虚飾ねずみとお人好し聖女

Rachel

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14. ぼろをまとったお客

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 翌朝、リーズが食堂に下りると、女将のザンキが出迎えてくれた。

「おはよう、お嬢さん。朝ご飯、今用意してやるね」

「おはようございます、よろしくお願いします」

「座って待ってな」

 食堂には奥の席に老夫婦が座って食事をしているだけで、ルカの姿はなかった。仕事が忙しいって言っていたから、きっと朝はもっと早いんだわ。もう少し早起きすればよかったのね。リーズは少し残念に思いながら食堂入り口のすぐ手前に座った。
 まもなく運ばれてきた朝食は豪華とは言えなかったが、温かいスープや焼き立てのパンで、リーズがほっとする食事であった。
 それらを口にしながら、部屋をどのように掃除しようかと考えていると、ダダダダダと階段を駆け下りる音がして、なにかが食堂の前をビュンと通った気がした。
 なにかしら、今の。

 リーズが目を瞬かせていると、そのなにかがまたダダダと戻ってきて食堂に顔を覗かせた。

「まあ、ルカだったの」

 リーズが驚いた声を出す。ルカはずいぶんと慌てた様子だった。

「わ、悪りいリーズ、寝坊しちまった! 俺、今日は事務所の鍵持ってるから一番に行かなきゃならねえんだ、部屋の掃除手伝えなくてすまねえな……また夜に会おうぜ! じゃあな」

「あっ……」

 リーズが声をかける間もなく、ルカはもう玄関を出ていってしまった。

「全く忙しない男だよ」

 女将のザンキが奥に座る老夫婦にコーヒーを注ぎながら言った。

「お嬢さん、こんなこと言いたかないけど、なんだってあんな粗野な奴がいいんだい? そりゃ悪い男じゃないけどね、あんたはいいとこのお嬢さんだろ。もっと優しいお貴族様がほいほい寄ってくるだろうに」

 リーズは苦笑いを浮かべた。

「そんなことありません。それに彼だって立派な紳士ですわ」

「あっははは! 笑わせないどくれよ、あれが紳士ならあたしゃ女王様さ」

 軽く笑いながらザンキは食堂から出ていってしまった。
 ほんとうにそうなのに。
 社交界で、彼が貴族のご令嬢に引っ張りだこだったことはリーズの記憶に新しい。もちろん爵位があったからこそだが、それでもあのときの彼は貴公子そのものだった。きっと彼が戻ろうと思えば戻れるだろう。もっとも本人がそれを望んでいる様子はないから仕方ないのだが。
 リーズはなんとも言えない思いを胸に、食事を再開した。


 食事を終えると、リーズはすぐに部屋の掃除に取りかかった。
 窓はすべて開け放し、上ったばかりの日差しの下で枕やシーツを干して、木の床をきれいに磨いた。
 部屋全体を掃除し終えて満足すると、次に鞄から持ってきた服を出そうとした。しかし洋服ダンスを開けると、こちらも中は埃だらけで、リーズは思わずくしゃみをした。
 そのうちに女将のザンキが昼食だと呼びに来てくれた。



「シーツは取り込んだかい?」

 昼食の後のお茶を出しながら女将がそう言ったのに、リーズは「はい」と頷いた。

「お洗濯場、ありがとうございました。おかげさまでシーツも枕もお日様の匂いでいっぱいになりました」

「そりゃよかったよ……どうやら午後からは雨らしい、朝早いうちから動いて正解だったね」

「えっ、雨が降るのですか?」

 リーズが目を瞬かせると、女将は「そうさ」と頷いた。

「もう今は曇ってきてるよ。たぶんこの分じゃ日暮れ前には降り出すね」

 そう言われて、リーズは窓の外を見た。たしかに雲行きは怪しく、どんよりしている。
 ルカは今朝鞄も持たずに出ていった。濡れて帰ってくることになるのだろうか。強い雨にならなければいいけど。

 天気の心配をしながらも、リーズは再び掃除を再開した。
 洋服だんすから出てきた埃を窓辺で払っていると、ふと外の地上で一人の少年がこの下宿に入っていくのが見えた。新聞売り……いいえ、誰かのお使いかしら。
 そう思いながらリーズがタンスの掃除をしていると、コンコンと部屋の扉が叩かれた。
 女将のザンキが少し困ったような顔を出す。

「ごめんよお嬢さん。ちょっと相談があって……食堂まで下りてこれるかい」





「まあ、ではルカのお客様ですか?」

 階下に下りながらザンキの説明を聞いて、リーズは驚きの声を上げた。

「お客なんてそんなご大層なものじゃないよ、ありゃラント街の奴さ……つまり貧民街だよ。どうやら旦那はお恵みをそいつにやったらしいんだ。よくわからないけど、それに味をしめて、たかりにきたってとこじゃないかね。しかも! 近づいたらものすごく臭いんだ。泥みたいなひどい匂い。あの匂いこそラント街出身の証拠だよ……けど、追い出したら追い出したで旦那に怒られるかもしれないだろ。どうしたもんかと思ってさ……」

 リーズは小さく笑みを浮かべた。

「とにかく私が直接話を伺いましょう。女将さん、お茶とお菓子をお願いします」

 女将は目を見晴らせた。

「お茶とお茶菓子だって? 正気かい、お嬢さん。さすがに貧民街がどういうところか知らないってわけじゃないだろ?」

「存じ上げているつもりですわ……でも、彼はルカを訪ねてきたんでしょう、どのようなところに住んでいようと、お客様には変わりありませんわ。お茶は私が昨日いただいたものがあれば、それでお願いします。とてもおいしかったわ。必要なら、お茶代は私が出します」

 リーズの有無を言わせない言い方に、女将は戸惑ったような表情で「わ、わかったよ」と頷いた。



 食堂には、窓から見えた少年が奥の席にちょこんと座っていた。
 少年の着ているぼろぼろの服は大人用のもののようで、床を引きずっており、そこらじゅう穴だらけだった。しかし乱雑に切られた黒い髪と同じ色の瞳は、入ってきたリーズの方をまっすぐ向いており、意志の強い光を放っていた。

「こんにちは」

 リーズがまず挨拶をすると、少年は目を瞬かせてから小さい声で「こんちは」と返した。

「ごめんなさいね、ルカは今お仕事なの。夜にならないと帰ってこないわ。私はルカの友だちのリーズと言います、はじめまして」

 少年は戸惑ったような表情で小さく頷いただけだったので、リーズは微笑んで言った。

「あなたのお名前、聞いてもいいかしら」

 少年は「ベン」とだけ答えた。

「そう、ベン。よろしくね……ああ女将さん、ありがとうございます」

 ガチャリと食堂の扉が開いて、女将のザンキがお茶とお茶菓子を運んできた。
 女将は顔をしかめていかにも嫌そうな表情を浮かべていたが、テーブルにカップや皿を並べると何も言わずにさっと出ていった。

「さあベン、一緒にお茶をいただきましょう」

 リーズはベンの前の席にお茶を用意してやり、菓子を置いた。彼はそれらにちらちらと視線をやっていたが、下を向いて「でも俺、お金……」と呟くように言った。

「心配いらないわ。あなたはルカを訪ねてきたお客様だもの。お客様にはね、こうしてお茶とお菓子を出すのはあたりまえなのよ」

 ベンは驚いたような表情をリーズに向けた。

「ほんとうよ。ね、女将さんが作ったこのクッキー、とっても甘くておいしいの。私も昨日ここに来たんだけどね、たくさん食べちゃったのよ。ほんとにおいしいんだから」

 リーズが勧めると、ベンはばっと両手を出して目の前のクッキーをぱくぱくと口に入れ始めた。
 その一生懸命食べている様子が昨夜のルカと重なり、リーズは知らずのうちに笑みを受かべた。

 皿を空にしてしまうと、ベンはやがてほっとひと息ついたかのようにお茶を飲んだ。

「それで、ベン。ルカに大事な用だったのかしら。言伝で済むなら預かるわよ」

 ごくりとお茶を飲んでからベンは口元を拭って首を振った。

「ううん、あの人に直接会いたいんだ」

「まあ、そうなのね。でも帰る頃にはきっと暗くなってしまうわよ。それに雨も降るって聞いたわ……今日は他に用事はなくて?」

 ベンは「よ、用事なんか」と頭をかいてから、鞄を机の上に置いた。

「昨日の夜、俺、その、この鞄をあの人から、も、もらったんだ。でも、その、財布にたくさん金が入ってるし……あっでも全然使ってないよ、いやその、少しは使ったんだけど、やっぱり全部はだめかなって思ったから。それで俺、か、返しに」

 一生懸命言葉を紡ぎだそうとする少年に、リーズは目を細めた。

「そう、鞄を返しにきたの。えらいわね」

 ベンは「だって俺……」なんとも言えない気まずそうな顔を下に向けた。

「わかったわ、ルカもあなたから直接受け取った方が嬉しいものね。長いけど夜までここで待っててもらって……ちょっと待って。それならあなたに手伝ってもらおうかしら。手間賃もお支払いするわ。あっ、でもその前に、一度身体を洗った方がいいかもね……来て! 洗濯場を借りましょう」

 リーズのきらきらした目に、ベンは少し身を引かせて「え、洗う?」と眉を寄せた。





 リーズはベンを洗濯場に連れていくと、あっという間に身ぐるみ剥がしてお湯を頭からざばんとかけた。

「!?」

 ベンがわけがわからず目を白黒させているのにかまわず、リーズは彼の足元にお湯の入った桶と石鹸、毛の細かいブラシ、布巾を置くと、さっと後ろを向いた。そして少年に背を向けたまま言った。

「そこに置いた石鹸をブラシにつけて泡立てるの。頭のてっぺんから足の先まで泡だらけになるくらい、ごしごし洗うのよ。洗えたらお湯を頭からかぶって泡を落として。お湯が足りなかったら持ってくるから言ってちょうだい」

 ベンは、「え、う、うん、わかった……」と返事をして、おそるおそる石鹸を手にした。つるつるすべるがいい匂いで、ブラシにつけてこすると泡が出てきた。ベンは「うわあほんとに泡だ」と呟いてから言われたままに身体すべてをごしごし洗った。

 身体を洗った後は、リーズがベンのための服を用意してくれたが、少年は女の服は嫌だと言って結局最初に着ていたあのぼろの服を再び身につけた。
 それから階段を上ると、リーズは少年を自分の部屋に通し、雑巾を持たせて「さあ、このたんすよ」と言った。
 ベンは開け放たれた洋服だんすを前にして、その埃の凄まじさにのけぞった。

「す、すごい埃」

「もう何年も誰も使ってなかったみたいなの。できればその中に服をかけたいから協力よろしくね」

「よろしくって……リ、リーズさんはどこ行くの」

「私はさっきその中を拭いた雑巾を下で洗ってくるわ」

「えっ、一回拭いたの? これで?」

 ベンは「うーん、もう」などぶつぶつ呟きながらそれでも真面目に作業し始める。リーズは笑みを浮かべて雑巾を洗いにいった。
 洗い直した雑巾でリーズもベンと一緒に何度もたんすの中を拭いた。ようやく中に服がかけられるまできれいになった頃、窓辺からサーッと雨の降る音がし始めた。

「ああ……やっぱり降り始めたわね」

 窓の外に目をやったリーズはぽつりと呟いた。まだ弱い雨だ。でも強くなる可能性もある。

「リーズさーん、この服はかけるの? たたむの?」

 洋服だんすと悪戦苦闘してくれたベンは、次にリーズの服を鞄から出して中に仕舞ってくれていた。

「あ、ありがとう、それはたたむ方で大丈夫よ、引き出しに入れるわ」

 全部服をしまい終わると、ベンは「終わったー!」と言って床に座り込み両手を上げて歓声を上げた。
 その子どもらしい様子にリーズは笑いながら「ありがとう、ベン。ほんとうに助かったわ」と言って引き出しから財布を取り出した。

「はい……これくらいで足りるかしら」

 受け取った銀貨に、ベンは嬉しそうに笑みを浮かべると「へへっどうも」とズボンのポケットにしまいこんだ。そのズボンは穴だらけで、ポケットは大丈夫なのかとリーズは少し不安になった。

「ねえ、ベン」

 リーズが尋ねた。

「その、聞いてもいいかしら……あなたはどうやって暮らしているの? ご家族はいらっしゃるの」

「家族? そんなのいない」

 ベンは肩をすくめた。

「毎日這いつくばって生きてるよ。施しをもらったり、その……からちょうだいしたりしてさ」

「そう、一人で生きているのね。困ったらいつでも頼ってと言いたいところだけど、私はこの町の住人じゃないの……ね、ベンは文字を覚える気はない? よければ私が少し教えましょうか」

「文字?」

「ええ、読んだり書けたりしたらとっても便利よ」

 リーズの言葉に、ベンは軽く笑い飛ばした。

「あいにくと、読んだり書いたりする機会も道具もないから。別に文字なんか知らなくったって生きていけるよ。いらないいらない」

「そ、そう……」

 そう言われてしまっては何も言えない。しかし、そのときガチャリと部屋の扉が開いて誰かが言った。

「ばかだねえ、文字を知ってりゃ悪い連中に騙されることもないし、間違って毒を飲むこともない、いいことづくしじゃないか」

 振り返ると、女将のザンキだった。彼女は扉越しに二人の会話を聞いていたらしい。
 ザンキは「失礼するよお嬢さん」と言うと、部屋に入り込んで少年に説教するように言った。

「あんたね、こんないいとこのお嬢さんが親切に文字を教えてくれるって言ってんのに、なんなんだいその態度は! ちょっとは礼儀ってものを……」

「女将さん、私は大丈夫ですから」

 リーズが止めに入ったが、ベンは「へん」と鼻を鳴らした。

「知るか、そんなもの。それにばばあ、お前だって勝手に立ち聞きして、部屋に入り込んでるじゃないか、何が礼儀だってんだ」

「なんだって? そんなぼろを着てるくせに口だけは生意気に」

「はいはい、もうやめてくださいね」

 リーズは、なんだか昨日の夜のやり取りと似ているわねと思いながら、二人の間に入って会話を中断させた。

「私が余計なことを言ったのが間違いでした。ごめんなさいね、ベン。女将さん、私のためにありがとうございます……あのそれで、女将さんは私にご用でしょうか?」

「あっそうそう」

 ザンキは思い出したように扉の前に置いていた物を持ってきてリーズに差し出した。
 二本の傘だ。

「あんた、旦那を迎えにいくんだろ? そろそろ仕事が終わる時間だからさ……道は教えてやるから行ってやんな」

 女将の気遣いに、リーズは「まあ」と驚いた表情から満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございますっ!」



 リーズはザンキに地図を書いてもらい、傘を一本さして、もう一本は手に持ってルカのいる商会事務所に向かった。
 ベンはそのままリーズの部屋に残ってもらうことになった。ザンキは何か盗むのではと警戒していたが、リーズが「自分で持っているお金以外に盗まれて困るものはありませんから」と言って納得してもらった。

 雨はひどくはなかったが、ざんざんと降り続けており、道にもあちこち川のように水が流れている部分があった。もう辺りは暗くなっており、ちらほらと家や店の前で灯りがつき始めている。
 地図の指す方へ進んでいくと、だんだんと辺りは大きな建物が立ち並ぶ通りになっていった。

 ポレンタという知らない街の中を歩き、知らない人たちとすれ違う。リーズは今まで生まれ育ったルブロンの地とは違う空気を感じた。こうした中で、ルカは一人で馴染んでいったのだ。リーズは、故郷の町にいたときよりも、ルカがずっと遠い存在になってしまったかのように感じた。

 とうとうザンキの書いてくれた住所に辿り着いた。看板にも“タッシ商会事務所”と書いてある。
 ここだわ。広い屋根付き玄関になっている回廊の先に、事務所の扉が見えた。
 リーズは傘を閉じると、その玄関扉の方へと近づいた。と、そのときバンと扉が開き、男が飛び出してきた。

「やれやれ、おわったおわった! うわ、雨が降ってるぞー」

 男が後ろに向かって言うと、建物の中からは「えー」という残念がるような声が複数聞こえた。

「はは、やっぱり今日はマリオの奢りだな……ん?」

 出てきた男はようやく目の前に立つリーズの存在に気づいた。

「こんばんはお嬢さん、雨やどり……ではなさそうですね、もしかしてこの事務所を訪ねてきました? お客様でしたか」

「あっいえ」とリーズはどきりとして首を振った。

「その、ここの従業員に友人がいまして……雨が降っているものですから」

「あーお迎えですね。幸せ者がいたもんだ。もうみんな帰る準備をしてますからね。お呼びしますよ、誰ですか?」

「ありがとうございます、その、ルカと言います。ルカ、シャ、シャレロワ」

 リーズの言った名前に男はピシリと固まった。
 すると男の後ろから若い青年が「ちょっとロイドさん、入り口で立ち止まらないでくださいよー」と文句を言う声が聞こえた。ロイドと呼ばれた男の後ろからリーズの方を覗きみた青年は「あれ、お客ですか?」と言った。
 ロイドは「いや」と言ってから少し動揺したような顔で青年に言った。

「迎えだそうだ……その、ルカ・シャレロワ君の」

「えぇっ!?」

 青年がリーズの方を見た。そんなに驚くことかしら。

「早く彼を呼んできたまえ、マリオ君」

 ロイドのかしこまった言い方に、青年は「は、はははい!」と叫ぶとドタバタと再び中に入っていった。
 ロイドは咳払いをすると、動揺した顔はもう完全に消してしまってからにこやかな笑みをリーズに向けた。

「いやあ失礼いたしました。今お呼びしていますからね……あなたはシャレロワ君のご友人、と言いましたね。この辺りにお住まいですか」

 気さくに話しかけてくれたので、リーズはほっとして「いいえ、そうではありません」と首を振った。

「私が旅行でこちらに参りまして、彼の住んでいる下宿に私もひと部屋お借りしていますの」

「ああ、なるほどなるほど」

 ロイドがにこにこと浮かべて頷いていると、玄関の方から誰かがドタバタと出てきた。

「ちょっと、シャレロワさんのお迎えが来たってほんとに……?!」

 出てきたのは今度は若い女だった。リーズと同じか、もう少し歳上のようだ。
 彼女はリーズの方を穴が開くほど見つめていたが、ロイドがかしこまった様子で「ティナ君、はしたない真似は控えたまえ」と嗜めると、「は、はい、どうもすみません」と言った。

「シャレロワ君の古くからのご友人だそうだ……それで、彼は?」

「ええとその、さっき上着を着てました」

 ティナと呼ばれた女の言葉に、男はリーズに「だそうです、もうすぐ来ますよ」と微笑んだ。

「あ、ありがとうございます。皆さん、お勤めご苦労様です」

 ロイドは嬉しそうに帽子に手をやって「ありがとう、美しいあなたにそう言われると報われます」と世辞まで言ったが、女は目を丸くさせてリーズを見つめたままだった。
 そのうちにまた扉からドタバタと人が出てきた。

「ねえねえ、シャレロワさんに迎えだって?」

「信じられない、恋人なのっ!? あっ……」

 今度もまた若い男女だった。二人ともぺちゃくちゃ話していたが目の前でリーズがこちらを見ていることに気づいて慌てて口を閉ざした。
 横からロイドが「い、いやあ礼儀がなってなくてすみません」と苦笑いを浮かべた。

「なにしろ大体がただ帳簿とにらめっこしてるだけの毎日ですからね。どうか許してやってください」

「あの……あなたはシャレロワさんの恋人なんですか」

「こらティナ!」

 不躾な質問にロイドが怒ると、リーズはくすりと笑った。

「いいえ、恋人ではありません……でも大事な友人です」

 そのとき、ようやく玄関から「リーズ!?」と言う聞き慣れた声がして、リーズはそちらの方を向いた。
 ルカが慌てたように髪を乱してこちらに駆け寄ってくる。リーズが彼の姿に満面の笑みを浮かべたのを、ロイドは目を丸くして見ていた。

「迎えだって? なんでわざわざ」

「だって雨がこんなに降っているのよ。女将さんが傘を貸してくださったわ、ほら」

「ザンキさんが? 雨なんか俺は気にしねえのに……わざわざ悪かったな」

「ふふ、いいの。私が迎えに来たかったのもあるから。はい、傘。さあ帰りましょう……それでは皆さん、お騒がせいたしました」

 リーズがこちらを見ている従業員たちの方を向いて軽くお辞儀をすると、ルカも彼らに向かって挨拶をした。

「お疲れさまです、お先に失礼いたします」

 いつものようにきちんと礼儀正しく頭を下げた彼に、従業員一同はあっけに取られたように見つめるばかりだった。ただロイドだけが「お、お疲れさま」と呟いただけだった。
 リーズが傘を開きながら言った。

「あのね、部屋を大掃除したの。とってもきれいになったわよ」

「やっぱりな、ザンキさんのやつ、ぜってえ掃除してねえと思った。どこもかしこも埃だらけだっただろ。代金差し引いてもいいくれえだぞ」

「そ、そんなことないわよ。それに朝ごはんもお昼ごはんもおいしかったわ。そうそう、実はルカにね……」


 二人が傘をさして雨の中の町に紛れていくのを、従業員たちは屋根付きの玄関からぽかんと見ていたが、一人が「な、何……今の」と呟いた。

「シャレロワさんの言葉、聞いた?」

「な、なんか突然人が変わったみたいだった」

「“雨なんか気にしねえのに”って言ったわよ、絶対に聞き間違いじゃないわ」

「で、でも俺たちへの挨拶はいつも通りだったぜ」

 次々と呟く従業員たちに、年嵩のロイドは「まあ、あれだ……後悔があるとすれば」と小さくなる二人の後ろ姿を見て言った。

「彼女の持っていた傘を一本、借りなかったことだな」




 雨の降る街を、リーズとルカはそれぞれで傘をさして歩いていた。

「俺に客だって?」

「ええ、男の子よ。昨日あなたに鞄ごと財布をもらったけど、返しにきたって言ってたわ」

「ああ……あいつか」

 ルカはぼんやりと思い出しながら言った。

「財布の中身を見て、悪いなと思ったんでしょうね。今は私のお部屋で待ってもらっているわ」

「いやーそんな大金入れてたつもりはねえんだけどな。まあ鞄がなくて不便だったからやっぱり返してもらえるとありがてえかな……ん? うおっ」

 ルカが突然頭上を見上げて声を上げた。

「この傘、穴開いてやがる!」

 見ると、てっぺんのところにいくつかぽつぽつと穴があるようだった。そこから雨水が垂れて雨漏りのようにルカの頭に降り注いでいる。

「まあほんと。ちっとも気がつかなかったわ」

 ルカは「ったく、ぼろだなあ。下宿のだろ? あそこほんとに大丈夫かよ」とぶつくさ言ったのに、リーズはくすくす笑った。

「きっとしばらく使っていなかったんだわ。いいじゃない、その傘は閉じて、こっちの傘に二人で入りましょう」

「えっ」

 ルカは戸惑った声を出したが、リーズが「ほら早く、濡れてしまうわ」と言ったので、躊躇いながらも自分の傘を閉じてその通りにした。
 リーズのさしている傘に穴はなく、ルカの頭が濡れることはなかった。急に縮んだ距離に、ルカは緊張しながらリーズの方をちらと見て、彼女がこちらに傘を傾けているのに気づいた。

「リーズ、傘は俺が持つ」

「あらだめよ、私が持ってきた傘ですからね。あなたには持たせないわ。それにお仕事で疲れてるんだから」

 ルカは苦笑いを浮かべた。

「そこまで重労働じゃねえって……傘、そんなにこっちに傾けなくていいから。俺はべつにいつも濡れてるけど、あんたが濡れたら大変だろ」

「あなたが濡れても大変だわ。ふふ、大丈夫。大きい傘だから少し傾いていても平気なの……それよりもね、ルカ。そのベンっていう少年のことで相談なんだけど」

 雨の中、一本の傘の下でリーズが熱心に話すのをルカはふんふんと聞いていた。
 時折ルカが彼女の身体が濡れていないかちらちらと視線をよこしていた。途中でそれに気づいたリーズは嬉しくなって、いつまでもこの時間が続けばいいのにと思わずにはいられなかった。



「おや、お帰りのようだね」

 下宿の扉を開けると、女将がにやにやと出迎えてくれた。
 リーズが傘の水を払いながら「女将さん、ありがとうございました」と言った。

「はいはい、お役に立ててなによりだよ。傘は悪いけど裏口に置いてきてくれるかい?」

「わかりました……ルカ、ほらそっちもよこして」

 ルカは「悪りいな」と言いながらほとんど使わなかった傘をリーズに渡した。そして彼女の背中を見送った後、キッと女将の方を睨みつけた。

「ザンキさん、傘に穴が空いてたんだけど」

 ルカは女将の方に近づいて低い声で「まさかわざとじゃねえだろうな?」と尋ねたのに、女将はひひっと笑った。

「さあてなんのことやら。穴があったなんて気がつかなかったねえ」

「その笑い、完全に確信犯じゃねえか」

 女将は全く悪びれる風もなくからからと笑った後、あっと声を上げた。

「それより旦那、お嬢さんからあの坊主のことは聞いたかい?」

「ああ……聞いたよ」

「お嬢さんたらすっかりあの子のこと信用しちゃってるけど、大丈夫かね? ぼろをまとった臭い子をお客みたいに扱えって言われたときはびっくりしたよ、あたしゃあんな子にお茶もお菓子も出したんだからね」

 ルカはわずかに目元を和ませた。ぼろを着た臭い奴をお客みたいに扱えか。さすがリーズだな。
 女将は顔をしかめながら続けた。

「まあ、洗濯場で身体は洗ってやったみたいだから、いくらかはきれいになったみたいだけどね。ただあのぼろを着てるから結局臭いままだよ、覚悟しときな」

 そのうちにリーズが「おまたせ」と戻ってきた。

「行きましょう、きっとベンが待ちくたびれてるわ……あっすみません、あの子のことで女将さんに一つお願いがあるのですが」

 彼女の願いを聞いた女将は顔をあからさまに歪めてみせたが、リーズが「もちろんお代はお支払いします」と言うと、肩をすくめて了承してくれた。



 ルカとリーズは階段を上がると、彼女の部屋の前まで来た。リーズが扉をコンコンと叩いてから開ける。
 燭台の灯る部屋で、少年は床に座り込み、ベッドに寄りかかったまま眠っているようだった。
 しかし人の気配を感じ取ったのか、すぐにはっと目を覚ました。

「あっ」

 ベンはルカの姿を見とめると、ぱっと立ち上がり歩み寄った。そしてずっと肩から下げていた鞄をルカに差し出した。

「これ。俺……その、返しにきたんだ。少しだけ……小銭を使った」

 ベンが辿々しく言ったのに、ルカは鞄を受け取ると、財布を取り出して中身を確認した。ほとんど減っていなかった。

「なんに使ったんだ」

 ルカの問いに、ベンは小さな声で「パンだよ、腹が減ってたから」と答えた。
 ルカはわずかに目を細めてから「そっか」と頷いた。

「お前、今困ってることは? 友だちはいねえのか」

「いないよ、そんなの」

 ベンはふんと鼻を鳴らすようにして言った。

「いつも腹が減るのには困ってるさ。けどそれだけだよ、俺は強いから一人で生きていけるから」

「強い? 喧嘩でもするのか」

「喧嘩なんかしないよ、逃げるが勝ちってやつ。へへっ、俺、逃げ足は速いんだ。それにそこそこ力もあるんだ」

 自慢げに言った少年に、ルカは小さく笑った。

「その割には昨日、動きが鈍かったけどな」

 ベンは少し顔を赤らめると「う、うるさいな! 2日くらい食ってなかったんだい」と口を尖らせた。ルカはそれには笑わずに、真面目な顔になった。

「リーズから聞いたけど、お前はベンって名前らしいな」

「そうだよ」

「俺はルカってんだ……なあベン」

 ルカはベンの肩に手を置いた。

「もしお前が今から言う条件をのむって言うんなら、お前がこれから毎日腹いっぱい食えるようにしてやる。寝床も服も、どうにかしてやろう」

「えっ」

 ベンは驚いたようにルカを見上げた。

「ほんとうだ。まあその、俺も金持ちじゃねえから贅沢はできねえけどな」

「な、なんだよ条件って。まさか殺し? 俺はそういうのは……」

 ベンは警戒するような表情を浮かべると、ルカは「そんなんじゃねえよ」と笑った。

「明日から五日間、このリーズから文字を教わることだ」

「文字を?」

 ベンは怪訝そうに少し後ろに佇むリーズを見た。呼ばれて彼女も後ろから小さく微笑んで見せた。

「なーんだ、また文字。そんなの知らなくったって……」

「生きてはいける。けどそれが条件だ。リーズはあと一週間もしねえうちに帰っちまう。お前が彼女から文字を習って少しでも読めるようになったら、俺はお前を助手にしてやる」

「助手だって? あんたの?」

 ルカが「そうだ」と頷く。

「俺はある商会事務所で働いてるーータッシ商会ってんだ。ワインの卸売りのまともな商売をしてる良いところだ。けど人手が足りてなくて、結構大変ってのが正直なところだ。五日でお前が多少の文字を読めるようになったら、いくつか手伝いを頼むつもりだ。お前、この町には結構詳しいだろ。どうだ、やってみねえか」

 ベンは突然の話に瞳を揺らしたまま黙り込んでしまった。リーズは少年の方に歩み寄ると、彼の隣にしゃがみ込んだ。

「もちろん無理にとは言わないわ。あくまで提案の話よ。ルカがお仕事に行ってしまって、私が昼間は退屈になるから、なにかできることはないかなあって思ったの」

 ベンはリーズをちらりと見てから俯いた。

「なんで……なんであんたたちは俺にかまうわけ? 大金持ちでもないんだろ」

 ルカは「大金持ちじゃあねえな」と笑った。

「正直そんなに余裕はねえさ。けど、俺もお前と似たようなもんだったからよ」

「えっ……あんたも?」

顔を上げた少年に、ルカは頷いた。

「そうさ、泥啜って生きてた。でもな、そういう人間のなれの果てはひでえもんだぜ……今は運良くこうしてるってだけだ。まあ、明日の朝に返事をくれたらいい。夕飯はザンキさんが今作ってくれてる飯を一緒に食おう。リーズがお前の分の夕食代、払ってくれるってさ」

 ベンがリーズを驚いた様子で見ると、リーズはただにっこり微笑んで頷いた。
 ルカは続けた。

「お前さえよけりゃ、今夜は俺の部屋に泊めてやる。帰りたきゃ帰ったらいい、どうする?」

 ベンは「お、俺は」と再び俯くと小さい声で答えた。

「できればリーズさんの部屋に泊まりたいな」

 リーズは目を丸くさせて「まあ」と言い、ルカはたちまち眉をしかめて「こいつ!」とにやにやしている少年の頭を軽くこづいた。


 夕食はあたたかなものであった。ベンは初めてお腹いっぱいというものを経験したようで、とても幸せそうだった。
 リーズが夕方見たルカの同僚たちが「私を見てとても驚いていたけど、そんなに珍しいことなの?」と尋ねるので、ルカは頭をかいて自分が事務所の者たちにどう思われているのかという状況を詳しく話す羽目になった。案の定リーズは「ルカが没落貴族ですって?」と腹を抱えて笑った。
 女将のザンキは相変わらず用もなく食堂をちょろちょろしていた。時折リーズにぼそぼそと「せっかく二人で夕飯って思ってたのにさ」と呟くように言っていたのがルカには聞こえた。リーズはそれに対して首を振ると、こちらも小さな声で「先ほどの傘のお気遣いだけで十分ですから」と嬉しそうな笑みを浮かべていた。



 夕食の後、ルカはベンとともにリーズを部屋まで送るとおやすみを告げ、自分たちの部屋に戻った。
 まずルカはベンにぼろを脱いで、自分の用意した服を着るように言った。

「自覚ねえんだろうが、お前が着てるそのぼろはひどく匂う。身体は昼間にリーズに洗ってもらったって聞いたけど、服はそうじゃねえんだろう。少なくともこの下宿にいる間は俺の服を着るんだ。少し大きいかもしれねえが、ぼろよりはましだろ。着替えたら俺のベッドを貸してやらあ」

 ルカはそう言うと、自分は長椅子で眠る支度をし始めた。


「これからずっと俺にベッドを譲るつもりなの」

 蝋燭の炎を消し、もうこれから寝るというとき、横になっていたベンが突然言った。
 ルカは「さあな」と寝返りをうちながら答えた。

「ひとまず俺は五日間は長椅子で寝るつもりだ。それからどうするのかってのは、また考える。ザンキさんに別の部屋を用意してもらってもいいしな。働いてりゃ、部屋代くれえ自分で払えるようになるぜ」

 ルカの言葉に、ベンは相槌を打たずにただ沈黙していた。
 しばらくしてまた少年が「さっきさ」と言った。

「“俺もお前と似たようなもん”って言ったよね、あんたもすりだったわけ?」

 ルカは「へへっ」と笑った。

「すりだけじゃねえ、詐欺も賭博も贋金つくりもした、生きるためならなんでもやった……おかげで何年か牢暮らしだったんだぜ。あたりまえだけどな」

 ベンはそれを聞いて、思うところがあったのかしばらく黙っていた。
 もう寝てしまったかとルカが目を閉じたとき、小さな声がした。

「リーズさんってどんな人なの」

「ん……リーズ? どんなってお前……今日昼間に話したんじゃねえのかよ」

「話したけどさ。その、お金持ちっぽい人だなって思ったから……あんたの友達とは言ってたけど」

「へへっ、確かに俺たちとは生きてる世界が違うって一目で思うよな」

 ルカは小さく笑ってから「リーズは」と続けた。

「リーズはさ、聖女みてえな人間なんだ……さっき俺が、お前のぼろの服はひどく匂うって言ったな。服だけじゃねえ、風呂に入ったことのねえお前は隅から隅まで臭かったはずだ。女将はお前を下宿にあげるのを嫌がってただろ。顔をしかめて近寄ろうともしなかったんじゃねえか? そりゃそうだ、ひどく汚ねえ、ねずみみてえな奴が来たんだから」

 ベンは「ね、ねずみ」と少し落胆した声で言ったのに、ルカは軽く笑った。

「そうだ、お前、俺とそっくりだよ……でもさ、リーズは女将とは違っただろ。お前を客として迎えて、一緒に茶を飲んだって聞いたぜ。その間も彼女は一度だって顔をしかめたりはしなかったはずだ。ねずみみてえな奴の話を真剣に聞いてくれるーー俺たちを人間扱いしてくれる、そういう人間なんだ、彼女は」

 そう言い終わったルカは少年の返事を待ったが、何も返ってこない。しかし、暗闇の中で彼がこちらをじっと見つめているような視線を感じたので、寝ているわけでもなさそうだ。ねずみは言い過ぎたかもしれねえな。
 ルカは咳払いをして「だからさ」と言った。

「お前はリーズの好意を受けとって、字を学んでくれよ。なんの心配もいらねえからよ」

 そう言ってからルカは寝返りを打つと今度こそ寝ようと息を吐いた。
 しかしそのときベッドの方から声がした。

「文字を学んだら、あんたーールカさんは、ほんとにまともな仕事をくれる?」

 小さな小さな声だった。ルカの頭に、かつてベロム伯爵と初めて会ったときのことを思い出される。
 あのとき牢の中にいた自分も老紳士に“仕事を手伝ってくれないか”と話を持ちかけられたとき、ひどく不安だった。
 ルカは言った。

「約束する。役人に捕まるような仕事は絶対にさせねえし、俺もしねえ。俺だってそこから必死に這い上がってきたんだ」

 本心からの言葉だった。
 ベンはまたしばらく沈黙し、やがて「ルカさん」と言った。

「俺やるよ。あんたを信じてみる。物覚えが悪いから、リーズさんが大変かもしれないけど、俺やってみたい」

 暗闇に響く少年の声は小さいものだったが、しっかりとした意志の強さがあった。
 よかった。ルカは目を閉じるとふっと笑みを浮かべた。

「……よし。じゃあもう心配すんな。明日からはとにかく文字を覚えることに励め」

「うん」

 少年はそう答えてから、すぐに寝息をたて始めた。

 ルカはこれからのことに思いを巡らせた。彼を助手として雇うなら、商会の人間にも許可を取らねばならない。タッシさんからの信頼はあると自負している。だがリーズのいるわずかな期間に、彼女はベンにどれだけのことを教えられるだろうか。そう考えたとき、リーズがルカに会うために来たというこの旅行の時間のほとんどをベンのために使うことになると気づいた。
 しかし、これはリーズが言い出したことだ。雨の中の帰り道で彼女から提案を聞いたとき、ルカはきっとまたリーズのお人好しが出たんだなと思った。なのに「ルカに似た子だなと思ったの」なんて言ってきやがった。確かに俺そっくりだがよ。
 ルカはまた背中に上るむずかゆさを覚えながら眠りにつくのだった。



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