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コンサート
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しばらくして、朱里達カルテットの二度目の本番がやってきた。
今回は直々に、瑛の父でもある桐生社長からの依頼で、また別のマンションでの演奏だった。
前回とは曲目や演出も少し変え、朱里達四人はこの日の為に練習を重ねてきた。
当たり前だが、今日朱里が演奏することを桐生一家は把握しており、最初から客席に座って聴いていた。
優もにこにこと楽しそうにしているのが目に入り、演奏しながら朱里も嬉しくなる。
そして、瑛の隣には聖美も座っていた。
客席の反応も良く大いに盛り上がり、たくさんの拍手を浴びて四人は深々とお辞儀をした。
「朱里さん!」
終演後、すぐに聖美が朱里に駆け寄ってきた。
「とっても素敵な演奏でした!」
そう言ってピンクのバラの大きな花束を渡してくれる。
「ええ?!私に?」
戸惑う朱里に、聖美は笑顔で頷く。
「もちろんです」
「こんなに綺麗なお花を…。ありがとうございます!」
「それと、こちらは皆様で召し上がってください」
今度は大きな高級洋菓子の紙袋を、奏達に差し出す。
「ええ?!俺達に?」
「はい。とても素晴らしい演奏をありがとうございました」
こ、こちらこそ、と三人は面食らう。
朱里は改めて皆に紹介した。
「こちらは、都築製薬のご令嬢の都築 聖美さんです」
「初めまして。都築 聖美と申します」
ええー?!と奏達は仰け反る。
「そしてお隣は、聖美さんのフィアンセの桐生 瑛さんです」
「初めまして。桐生 瑛です」
えええー?!と、三人はさらに仰け反った。
そうこうしているうちに、瑛の両親達も近づいてきた。
「皆さん、今日も素晴らしい演奏をありがとうございました」
「しゃ、社長!こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
四人で頭を下げる。
「いやー、今回も本当に楽しく聴かせて頂きました。客席の皆さんもとても感激していらっしゃいましたよ。是非、今後ともよろしくお願いしますね」
「はい!精進して参ります。またどうぞよろしくお願いいたします」
奏が腰を折って丁寧に頭を下げると、瑛の父は嬉しそうに頷いた。
「あーちゃ!」
ふいに優の可愛い声が聞こえてきて、朱里はメロメロになる。
「優くーん!来てくれてありがとーう!」
朱里は雅に抱かれた優に頬ずりする。
最近少し言葉を覚え始めた優は、朱里のこともあーちゃと呼んでくれ、その度に朱里は骨抜きにされていた。
「朱里ちゃん、今日も輝いてたわよー。ヴァイオリン弾いてる時の朱里ちゃん、すっごくかっこいい!」
「えー、男前でした?」
「うん、そこらの男よりもよっぽど男前!」
お姉さん、それって…と朱里が眉間にシワを寄せると、皆はドッと笑う。
素敵な仲間達と演奏出来たこと、そして大切な人達に聴いてもらえたことに幸せを感じながら、朱里もとびきりの笑顔をみせた。
*****
「朱里」
控え室に戻ろうとする朱里を、瑛が呼び止めた。
「着替えたら車で家まで送っていく」
え…と朱里は戸惑う。
「いや、そんな。聖美さんがいるでしょ?」
離れた所で雅と会話している聖美に目をやると、瑛は首を振った。
「彼女がそう言ったんだ。朱里と一緒に帰りたいって」
「え、そうなの?」
「ああ。おしゃべりしたいって」
「そうなんだ…。うーん、お邪魔じゃないかな?」
「大丈夫だって」
「んー、分かった。じゃあお言葉に甘えて」
「ああ。ロータリーで待ってる」
朱里は控え室に戻って着替えると、打ち上げはまた改めて、と三人に断って部屋をあとにした。
「朱里さん。来週の金曜の夜、ご一緒に新東京フィルのコンサート聴きに行っていただけませんか?ヴァイオリンコンチェルトもあるんです」
菊川の運転する車の中で、隣に座った聖美が朱里に話しかける。
「わあー、行きたいです!プログラムは?」
「チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトです」
「チャイコン!ぜっったい行きます!!」
「うふふ、良かったー」
聖美は可憐な笑顔を見せると、助手席の瑛にも声をかける。
「瑛さんはご都合いかがですか?」
「え?ああ。金曜の夜ですね。大丈夫です」
「本当ですか?良かったです!」
朱里は、えっ?と真顔に戻る。
「あの、聖美さん。あき…桐生さんと一緒に行かれるなら私は遠慮します」
「まあ!そんな。私、どうしても朱里さんとご一緒したいんです。朱里さんとコンサートの感想をお話ししてみたくて…」
すると瑛がこちらを振り返った。
「私は音楽のことはさっぱりで、聖美さんのお話にはついていけませんしね」
「いえ、あの、そういう意味では…」
うつむいて小声になる聖美に、朱里は慌てて言った。
「分かりました!私もご一緒させてください」
「本当ですか?!」
「ええ。その代わり私、コンサート終わった途端、ダーッと感想しゃべりまくりますよ?」
「うふふ、ええ!たくさんおしゃべりしましょう。楽しみにしています」
そう言って聖美は心底嬉しそうに笑った。
*****
次の週の金曜日。
約束通り朱里は瑛と一緒に、菊川の運転で聖美を迎えに行った。
「うっひゃー!これまた大きなお屋敷ねぇ」
洋風の広い屋敷の前に停めた車から瑛が降り、玄関に入って行くと、程なくして聖美を連れて戻ってきた。
「朱里さん、こんばんは!」
「こんばんは、聖美さん。素敵なドレスねえ」
「朱里さんこそ!とってもお綺麗です」
「ありがとう!このドレス、雅お姉さんからお借りしちゃったの」
「そうなのですね。とてもお似合いです」
朱里は、雅から借りたネイビーのノースリーブドレスにシルバーのショール、そして聖美は、爽やかなグリーンのパフスリーブのドレスだった。
お洒落してコンサートに行くのはいつ以来だろう。
朱里は道中、ワクワクする気持ちを抑え切れなかった。
「私、ヴァイオリンコンチェルトの中で、チャイコフスキーが一番好きなの」
「私もなんです!どうしましょう、感激のあまり泣いてしまうかも…」
「大丈夫よ、聖美さん。その前に私が号泣してると思うから」
まあ!と聖美は楽しそうに笑う。
やがて菊川がホールのエントランスにゆっくりと車を停める。
菊川が開けてくれたドアから朱里が降りると、瑛の手を借りて車を降りた聖美が、慌てたように手を引っ込めた。
きっと、朱里に遠慮したのだろう。
朱里は瑛に目配せして彼女をエスコートするよう促すと、自分はさっさと歩き出した。
「それではお二人様、お席までご案内しまーす。どうぞこちらへ」
ツアーガイドのように言って、ふふっと二人を振り返る。
聖美は瑛の腕に捕まりながら、照れたように微笑んだ。
「うわー、とっても良い席ね」
「ええ。同じ聴くなら、やはり良い音がする席で聴きたいですものね」
「でもいいの?こんな高価なチケットを譲っていただいても」
「もちろんですわ。私がお誘いしたんですもの」
「そう?じゃあお言葉に甘えて…。聖美さん、どうもありがとう!」
朱里が聖美と話しているうちに開演時間となった。
照明が落とされ、人々は静まり返ってステージに注目する。
やがてステージの左右から団員達が入って来て、オーボエのAの音に合わせてチューニングする。
それだけで、朱里は胸が高鳴った。
ステージマネージャーの拍手と共に、指揮者がソリストと一緒に入場する。
客席から大きな拍手が起きた。
ソリストはゆっくりとお辞儀をし、チューニングをしてから指揮者とアイコンタクトを取る。
ホールの空気を支配していくように、気持ちを整える演奏者達。
すっと指揮者がタクトを構えた。
そして魔法の杖のように、タクトの動きに合わせて音が響き渡る。
朱里の胸に、すでに感動が込み上げてくる。
音楽が徐々に盛り上がり、一瞬の静けさのあと、ソリストが最初の音を響かせた。
その瞬間、朱里の思考回路が止まった。
弓の動きを見事に合わせるオーケストラと、感情がほとばしるようなソリストの演奏の中、瑛はふと隣に座る聖美に目をやった。
ステージを凝視しながら目を潤ませている横顔に、ふっと笑みを漏らす。
車の中で話していた通り、感動で涙が込み上げてきたのだろう。
そう思いながら、そのまま奥の朱里に目を移す。
と、瑛は驚きの余り目を見開いた。
(あ、朱里?!)
朱里はダバダバと涙をこぼしながら、眉を八の字に下げて号泣していた。
時折しゃくり上げるように肩を震わせている。
(う、嘘だろ?え?なんでそんなに泣けるんだ?)
他の観客を見渡すと、静かに聴き入っている人の中に、うつらうつらと居眠りしている人もいた。
どう見ても、朱里だけが異様に泣いている。
(え、あいつ、特殊人間なのか?どこの世界からやって来た?)
瑛はもはや演奏には集中出来ず、時折朱里を見ては眉をひそめていた。
*****
「はーー、もう、うっとり!素敵だったー」
朱里は胸に手を当てながらホールを出る。
「本当ですよね!ソリストの演奏と、それを支えるオーケストラ、どちらも見事でしたわ」
「うんうん。オーケストラがじわじわ盛り上げる中、ソリストが低い音から一気に駆け上がっていくところ、もう鳥肌がブワーッて立っちゃった」
「分かりますー!あの解き放たれた瞬間、もうパーッと世界が輝きますよね」
「そう!もう天にも登りそうな感覚!」
二人の感想は、車の中でも止まらない。
だが、いつの間にか聖美の屋敷に着いていた。
「あー、もっと朱里さんとお話したかったですわ」
「本当にね。でも聖美さんの門限があるから、今日のところはこれで」
「はい」
菊川がエンジンを切ると、聖美は改まったように朱里に話し出した。
「朱里さん、本当にありがとうございます」
「え?何が?」
「私、朱里さんのことが大好きなんです!」
へ?と朱里は呆気に取られる。
「あ、あ、あの、聖美さん?フィアンセの前で一体、何を…」
チラチラと助手席の瑛を気にしつつ、朱里は慌てふためく。
「私、朱里さんとお知り合いになれて、本当に嬉しいんです。こんなに楽しくおしゃべり出来る人、今までいなかったので」
「え?あ、そう…」
「どうかこれからも、私とつき合っていただけませんか?」
「そ、そ、それは、その…。フィアンセの方にお聞きになった方が…」
朱里が瑛を見ると、瑛はしれーっと窓の外を見ている。
(瑛のやつー!何とか言いなさいよ!)
「えっと、その。わ、私で良ければ、喜んで…」
(って言っていいんだよね?まさか彼女、深い意味はないわよね?)
我関せずの瑛に業を煮やし、菊川を見ると、あろうことか口元に手をやって笑いを堪えている。
(なにー?!菊川さんまで!)
すると聖美が朱里の手を取り、両手でギュッと握りしめた。
「朱里さん!」
「ひーっ!は、は、はい!」
「どうか私のことをお見捨てにならないでくださいね。いつまでも私は朱里さんと一緒にいたいのです」
「そ、そ、そのお言葉は、どうぞフィアンセの方に…」
「またお会い出来る日を心待ちにしておりますわ。どうぞお元気で…。ごきげんよう」
「は、は、はい。ごご、ごきげんよう」
ようやく菊川が車から降り、助手席と聖美の横のドアを開けた。
瑛が聖美の手を取り、屋敷に入って行く。
「菊川さん!」
開いているドアから身を乗り出して、朱里は車の横に立つ菊川を呼んだ。
「はい、何でしょう?」
「何でしょうじゃないでしょ!どうして助けてくれなかったのよ?!」
「助ける…とは?」
「もう、しらばっくれて!知ってるのよ?菊川さんが笑いを堪えてたの」
「おや、あんなに慌てていらっしゃったのに。案外冷静なんですね、朱里さん」
朱里はますますキーッとなる。
「まったくもう!瑛も菊川さんも、性格悪すぎるわよ!」
そう叫んだ時、瑛が戻ってきた。
「朱里、でっかい声が玄関まで聞こえてきたぞ」
嘘!と朱里は口を押さえる。
「今さら遅いっつーの。菊川、帰ろうぜ」
「はい、かしこまりました」
するとなぜだか、瑛は助手席ではなく後部座席の朱里の隣に座った。
「ちょっと、前に座りなさいよ」
「やだね。狭いんだもん」
「あんたね!聖美さんっていうフィアンセがいるのよ?もうちょっと自覚持ちなさいよ」
「どうだろ。彼女、俺よりお前の方が好きみたいだしな」
「それはあんたが彼女の相手をしないからでしょ?!もっとマメに声かけてあげなさいよ!」
「あ、そうだ。言い忘れてた」
そう言って急に瑛は朱里の顔を見つめる。
「な、何よ?」
「お前、コンサートであり得ないくらい号泣してただろ?で、今も顔、ぐっちゃぐちゃだぞ」
えっ!!と朱里は絶句して頬を押さえる。
「ほ、ほ、ほんとに?」
「ああ。な?菊川」
「はい、そうですね」
はあー?!と朱里は声を裏返らせる。
「そうですねって、菊川さんまで!」
「仕方ないだろ?事実なんだから。朱里こそ、もうちょっと女としての自覚持てよな」
ムキーッと朱里は車の中で地団駄を踏んだ。
今回は直々に、瑛の父でもある桐生社長からの依頼で、また別のマンションでの演奏だった。
前回とは曲目や演出も少し変え、朱里達四人はこの日の為に練習を重ねてきた。
当たり前だが、今日朱里が演奏することを桐生一家は把握しており、最初から客席に座って聴いていた。
優もにこにこと楽しそうにしているのが目に入り、演奏しながら朱里も嬉しくなる。
そして、瑛の隣には聖美も座っていた。
客席の反応も良く大いに盛り上がり、たくさんの拍手を浴びて四人は深々とお辞儀をした。
「朱里さん!」
終演後、すぐに聖美が朱里に駆け寄ってきた。
「とっても素敵な演奏でした!」
そう言ってピンクのバラの大きな花束を渡してくれる。
「ええ?!私に?」
戸惑う朱里に、聖美は笑顔で頷く。
「もちろんです」
「こんなに綺麗なお花を…。ありがとうございます!」
「それと、こちらは皆様で召し上がってください」
今度は大きな高級洋菓子の紙袋を、奏達に差し出す。
「ええ?!俺達に?」
「はい。とても素晴らしい演奏をありがとうございました」
こ、こちらこそ、と三人は面食らう。
朱里は改めて皆に紹介した。
「こちらは、都築製薬のご令嬢の都築 聖美さんです」
「初めまして。都築 聖美と申します」
ええー?!と奏達は仰け反る。
「そしてお隣は、聖美さんのフィアンセの桐生 瑛さんです」
「初めまして。桐生 瑛です」
えええー?!と、三人はさらに仰け反った。
そうこうしているうちに、瑛の両親達も近づいてきた。
「皆さん、今日も素晴らしい演奏をありがとうございました」
「しゃ、社長!こちらこそ、お招きいただきありがとうございました」
四人で頭を下げる。
「いやー、今回も本当に楽しく聴かせて頂きました。客席の皆さんもとても感激していらっしゃいましたよ。是非、今後ともよろしくお願いしますね」
「はい!精進して参ります。またどうぞよろしくお願いいたします」
奏が腰を折って丁寧に頭を下げると、瑛の父は嬉しそうに頷いた。
「あーちゃ!」
ふいに優の可愛い声が聞こえてきて、朱里はメロメロになる。
「優くーん!来てくれてありがとーう!」
朱里は雅に抱かれた優に頬ずりする。
最近少し言葉を覚え始めた優は、朱里のこともあーちゃと呼んでくれ、その度に朱里は骨抜きにされていた。
「朱里ちゃん、今日も輝いてたわよー。ヴァイオリン弾いてる時の朱里ちゃん、すっごくかっこいい!」
「えー、男前でした?」
「うん、そこらの男よりもよっぽど男前!」
お姉さん、それって…と朱里が眉間にシワを寄せると、皆はドッと笑う。
素敵な仲間達と演奏出来たこと、そして大切な人達に聴いてもらえたことに幸せを感じながら、朱里もとびきりの笑顔をみせた。
*****
「朱里」
控え室に戻ろうとする朱里を、瑛が呼び止めた。
「着替えたら車で家まで送っていく」
え…と朱里は戸惑う。
「いや、そんな。聖美さんがいるでしょ?」
離れた所で雅と会話している聖美に目をやると、瑛は首を振った。
「彼女がそう言ったんだ。朱里と一緒に帰りたいって」
「え、そうなの?」
「ああ。おしゃべりしたいって」
「そうなんだ…。うーん、お邪魔じゃないかな?」
「大丈夫だって」
「んー、分かった。じゃあお言葉に甘えて」
「ああ。ロータリーで待ってる」
朱里は控え室に戻って着替えると、打ち上げはまた改めて、と三人に断って部屋をあとにした。
「朱里さん。来週の金曜の夜、ご一緒に新東京フィルのコンサート聴きに行っていただけませんか?ヴァイオリンコンチェルトもあるんです」
菊川の運転する車の中で、隣に座った聖美が朱里に話しかける。
「わあー、行きたいです!プログラムは?」
「チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトです」
「チャイコン!ぜっったい行きます!!」
「うふふ、良かったー」
聖美は可憐な笑顔を見せると、助手席の瑛にも声をかける。
「瑛さんはご都合いかがですか?」
「え?ああ。金曜の夜ですね。大丈夫です」
「本当ですか?良かったです!」
朱里は、えっ?と真顔に戻る。
「あの、聖美さん。あき…桐生さんと一緒に行かれるなら私は遠慮します」
「まあ!そんな。私、どうしても朱里さんとご一緒したいんです。朱里さんとコンサートの感想をお話ししてみたくて…」
すると瑛がこちらを振り返った。
「私は音楽のことはさっぱりで、聖美さんのお話にはついていけませんしね」
「いえ、あの、そういう意味では…」
うつむいて小声になる聖美に、朱里は慌てて言った。
「分かりました!私もご一緒させてください」
「本当ですか?!」
「ええ。その代わり私、コンサート終わった途端、ダーッと感想しゃべりまくりますよ?」
「うふふ、ええ!たくさんおしゃべりしましょう。楽しみにしています」
そう言って聖美は心底嬉しそうに笑った。
*****
次の週の金曜日。
約束通り朱里は瑛と一緒に、菊川の運転で聖美を迎えに行った。
「うっひゃー!これまた大きなお屋敷ねぇ」
洋風の広い屋敷の前に停めた車から瑛が降り、玄関に入って行くと、程なくして聖美を連れて戻ってきた。
「朱里さん、こんばんは!」
「こんばんは、聖美さん。素敵なドレスねえ」
「朱里さんこそ!とってもお綺麗です」
「ありがとう!このドレス、雅お姉さんからお借りしちゃったの」
「そうなのですね。とてもお似合いです」
朱里は、雅から借りたネイビーのノースリーブドレスにシルバーのショール、そして聖美は、爽やかなグリーンのパフスリーブのドレスだった。
お洒落してコンサートに行くのはいつ以来だろう。
朱里は道中、ワクワクする気持ちを抑え切れなかった。
「私、ヴァイオリンコンチェルトの中で、チャイコフスキーが一番好きなの」
「私もなんです!どうしましょう、感激のあまり泣いてしまうかも…」
「大丈夫よ、聖美さん。その前に私が号泣してると思うから」
まあ!と聖美は楽しそうに笑う。
やがて菊川がホールのエントランスにゆっくりと車を停める。
菊川が開けてくれたドアから朱里が降りると、瑛の手を借りて車を降りた聖美が、慌てたように手を引っ込めた。
きっと、朱里に遠慮したのだろう。
朱里は瑛に目配せして彼女をエスコートするよう促すと、自分はさっさと歩き出した。
「それではお二人様、お席までご案内しまーす。どうぞこちらへ」
ツアーガイドのように言って、ふふっと二人を振り返る。
聖美は瑛の腕に捕まりながら、照れたように微笑んだ。
「うわー、とっても良い席ね」
「ええ。同じ聴くなら、やはり良い音がする席で聴きたいですものね」
「でもいいの?こんな高価なチケットを譲っていただいても」
「もちろんですわ。私がお誘いしたんですもの」
「そう?じゃあお言葉に甘えて…。聖美さん、どうもありがとう!」
朱里が聖美と話しているうちに開演時間となった。
照明が落とされ、人々は静まり返ってステージに注目する。
やがてステージの左右から団員達が入って来て、オーボエのAの音に合わせてチューニングする。
それだけで、朱里は胸が高鳴った。
ステージマネージャーの拍手と共に、指揮者がソリストと一緒に入場する。
客席から大きな拍手が起きた。
ソリストはゆっくりとお辞儀をし、チューニングをしてから指揮者とアイコンタクトを取る。
ホールの空気を支配していくように、気持ちを整える演奏者達。
すっと指揮者がタクトを構えた。
そして魔法の杖のように、タクトの動きに合わせて音が響き渡る。
朱里の胸に、すでに感動が込み上げてくる。
音楽が徐々に盛り上がり、一瞬の静けさのあと、ソリストが最初の音を響かせた。
その瞬間、朱里の思考回路が止まった。
弓の動きを見事に合わせるオーケストラと、感情がほとばしるようなソリストの演奏の中、瑛はふと隣に座る聖美に目をやった。
ステージを凝視しながら目を潤ませている横顔に、ふっと笑みを漏らす。
車の中で話していた通り、感動で涙が込み上げてきたのだろう。
そう思いながら、そのまま奥の朱里に目を移す。
と、瑛は驚きの余り目を見開いた。
(あ、朱里?!)
朱里はダバダバと涙をこぼしながら、眉を八の字に下げて号泣していた。
時折しゃくり上げるように肩を震わせている。
(う、嘘だろ?え?なんでそんなに泣けるんだ?)
他の観客を見渡すと、静かに聴き入っている人の中に、うつらうつらと居眠りしている人もいた。
どう見ても、朱里だけが異様に泣いている。
(え、あいつ、特殊人間なのか?どこの世界からやって来た?)
瑛はもはや演奏には集中出来ず、時折朱里を見ては眉をひそめていた。
*****
「はーー、もう、うっとり!素敵だったー」
朱里は胸に手を当てながらホールを出る。
「本当ですよね!ソリストの演奏と、それを支えるオーケストラ、どちらも見事でしたわ」
「うんうん。オーケストラがじわじわ盛り上げる中、ソリストが低い音から一気に駆け上がっていくところ、もう鳥肌がブワーッて立っちゃった」
「分かりますー!あの解き放たれた瞬間、もうパーッと世界が輝きますよね」
「そう!もう天にも登りそうな感覚!」
二人の感想は、車の中でも止まらない。
だが、いつの間にか聖美の屋敷に着いていた。
「あー、もっと朱里さんとお話したかったですわ」
「本当にね。でも聖美さんの門限があるから、今日のところはこれで」
「はい」
菊川がエンジンを切ると、聖美は改まったように朱里に話し出した。
「朱里さん、本当にありがとうございます」
「え?何が?」
「私、朱里さんのことが大好きなんです!」
へ?と朱里は呆気に取られる。
「あ、あ、あの、聖美さん?フィアンセの前で一体、何を…」
チラチラと助手席の瑛を気にしつつ、朱里は慌てふためく。
「私、朱里さんとお知り合いになれて、本当に嬉しいんです。こんなに楽しくおしゃべり出来る人、今までいなかったので」
「え?あ、そう…」
「どうかこれからも、私とつき合っていただけませんか?」
「そ、そ、それは、その…。フィアンセの方にお聞きになった方が…」
朱里が瑛を見ると、瑛はしれーっと窓の外を見ている。
(瑛のやつー!何とか言いなさいよ!)
「えっと、その。わ、私で良ければ、喜んで…」
(って言っていいんだよね?まさか彼女、深い意味はないわよね?)
我関せずの瑛に業を煮やし、菊川を見ると、あろうことか口元に手をやって笑いを堪えている。
(なにー?!菊川さんまで!)
すると聖美が朱里の手を取り、両手でギュッと握りしめた。
「朱里さん!」
「ひーっ!は、は、はい!」
「どうか私のことをお見捨てにならないでくださいね。いつまでも私は朱里さんと一緒にいたいのです」
「そ、そ、そのお言葉は、どうぞフィアンセの方に…」
「またお会い出来る日を心待ちにしておりますわ。どうぞお元気で…。ごきげんよう」
「は、は、はい。ごご、ごきげんよう」
ようやく菊川が車から降り、助手席と聖美の横のドアを開けた。
瑛が聖美の手を取り、屋敷に入って行く。
「菊川さん!」
開いているドアから身を乗り出して、朱里は車の横に立つ菊川を呼んだ。
「はい、何でしょう?」
「何でしょうじゃないでしょ!どうして助けてくれなかったのよ?!」
「助ける…とは?」
「もう、しらばっくれて!知ってるのよ?菊川さんが笑いを堪えてたの」
「おや、あんなに慌てていらっしゃったのに。案外冷静なんですね、朱里さん」
朱里はますますキーッとなる。
「まったくもう!瑛も菊川さんも、性格悪すぎるわよ!」
そう叫んだ時、瑛が戻ってきた。
「朱里、でっかい声が玄関まで聞こえてきたぞ」
嘘!と朱里は口を押さえる。
「今さら遅いっつーの。菊川、帰ろうぜ」
「はい、かしこまりました」
するとなぜだか、瑛は助手席ではなく後部座席の朱里の隣に座った。
「ちょっと、前に座りなさいよ」
「やだね。狭いんだもん」
「あんたね!聖美さんっていうフィアンセがいるのよ?もうちょっと自覚持ちなさいよ」
「どうだろ。彼女、俺よりお前の方が好きみたいだしな」
「それはあんたが彼女の相手をしないからでしょ?!もっとマメに声かけてあげなさいよ!」
「あ、そうだ。言い忘れてた」
そう言って急に瑛は朱里の顔を見つめる。
「な、何よ?」
「お前、コンサートであり得ないくらい号泣してただろ?で、今も顔、ぐっちゃぐちゃだぞ」
えっ!!と朱里は絶句して頬を押さえる。
「ほ、ほ、ほんとに?」
「ああ。な?菊川」
「はい、そうですね」
はあー?!と朱里は声を裏返らせる。
「そうですねって、菊川さんまで!」
「仕方ないだろ?事実なんだから。朱里こそ、もうちょっと女としての自覚持てよな」
ムキーッと朱里は車の中で地団駄を踏んだ。
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〈あらすじ〉
加藤優紀は、現在、25歳の書店員。
東京の中心部ながら、昭和味たっぷりの裏町に位置する「高木書店」という名の本屋を、祖母とふたりで切り盛りしている。
彼女が高木書店で働きはじめたのは、3年ほど前から。
短大卒業後、不動産会社で営業事務をしていたが、同期の、親会社の重役令嬢からいじめに近い嫌がらせを受け、逃げるように会社を辞めた過去があった。
そのことは優紀の心に小さいながらも深い傷をつけた。
人付き合いを恐れるようになった優紀は、それ以来、つぶれかけの本屋で人の目につかない質素な生活に安んじていた。
一方、高木書店の目と鼻の先に、優紀の兄の幼なじみで、大企業の社長令息にしてカリスマ美容師の香坂玲伊が〈リインカネーション〉という総合ビューティーサロンを経営していた。
玲伊は優紀より4歳年上の29歳。
優紀も、兄とともに玲伊と一緒に遊んだ幼なじみであった。
店が近いこともあり、玲伊はしょっちゅう、優紀の本屋に顔を出していた。
子供のころから、かっこよくて優しかった玲伊は、優紀の初恋の人。
その気持ちは今もまったく変わっていなかったが、しがない書店員の自分が、カリスマ美容師にして御曹司の彼に釣り合うはずがないと、その恋心に蓋をしていた。
そんなある日、優紀は玲伊に「自分の店に来て」言われる。
優紀が〈リインカネーション〉を訪れると、人気のファッション誌『KALEN』の編集者が待っていた。
そして「シンデレラ・プロジェクト」のモデルをしてほしいと依頼される。
「シンデレラ・プロジェクト」とは、玲伊の店の1周年記念の企画で、〈リインカネーション〉のすべての施設を使い、2~3カ月でモデルの女性を美しく変身させ、それを雑誌の連載記事として掲載するというもの。
優紀は固辞したが、玲伊の熱心な誘いに負け、最終的に引き受けることとなる。
はじめての経験に戸惑いながらも、超一流の施術に心が満たされていく優紀。
そして、玲伊への恋心はいっそう募ってゆく。
玲伊はとても優しいが、それは親友の妹だから。
そんな切ない気持ちを抱えていた。
プロジェクトがはじまり、ひと月が過ぎた。
書店の仕事と〈リインカネーション〉の施術という二重生活に慣れてきた矢先、大問題が発生する。
突然、編集部に上層部から横やりが入り、優紀は「シンデレラ・プロジェクト」のモデルを下ろされることになった。
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