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第一章 止められた復讐
しおりを挟む夜空にはまるい月が浮かんでいた。陽が沈むと同時にぽつりぽつり灯が灯るだけの桟橋付近と違って、中心街には煌々とした街灯が立ち並び、馬車がゴトゴトと音をたてて通った。
馬車の行く先はみな同じ。今宵はブリュノー家の屋敷で舞踏会が行われるのである。
王都から距離のあるこの港町での夜会は年に数回ほどで、今夜は遠い地からも貴族や富裕層の者たちが大勢招待されていた。その数は途方もなく、また宵のうちであったためか屋敷の玄関ホールには長蛇の列ができていた。
エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットは、その列の真ん中で気だるそうに首を傾け、「はあ」とため息をついた。
肩そでの部分はふんわりと膨らみ、シンプルに流れるすその美しい桃色のドレスは、エリーゼによく似合っていた。おととい王都から届いた最新流行のものである。美しいショールをまとい、化粧も念入りにほどこされているが、その顔は浮かなかった。
夜会の主催ブリュノー家の遠い親戚である彼女は、もちろんこの舞踏会に招待されたわけだが、この長い列である。どうやらドアマンが入り口で一人ずつ招待状を確認しているらしい。
港町では滅多に行われない夜会であるし、とにかく大勢の客でドア付近は手間取っており、到着して侍女と分かれてもエリーゼはなかなか屋敷の中に入れなかった。
もう少し遅く来れば……いいえ、出かけることなくずっと部屋にこもっていればよかったのかもとひとりごちていた、その時。
「いいから中に入れろ! そこをどけ!」
喧騒の中、一際大きな声が響いた。
何事かしらとエリーゼは眉をひそめ、他の客達のように列から首を伸ばして前を伺う。
玄関に立つ屋敷のドアマン二人が、正装した一人の男の前に立ちはだかって口々に言っている。
「申し訳ありませんが、ブリュノー様の御身内でない限り招待状が必要となります」
「なければ入場していただくことはできません」
怒鳴っている男はどうやら招待状を持っていないようだ。
仮面舞踏会で北国の王が暗殺されたのは、ごく数年前のことだ。あれから夜会は厳重に警備されるようになったが、ここの屋敷でも徹底しているのであろう。
男は、成人を過ぎたエリーゼよりもひと回りほど歳上のようだった。見るからに陰気な目をしていて言動も粗野であったが、きちんとした夜会用の服装でめかしこんでいる。
せっかくこの長蛇の列を並んだのに、招待状を持っていないがために屋敷に入れないなんて気の毒ね。エリーゼは必死そうな男を見てそう思った。
いらいらした様子の男の怒鳴り声が響いた。
「招待状なんか持っていなくても前は入れたじゃないか。早くどけ!」
男が無理やり通ろうとするのをドアマンが固く止める。
「事件を防止するため、主人が安全第一と考えられたために招待状を必須となさったのです」
「あなた様のお名前をお聞かせください、主人に伝え、許可をいただければお通ししましょう」
もう一人のドアマンの言葉に、男は一瞬だけ口をつぐんだ。
「……名前は言えない。と、とにかく! 中の招待客にどうしても会わなきゃならない。入れてくれ、頼む!」
男は必死に懇願したが、ドアマンは困ったように首を振って繰り返した。
「名前を教えていただけなければ、ご入場いただくことはできません。申し訳ありませんがお引き取りを」
ドアマンの頑なな態度と男の必死な様子に、エリーゼの身体は動いていた。列から外れてまっすぐ屋敷の玄関の前まで行くと、エリーゼは言い放った。
「彼は私の連れよ。私と一緒に中に入れなさい」
男もドアマン二人も、びっくりしたようにエリーゼを見た。
ドアマンの一人は突然出てきた彼女に怪訝そうな顔を浮かべた。もう一人の方も同じであったが、彼はエリーゼがちらりと見せたショールの紋章入りブローチが目に入ると、慌てたように居住まいを正して頭を下げた。
「こ、これは、ドルセット伯爵令嬢様!」
その言葉にもう一人のドアマンも驚いたように彼女を見て慌てて頭を下げたが、やはり怪訝そうに言った。
「しかし……彼は、ほんとうにあなたのお連れ様なのですか?」
戸惑っているドアマン達に、エリーゼは毅然と言った。
「ええ、そうよ。一緒に行くと約束していたのだけれど、私が少し遅れてしまったから、このような事態になってしまったの」
そう言うとエリーゼは男の方へ歩み寄り、彼の手を取って腕を絡めた。
「さあ、入ってもいいかしら?」
彼女の堂々とした様子に、ドアマン達も食いさがることはできず、とうとうエリーゼと男を中へ通した。
腕を組んだままの二人は玄関を通って廊下を進んだ。エリーゼは後ろをちらっと振り向くと含み笑いをした。あんなに簡単に通してしまうなんて、あのドアマン達もまだまだね……それにしても紋章入りのブローチを付けてきてよかった。
たどり着いたロビーでは、数人の貴婦人や紳士がお喋りをしており、人々が集まっている賑やかなホールへの入り口がすぐそばに見えた。と、エリーゼと腕を組んでいた男が立ち止まったので、エリーゼも足を止める。
彼は組んでいた腕をすっと離してエリーゼに不審な目を向けた。
「ドルセット伯爵令嬢だと? 一体なにが目的だ」
エリーゼは目をぱちくりさせて笑い声をあげた。
「まあまあ、ご挨拶ね! あなたが困っていたから助けただけよ。その……列に並びたくなかったっていう理由もあるけど。私はエリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットよ。あなたは?」
エリーゼはにこにこしながら自己紹介したが、男の方は「悪いが名乗れない」と表情を歪めて言った。
「だがここの屋敷に入れてくれたことには感謝する。君はここの家の身内なのか?」
「ええ、遠い親戚なの。招待状をずうっと送られ続けているから、仕方なく来たのよ……あなたは誰かと会うと言っていたわね。ここで失礼した方が良さそうね」
エリーゼは男に微笑みかけると、ホールの人混みの中へと消えていった。
なんだ、あの娘は。男はまだ眉をひそめたままだったが、咳払いをすると本来の目的を思い出し、身を引き締める。そして上着の内ポケットに手を当てて中身を確認すると、自分もホールの中へと入っていった。
エリーゼはホールの人の波を抜けて壁際まで来ると、くるりと振り返った。さっきはああ言ったけど、ここから傍観してやるわ! エリーゼは先ほどの男の姿を探す。目が良くてよかったとエリーゼは自然とにんまりと笑みを浮かべた。
この時彼女は、あの男がこの場で恋人と密会するものとばかり思っていた。
「エリーゼ! あなたたったら、もうこんな壁際にいるなんて!」
ふいに声をかけられて振り返った。
「あら、マリーおば様!」
エリーゼは、ここブリュノー邸の奥方に儀礼通りのお辞儀をすると笑みを浮かべた。
「ご無沙汰しておりますわ、おば様。確か去年の夏にお会いして以来ね!」
ブリュノー家は遠い親戚だ。確か、エリーゼの父の従兄弟の伯父の……という具合だったことは覚えている。エリーゼは、このなにかと世話好きな中年の婦人を"マリーおば様"という親しみを込めて呼んでいた。
マリー奥方は呆れたように言った。
「ほんとうにご無沙汰だわ。いくら招待状を送りつけても、あなたったら社交界に全然顔を見せないんだもの。やっと来たかと思えば、こんなところで壁の花になっているじゃない」
あの招待状の量にはさすがに懲りたわよ。エリーゼは届けられる封筒の束がカゴにぎっしりとしきつめられていたのを思い浮かべ、うんざりとした表情を浮かべそうになって、慌てて愛想笑いでごまかした。
「まあ、今日はとにかく来たんだから良いじゃない! それに、私は踊るよりも見る方が好きなんです」
そう言って、ひしめき合う人たちの方へ視線を移す。
その時、ホール中央の集まりの中に、先ほどエリーゼと一緒に入場したあの陰気な男の姿が目に入った。
マリー奥方が隣でぶうぶう言い始めたが、目の良いエリーゼは彼の切羽詰まったような表情の方が気になって、小言は耳に入ってこなかった。どうしたのかしら、あの人。恋人とは会えなかったの?
男は上着の中に手をやりながら、人混みの中へと紛れていく。どうやら人々の輪の中に近づいているようだ。人だかりの中心には男女のペアが見えた。二人は彼らを取り巻いている人々と談笑し笑い合い、とても楽しそうにしている。
それに対して先ほどの男の方は、怒りに満ちた表情で鋭い眼光を走らせていた。目線をたどると輪の中心の紳士を睨んでいるように見える。彼は背後から歩み寄る男の存在に全く気づいていない。
エリーゼは嫌な予感がした。
「おば様、ちょっと失礼」
そう言うと、小言を続けていたマリー奥方を残し、人混みの中に入っていった。
「淑女としてのたしなみは……って、ちょっと、エリーゼ!?」
奥方は声をあげようとしたが、エリーゼは振り返らずに行ってしまった。奥方は少し憤慨した様子だったが、エリーゼがホールの中心へ向かって行くようなので、やっとダンスをする気になったのかとホッと胸をなでおろし、他の招待客に挨拶をしに入り口へ戻っていった。
エリーゼは先ほどの同行者から目を離さずに、人混みをかき分けて足早に彼へと近づいていった。
人の間から垣間見える、憎しみを浮かべた男の恐ろしい表情。まるで今にも殺めようとしているような。まさか……?
彼はもう例の輪の中に入り、紳士のすぐそばまで来ていた。そこまでくるとエリーゼに彼が上着の中でなにかを持っているのが見えた。それはだんだん姿を表し、キラッとシャンデリアの光に反射した。
いけない、短剣だわ! エリーゼは確信し、ドレスや髪が乱れるのもかまわず人混みの中を突破した。
男は上着の中で右手に短剣を握りながら、少しずつ少しずつ標的の紳士に近づいていた。もう彼は目の前だ。
眼光を漲らせ歯ぎしりしながら、男は憎しみをあらわに上着の中から短剣を振り上げようとした、その時。
いきなり横から片腕を掴まれた。
警備隊か誰かに見つかり拘束されてしまったのかと男は身体を強張らせたが、掴んでいる腕は細く華奢なものだ。
腕の人物を見た男は驚きに目を見開いた。先ほどの伯爵令嬢ではないか!
彼女――エリーゼは、恐怖というよりは苦しげな表情で泣きそうな目をして首を振った。小声で「だめよ」と言うのが聞こえた。
男はその様子に一瞬の間とらわれたが、すぐに我に返った。
これは俺にとって、ようやく掴んだ復讐のチャンスなのだ。男は腹立たしそうにエリーゼの手を乱暴に振り払うと、再び上着の中の短剣を握り直し、標的の紳士の方へ向きなおる。そして今度こそと足早に彼に近づこうとした。
しかし振り払われたエリーゼは、今度は強行手段に出た――両腕で男の行動を抑えようとし、彼に抱きついたのである。
これには男も仰天したようで小さく「うわっ」と声を上げた。
エリーゼは彼の胸に顔をうずめ、くぐもった小さな声を出した。
「お願い、やめてっ!」
無理に振りほどこうとすれば、短剣で彼女を傷つけてしまう恐れがあり、男は身動きが取れなかった。
「お、おい、離せ……」
エリーゼは抱きついたまま首を振った。絶対に離すものかとその力は増すばかりだ。しばらくそんな体勢が続いたので、なにも知らない周りの人々が冷やかし始めた。
「おいおいお二人さん、こんなところで見せつけてくれなくてもいいよ!」
「ははは、羨ましいことだ!」
「まあ、ご令嬢から飛びつくなんてはしたない」
「社交界の礼儀をしらないのかしら」
エリーゼはどんなに批判されても腕を緩めようとしなかった。あちこちから声が飛び交い、男は注目が集まるのを感じた。
これはまずい。標的の彼に顔を見られるわけにはいかないのだ。
男は焦ったように小声でエリーゼに言った。
「わ、わかった! わかったから、手を離してくれ。もうなにもしないから、誓って」
すると、エリーゼはひしと抱きついていた腕の力を緩めて少し身体を離すと、不安そうに男を見上げた。目には涙が溜まっている。
エリーゼの顔に、群衆が一層騒いだ。
「誰だ、あの美女は!」
「社交界では見かけないぞ」
「こんなご令嬢を泣かせるとはねえ」
非常にまずい。先ほどより注目を集めている。と、あの標的としていた紳士と一緒にいた女性の方が騒ぎに気づいたのか、何事かと周りをきょろきょろと見回し始めたではないか!
苦い表情を浮かべた男はエリーゼの手首を掴み「いくぞ」と言うと、騒ぎ立てる人々の間を縫って、ホールの出口へと向かった。
男はエリーゼを連れて、二階へ上がっていく。舞踏会は始まったばかりなので、この辺りにはまだ誰も見当たらなかった。階段を上がった二人はそのまま廊下をずんずん歩いていき、やがてバルコニーに出た。星がちらちらと輝き、月の浮かぶ夜空が広がっている。
そこまでたどり着くと男はようやく足を止めてエリーゼの手を放した。彼は手すりに手をついて息を整えると、彼女を睨みつけた。
「なぜ邪魔をした?」
エリーゼも息を整え、そしていつのまにか溢れていた涙を拭った。
「なぜ、ですって? 止めるのはあたりまえじゃない。あなたこそどうして彼を……!」
「復讐だ」
男は苛だたしげに言った。
「奴は俺を嵌めて牢獄に入れたんだ」
エリーゼは濡れた目を見開いた。牢獄ですって?
「あなたはだあれ? 貴族ではないの?」
恐る恐る問うと、男は口を歪めて答えた。
「俺の名は、ラグレーンだ」
それをきいて、エリーゼは見開いた目をますます大きくさせた。
ラグレーンといえば、ここ最近、新聞記事で名前を馳せた人物だ。この港町から莫大な財産を築きあげた銀行家だったが、つい先日それまでの悪事が明るみになり、彼は捕らわれた。被害者の情けで牢獄を出たときいていたけど、まさか目の前の彼が、その人物だったなんて!
「ふん、驚いたか。えらく話題になったからな。俺はあいつのせいで、地位も財産も名誉も失った」
確かに彼の言うとおり、ラグレーンが牢獄に繋がれたのは、一人の紳士の巧妙な策があったからだった。
しかしラグレーンが裏帳簿を画策して財を築いていたことには間違いなく、紳士はその被害者で、ただ正義を貫いたに過ぎなかった。そしてラグレーンが牢獄から出ることができたのは、被害者である彼が罪人の釈放を願ったからである。
その彼というのが、先ほど人々の輪の中で女性と連れ立っていたあの紳士だったらしい。
「奴がいなければ、俺は周辺国で有名な資産家になっていた。あいつが全部ぶち壊したんだ」
ラグレーンの表情、声は、深い怒りと憎しみにとらわれているようだった。
エリーゼは懸命に頭を働かせた。とにかく彼の復讐を阻止しなければ。
彼女は慎重に言葉を紡いだ。
「……どんな理由であれ、人の命を奪うなんて絶対にいけないことだわ。復讐して、その後はどうするの?」
「奴の心臓を刺したら、俺も死ぬつもりだ。もう二度と、牢獄に入るのはごめんだからな」
ラグレーンは吐き捨てるように言うと、エリーゼから視線を外し、バルコニーの手すりに両手を置いたまま下を向いた。
「奴に復讐できる唯一のチャンスだったのに。あんたのせいでだいなしだ。俺は牢獄に入れられてから、この日のために――この復讐のために生きてきたのに」
「でも、こ、殺すなんてだめよ。もしまたチャンスが巡ってきたとしても、私はまたあなたを全力で止めるわ……」
「ふざけるなっ!」
エリーゼの言葉に、ラグレーンは反射的に彼女の方を向いて怒鳴った。
「俺が生きている理由は奴への復讐、それだけなんだ! 邪魔をしないでくれ!」
彼は大声で怒鳴った後、下を向き荒い息を吐いて自身を落ち着かせていたが、突然鼻で笑いながら言った。
「それとも、なんだ? あんたは奴と関わりがあるのか? 横恋慕でもしているのか……あいつには女がいるんだぞ」
エリーゼは心外だと言うように声を荒げた。
「な、なにを言うのよ! そうじゃないわ、私は新聞でしか彼のことなんて知らなかったし、後ろ姿を見たのも今日が初めてよ」
エリーゼは少し考えてから続けた。
「もとはといえば、あなたが悪い事をして捕まったのでしょう? 釈放されて、せっかく新しく生きるチャンスをもらえたのに、なぜそれを無駄にしようとするの?」
「さっきも言ったが、俺の望みはただ一つ、復讐だ。俺の財産は全て取り上げられたんだ。生きのびて物乞いをするつもりはない」
「も、物乞いですって……甘ったれないでっ!」
エリーゼが突然声を張り上げたので、ラグレーンは驚いて口を閉ざした。
「あなたは今までなにをして生きてきたのよ! 不正は犯したかもしれないけど、それでも銀行家になるためには様々な努力をしたはずよ。学んだという経験がありながら、あなたは死か物乞いかという選択肢しか生み出せないの?」
エリーゼの率直な言葉に、ラグレーンはぐっと口を結んだ。エリーゼは続けた。
「下積みの時もあったのでしょう? 少なくとも生きる術は知っているはずだわ。もう一度そこからやり直せばいいじゃない」
「ふん……貴族のあんたになにがわかる」
ラグレーンは口を歪め、陰気な目を細めて言った。
「もう一度? あれだけの財産を築くのにどれだけの時間と労力をかけたと思っている? あんたみたいな生まれた時からずっと大金持ちの伯爵令嬢には、俺の苦労なんて欠片も理解できないさ」
エリーゼはその嘲るような言い方にかっとしたが、彼の言う通りであることには間違いなかったので、グッと歯を噛みしめて言った。
「ええそうよ、私にはわからない。でも、私だけじゃない、他の誰にもわからないわ。あなたにしかできないことなんですもの。不正はあったかもしれないけど、それでも銀行家になるなんて、並大抵の能力でできるわけじゃないのよ。物乞いだなんて言わないで、もっと……もっと自分を信じなさいよ」
ラグレーンは、エリーゼの思わぬ言葉に一瞬虚を突かれたような顔をした。すぐに「ふん」と鼻をならしたが、彼女からは目を逸らしてバルコニーの外を向いた。その横顔からは小さな動揺が見られた。
エリーゼは続けた。
「あなたには少なくとも知識があるわ。財産は失ってもそれはあなたの中に残っているはず。ね、きっとまたやり直せるわ」
ラグレーンは外の暗闇を眺めながら、なにを言っているんだとばかにしたような、しかし先ほどよりも弱々しい笑みを漏らした。
「やっていけるわけがないだろう。知識があったって、なんにもならない。言っただろう、俺はすべてを失った。あんなに、あんなに必死になって築いた財産も地位も……なにもかもだ……」
いつのまにかラグレーンの自嘲するような笑みは消え失せ、すっかり絶望したような声になっていた。
エリーゼはラグレーンの変化に少し心配になり、彼の方に歩み寄ろうとした。と、手すりに置かれた彼の手が震えていることに気づいてはっとした。手だけではない、肩も震えている。彼は泣いているのだ。
それがわかったとたんに、エリーゼは目の前の男が急に気の毒に思えてきた。
夜会用の服を着込み、あのうんざりするような長い列に並び、通そうとしない門番に必死になって食い下がっていた。一体どんな思いでこの舞踏会に来たのだろうか。家族も、友達も、恋人もいないこの場所に。
「……なにもないなら」
エリーゼは呟くように言った。
「なにもないなら、新しい代わりを手に入れればいい。失ったものも、取り返せる日がきっとくるわ」
ラグレーンはこちらを向かないまま乾いた笑い声をあげた。
「簡単に言ってくれる。今の俺になにができるというんだ。今の俺に……」
またしてもエリーゼを見下したような口調であったが、彼女に向けている背中は震え、虚勢を張っているような態度がかえって惨めに見えた。
エリーゼは少しためらったが、そっと腕を上げてラグレーンの背中を優しく撫でた。なぜかそうしてあげたかった。
ラグレーンは彼女の手を振り払うことはしなかったが、バルコニーの外の方に顔を向けたまま鼻をすするだけでなにも言わなかった。
しばらくそうしていたが、だんだんとラグレーンの震えが収まっていくのを手で感じた。
エリーゼは言葉を探しながら言った。
「きっと……きっと大丈夫よ。あなたはまだまだやれるはず。仕事だって見つかるし、お金だってまた貯まるわ。私があなたの味方になる。今から私とあなたは……お友達。そうよ、それがいいわ。私は友達なんてほとんどいないから、いつでもあなたを優先できるわ!」
彼女が得意げに言ったのに、ラグレーンは向こうを向いたままぐふっと吹き出した。
「……社交に不向きな伯爵令嬢とは、聞いて呆れる」
エリーゼはむっとしたが、ちょっと恥ずかしくなって手を引っ込めてぐっと握りしめた。
「い、いいじゃない! そういう貴族もいるの。それに不向きじゃなくて、積極的じゃないだけで……わ、私のことより、あなたよ!」
エリーゼが強い口調で言うと、バルコニーの外を見ていたラグレーンは、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
表情は暗く、陰気な目でこちらを見ている。エリーゼは祈るような気持ちでその瞳を見つめた。この目は今までなにを見てきたのかしら。数字、富、栄光、絶望、牢獄……。きっとエリーゼの想像をはるかに超えるようなものをたくさん映してきたのだろう。しかし、先ほどまで自分に向けられていた怒りは消えているようにみえた。
対峙するように二人はじっと視線を交わしていたが、しばらくしてラグレーンが尖っていた口調を少し和らげて「わかった」と言った。
「あんたの言う通り、自分を信じよう。伯爵令嬢さんの言うことに従うのは気に触るが……いつかまた、俺は財を築いてみせる」
表情は暗いままであったが、彼の瞳の奥には小さな光が灯ったように見えた。エリーゼはそのことにひとまず安堵した。
「よかった。でも伯爵令嬢さんなんてやめてちょうだい、エリーゼと呼んで……ええと、ラグレーンさんの名前は?」
「新聞、読んだんだろう?」
「新聞には姓しか載ってなかったわ」
男は舌打ちをした。
「……グランだ。グラン・ラグレーン」
エリーゼは嬉しそうに笑みを浮かべた。
「グランね! うふふ」
グラン・ラグレーンは、彼女がきらきら笑うのを胡散臭そうな目で見ていたが、エリーゼは気にした風もなく言った。
「仕事が決まって落ち着いたら、ぜひ私のお屋敷に遊びに来てちょうだい。約束よ、グラン! もうお友達なんだから」
彼はもう、一番最初に会った時のような表情に戻っていた。グラン・ラグレーンは口を歪め、ふんと鼻で笑った。
いいだろう、復讐する機会だってまたあるはずだ。どうせならこの伯爵令嬢を利用してやってもいい。心の中でそう結論づけた彼に、エリーゼは嬉しそうに話し続けた。
「私ね、あまりお茶会や舞踏会には出ないの。人付き合いってちょっぴり苦手なのよね。特に貴族って大変なのよ。だからあなたはいつでも歓迎するわ! お父様はお仕事ばかりだし、お兄様も最近は忙しそうで……」
エリーゼのとりとめのない話に、グランは「わかったわかった」とうっとおしそうに頷いたが、先ほど彼女が優しく背中を撫でてくれたことに、荒んでいた心がほんの少し和らいだように感じていた。
夜空に浮かぶ月は、そんな二人が立つバルコニーをぼんやりと照らしていた。
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