狙撃の名手と気高い貴婦人

Rachel

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6. 勲章よりも

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 ランクル少佐とディーボルト中尉がクラッセン侯爵令嬢の言質をとり、それを会議で重要証言として上げた結果、誘拐騒動から四日後にイグナーツは晴れて牢から出ることができた。
 上官に相談せずに現場に向かったことは少々咎めを受けたが、令嬢を守るために発砲したということは評価され、罰則は差し引きゼロという決定になったのである。

 イグナーツは牢から出してくれたディーボルト中尉に事の経緯を聞いた。

「俺もリッツ大佐から本部の会議のことを聞いたんだ。大佐はもちろんお前の味方だったが、あの人はほら、感情的というか筋道立てないだろ? ランクル少佐のきっちりした証言収集と弁護があったから本部を納得させることができたんだ。あの人が猛反対してなけりゃ、お前は規律違反の見せしめで処刑されてたかもしれないんだぞ。あの人には十分礼を言っておけ」

 イグナーツの肩をぽんと叩いてそう言ったディーボルト中尉の顔にはわずかに疲労が窺えた。きっと彼も自分のためにずっと奔走してくれていたのだ。自分はずっと牢の中で座っていることしかできなかったことを考えると、感謝の思いでいっぱいになる。
 イグナーツは目を細めて「ありがとうございます、ディーボルト中尉」と礼を述べた。

「後になって……あのとき中尉に話してから村に向かってもよかったと思いました。軽率でした」

 ディーボルト中尉は「いいんだよ」と手をひらひらさせた。

「とにかくお前の行動は間違っていなかった。俺も見習うべきだって思ったよ。あのクラッセン侯爵令嬢を危ないところで助けたんだからな……ところでさ、トット准尉」

 ディーボルト中尉はにっと笑って言った。

「ずっと気になってたんだ! お前、やるじゃないか。いつのまにあのご令嬢と良い仲になってたんだ、どこまで進んでる?」

「え?」

 イグナーツは目をぱちくりさせた。

「おっしゃっている意味が…………え、侯爵令嬢と俺が? どこまでって?」

 ディーボルト中尉は「とぼけるなよ」と肘で小突いた。

「ただの顔見知りどころじゃないんだろ。ごまかそうったってそうはいかんぞ。俺はピンと来たんだ、クラッセン侯爵邸でお前の話をしたとき、彼女が妙に……」

 ディーボルト中尉はそこまで言って言葉を途切らせた。
 イグナーツは照れることなく、また否定することもなく、ただぽかんと口を開けている。

「え……あれ? 待てよ、じゃあもしかして令嬢の片……」

 ディーボルト中尉は少し考え込んだ後、再び部下に笑みを向けた。

「悪い悪い、なんでもない。とにかくあれだ……さっさとランクル少佐の部屋に行って礼を言ってこい!」

「はあ……?」

 突然話題を変えてしまった上官に、イグナーツは首を傾げたが、中尉が「回れ右! 駆け足! いち、に、いちに!」と声を上げるので、イグナーツの身体はそれに合わせてその場を後にすることになった。


 それからイグナーツは隊舎の奥にあるランクル少佐の部屋まで行くと、扉を叩いた。いつもならば薄い笑みを浮かべて出迎えてくれるのだが、彼は今日は珍しく不服そうな顔をしていた。
 怒ってるんだ、とイグナーツは思った。

 あの日、農夫たちに向けて銃を撃ったイグナーツは木から降りてランクル少佐になぜ撃ったのか問われたが、何も言えずただ「申し訳ありません」と謝ることしかできなかった。それなのに少佐はイグナーツを救うために動いてくれたのだ。本部からのお咎めはなしだったけど、少佐からは何か罰則がくだされるかもしれないな。
 イグナーツは不安を抱いたが、ランクル少佐の表情が曇っているのは、違う理由からであった。
 ランクル少佐はイグナーツを部屋に入れて長椅子に座らせ、自分も向かいに座ると、ため息をつきながら「トット准尉、ほんとうに申し訳ありません」と言って項垂れた。

「私は無力でした。あなたを英雄にしたかったのに、結局罰則を取り消すだけに留まってしまった」

「え、俺をえい……?」

「英雄です。軍の誰一人予想することができず動かなかった中で、あなたが行った勇敢な行動は的確で、大いに讃えられるべきだ……それなのにその栄誉を示さないなんてまったくひどい話です。再三勲章の授与を要請したんですが、あの頭のおかしい本部の連中ときたら……」

「ま、待ってください! 勲章!? 何の話ですか?! 絶対にやめてくださいよ、そんなの恥ずかしいですって」

 上官が突拍子もないことを言うので、イグナーツは慌てて遮った。

「俺は除隊を免れただけでもありがたいと思っているんです、ほんとに。上官が乗るはずだった馬に勝手に乗って、勝手に発砲したんですから……罰がくだるのを覚悟していました。ランクル少佐が会議で俺を庇ってくれて、俺が処刑されないように動いてくださったと伺っています。ほんとうに感謝しています。それからご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 イグナーツはぺこりと頭を下げた。ランクル少佐は目を細めて部下を見つめた。その表情にはやるせなさが浮かんでいたが、同時に慈愛が感じられた。

「ほんとうに欲がありませんね、あなたは。謙虚でありすぎるゆえに、中身のない権力に押し潰されてしまうのではと心配ですよ。もちろん私が全力で阻止しますけど」

 涼しい顔でそう言うと、部下に歩み寄って彼の肩に手を置いた。

「私はね、トット准尉。あなたの何一つ間違っていない判断を叩きつけてやりたかったんです、脳なしの本部の連中にね。彼らがあなたを処刑しようとしていただなんて思い出しただけでもぞっとします。とにかくあなたを無事に取り戻せてよかった。勇敢で賢明な行動をしたあなたを、私は心から誇りに思っていますからね。ほんとうによくやってくれました」

 それは、イグナーツにとって勲章などよりもよほど嬉しい言葉だった。
 あの日少佐に問いただされたとき、イグナーツは何も答えなかった。それだというのにこの人はいつも俺を信じてくれるのだ。
 急に込み上げてくるものがあり、イグナーツはまずいと思って下を向いた。それでも何も言わないわけにはいかないので、鼻をすすって「ど、どうも」と頭をかいた。
 ランクル少佐はそんな様子の部下に表情を和ませて見ていたが、しばらくして「ああ、そうそう」と、机の上に置いていた物を手に取った。

「クラッセン侯爵家のビアンカ嬢からあなたに手紙を預かっていたんですよ」

「えっ」

 イグナーツががばっと顔を上げた。少佐が「はい、これです」と差し出したのは以前もらったときと同じデザインの白い封筒だった。“イグナーツ・トット様”と綴られた文字は、何度も読み返して覚えた彼女の字体だ。
 うわあ。イグナーツは胸の内から湧き上がるような喜びを感じたが、努めて心を落ち着けながら「ありがとうございます」とそれを受け取った。
 それからランクル少佐は少し迷ったような表情をしてからすぐにいつもの薄い笑みに戻して言った。

「あなたにお伝えしておかなければなりません……今回あなたが罰則を受けずに済んだのは、ひとえにビアンカ嬢が事のあらましを証言してくれたからです。あなたがなぜ引き金を引くことになったか、その理由が重要でしたからね」

 イグナーツは黙って頷いた。牢から出られると知ったとき、イグナーツはきっと彼女が話してくれたからだろうと察していた。そうでなければ出られるはずがなかった。
 ランクル少佐は続けた。

「この証言は、トット准尉が心配していた通り、すでに社交界に広まっています。ビアンカ嬢が人質として連れ出され、危険な目にあっていたという話だけでなく、乱暴されそうになっていたということも伝わっており、実はすでに事に及んでいたのではなどという憶測まで飛び交っています」

 そんなことまで。イグナーツは眉を寄せた。手紙を持つ手に力がこもる。
 ランクル少佐は続けた。

「もちろん、彼女から証言をいただいたとき、私は社交界で噂が広まる可能性を話しました。ひどいおひれが付くかもしれないということも含めてです。しかし、ビアンカ嬢は大したことはありませんと笑っておられた。“そもそも誘拐されたにも関わらず、父親から何の手立ても打たれなかったという事実が広まるのですから、今更恥ずべきことなどありません”とね。それに、こうも言っていました、“助けられた身であるというのに、自分の保身のために証言を取り消すことなど私にはできません”と」

 イグナーツはランクル少佐の言葉を聞いて、ビアンカ嬢が目に浮かぶようだった。やや自嘲気味で正義感の強い姿は、あの夜会のときを思い起こさせる。
 ランクル少佐は「それと……私は止めたのですが」と続けた。

「今度の土曜日、皇女殿下のお誕生日祝いで舞踏会が催されるのですが、ビアンカ嬢はそれに参加するそうです。ヘルミーネ皇女とは親しいようなので欠席するわけにはいかないのでしょう。もちろん仮にも侯爵令嬢ですから、きっとどんな悪口を言われてもうまくかわすでしょうが、あなたがいれば彼女も心強いと思うのです」

 イグナーツは戸惑うような顔を上官に向けた。

「でも……侯爵に警戒されますよ。軍部の人間はあまり彼女に近づかない方が良いのでは?」

「今更でしょう」

 ランクル少佐は薄い笑みで答えた。

「彼女が危なかったところを助けたのは他でもない、あなたですよ。何もしなかったあの父親が近づくななどと言える立場ではないはず……と、こんな正論を言ったところであの男には通じないかもしれませんがね。まあ安心してください、舞踏会の日はちょうどクラッセン侯爵の闇取引の日なんです。彼は夕刻からギアンティ港に出向いているはずですから、宮殿の舞踏会にはいません」

 そんなことまでわかっているのか。イグナーツが目を丸くさせたのに、ランクル少佐は少し笑った。

「ここまでの情報を得るのに時間がかかったんですけどね。しかし今回の取引現場でうまくすれば侯爵を捕らえることができるようで、担当している軍部も慎重に動いています。あなたは幸いこの侯爵に関する任務から外れていますから、胸を張って舞踏会に参加してください。はい、招待状です」

 半ば押しつけられるように手渡されたカードには、皇族の紋章の印が真ん中に押されていた。本物である。

「え、任務って……じゃあランクル少佐は舞踏会にいらっしゃらないんですか?」

「もちろん、私を含めこの件を担当しているディーボルト中尉と第二部隊は皆出動です。リッツ大佐は……なんとも言えませんが、正直あの人には舞踏会の方に行ってほしいですね、あるいは昼食にまた何か変な物を口にしていただいてもいい」

 イグナーツは、ランクル少佐が最後に自分の希望を添えたのには何も言わずに言葉を飲み込んで、少し考えた。
 上官のほとんどが参加しないのなら舞踏会など何かしらの理由をつけて断りたいところだ。
 しかし先ほどの話を思い返すと、クラッセン侯爵令嬢のことが気がかりだった。あの誇り高い彼女が、心ない噂話の標的にされているなんて。彼女のために自分が何かできるとは言えないが、やはり行かないという選択肢はなかった。

「わかりました。参加させていただきます」

イグナーツは招待状をぐっと握って頷いた。











ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
また今日のうちに続きを更新できたらと思っております。
次回はまた舞踏会編です。


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