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18. 足跡
しおりを挟む日もすっかり暮れたので、とうとうマルグレーテはロメオに連れられて食堂に行った。錆びついた文字でイルマーレと書かれた看板が、北風でガンガンと壁に打ち鳴らされていた。
ロメオはマルグレーテを奥の席に座らせると、「ちょっとまってな」と言って厨房の方へ行ってしまった。
マルグレーテは周りを見回す。食堂は開いたばかりのようで、客はまだそんなに入っていないようだ。だがカウンターにはごちゃごちゃと酒瓶やジョッキが置いてある。間違いなく多くの人が訪れるのだろう。テーブルやイスがあちこちに乱雑に並べられているのに、マルグレーテはウィーンで見たあの酒場を思い出していた。
テオはここに来たのかしら。
マルグレーテは彼がバイオリンを弾いている姿を思い浮かべ、思わず泣きそうになって首を振った。だめだわ、こんなことで感傷的になっても悲しくなるだけ。しっかりしなさい、マルグレーテ。テオに繋がるものはないかと、もう一度店内をぐるりと見回してみる。
その時、奥の部屋から二つの声が近づいてきた。
「……だからもう忘れたって言ってるでしょ。ったく、こんな早くに店に来て、何を言い出すかと思ったら」
「いいから頼むよ、覚えてることだけでいいからさ」
「あたしだってそんなに暇じゃ……」
ロメオに背中を押されて奥の部屋から出てきた女性は、目の前に座るマルグレーテを見るなり、立ち止まって言葉を途切らせた。
厨房からやってきた艶やかな茶髪の若い女性は、マルグレーテの顔をまじまじと見つめた、彼女の緑の瞳は驚きに見開かれていく。
「あ、あ、あんた……! こんなかわいらしいお嬢さんに、一体何をやらかしたのさっ!」
女性はぐるっとロメオの方を向いて鬼のような形相で詰め寄った。ロメオは慌てたように両手を前に広げた。
「おいおい、なんでそうなるんだよ! 彼女はうちの店に来た客で……」
「客に手を出したって?! あんた、エレーナさんはどうするの!」
「出してねえっ! なんでこうも早とちりばっかりなんだよ……彼女が人探ししてるから、手伝ってるってさっきも言ったろ。お嬢さん、こいつがソフィアだ」
ロメオがこちらを見てそう言ったのに、マルグレーテは立ち上がって彼女の方へ駆け寄った。そしてフードを下ろして小さくお辞儀をすると次のように言った。
「こんばんは。先日バイオリンの音楽をお聞きしたと伺いました。ぜひ詳しいお話を伺わせていただきたいのです。お願いです、どうか少しの間だけでもお時間をいただけませんか」
マルグレーテの慇懃な懇願に、ソフィアは目を瞬かせた。
「え……バイオリン? バイオリンの話? 腹の子の話じゃなくて?」
ソフィアの問いにマルグレーテは首を傾げ、ロメオは頭を抱えた。
マルグレーテとロメオは、奥の席に通されて、テーブルを挟んで座った。マルグレーテの願いに、ソフィアが「大した話はできないけど」と頷いてくれたのである。店にはソフィアの他にも二、三人給仕がいるようだった。
ソフィアは、厨房からレモネードとビスケット、サンドイッチを運んできてテーブルに置くと、早速エールを飲んでいるロメオの隣の椅子に座った。
「悪かったね、早とちりして。あたしはロメオがとうとうやらかしちまったのかって思ったよ。よかったよ、勘違いで」
「信用ねえなあ……いいから、話してくれよ。お嬢さんは昼間からずっとあんたの話を待ってたんだ」
「ああ、そうだったね。お嬢さん、あんたの探してる人かどうかはわからないけど、若い男のバイオリン弾きなら三日前にうちの店に来たよ」
「え……ほ、ほんとうですかっ!」
マルグレーテは思わず身を乗り出した。
「そ、その! ど、どんな方だったか覚えていらっしゃいますでしょうか、どんな演奏だったか、などは!?」
その勢いに若干引いたソフィアだったが、「ええと……」と考えてから答えてくれた。
「この辺りの……というか、イタリアの人間じゃなさそうな感じだったね、こう言っちゃなんだけど、あんまり愛想は良くなかった気がする。元々うちの店は、店主の親父さんが音楽好きで、通りすがりの音楽家をよく受け入れるんだ。三日前はちょうど親父さんもおかみさんもいない日でね、あたしとスザンナって子だけで店の給仕を回してた。週はじめは客が少ないからね。けど、夜更けに来たそのバイオリン弾きが演奏してくれたおかげで、あれよあれよと人が来てね、大忙しになったってわけ。とにかく、それほどすごい演奏だった。あたしも今までいろんなバイオリンを聴いてきたけど、あんな演奏は初めてだったからびっくりしたんだよね。なんていうか……音が心臓に響いてくる感じ。何曲か弾いて、客から金をもらって、スザンナが出したパンを食べて、出ていっちまったかな……そうそう、顔が結構よかったから、スザンナが何度か声をかけてたみたいだったけど、ちっとも相手にしてなかったね。怖い顔で睨みつけてた」
マルグレーテは、ソフィアの話を一言も漏らさないように、うんうんと頷きながら聞いていた。思わず涙が出そうになったが、ぐっと堪える。
間違いない、テオだ。彼は三日前に、ここにいたのだ。マルグレーテは下を向いて膝の上の拳をぎゅっと握った。
その様子に、ロメオとソフィアはマルグレーテの探し人は彼なのだと察した。
マルグレーテはゆっくりと顔を上げると、落ち着いた声で尋ねた。
「彼が……どこに泊まっていたのか、どこへ向かったかご存知でしょうか。見当のつく場所はありますか」
ソフィアは眉をしかめた。
「うーん、わからないね。彼とは全然話をしなかったから。なにしろ忙しくて構ってる暇がなかったってのもあるし。ただ、ずいぶん夜遅かったから泊まるんならこの辺りじゃない? 近い宿屋っていうと……トーリの宿かな、ロメオ?」
ロメオも頷いた。
「まあ、トーリじいさんのとこだろうな。その……花街ってのも考えられるけど、ちょっと離れてるからな」
「ないない」
ソフィアは首を振った。
「だって、言い寄ってたスザンナに目もくれなかったんだよ? わざわざそっちまで行くわけないさ」
「トーリ、の宿……」
マルグレーテは頭の中でテオを想像し、彼が居たかもしれない場所を呟いた。
「よし、じゃあ行ってみるか」
ロメオは、飲み干した空のエール瓶を置いて、勢いよく立ち上がる。
「三日前ならもういねえだろうけど、少なくとも足取りを掴む情報は得られるかもしれねえぜ。ありがとうな、ソフィア」
「どういたしまして。夜だから、ちゃんと気をつけて歩いてやるんだよ」
「わかってるって。近道はやめとく」
ロメオはそう言うと、テーブルの上のビスケットを口に放り込んだ。
「ソフィア様」
マルグレーテも立ち上がると、目の前に座しているソフィアの手をぎゅっと握った。彼女はぎょっとしてマルグレーテを見た。
マルグレーテは感謝の念を込めて、ソフィアの緑の瞳を見つめた。
「ありがとうございました。彼がこの町に来ていたかどうか定かではなかったから……とても貴重なお話でした。それに、テオの……彼の演奏を、ちゃんと聴いてくれて……とても嬉しいです」
ソフィアは、握られた手に戸惑った表情を見せていたが、優しい笑みを浮かべて握り返した。
「あたしも音楽は好きだからね……会えるといいね、彼に」
ソフィアに別れを告げたマルグレーテとロメオは、食堂を出て通りを歩いた。
外は真っ暗になっていたが、人通りは多く、街灯も煌々と光ってみえた。
時おり吹きつける冷たい風に、マルグレーテは身体を縮こませた。歯はカチカチ鳴り、手も震えているのが自分でわかる。汽車で出会った親子の母親が、春が近いと言っていたが、嘘だとマルグレーテは思った。
隣を歩くロメオも鼻を赤くさせている。
「うう、やっぱり日が沈むと冷えるな……! お嬢さん、もうちょっとだぜ」
マルグレーテは震えるあまり、頷くのもやっとだった。
トーリの宿屋は、マルグレーテの第一印象としてはすぐに吹き飛んでしまいそうな建物だった。木片があちこちに打ちつけてあり、それで穴を塞いでいるように見える。まるでつぎはぎだらけのワンピースのようだ。
しかし中に入ると、外とは全く違うつくりになっているようだった。しっかりとした頑丈な煉瓦の壁、分厚いカーテン、下は絨毯が敷き詰められていた。ロビーの真ん中にある暖炉の炎が暖かい。
「おや、ロメオ? どうしたんだ」
奥の部屋から受付に顔を出した中年の男性が、不思議そうに言った。
「やあ、パウロ。ちょっと聞きたいことがあってきた」
「聞きたいこと? 何を急に……」
と、パウロと呼ばれた男は、ロメオの後ろにいるマルグレーテの存在に気づき、目を見開いた。
「ロメオ、お、お前……!」
その瞬間にロメオはパッと片手を広げた。
「まった、パウロ。勘違いする前に言わせてくれ。彼女は俺の店に来た客で、人を探してる。俺はそれを手伝ってるってだけだ。いいか、それ以上は追求するな、ほんとうに何もねえから。で、彼女が探してる奴が三日前にここに泊まったかもしれねえんだ。覚えてねえか? 若い男のバイオリン弾きだ」
パウロは目を瞬かせてロメオを見た後、マルグレーテにも目を向けた。マルグレーテも頷く。
「お願いです、どんなことでもかまいません、教えていただけませんか」
パウロは顎に手を当てて「三日前……バイオリン弾き……ねえ」と考えを巡らせてから、あっと思い出したように言った。
「あの男かな、若い男が泊まっていったよ、だが、バイオリン弾きかどうかはわからんぞ。二、三日前の夜……いや、三日前かな、ちょっとまてよ、カテリーナが毎回記録を残してくれてるはずだ」
パウロは受付の台に分厚い冊子をドスンと置くと、ページをめくっていく。
「ああ、これか。“若い男、二泊”って書かれてるぜ。これじゃねえか?」
ロメオは眉を寄せた。
「いや、それじゃあほんとにバイオリンの彼なのかわかんねえだろ、他も見てくれよ」
パウロは「しかたねえなあ」と頭をかいて文字をたどる。
「ああ、これも“若い男”だ……あれ、今度は一泊……ん? こっちの“若い男”は一週間泊まる予定でまだ部屋にいるぞ」
ロメオはげんなりした顔で言った。
「なんかもっと特徴ねえのかよ……。覚えてねえか? たぶん三日前はソフィアの店で演奏してたから夜遅くに帰ってきたはずだぜ」
「んなこと言ったって、こっちは大勢相手にしてるんだ、いちいち覚えてられるか」
その時、受付の奥からガチャンと扉が開く音と閉まる音がした。冷たい風がこちらまで吹いてくる。裏口から誰かが入ってきたのだろうか。「ただいまー」と女の声がする。
「おお、カテリーナが買い出しから帰ってきやがったんだ。ちょっとまってろ」
パウロが奥の方へ入っていく。彼は声が大きかったので、話し声が全部聞こえてきた。
「……お前さ、三日前の夜に来た客のことを覚えてないか? ロメオの客が人を探してるらしい」
荷物を置く音がして、女の「三日前? どうだったかな……」という声が聞こえる。
そして二人はすぐに受付のところまでやってきた。パウロの後ろからは、亜麻色の髪の女が出てきた。彼女がパウロの妻カテリーナらしい。
「ロメオ、久しぶりだねえ。それで、人探しだって?」
「そうだ、もし知ってたら教えてくれ。若いバイオリン弾きの男が三日前にここに泊まっていかなかったか? このお嬢さんが遠くからここまで探しにきたんだ」
カテリーナはロメオの後ろに立つマルグレーテをちらりと見た。薄い茶色の目が、懇願するような表情のマルグレーテを見つめる。
「こんばんは、可愛らしいお嬢さん」
マルグレーテが「こんばんは」とちょこっと頭を下げたのに、カテリーナは優しく微笑んでから、夫に呆れたような口調で言った。
「あんた、もう忘れたのかい? 三日前、バイオリンの音がうるさくて眠れないって苦情が来て、一悶着あったじゃないか」
パウロは眉を寄せた。
「えぇ、そんなことあったっけか…………あーっ! あった、あったな! 思い出した、そうだそうだ、あの無愛想な若造だ」
マルグレーテはどきどきする胸に手を当てた。おそらくテオのことだ。
「彼が……ここでバイオリンの演奏を?」
マルグレーテが問うと、カテリーナは肩をすくめた。
「っていうより練習じゃないかな。部屋で弾いてたらしい。とにかく客がうるさいって怒ってね」
「へえ、もめたのか?」
ロメオの問いに、カテリーナが言った。
「ああ、ちょっとね……うん、確かに、三日前の夜更け前だよ。三階の部屋の客がどっとロビーに押し寄せてきたんだ。六号室のバイオリンが夕方からずっとうるさいからどうにかしてくれってね。で、仕方ないから部屋に行ってみたのさ。確かにバイオリンの音が響いてたよ。扉を叩いたら、若い男がバイオリン持ったまま眉を寄せて出てきてね、“邪魔をするな”って言うんだ。だから言ってやったよ、演奏するなら近くの食堂に行ってくれないかってね。で、イルマーレの店を教えてやったんだよ」
マルグレーテは、ああと目を閉じた。容易に想像できる。テオに間違いないだろう。
ロメオが頷いた。
「そうか、その演奏をソフィアがきいたんだな。それで、彼が泊まったのはその日だけか?」
「そうだね。一泊だけして、昼前に出てったよ」
そう答えてからカテリーナは、マルグレーテを見た。
「……お嬢さん、彼の行き先はわからないけど、宿を出ていく前、彼は私に、一番早く向こう側の半島に行くにはどう行くべきかって訊いてきたんだ」
「半島……イタリアですね」
マルグレーテが呟いた。やはり彼はウィーンから遠ざかりたいのだ。マルグレーテは唇をぎゅっと噛み締めた。
カテリーナは申し訳なさそうに頷いた。
「それでね、あたしは……前に旅人からさ、港から郵便の定期船が出てるってきいたから、陸路よりもそれに乗るのを勧めたんだ。ヴェネツィア行きがいいんじゃないかとね。一番速いんだ」
マルグレーテは頷いた。この町もヴェネツィアも、帝国の支配領域だ。郵便船が通っててもおかしくない。きっと彼はあの島まで行って、そこからイタリア半島の南に向かうのだろう。
押し黙ってしまったマルグレーテを見て、ロメオは気の毒そうな表情を浮かべて、カテリーナに尋ねた。
「ほんとに彼はヴェネツィア行きに乗ったのか? グラード行きは? 彼は他に何か言ってなかったのか」
「わからないよ、あたしはただ、彼に“ヴェネツィア行きに乗るのがいいよ”って言っただけだからね……お嬢さん、悪かったね」
そう言われたマルグレーテは、はっとした顔になると、首を振って上品な笑みを浮かべた。
「とんでもありません。その、定期船はどのくらいの頻度で出ていますでしょうか」
「今の時期は、だいたい毎日正午に出てると思うよ。たぶん一日あれば向こう側に着くはずだ」
「……行くのかい、お嬢ちゃん」
カテリーナの横から、パウロが心配そうに言った。マルグレーテは宿の主人に笑みを向けるとしっかりと頷いた。
「ええ、行ってみます。明日港に向かわせていただきますわ」
その迷いのない言葉に、同情の念を抱いていたロメオは少しほっとした。彼女の顔には絶望の色は見えない。それどころか決意した彼女の声は力強かった。
夫妻に何度も礼を言うと、マルグレーテとロメオはトーリの宿屋を出た。
外はやはりずいぶん冷え込んでいた。寒かったが、いつのまにか風は弱まっていた。
ロメオは「宿まで送ってやるよ」と言ってくれた。その申し出はマルグレーテにとってはありがたかった。街灯があるとはいえ、すっかり暗くなった通りを一人で歩くのは怖かったのだ。今日のように一日中ずっと歩いたのは初めてかもしれない。マルグレーテはすっかり疲れていたが、収穫のあった一日だったので、嬉しくて心は弾んでいた。
「がっかりしてねえんだな」
突然隣を歩くロメオが言った。マルグレーテは彼の方を向く。
「落ち込むと思ってたよ、俺は、その、彼がこの町にまだいるんだとばかり思ってたから」
マルグレーテは笑みを浮かべた。
「そうですね……確かに少しがっかりしましたけど、元々この町に来たかどうかも定かではなかったので、足取りを掴めてよかったと思っています。それに……彼ができるだけ早くウィーンから離れたいと思っているのは、前からわかっていましたから」
彼女の返答に、ロメオはふうんと頷いた。
「そうわかっていても、追いかけたいと思える奴なんだな、その男は」
マルグレーテは歩きながら目の前の暗がりを見つめた。
「ええ、諦めませんわ。もう一度会うまでは絶対に」
それは、マルグレーテ自身が自分に言い聞かせているようでもあった。
「……俺もさ」
ロメオがこちらを見ずに言った。
「俺も実は、惚れてる相手がいるんだけどよ、なかなかうまくいかねえんだよな、邪魔は入るし、俺も口下手で」
マルグレーテは、イルマーレの食堂で、ソフィアがロメオに言っていたことを思い出した。
「ええと……エレーナ様と言いましたか」
ロメオは驚いたように隣を歩くマルグレーテを見たが、「大した記憶力だ」と呟き、肩をすくめて笑った。
「そうだ……うちの仕立て屋に来るお針子なんだ、似たような仕事で話は合うし、優しいし、すっごく良い子なんだよ。けど彼女、侯爵家に勤めてるんだ。彼女を狙ってる野郎は多いし、俺はまだ弟子の身だし、無理かなって……」
ロメオの弱気な言葉に、マルグレーテに眉を寄せた。
「諦めきれるのですか?」
「いや、諦めたくはねえけど、エレーナが俺なんかを受け入れてくれるかどうか……」
「ロメオ様」
マルグレーテは彼の方を見て、強い口調で言った。
「そんなばかげた理由で諦めるなんて、もったいないですわ」
「ば、ばかげたって……お嬢さん、言うね」
「ライバルが多いから、無理ですって? もたもたしている間に先を越されてしまいますわ。彼女に気持ちを伝えるなり、食事に誘うなり、贈り物をするなり、とにかく足掻いてごらんなさい。足掻いて足掻いて、それでも無理なら諦めたらよろしいのよ。そこまでのことをしたくないと思っているのなら、早々に彼女のことをお忘れになるべきかと」
マルグレーテの涼しげな言い方に、ロメオは感心したように言った。
「ふうん……貴族のお嬢さんはもっとこう、駆け引きするのかと思ってたよ」
「私はそういうのが嫌いなのです。それに……」
マルグレーテは、再び道の先に目をやった。街灯に照らされた宿舎が見えてきたのである。
「手を伸ばせば届く距離にいるというのは、ありがたいことですわ。離れてしまえば、それは難しいものになるのですから」
ロメオははっとして彼女を見た。街灯に照らされたマルグレーテの顔は憂いを帯びているように見えたが、凛として前を向いていた。ロメオは「そうだな」と小さく頷いた。
そして近づいてきた駅舎を見た。ようやく到着である。
門番は朝と変わっていないようで、マルグレーテの変わり果てた服装に驚いていたが、朝と変わらない笑顔で「おかえりなさいませ、シニョリーナ」と頭を下げた。
マルグレーテはぐるりとロメオに向き直った。
「それではロメオ様……今日は一日お付き合いいただき、ありがとうございました。ロメオ様のお陰で彼の足取りも掴めました。ご恩は決して忘れませんわ。いずれ、なんらかの形でお礼をさせていただきたく思います。そういえば、エール代も結局出させていただけませんでしたわ」
頭を下げたマルグレーテを前に、ロメオは照れたように頭をかいた。
「いいんだよ、旅してる時はいつだって金は入用だろ。それに、俺はただ親方にそうしろって言われただけなんだ。なんかあったら、また“アンジェロの仕立て屋”に来るといいさ。そんじゃ」
ロメオは手を振って踵を返す。マルグレーテはその背中に声をかけた。
「エレーナ様のこと、がんばってくださいね!」
ロメオはギクッと肩を強張らせたが、苦笑いをしてちらと振り向くと、再び手を振って言った。
「あんたも、そのバイオリン弾きと早く会えるといいな」
マルグレーテは笑みを浮かべて大きく頷いた。
ロメオの背中はそのまま遠ざかり、暗闇の向こうに消えていった。
マルグレーテは宿舎の自分の部屋に戻った。黒いケープを脱ぐと少し寒く感じたので、駅員に頼んで薪のストーブに火を入れてもらった。
それからしっかりと鍵をかけると、机に向かい、手紙をしたためた。宛先は叔父のエドガーだ。
彼は姪にチケットを渡す代わりに、旅の途中で定期的に手紙を出す事を約束させていた。
マルグレーテは、トリエステまで来たこと、エンマとはマリボルで別れてしまったこと、エンマの事が心配であること、トリエステでテオの足取りが掴めたこと、また“仕立て屋アンジェロ”の親方と弟子のロメオがとても良くしてくれたので、自分の代わりにお礼をしてくれないかということも書いた。
ひと通り書き終えると、マルグレーテは封をして、ベッドに横になった。
今日は一日、ロメオという心強い仲間がいた。しかし明日からはまた一人だ。船着場まで行って、郵便船に乗せてもらえるか交渉する。
とにかくテオはこの町を去ったのだ。早く追いかけなければ。マルグレーテは期待と不安に胸を膨らませて眠りについた。
それから数ヶ月後、“仕立て屋アンジェロとその弟子”宛に、大量の謝礼金が届いた。差出人がウィーン貴族ときいて、アンジェロ親方は戸惑うばかりであったが、弟子のロメオは苦笑いしながら「エール代どころじゃねえ」と呟いた。
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