改悛者の恋

Rachel

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第四章 グランの商い

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 グランは今月の収益を割り出したリストを完成させて息を吐いた。
 アンドレに任された商会は市場の中で名を広めつつあった。顧客も少しずつであるが増え、懇意にしてくれる貴族まで出てきた。この調子だと来月はもう少し大きな収益が期待できるかもしれない。

「やっと一区切りしたようね、お茶をどうぞ」

 机にお茶を置いた令嬢を、グランはじとっとした目で見上げた。

「……ほんとうにお茶を淹れに来たんだな」

 エリーゼは笑って肩をすくめた。

「他にやることがないんだもの。邪魔はしていないでしょ?」

「まあそうだが。正直、試作品を飲みたくても淹れる暇がないから助かる」

 グランはそう言ってカップに口をつけて、リストに再び目を落とした。エリーゼは腰に手を当てた。

「だめよ、少しは休まなきゃ。お昼の前からここで見ていたけど、あなたはちっとも休憩を取らないのね。それじゃあ身体を壊してしまうわ」

「そんなことで身体を壊しているようじゃあ、商人なんかやってられないだろう。特に今日はあんたの兄上に今月の集計を出すんだ。見直しは細かく行わなければならない」

「そう……。手伝えたらよかったんだけど、申し訳ない事に私は計算が大嫌いなの。数字を見るだけで吐いちゃう」

 彼女の大真面目な言い方に、グランは吹き出し、片眉を上げて言った。

「舞踏会に茶会に計算。嫌いな物が多いお嬢さんだな」

「あら、好きなものだってあるわよ。お花や音楽、絵画や本を読むのは好き。誰かとこうしておしゃべりするのも」

「おしゃべりに付き合っているほど、俺は暇じゃ……」

と、グランは見直していたリストの途中でふと目を止めた。
 書き留めてある購入された商品の数と金額が合っていない。素早く計算し直すと、ダリューという男爵が一回りほど多く支払っているようだった。これでは紅茶どころか、家財が買えてしまう金額だ。
 ダリュー男爵といえば、肥沃な土地を買ったために今飛ぶ鳥を落とすような勢いで名を馳せている新興貴族だ。きっと高額な物を購入する際に、こちらの紅茶の金額を間違えてしまったのだろう。なにも請求してこないということは、本人が気づいていないということだ。
 グランは金額の大きさに黒い考えが過ぎった。あの伯爵子息に提出する前に、このリストからその金額を差し引いてしまえば、その大金はグランの手元にとどめることができる。俺の新しい財産への第一歩になるだろう。アンドレには絶対気づかれないし、資産家になりつつあるダリュー男爵からしても、そこまでの痛手ではないはずだ。
 グランはごくりとつばを飲み、その数字をじっと見つめた。その時だった。

「グラン? どうかしたの?」

 はっとして顔を上げると、エリーゼが心配そうにこちらを見ている。

「なんだか顔色が悪いわ。やっぱり具合が良くないんじゃない?」

 エリーゼはグランの顔色を確かめようとぐっと顔を近づけてきた。グランの方は彼女のその気遣うような目からそらすことができず、また彼女の問いにも答えられなかった。頭の中でぐるぐると考えがまわった。
 ばかな、なにを迷う必要がある? 彼女には関係ない。本来の俺の目的はなんだ、貴族でもない俺には財を築くためには必要なことだ。せっかくめぐってきたチャンスじゃないか。どうにかしてごまかせるはずだ。
 ほんの数秒であったが、グランには何時間も葛藤していたように感じられた――やがてなにか小さく呟いた後、思いを振り払うかのように首を振った。

「いや……なんでもない。見つけただけだ、計算のミスを。悪いが、そこに置いてある紙を……便箋を取ってくれないか」

「え? ええ、これかしら」

 グランは便箋を受け取ってそれを見つめていたが、こころなしかふっと自嘲するような笑みを浮かべた。しかし、先ほど見せていた翳りは失せていた。

「エリーゼ」

「なあに?」

 グランは便箋に"ダリュー男爵様"と書きながら言った。

「……信頼は小さな事から積み重ねなければならないんだな」

「いきなりなんなの?」

 眉を寄せたエリーゼに、グランは小さく笑って「いや、なんでもない」と首を振った。
 

 
 グラン・ラグレーンの仕事が伯爵家の商会一本になってから、それまでこの辺り一帯を占めていた紅茶の相場に大きな変化が起きた。北国の輸入品ではなく、自国の貴族が商売を始めたことで、皆が驚きの声をあげたのである。
 革命が過ぎてからしばらく経ったこの時代、貴族の中でも借金が重なり爵位を返上する者や、貧しさを防ぐために大商人と政略結婚を結ぶことで生き長らえる一族もいたが、自ら営む商会で利益を得る貴族はほとんどいなかった。
 ドルセット伯爵現当主のベルナールは、辺境の領地でその変化の知らせを聞いた。まさか国王から爵位を賜った者が平民よろしく商いを始めるとは、落ちた貴族もいるものだと思っていた。しかしそれが自分の息子だときいて、飛ぶようにして屋敷に戻ってきたのである。

「アンドレ、一体どういうつもりだ! 貴族の生まれで商売をするような男など息子とは認めんぞ!」

 帰宅早々アンドレのいる客間に踏み込み、顔を真っ赤にして怒鳴りつける父に、アンドレはため息をついて言った。

「父上、落ち着いてください。ご自分の心臓に悪いですよ」

「黙れ! 誰のせいだと思っておる、今すぐ商売から手を引け!」

「お父様、とにかく落ち着いて……さあお水を飲んで」

 エリーゼが優しい声で差し出した水を一気に飲み干すと、伯爵はいくらか落ち着きを取り戻した。

「ありがとう、エリーゼ……とにかく、アンドレ。すぐにやめる手続きをしろ」

「申し訳ありませんが、それはできません」

 アンドレは眉を下げて困ったように言った。

「父上は私がなぜ商いを始めたか、きこうとはなさらないのですね。まあ理由はご存知でしょうが」

「え? そうでしたの?」

 目を丸くして父を見つめるエリーゼだったが、ベルナールは答えずに眉を寄せた。

「……エリーゼ、席を外せ」

「いいえ、父上」

 アンドレが止めた。

「彼女はもう成人している。ドルセット伯爵家を名乗る者として知るべきことですよ」

「一体理由ってなんなの、お兄様、お父様」

 ベルナールは目を細めたまま、なにも言わなかった。
 アンドレが言った。

「エリーゼ、利益のあるなしに関わらず、私がいくつかの商会を持っていることは知っているね?」

「ええ、前にきいたわ。全部興味本位か、お父様に対する嫌がらせだと思っていたけど、理由があるの?」

「い、嫌がらせ……! そうなのか、そうだったのか、アンドレ?!」

 アンドレは父親の言葉を聞き流して妹に真剣な表情で切り出した。

「実はね、この伯爵家の財産は底をつき始めているんだよ」

「え?」

 エリーゼは目を開いて驚きの声をあげた。

「お金が、ないの……?」

 ベルナールは大声を出して否定した。

「な、ないわけではない! 少なくとも次の世代までは余裕があるし、それ以降も領地を手放せばずいぶん楽に……!」

「手放してどうするんです? それで生活できても、困ったら今度は別のなにかを手放すんですか? そんなことを繰り返していては、いずれ爵位は名ばかりになってしまいますよ」

 父親の言葉を遮ってアンドレははっきりと言った。

「持っている物を売るだけでは失うばかりです。それより自分で利益を出すべきなんだ。商いをしているからって、我々貴族の誇りは消えませんよ。商会は国王からの許可も得ています。これからは貴族も商いをしていく時代なんですよ」

 ベルナールは苦い顔をして黙ったままだった。エリーゼはそんな父を見つめていたが、兄に視線を移した。

「私の……私のせいね? 私が条件の良い家に嫁がないからいけないのだわ」

 アンドレは微笑んで首を振った。

「それは違う、エリーゼ。さっきも言ったが、一時的になにかを犠牲にして資金を得ても、長持ちはしないんだ。私は失わずして得ることができる方法こそ、商いだと思っている」

 アンドレは大きな手を妹の頭に優しく置いた。

「そして必ず成功する見込みのある、才能ある人間をお前が見つけてくれた」

 そう言われてエリーゼは小さく微笑み返した。アンドレはそれを見て満足すると、父親に向き直った。

「あともう数年も経たないうちに、将来的に安定した収入が期待できます。それが失敗したのなら、私は銀行家の娘と結婚するし、領地だって売ってくださって結構です」

 ベルナールは苦い表情のままそれをきいていたが、やがて口を開いた。

「ほんとうにそこまで期待できる収入額なんだろうな?」

 アンドレは緊張した顔で頷いた。

「ええ、信じてください」

 伯爵は息子の目をじっと見ていたが、小さく息を吐くと小さな声で「わかった」と言った。

「生活に困っているわけではない。ただ将来の事を視野に入れなければならないと言われればその通りだ……だが、変な商売に手をつけたら、それこそ縁を切るぞ」

 アンドレは頷いた。

「肝に銘じます」

 ベルナールはそれを聞いてゆっくりと立ち上がると、部屋を出て行った。
 アンドレは妹と二人になると、張り詰めていた空気を溶かすようにふうっと息を吐いた。

「これでラグレーン殿には確実に成功してもらわないとならなくなったな」

「お兄様……」

 エリーゼは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「私……私、なにも知らなかったわ」

「教えなかったからだよ。余計な心配をさせたくなくて、一生懸命隠していた」

 アンドレは優しく微笑んだ。

「だからお前がラグレーン殿と友人だときいて、びっくりしたんだ。まさかお前にうちの事情を知られてしまったのかと思ってね」

「そんなの知るわけないわよ……。でもこれで、彼に商いだけに専念してもらうようにお願いした理由がわかったわ」

 エリーゼの言葉に、アンドレは目をぱちくりさせた。

「おや、確かに家の繁栄のためという理由もあるが、前にも言った通り、お前が彼に会いやすくなるというのも事実だぞ。貴族の娘とただの平民の男なんて主従じゃない限りは顔を合わせないからな。お前は社交界に出向かないし」

 エリーゼは肩をすくめた。

「社交界にいる男性は貴族だろうと平民だろうと苦手だわ」

「ラグレーン殿は大丈夫なのか?」

 兄のいたずらっぽい微笑みに、エリーゼはツンと上を向いた。

「彼は他の人とは違うもの」

 アンドレは妹を意外に思っていた。

「お前が関心を示す人間もいたのだな。思いのほか、落ちるところまで落ちた男だったが。あそこまでの人間は他にはなかなかいないだろう。まあ、もうあれ以上落ちる場所はないだろうが」

 エリーゼは兄を睨みつけたが、彼のことを思い浮かべて優しい表情になった。

「グランは……心から安心できるもの、頼れるものがなかったのよ。裏を読む人達の間で生きてきたから、信じることをとても恐れている。だから前はお金がすべてだったのだわ。彼には、心から信頼できる拠り所が必要だと思うの。真摯に彼と接すればきっとお兄様のことも……」

「まあ所詮、私は彼の上司であり、お前の兄に過ぎない。彼のことはお前を頼りにしている。今の我々の状況で、不正なんか起こされたらたまったものではないからな。今の伯爵家を支えているのはまさに世間からの信頼だ」

 エリーゼは眉を寄せた。

「彼は不正なんかしないわ。絶対に」

 
 
 アンドレの読み通り、彼の紅茶商会はさらに有名になり、顧客が増えたことでいくらか利益を出すようになった。
 商いに慣れたグランからすれば、ただ正直に取引を行い、注文された品を売買する際に他の品を薦めていただけに過ぎなかったが、金銭に余裕があり商業に関して詳しい知識も少ない貴族達は、グランの事細かな説明に満足して次々と購入していった。
 しかしひとつ、気がかりなことがあった。グランは"ドルセット伯爵子息の紅茶商会・経理係"という名で顧客と会い、手紙を書いていた。客にラグレーンの名前を知られることを恐れていたのである。自分が牢獄にいたことのある人間だと知られない方が、商会の利益に影響がないと考えていた。
 顧客である貴族とかかわるようになってから、グランは前より一層、彼らの機嫌を伺うようになった。商いに疎いことから利益を引き出せるのではと考えていたが、とんでもない。銀行家時代から感じていたその大きな山々はいつまでたっても高いままで、グランの正体が気づかれてしまえば最後、二度と谷底から這い上がれないところまで落とされるのだという恐怖心を抱いていた。貴族に敵を作らぬようにとグランは心に留めて商売をした。
 しかしその一方で、正直に取引を行う伯爵家の紅茶商会は貴族に大人気だった。時に粗悪品も混ざっている輸入品と違い、アンドレの選ぶ紅茶はどれも品質も味も良いと評判だった。
 収益を伸ばしてどんどん顧客の増える商会は、そのうちグラン一人で動かすことが困難になってきていた。注文が増えても一日にやれることは限られている。三十近い受注をしていれば商品を確認しているだけでその日が終わることもあり、それから見積もり、支払い、発注となると、顧客の手元に届くまで時間がかかり過ぎてしまう。これでは商会の評判を落としかねないし、これ以上商会を大きくすることも難しい。
しかし他に誰かを雇うとなると、グランの正体が世間に知れることは避けられなかった。せっかくここまで商会を大きくすることができたのだ、自分の汚名のせいで潰すわけにはいかない。
 

「そんなのいずれわかってしまうことじゃない。今さらなにを迷う必要があるの?」

 事務所にドルセット兄妹がやって来たので、グランは人手不足とその問題を申し訳なさそうに述べると、アンドレが何か言う前に、エリーゼが眉を寄せた。

「わからないのか? 俺の……私の名前を出せば、顧客はいなくなってしまうんだぞ」

「でも、提供はお兄様なのよ? 値段の面でも、品質の面でも劣らないはずだわ。それに、今まで一番その顧客たちと関わってきたのはあなた自身じゃない。あなたがきちんとした対応をしてくれるから、紅茶を買ってくれるのではなくて?」

「それはそうだが、そんな問題じゃないだろう。アンドレ殿、あなたは私の名前が知れ渡ることで客がいなくなることはおわかりでしょう? 私には前科があるんです……やはり、無理な話だったんだ」

 グランはやりきれないというように下を向いていたが、やがて苦しそうな顔をしながらペンを走らせ始めた。

「……私は元の生活に戻ります。世間に出しても恥ずかしくない、もっと信用のある新しい人間を見つけてください。ここに商会の説明書きを残しておきますから、それを見せれば……」

と、アンドレはそのグランの書きかけの紙を取り上げると、くしゃくしゃに丸めてしまった。

「ア、アンドレ殿、なにを!」

「お兄様……!」

 アンドレは丸めてしまった紙をくずかごに入れると、グランの背すじを凍らせるような微笑みを向けた。

「私はね、ラグレーン殿。人を見る目はないんですよ」

 その言葉にエリーゼもグランも眉をひそめたが、アンドレは続けた。

「あなたも最初に思ったでしょう、この商会を一番最初に任せていた貴族の子息は、全く商いに向いていなかったと。私は人選びには向いていないのです」

 グランは遠慮がちに頷いた。全くその通りだと思ったのである。
 アンドレはさらに続けた。

「しかし、妹は違います。エリーゼは様々な陰謀が繰り広げられている社交界で、いとも簡単に悪人を割り出せる。そういう人間には関わろうとしないのです」

 エリーゼは肩をすくめた。

「あんなところでなにも考えていない人間はなかなかいないと思うけど」

 アンドレは笑った。

「確かにそうだ。だがエリーゼは自分に害をなす人間には近づかない。小さい時から見てきた私にはそれがよくわかるのです。そしてラグレーン殿、あなたは妹が友人として認めた、数少ないうちの一人だ」

「数少ないってやめてほしいわ、確かに友達が多いとは言えないけど……」

 エリーゼの横槍を無視して、アンドレは言った。

「ですから私はあなたを信用しています。あなたは商会を正確に運営し、ここまで大きくしてくれた。私の商会に貢献してくれている人間を……妹が信用している人間を、前科があるという理由で切り捨てるつもりはありません。元よりその覚悟で持ち出した話です。ですから申し訳ありませんが、あなたを辞めさせるわけにはいかないのです」

 真剣に訴えるような目で言うアンドレの言葉を、グランは心が震える思いで聞いていた。
 伯爵子息とは、仕事の都合上で週に一度は必ず顔を合わせていた。顧客や商品に関することで話し合う時もあったが、普段はなにを考えているのかわからず、自分に無理難題を押しつけて黒い笑みを浮かべている時はやはり彼も貴族なのだと警戒していた。
 だが今この目の前にいる青年は、妹を信じ、そしてこの自分さえも信じて味方になってくれている。経営者として俺を守ろうとしてくれている。
 俺は……彼を信じていいのだろうか?

 グランがなにも言えないでいると、アンドレが柔らかい表情になって言った。

「まず、私と一緒に一軒ずつ顧客を訪ねていきましょう。あなたの名前を明かして、取引できないと言われたらそれまでです。断られるところもあるかもしれませんが、あなたの商いの真摯な態度に、購入し続けてくれる客も必ずいるはずです」

 グランはその言葉にまじまじとアンドレを見ていたが、がばっと頭を下げて絞り出すような声を出した。

「ありがとうございます……!」

「さすがお兄様だわ! 大好き!」

 エリーゼが兄に抱きつくと、アンドレは彼女の頭を優しく撫でた。

「エリーゼのためにもがんばらないとな。ラグレーン殿、そういうわけで新しい人員を雇うのは顧客への確認が終わってからにしましょう」

「ええ、その……もしかしたら、顧客が減って人手不足が解消されるかもしれませんが」

 グランは後ろ向きに言った。

「グランったら! 仮にもドルセット伯爵家が後ろについているのよ」

 エリーゼの言葉にアンドレも同調した。

「そうです。我々一族を甘くみないでください。あなたの汚名だって返上させることができるかもしれない」

 グランは改めてアンドレという男から強い力を感じた。彼の目は自信に満ち溢れている。そうか、貴族とはこういう人間の姿をいうのかもしれないな。
 ぼんやりそう考えていると、エリーゼがいつのまにか目の前に来ており、彼の手をぎゅっと握って元気づけるように微笑んだ。

「大丈夫よ、グラン」

 グランはその優しげな目に、なんとも言えない感情が胸に湧き上がるのを感じ、戸惑うようにただ頷いた。
 アンドレはその様子を微笑ましげに見つめていた。


 
 結果的に言えば、グラン・ラグレーンの汚名よりも、国王の信頼厚い名門ドルセット伯爵家の名前の方が強い力を持っていた。顧客を誰一人として失うことはなかったのである。
 最初こそラグレーンの名前をきいて驚き戸惑っていたのは確かだが、「ドルセット伯爵家の元、心を入れ替えて一からやり直している」と述べると、それはあっさりと受け入れられた。

「私がリストに載せた方々ですからね。みな先祖の代から我々一族を信頼してくださっているのです。社交界となると、また話は違ってくるのですが」

 アンドレは誇らしげにそう言った。
 グランは、世間からのドルセット家の信頼の厚さに、驚きで言葉もなかった。エリーゼが誇りにしていたのはこれか。貴族という立場の気高さにグランは自分の力が到底及ばない気がした。
 この信頼は絶対に崩してはならない。そう決意したグランは、ますます真面目に商いに励んだ。
 
 商会の範囲は変わらず広がる一方なので、グランの補佐として事務員の二人を雇うことになった。面接には、グランとアンドレ、そして「妹にも判断してもらいたい」とアンドレが強く望んだので、エリーゼまでが立ち会った。
 前科持ちの上司の元とはいえ、名門ドルセット伯爵家の商会の肩書きに、数十人の応募が殺到した。その中でグランは的確に数字を扱えるか、アンドレは表に出してもかまわないような最低限の礼儀を備えているか、エリーゼは悪事を考えている人間かどうかを判断する役目を果たした。
 最終的に、的確な人物が二人打ち出された。ジャスマン・コートとエミール・アルノーというどちらも若く純粋な青年だった。商いで必要な読み書きは一通り学んでおり、計算の試験も解答はほぼ完璧で、グランはそこで決定打を下した。アンドレが調べた家族事情としては、コート家もアルノー家も中産階級で後ろ盾が弱いがきちんとした家庭であり、話し方も所作も態度もわきまえていた。なによりエリーゼが評価したのは彼らの純粋さだった。家族のためにまっすぐ生きているその姿に偽りはなく、信頼に値する者たちだと確信できたのだ。

 彼らのその真面目な仕事ぶりは、大いに商会の力となった。全体的な数字の管理はグラン自身が行ったが、商品の揃えや顧客への対応などから少しずつ二人に任せられるようになっていった。
 グランの言うことをなんでもきき、彼の望む通りに育っていく若い部下達に、グランは昔の記憶を蘇らせた。仕事にあくせく励む姿で連想するのは、自分の姿ではなく、かつて自分の同僚だった男だった。人当たりも良く一生懸命に仕事をする彼は、上司にも気に入られ出世の道へと進みつつあった。
 新人二人のなんでも吸収していこうとする姿勢は、あの男そっくりだ。今では、かつての上司があの男を可愛がり信頼を寄せていた理由がわかる気がした。
 しかし過去の自分はどうだ。自分が人に好かれないような陰気な性格をしていることに劣等感を抱き、明るく無邪気な彼を妬んで、彼を罠に嵌めた。なんの罪もない彼を絶望の淵へと追いやったのだ。
 良い部下を持つことで、グランは初めてかつての自分を省みて、今更ながらに悔恨の念を抱くようになった。
 結局のところ、あの同僚の男は自分を嵌めたグランからなにもかも取り上げてどん底へ落とし、復讐を果たしたわけだが、純粋だった彼はすっかり変わってしまった。このジャスマン・コートとエミール・アルノーのように無邪気な青年であったのに、裏を探って復讐に燃えるような人間になってしまった。そして彼をそのように変えてしまったのは自分なのだ。
 
 
 ガチャンと牢獄の鍵が開け放たれる音が地下をこだまする。

「……出ろ。そして今後私の前に現れることは許さない」

 牢獄でひたすらに死刑を待つばかりだと思っていた自分に、男はこちらを見ずに冷たく響く声で言い放った。
 なぜだ。なぜ殺さずに牢から出した? あの時抱いた疑問は今でもわからない。しかし、彼にとっては苦渋の決断だったのだろうということが、今思い出すと彼の声から強く感じられた――。
 
 
「ラグレーンさん? あの……きいていらっしゃいますか?」

 ふとグランは思い出から現実に引き戻された。
 部下のエミール・アルノーが、困ったように書類を差し出している。その後ろにはジャスマン・コートが大きな封筒と箱をいくつか抱えて眉尻を下げてこちらを見ていた。グランが険しい顔をしているので、少し怯えているようだ。

「……ああ、悪い。もう一度言ってくれるか」

 微笑むような柔らかい表情を浮かべて言った。エミールはほっとしたようにジャスマンと顔を見合わせると、安心した様子で話し出した。

「一週間前に話が出ていたクレマン様の件ですが、購入する茶葉の種類の数を……」

 真面目な顔で上司を頼りにするその二人を見ながら、彼らは自分が絶対守らなければならない存在だと強く思うグランなのであった。

 

 
「……アンドレ殿、大変恐縮ですが、あなたの家を出る許可をいただけますか」

 商品の発注の確認のために事務所へやってきたアンドレに、グランが突然言った。

「え? 家を移るのですか?」

 アンドレは目を瞬かせた。

「はい。いつまでもアンドレ殿の私用の家を使わせていただくわけには参りません。部下二人もできて、私自身の収入も安定してきましたので、やはり自身の力で衣食住を立てたく思います」

「そうですか……もちろんかまいませんが、よろしいのですか? 住まいはどちらに?」

「初めは事務所に住もうかと考えていましたが、ちょうど隣に空き家があったので、そこを借りようと思っています」

「あんな小さい住まいに……!? せ、生活はできるのですか?」

 貴族であるアンドレは信じられないと首を振ったが、グランは苦笑いを浮かべた。

「造船所で働いていた時の掘っ立て小屋よりずっとましな家ですよ……私は貴族じゃない。見栄を張りたいとは思わないし、今の仕事にふさわしい十分な家に住みたいんです。自分への牽制のためにも。もちろんあの時、あなたが投資だと言って生活の糧を与えてくれたことには感謝しています。造船所での労働は私には向いていませんでしたから」

 アンドレは意外そうな顔でグランを見つめていたが、にっこりと笑みを浮かべた。

「わかりました。あなたの意見を尊重しましょう」

 グランもほっとしたような笑みを浮かべた。アンドレはそのまま書類に目を落とそうとしたが、すっとグランに鋭い視線を戻した。

「ラグレーン殿、ひとつ伺ってもよろしいですか」

「なんでしょう」

「あなたは……まだ財を築くことが目標なのですか」

 アンドレの問いにグランはきょとんとした。
 アンドレは続けた。

「以前のあなたは多大な富を持ち、財を築くことを目標としていたはずです。今もそれは変わらないはずでは?」

 それはアンドレが一番気にかけている問いだった。自分で家を確保するのは、ドルセット伯爵家の保護下を抜けて、また新たに自分の財を築こうと考えているからだろうか。アンドレはその可能性があることが気にかかっていた。それではこちらが困る。ドルセット伯爵家の未来の財産は彼次第なのだ。なにより彼が商会を離れたら、エリーゼがどんなに悲しむだろうか。
 しかしグランは目を瞬かせ、少し考えてから答えた。

「ええ、確かに財は築きたいとは思っていますが……自分のためではありません。今の私はアンドレ殿の商会があるからこそ、商人として仕事ができるのですから。とにかく今の目標は商会を広げることと、部下達を育てること。この二点でしょうか」

 それは表面的な答えではなく、グランの率直な思いだった。いつのまにか、グランはアンドレに大きな信頼を寄せてくれていたのである。
 アンドレは驚いたような表情を浮かべていたが、やがて心から安堵したように嬉しそうに微笑んだ。

「そうでしたか。どうやらいらぬ心配だったようですね……妹も喜ぶでしょう」
 
 



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