と大佐からの許可も出たようでしてね。明日の昼でもさして変わらないというのに、一瞬でも早く会いたいと思ったのでしょう。今日のうちに帝都を出たと聞きました。やはり行動力のあるお人だ」

 イグナーツは話がわからず、眉を寄せた。

「あの……一体何の話をしているんですか」

 訝しげな表情をしている青年に、ランクル少佐は「これは失礼」と笑みを隠した。

「ビアンカ・リッツ嬢が、あなたに会いにこの駐屯地へ向かっています。夕刻にはアッダ村を出たはずなので、今頃は表門の辺りに着く頃ではないでしょうか」

「な……っ、えっ!?」

 イグナーツは目を見開いた。

 ビアンカがこちらに向かっている!?
 彼は弾かれたように立ち上がった。椅子がガタンと音を立てて後ろに倒れる。

「もう到着しているかもしれません。早く行っておあげなさい」

「も、と、到着って……!」と言いながらイグナーツは慌てたように後ずさる。

「そ、それじゃ、おお、お先に失礼します、ランクル少佐、ディーボルト中尉! デニス悪い、食器の片付けを頼む!」

 イグナーツは後ろに歩きながら敬礼をすると、すぐに身を翻して食堂を飛び出して行ってしまった。
 残された三人は青年の後ろ姿を見送っていたが、ディーボルト中尉が横目で上官を見た。

「ランクル少佐ももったいぶった言い方をしますね。ここに来てすぐに教えてやったらよかったのに」

「おや、矢継ぎ早に質問してきたのは彼ですよ……ロルム軍曹」

 ランクル少佐は肩をすくめてから隣に座るデニスに視線をやった。呼ばれたデニスは肩をびくりとさせた。
 少佐は言った。

「確かに今の駐屯地は何もありませんがね、落ち着いた頃には付近の町から酒を注文したり花街から人を呼んだりすることもできますよ。ここはむしろ帝都の隊舎より自由がきくのですーーそれほど閉ざされたところではないとお伝えしておきましょう」

 デニスは目をぱちくりさせながら「そ、そうですか」と呟くように言った。
 なんでそんなこと俺に言うんだろう、とデニスはこのとき不思議に思っていた。








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