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9. 見送りの涙
しおりを挟む出発の日。
昼前の駅はがやがやと賑やかであった。駅員のかけ声の他に、パン屋や、牛乳売り、新聞売りの呼びかけも重なって聞こえてくる。
今日のルカは社交界のときのような着飾った服装ではなかったが、伯爵家から提供された質の良い生地のベストに上着を着ていた。ハンチングの帽子は景気の良い商人風で、彼自身によく似合っている。
青年は旅行鞄を持って、自分の乗る列車を確認していた。
「“ティーポリ行き”……これか」
列車を見つけると、次に自分の乗る三等車の方へと向かう。途中、一等車の前で、一人の貴公子が若い女性たちに囲まれながら別れを惜しまれているところを横切った。
どこかで見た光景だと思ったが、裁判が始まる前のときの自分だとルカは思い至った。
ダンスがうまいと社交界で評判になってから、舞踏会では貴族の女性たちの間で引っ張りだこだったことも記憶に新しい。あのときは彼女たちからの手紙やら屋敷への訪問が絶えなかったが、もう今は影も形もなかった。
貴族でないというのはそういうことだ。わかってはいたが、ルカはちやほやされていたあの頃の自分がばかみたいに思えた。
ようやく三等車に辿り着いたとき、「ルカ!」と名前を呼ばれて、彼は振り返った。
ホームを駆けながらこちらへやってくるのは、リーズ・シャレロワだった。
リーズは息を弾ませながらルカの元へ駆け寄ってきた。
「はあ、はあ……よかったわ、会えて……駅ってこんなに人がいるのね、見つけられるかとても不安だったの!」
そう言ったリーズに、ルカは苦笑いを浮かべた。
「あんた、ほんとに見送りに来たのか」
「来るに決まってるじゃない!」
心外だと言うような顔をしたリーズに、ルカは嬉しくなってくくくと笑った。自分が子爵のときも子爵でなくなったときも、さして変化のない人物がここにいたのだ。
「なにがおかしいのよ」
「いや……あんたのその変わらねえところ、いいなと思ったんだ、それだけさ」
リーズは彼の言葉の意味がわからず眉を寄せたが、咳払いをして「あのね、あなたにお願いがあるの」と改まったように小さな紙切れを差し出して言った。
「その、新しい町に住んで、仕事をして、落ち着いてからでいいから……私に手紙を送ってほしいの」
「手紙を?」
ルカはその紙切れを受け取って中を改めた。中にはリーズの家の住所が書いてあった。
リーズはこくりと頷く。
「ええ、あなたの近況を教えて。別の町での新しい生活のこと、なんでもいいから」
「俺の近況? どうして」
ルカの疑問にリーズは一瞬身体をピシリと固まらせたが、再び咳払いをして「ど、どうしてもよ」と答えた。
「あなたが心配なんだもの。ちゃんとしたお仕事についているか、気になるじゃない……その、友人として」
リーズが下を向いてそう言ったのに、ルカは肩をすくめた。
「ちゃんとした仕事ねえ……俺なんかがそんな仕事を見つけられるのかねえ」
「できるわよ! あなたは社交界の立派な紳士にもなれたのよ、なんだってできるわ……だから、後ろ悪いことはしないで、幸せに生きてほしいの」
最後にそう述べたリーズは、昨日と同じ懇願するような目をしていた。
ルカは目を細めた。彼女はこうして他人の幸せを願える人間なのだ。全く、この俺に幸せに生きてほしいだなんて。
「……わかってるよ。ベロム伯爵とも約束してんだ、もう悪事には手を出さねえってな」
「ほんとう?」
ルカの返事にリーズは目を丸くさせた。
「ほんとうだ。まあ、俺がまっとうな仕事につけたらの話だけどな……手紙は出す。お世話になった聖女様には近況報告しとかねえとばちが当たるぜ」
「ば、ばちなんか当たらないと思うけど、でもあなたからの便りを待ってるわ、私も返事を書くから」
リーズがそう言ったとき、彼女の目が光って見えた。まさか、泣いているのか?
ルカは少なくともそのことに驚いたが、そのときビビーッと笛が鳴った。乗車の合図だ。
リーズははっとした顔になった。
「いけない、時間だわ! さあ乗って乗って」
「う、うん……」
リーズが追い立てるままにルカは列車の乗り口に足をかけて乗り込んだ。
「なあ、リーズ」
ルカは列車から言った。
「あの、さ、変なこと訊くけど、あんたもしかして、俺のこと……」
そのとき再びビビーーッと強い笛の音が鳴った。いよいよ出発する。
ルカの言葉はかき消されてしまったが、リーズは彼の言いかけた問いがわかったようで、悲しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、ルカが好きよ、大好き」
言い終わると同時にゴトン、ゴトンと列車が動き出す。
青年は目を丸くさせたままなにも言えなかった。リーズは目を光らせ微笑みを浮かべ、小さく手を振った。
それに返すこともできず、ルカはただ彼女がどんどん小さくなっていくのを車窓からいつまでも眺めていた。
短い回でした。ここまでが前半で、次回からは後半になります。
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