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忘れていた就職活動

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 出張から帰ってきてからも、各所へのやり取りで朱里は忙しくしていた。

 ある程度資料をまとめてから、瑛と一緒に社長室へ報告に行く。

 「兵庫の件は東森芸術文化センター管弦楽団で決定しました。日程は8月1日の14時からです。あとはプログラムを詰めていくのですが、地元の吹奏楽部員の子ども達10名と一緒に演奏する曲をまずは決めたいと思います。子ども達も、早く楽譜が欲しいと言っていましたし」
 「うん、そうだね。じゃあ子ども達と楽団の皆さんとで相談して決めてもらおう」
 「はい。あと他の曲ですけど、あの地域はご年配の方も多いし緑豊かな場所ですので、そういった点も踏まえて考えたいと思います」

 兵庫の件は以上で、あとは同時進行している件を瑛が報告する。

 「新東京フィルさんの所に届いたメールも、電話でやり取りしました。東京近郊の、地域のデイセンターのような場所、あとは保育施設にも、小編成で訪問出来ればと話しています。この件は東条さんが主に進めてくださっているので、来週改めて東条さんと打ち合わせをする予定です」

 分かった、と頷いた社長は、資料から顔を上げて笑顔になる。

 「いやー、いよいよ本格始動だな。良い波が来ている気がするよ。朱里ちゃん、今夜うちで夕食一緒に食べない?まだ話し足りないこともあるし」
 「ええ、是非!私もおじ様にプログラムについて相談したくて」
 「分かった。じゃあ、なるべく早く帰るね」
 「はい!お待ちしています」

 朱里は定時で退社すると、菊川の運転で瑛と一緒に屋敷に帰った。

*****

 「千代さん、千代さん!」
 「まあ、朱里お嬢様。どうなさいました?」

 厨房で夕食の盛り付けをしていた千代は、朱里に手招きされて手を止めた。

 「あのね、ちょっと頼みたいことがあるの。今日、瑛の誕生日でしょ?だから今夜の夕食の時、サプライズでお祝いしたくてね…」

 朱里は千代の耳元でコソコソと内緒話をする。

 「分かりましたわ!千代にお任せくださいな」
 「ありがとう!千代さん。よろしくね!」

 朱里は瑛の反応を想像して、ふふっと笑った。

 しばらくして瑛の父も帰宅し、朱里と瑛、瑛の両親が向かい合ってダイニングで夕食を食べる。

 「それで兵庫に行った時は、皆さんステージで歌ったり踊ったりで大歓迎してくれたんです。だからコンサートでも、皆さんが参加出来るコーナーがあったらいいなと思って。生演奏に合わせて婦人会の方が踊ったり、客席の皆さんが歌えるような曲を演奏したり」
 「なるほど。それは喜ばれそうだな。取り壊されてしまう市民会館で、最後に皆さんの良い思い出が出来るといいね」
 「はい」

 そろそろ食事が終わろうとした時、いきなり部屋の電気が消えた。

 「あらー?停電かしらー」

 妙に棒読みな口調で朱里が言う。

 「千代さーん、ロウソクある?」
 「はい、今お持ちしますねー」

 そう言って千代が、キャンドルホルダーに立てたロウソクを持ってきてくれる。

 テーブルの真ん中に置き、辺りがほのかに明るくなった時、瑛の前にはホールケーキが置かれていた。

 ん?と覗き込む瑛に、朱里が笑いかける。

 「ハッピーバースデー!瑛」

 朱里が作ったチョコレートのホールケーキに『Happy Birthday! AKIRA』のチョコプレートと大小2本ずつのロウソク。

 朱里はそのロウソクに火をつけた。
 すると…
 「ん?」
 今度は朱里が首をかしげる。

 瑛のチョコレートケーキの奥に、白いホールケーキが置かれていた。

 可愛く並べられたイチゴと生クリーム。
 そしてプレートには。
 『Happy Birthday! AKARI』

 「えええー?なんで?どうして?私の名前?どこから来たの?このケーキ」

 あはは!と瑛の両親が笑い出す。

 「朱里ちゃん、相変わらずいい驚きっぷりだね」
 「本当!昔を思い出すわ。あなた達、お誕生日が5日違いだから、いつも一緒にお祝いしてたわよね」

 でも、なんで、どうして?と、朱里はまだ動揺している。

 「千代さんから、朱里ちゃんが瑛にサプライズでケーキを用意してくれてるのを聞いたの。だから私達も、朱里ちゃんにサプライズでお祝いしたくて」
 「いやー、大成功だったな」
 「ふふ、本当に」

 そうだったんですか、とようやく納得した朱里は、隣の瑛を見る。

 「瑛、ふっつーだね」
 「ん?何が?」
 「もっとこう、わー!びっくり!みたいな反応出来ないの?」
 「いや、俺の驚きなんてあっという間に朱里にかき消された」

 ガックリと朱里はうなだれる。

 「何よもう!そりゃ、感激して涙しろとは言わないけど、少しは驚いてくれたっていいでしょ?」
 「でもさ、朱里、サプライズするって宣言してただろ?それにさっきの、停電かしらー?って超棒読み。そんなあからさまに匂わせておいて、驚けって言われてもねえ」
 「ムキー!そこは演技でもいいから驚きなさいよ!」
 「はいはい、分かりましたよ。うわー、驚き、桃の木、山椒の木ー」
 「なにそのオヤジギャグ。瑛、22歳なんて嘘でしょ?本当は52歳なんじゃない?」
 「それなら朱里も52だぞ。同い年の幼馴染なんだから」

 ギャーギャー言い合う二人の様子は気にも留めず、千代はケーキを切り分けて配る。

 「奥様、どうぞ」
 「ありがとう!」
 「旦那様も少し召し上がりますか?」
 「そうだな、せっかくのお祝いだしな」
 「ええ。当の本人達はまだケンカしてますけどね」

 昔の瑛と朱里が戻ってきたことに嬉しくなりながら、三人は笑い合った。

*****

 仕事で忙しい日々を送る中、朱里は久しぶりに大学の講義を受けに来た。

 数カ月ぶりに香澄に会い、食堂でおしゃべりを楽しむ。

 「聞いてー朱里!私、内内定もらったの!しかも、第一希望の企業から」
 「ええー!本当?良かったねー、香澄ちゃん」

 朱里は自分のことのように嬉しくなる。

 「香澄ちゃん、彼から話を聞いて、就活凄くがんばってたもんね。良かった良かった。これで卒業まで気楽に楽しめるねー」
 「うん!ホッとしたなあ。まあ、正式な内定はまだだけどね。朱里は?どんな感じなの?就活」

 ん?と朱里は手を止める。

 「私、就活…?えっ!」

 朱里の手から箸がポロリと落ちる。

 「どうしたの?朱里」
 「香澄ちゃん、私、忘れてた…」
 「え?何を?」
 「だから、就活…」

 えええーー?!と香澄の声が食堂に響き渡る。

 「ちょ、待って、どういうこと?朱里、何も就職活動してなかったの?」
 「うん。説明会も行ってないし、エントリーもしてない。もちろん面接も…」
 「嘘でしょ…。どうするの?今から」
 「どうしよう…。まだ間に合う?」
 「いや、そりゃ職種選ばなければね。なんとかなるかも。でも朱里はやりたいことあるんでしょ?ほら、広い視野で幼児教育に関わりたいとか言ってたじゃない?」
 「うん。それを今から調べて、企業をピックアップして、説明会は、もうやってないか。エントリーは、間に合う?」
 「さ、さあ。なんとも…」

 どよーんと朱里の顔が暗くなる。

 「と、とにかく!今から間に合う所探そうよ。ね?私も調べてみるから」
 「ありがとう、香澄ちゃん」

 朱里は半泣きで残りのご飯をかき込んだ。

*****

 「おはようございまー…す」
 「うわ!朱里ちゃん、暗っ!」
 「なんでそんなに分かりやすく落ち込んでるの?」

 次の日。
 出社するなり朱里は田畑と川辺に問い詰められる。

 「私、自分がこんなにもバカだとは思いませんでしたー!」

 そう言うと、ガバッと机に突っ伏す。

 「あの、朱里ちゃん?とにかく事情を話してよ。ね?」
 「そうだよ。何か仕事でミスしたの?不備があったとか?それなら俺達もフォローするから。ね?」

 朱里は顔を上げると、うっと言葉を詰まらせながら説明した。

 「はっ?就活を忘れてた?」

 二人はポカンとする。

 「やっぱり信じられないですよね?そんなこと。でも私、本当に忘れちゃってて。どうしましょう…」
 「うーん、そ、そうだな。んー、えっと、そうだな」
 「田畑さん?そうだな、の先は?」
 「あ、うん、そうだな」
 「ヒーッ!かける言葉もないって感じじゃないですか!」

 するとじっと考え込んでいた川辺が口を開く。

 「朱里ちゃん。ここにインターンで入ってきた時、実は教育関係の仕事に就きたいって言ってただろ?」
 「え、あ、はい。具体的にはまだ調べてなかったですけど」
 「うん、それでさ、今はその就活すら忘れてた。それって、ここでの仕事が楽しくて夢中になってたからじゃない?」

 え…と朱里は戸惑う。

 「それは確かに忙しくて、他のことは考えられませんでしたけど」 
 「単に忙しいだけなら、就活を忘れたりしないよ。朱里ちゃんはここでの仕事が好きなんだと思う。社長に話して、このままここで就職出来ないか相談してみたら?」

 すると田畑も頷く。

 「そうだな。それに考えてみたら、朱里ちゃんがいつまでここで働くか、俺達もはっきり知らされてないだろう?それもなんか変だと思っててさ。実は社長、朱里ちゃんにこのままここで就職してもらいたいんじゃない?」
 「うーん…」
 「とにかくさ!一度社長と話してみなよ」
 「そうですね…」

 朱里は小さく頷いた。

*****

 だが朱里はそれからも、社長には相談出来ずにいた。

 そもそも自分は、新卒採用の桐生ホールディングスの説明会に参加し、エントリーして試験や面接を受けるという通常のルートから外れてしまっている。

 それなのに社長に相談するなど、とんでもなく失礼なことだ。

 かと言ってこれから別の企業を受けるのも、なかなかすんなりとはいかない。

 自分のやりたいことがまだ明確に見えていない為、どの企業が自分に合うのかも分からない。

 じっくり探したいところだが、コンサートの企画はますます忙しくなるばかりだ。

 ついに朱里は腹をくくった。
 新卒採用は諦める。

 コンサートを成功させる為に、今、目の前にある仕事に集中しよう。

 漠然としたまま就職活動したのでは、間違いなくどこも不採用になるだろう。

 こうなったら焦らず、今自分がやるべき仕事をしっかりこなしながら、本当にやりたいことを見つけよう。

 そしてそれが見つかった時、中途採用で受け入れてくれる企業を受けよう、と。

 「よし!兵庫のコンサートも必ず成功させるぞ!」

 朱里は今度こそ気合いを入れ直して頷いた。
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