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8. 近づく別れ
しおりを挟むリーズはあくびをしながら階段を下りていた。鳥の声が窓から聞こえる。爽やかな朝である。
兄も姉も朝はいつも遅い。二人とも夜に舞踏会や劇場に出かけることが多いため、その習慣が定着しているのだ。一方で、父と二人で食卓を囲んで世間話をする朝の時間を、リーズは気にいっていた。
支度を終えてから食堂に入ると、椅子に座っている父が険しい顔をしているのが目に入った。どうやら新聞の内容が原因のようだ。
「おはようお父さん、怖い顔してどうしたの?」
「ああ、リーズ。おはよう……」
シャレロワ氏は娘の存在に少しだけ表情を和らげたが、すぐに険しい表情に戻った。
「大事件だ。あのベロム伯爵が、ギュイヤール男爵を訴えた」
「えっ!?」
リーズは驚いて父のそばに駆け寄ると、新聞をひったくるようにして見た。
そこには裁判のあらましが事細かに書かれていた。記事の下には男爵の罪状と被害者の名前がズラリと並んでいる。
「“ギュイヤール氏は投獄、おそらく爵位剥奪は免れないだろう”……こんなに被害が出ていたのだわ」
とうとうそのときが来たのだ。
シャレロワ氏はコーヒーを口にしながら言った。
「驚いた、あのべロム伯爵に娘がいたとはな。しかし20年も前のことがきっかけで他の罪まで露見されるとは、やはりお貴族様を敵に回すものではないな、怖い怖い」
「娘? 20年前? どういうことなの」
「20年前、べロム伯爵の娘はギュイヤールに騙されて自殺したらしい……まあ、最後まで読んでみなさい、全部書いてあるから」
リーズは朝ごはんもそっちのけでその記事を食い入るように読んだ。途中で、“ルカ”と言う文字がリーズの目に止まる。
“故ミレイユ氏とギュイヤール氏との間に産まれた子であるルカ氏が証言台に立った。ギュイヤール氏は彼が生まれたことさえも伏せようと医者の記録を消して孤児院に預けた。今回証拠として提出された司祭の記録は確かなものである。ルカ氏は社交界ではカルデローネ子爵を名乗っていたが、この裁判のためにベロム伯爵に協力していたとのこと。同氏は証言中に態度が豹変し、時々下品な暴言を口走って被告を煽った。傍聴席からは虚偽の罪だと野次が飛んだ”
ああ、ルカ。リーズは胸がちくりと痛み、顔を歪めた。
「全く驚きだ。ギュイヤールの裁判は明日も続くらしいが、証拠が完璧に出揃っているから、判決も早いだろうな。社交界は騒然となるぞ。こういうときはあまりワインが売れないんだ、困るなあ」
父のこぼした愚痴は、もうリーズの耳には届いていなかった。
リーズは記事を残らず読んでしまうと、バサリと音を立てて父に返した。
「私……行かなくちゃ」
「え? 行くってどこへ」
「ちょっとそこまで」
リーズはそう言うと、身を翻した。
「そこまでってお前……え、朝ごはんも食べないのか?」
戸惑いながら尋ねた父に、リーズは食堂を後にしながら「帰ったら食べるわ!」と答えた。
ベロム伯爵邸は、リーズの家から“ちょっとそこまで”という距離ではなかったが、リーズはルカのことを考えると、いてもたってもいられなかった。
彼は自分の生まれを知ってショックを受けただろうか、いいや、証言台に立ってその話をしたということはもうすでに知っていたのだろう。一体どんな思いで証言したのだろうか。
新聞を読む限り、ベロム伯爵はルカを証人として扱ってはいるが、血縁者ということは受け入れていないようだった。彼は無事なのだろうか、虚偽や詐欺の罪で捕まったりしていないだろうか。
リーズは焦る気持ちを抑えながら朝の静かな街中を走った。
幸い途中の通りで中心街行きの辻馬車を見かけたので急いで乗り込んだ。伯爵邸はリーズの家から中心街を挟んで向こうの高級住宅街にあるから、これに乗れば早い。
こうした行き方は、すべて社交好きの姉が教えてくれた。ここルブロンの中心街にはドレスや装飾品が売られているし、高級住宅街にはオペラ歌手たちが住んでいる。彼女たちは頻繁にお茶会を催すので、それに出席する姉にリーズは何度も連れ回されているのである。
中心街の広場で馬車を降りると、べロム伯爵邸はすぐ近くであった。
豪華な装飾で覆われた玄関の前に立つと、リーズは息を整えてから呼び鈴を鳴らした。
すぐに大きな扉が開く。
顔を出したのは、きっちりとした服装の老人であった。おそらく執事だろう。驚いたようにこちらを見ている。
「朝早くに申し訳ありません、急を要するものですから」
リーズは緊張した声で言った。
「私はリーズ・シャレロワと申す者です。あの、ルカは……その、フィルベルト・カルデローネ様はいらっしゃいますか」
執事が答えようとする前に、彼の後ろから「リーズ嬢?」と声がした。
執事の後ろから姿を現したのは、この屋敷の主人、ベロム伯爵だった。
リーズは警戒するように思わずぐっと口を結んだが、伯爵はもう前のような儀礼的な笑みを浮かべることもなく、怪訝そうな表情を向けた。
「朝早くにどうされたのです、あの男はいませんよ」
まさか! もうこの町を発ったというのだろうか、それとも虚偽の罪で牢に……!?
リーズの青くなった顔を見て、ベロム伯爵は眉を寄せた。
「なにを勘違いなさっているのかわかりませんが、今ここにはいないと言っているのです。彼は今朝早くからーー」
伯爵の述べた彼の行き先に、リーズは目を瞬かせた。
ゴーン、ゴーンと遠くで鐘が鳴っている。それ以外には鳥の声も聞こえず、辺りは静かだった。
リーズは伯爵に教えてもらった場所に、やっとのことで辿り着いたーー教会の墓地だ。それも高級住宅街からもリーズの家からも離れた、司祭さえもいないぼろぼろの教会だった。建物は今にも崩れそうだ。
墓地もきちんとした墓石が建てられているのはほんのわずかで、ほとんどが細く頼りない棒や板切れを十字にして立たせた墓ばかりのようだった。草木も荒れ放題だ。墓地の真ん中には、古い大きな樫の木が周りの墓を囲うかのように枝を伸ばして生えていた。
そんな中、リーズは一人の青年が佇んでいるのを見つけた。ほっと胸を撫で下ろして近づいていく。
青年は彼女の存在に気づかず、ただぼんやりと目の前にある傾いた十字の棒切れを見つめているようだった。
「あなたの大切なご友人が眠っているのはここなのね」
ルカははっとした表情で振り返った。
「びっくりした、リーズかよ」
「邪魔をしてしまってごめんなさい。伯爵から、あなたがここだと聞いたから」
ルカは肩をすくめた。
「別にかまわねえさ……こいつの名前はトマってんだ」
リーズは木の十字を見て「トマさんね」と言ってから、手に持っていた花を差し出した。
「ここへ向かう途中に買ったの。置いてもいいかしら」
「おいおい、わざわざ金払ったのかよ。その辺の雑草でいいのに……へへ、こいつも喜ぶな」
ルカはにやりと笑って花の束を受け取ると、木の十字のたもとに置いた。
十字は年月を経てぼろぼろになっており、立派な花束が置かれることでやっとそれが墓であることが示されたように見えた。
二人はしばらくなにも言わずにそれをただ眺めていた。遠くで鳴っていた鐘の音はいつのまにか鳴り止んでいた。
リーズはその穏やかな時間はいつまでも続いてほしいと思っていたが、やがてルカが口を開いた。
「……裁判のこと、聞いたんだろ」
リーズは隣に立つルカを見た。彼はまっすぐに友人の墓を見つめながら、憂いを帯びた顔をしている。
「ええ、今朝新聞を読んだの。裁判の様子が書いてあったわ。私、あなたが心配で……ルカ、大丈夫? ひどいことを言われたんでしょう」
「言われたんじゃねえ、言ってやったんだ」
ルカは口を歪ませて笑った。
「俺が証言台に立って自分の親父の罪を訴え出るような状況を作りだした、あの男にくそくらえってな。全く笑っちまうぜ、訴え出た奴も訴えられた奴も、証言台に立つ野郎と血が繋がってんだからよ……お、おいおい、なんであんたが泣くんだよ」
リーズは思わず溢れ出ていた涙を慌てて拭った。
「だ、だって、あなたのことを考えるとつらくって……ねえルカ、あなたはどうなってしまうの?」
「どうもならねえさ」
ルカは小さな笑みを浮かべた。
「契約通り、俺は報酬をもらって町を移る。牢にぶち込まれることはなさそうだ。今回俺が子爵になりかわってやったことは、全部真実を明かすためのことだったと伯爵が証言してくれたんだよ……あんたのおかげだ」
「え?」
リーズは困惑した顔で鼻をすすった。
「でも……私はなにもしていないわ」
ルカはにっと楽しそうに笑うと彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
「あんたは俺に味方してくれたじゃねえか。伯爵を平手ではりたおしたんだろ、それがずいぶん効いたらしいぜ」
「はりたお……ってそこまでしていないわ! 失礼なことをされたから、ちょっと怒ってぶっただけよ!」
思わず声を荒げた彼女に、ルカはくくくっと肩を揺らした。
「ちょっと怒ってぶった、ね。その割には次の朝も結構腫れてたぜ。醜聞になりそうな噂をもみ消すのにも苦労したんだとよ。あんたを怒らせるとやばいってのは伯爵も身にしみたらしい、文字通りな」
「だって、あのときはほんとうに許せなかったんだもの、やり方が卑劣だったわ! 今でも許せないくらい……」
リーズが憤慨したように言うと、ルカは「そうかそうか」とますます声をあげて笑った。
むくれた顔をしていたリーズだったが、腹を抱えている青年の様子に、心の底でほっとしていた。裁判のことで彼が傷ついているのではと思っていたが、どうやら今は大丈夫のようだ。
ルカは笑いを収めてからまた墓の方を向いた。
「今日はさ、挨拶もかねてここに来たんだ……明日この町を出る」
「えっ、あ、明日!?」
リーズは驚いてルカを見つめた。彼の横顔は穏やかだった。
ああ、もう決めたことなのだわ。リーズは心の中で渦巻いているものに蓋をする。震えそうになる唇を噛み締めると下を向いて言った。
「……早いのね。新聞では裁判がまだ続くと書いてあったからまだ証言するのかと思っていたわ」
「ギュイヤールの残りの裁判は、奴の他の罪に関することだ。俺の役目はもう終わったのさ。フィルベルト・カルデローネって名乗って夜会に出ることもねえ。ベロム伯爵との約束通り、俺はもうこのルブロンの町を出なきゃならねえんだ」
その言葉から悲しみは感じられず、むしろせいせいするような言い方であった。リーズは突然、すぐそこにいる青年との距離がとてつもなく離れているような感覚に陥った。思わず彼の片手を両手でぎゅっと握る。
突然のことに、ルカはどうしたのだろうとこちらを向いた。
「リーズ?」
行かないで、とは言えなかった。引き止めたいとは思っていたが、それがかなわないのは重々承知だ。だからなにを言っていいのかわからなかった。
リーズは、戸惑うような彼の鳶色の瞳を見つめると、出かかった言葉を飲み込んで「見送りを」と言った。
「見送りをさせてちょうだい。あなたが明日乗る列車の時間を教えて。お願い」
懇願するような言い方に、ルカは小さく笑った。
「そんな切羽詰まった顔しなくたって教えるよ。明日の昼ちょうどに発つんだ。少し早めに来てくれたら駅で会える。もう子爵でもなんでもねえから、この前の夜会のときみてえに邪魔する連中もいねえよ」
そう戯けたように言ったルカに、リーズはただ笑顔を浮かべて頷くことしかできなかった。
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