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王太子同士
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プリムローズが宮殿の離れに来てから二ヶ月が経ち、日に日に冬の寒さが感じられるようになってきた。
「では、本殿に行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
大きな地図を小脇に抱えたサミュエルとマルクスは、その日宮殿で国王以下主要な大臣や宰相達との会議に出席することになっていた。
二人を見送ったプリムローズは、テーブルの上の食器を片付けながらレイチェルに聞いてみる。
「ねえ、レイチェル。今日の会議はどんな内容なの?」
「おそらく軍事的な作戦会議ですわ。サミュエルの話ですと、北のギルガ王国の攻撃が激しくなっているそうです。我がカルディナ王国は、国境警備隊を強化したおかげでそこまで激しく侵略されておりませんが、同じく北に位置する、ギルガ王国の隣のシルベーヌ国が、ギルガに激しく攻め入られているようなのです」
「まあ!シルベーヌ国が?」
シルベーヌは、海に面した広大な領地に畑や牧場が多くあり、家畜や農作物、漁業で自給自足を実現している豊かな国だ。
国王も平和主義者で、国民も幸せな暮らしを送っている印象だった。
「あのシルベーヌ国が、ギルガに攻撃されているというの?」
「ええ。シルベーヌ国は少子高齢化が進み、戦える若者が少なくなっています。人口も減り、軍事力は圧倒的にギルガの方が上です。そこに付け入って、ギルガは一気にシルベーヌに攻め入り、広大なあの土地を我が物にしようとしているそうですわ」
なんてこと…と、プリムローズは言葉を失う。
「私の知らないところでそんなことが…。ではシルベーヌの国民は、今も不安に怯えた日々を過ごしているのね」
「はい。王太子殿下はその状況を目の当たりにして、何とかギルガを止めたいと、今日の会議で提案されるようです」
「そう…」
プリムローズは、先程見送ったマルクスの姿を思い出す。
(キリッと表情を引き締めていらしたマルクス様を、私はなんと呑気に笑って見送ってしまったのかしら)
己の行いが恥ずかしくなり、何か少しでも自分にできることはないものかと考えを巡らせる。
だがいくら考えても、自分の無知と無能さに打ちのめされるばかりだった。
*
「ギルガとシルベーヌの状況は分かった。それで?マルクスは一体どうするつもりなのだ?」
広い会議室に集まった面々を前に、国王はマルクスに尋ねる。
「はい。我が国の国境警備隊を更に多くこの付近に配置し、ギルガがシルベーヌに攻め入るのを少しでも阻止したいと考えます。具体的には、カルディナ、ギルガ、シルベーヌ、三カ国の国境のこの位置に軍隊を配置し、ギルガの軍を制圧します。そうすることで、ギルガのシルベーヌへの侵略も防げるかと」
すると初老の宰相が不機嫌そうに顔をしかめた。
「なぜシルベーヌの為に我々が手助けせねばならんのだ?勝手にギルガをシルベーヌに侵略させれば良いものを。目障りな国同士が争って弱っていくのを、高みの見物しているのが我が国の得策ではないか」
マルクスは、グッと拳を握りしめて気持ちを落ち着かせてから口を開く。
「シルベーヌ国は平和主義の国です。戦争を望んでいません。軍事力もギルガよりはるかに劣り、このままではあっという間に国の全土がギルガに制圧されてしまいます」
「別に良いではないか。なあ?皆の者」
宰相が皆を見渡し、大臣達も品のない笑みを浮かべた。
小さく息を吸って冷静さを保ちながら、マルクスは言葉を続ける。
「シルベーヌの領土は、我が国の二倍。ギルガの三倍あります。その広大な土地が全てギルガのものになれば、それは我がカルディナにとっても大きな脅威となり得るでしょう。農業や酪農、漁業で自給自足しているシルベーヌから、我が国も多くの食料品を仕入れており、数字にするとおよそ五十%近くがシルベーヌからの輸入です。その一切を絶たれてしまえば、カルディナの国民は、明日の食べ物にすら困るでしょう」
皆は急に顔を伏せ、静けさが広がった。
やがて国王がゆったりと口を開く。
「よく分かった。マルクスの案で事を進めよう。各大臣達は、マルクスの指示に従うように」
「御意!」
国王の鶴の一声でその場の全員が頷いた。
マルクスがホッと胸をなで下ろしていると、最後に国王は意外なことを告げた。
「マルクス。しばらくカルロスと一緒に行動してくれ」
え?と、マルクスは驚いて国王の隣に座るカルロスを見る。
同じように驚いているところを見ると、カルロスも寝耳に水だったのだろう。
「父上!一体なぜそのような…」
「カルロス、お前ももうすぐ二十歳だ。この国のありとあらゆる現実を、己の目で確かめておきなさい。一国の王となるつもりがあるならな」
鋭い視線で釘を刺され、カルロスは押し黙って唇を噛みしめていた。
*
「マルクス」
会議を終えて部屋を出ると、後ろから呼び止められてマルクスは振り返る。
カルロスがニヤリとしながら近づいてきた。
金髪を肩まで伸ばし、仕立ての良いジャケットとピカピカに磨かれた先の尖った靴。
いかにもモテそうな王太子、といった雰囲気で、ゆったりとマルクスの前に立ちはだかる。
「これからしばらくよろしく頼むよ。乗り気でないのはお互い様だろ?俺だって嫌だよ、お前と行動を共にするなんて。だが、次期国王になる俺にとっては避けて通れない。仕方なく我慢するよ」
そしてマルクスの肩に手を載せ、嫌味を含んで耳元でささやく。
「よろしく、兄上様」
フッと笑いを残して去っていくカルロスの後ろ姿を、マルクスは無言で見つめていた。
*
「それでは行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ、マルクス様、サミュエル。どうぞお気をつけて」
「ああ」
見送りのプリムローズとレイチェルに頷くと、マルクスとサミュエルは手綱をさばいて馬を走らせる。
今日はいつもとは違い、まず本殿の方へと向かった。
広場に面した大きな扉の前で馬を降り、カルロスを待つ。
他にも大勢の軍服を着た近衛隊員が、カルロスを待ち構えていた。
やがて侍女が開けた扉から、真っ白なロングブーツとロイヤルブルーのジャケット姿のカルロスが姿を現した。
その場にいる全員が一斉に頭を下げる。
「お待たせー」
軽くそう言うと、カルロスは毛並みの良い白馬に近寄り、側近から手綱を受け取る。
そして側近が組んだ両手に左足を載せてから馬に跨った。
(一人で乗ることすらできないのか)
マルクスは心の中でため息をついた。
これでは、カルロスの馬術も期待できそうにない。
「それではまいります」
マルクスはサッと馬に跨ると、すぐさま走らせ始めた。
いつもなら全速力で馬を駆るが、今日はその半分ほどのスピードにした。
さり気なく後ろを見ると、カルロスは必死の形相で手綱を握っている。
どうやらこのスピードでもついていくのは精一杯らしい。
「サミュエル」
「はっ!」
呼ばれてサミュエルは、すぐにマルクスの隣に馬を寄せた。
「この調子では、到着するのは夕刻になる。悪いが先に行って、場を整えておいてもらえるか?」
「かしこまりました」
キリッとした表情で小さく頷くと、サミュエルは一気にスピードを上げ、あっという間に見えなくなった。
*
パッカパッカとまるで子どものお馬のおけいこのように、一行はのんびり進む。
緊張感のかけらもない雰囲気で、一定のリズムに揺られながら、思わずマルクスは馬の上で居眠りしそうになった。
(はっ、いかん)
慌てて頭を振ると、跨っている愛馬のアンディがチラリとマルクスを振り返った。
マルクスは苦笑いしながら、ポンポンと首筋を軽く叩いて話しかける。
「悪いな、アンディ。明日は思い切り走らせてやるからな」
アンディはブルルと首を振ってから、また前を向いて大人しくゆったり走る。
予想通り、陽が傾き始めた頃に、ようやく一行はカルディナとシルベーヌの国境付近に到着した。
「殿下、こちらです」
随分先に到着していたらしいサミュエルは、国境の警備隊長や部隊長を集め、詰所で大きな地図を広げて待っていた。
既にひと通り説明も済ませてくれたらしく、地図には赤い印がいくつも書き加えられている。
「遅くなってすまなかった。サミュエルから既に聞いたと思うが、今後ギルガのシルベーヌ侵略を阻止する為、国境付近の警備を強化する。具体的には、この赤い印の地点だ。警備隊長、配置する部隊を選出してすぐにでも移動を開始してくれ」
「かしこまりました。その分、他の地点が手薄になってしまいますが?」
「明日から宮殿の近衛隊の部隊を何隊かここに派遣する。最低限必要な人数を見繕ってくれ」
「ただちに」
そしてマルクスは、宮殿からカルロスを警備しながらついてきた近衛隊の隊長を振り返る。
「ここの現場の様子をよく見ておいてくれ。その上でここに配置する近衛隊の部隊を選出して欲しい」
「ですが、近衛隊はこういった戦いの最前線は慣れておりません。皆、尻込みして嫌がるかと…」
「すぐには戦力にならなくとも良い。今ここにいる国境警備隊も、最初はみんなそうだった。少しずつ彼らにならって動けるようになってくれればいい」
「はあ…」
気の抜けた返事をする近衛隊長に、国境警備隊の隊長がため息をつく。
マルクスはさりげなくその肩を叩いた。
「すまないが、初めのうちは辛抱してくれ。私もできるだけ毎日顔を出すようにする」
「マルクス様がそこまでなさらなくとも…。分かりました、わたくしにお任せください。なーに、ビシビシ鍛えてあっという間に先鋭部隊に仕上げてみせますとも」
「それは頼もしいな。よろしく」
互いに頷き合うと、マルクスは詰所を出てシルベーヌの国境へと向かう。
今やすっかり顔馴染になったシルベーヌ国の警備隊長が近づいて来た。
「マルクス様」
「しっ!木陰へ」
「はい」
二人で、人目につかない大きな木の陰に隠れる。
「明日から我がカルディナ王国の国境警備を強化する。ギルガ王国がそちらに仕掛けてきたらのろしを上げてくれ。すぐに我々が応戦する」
「なんと!よろしいのですか?」
「ああ。堅苦しい話はまた後日、国王同士でやってもらおう。まずは現場からだ」
「かしこまりました。どうぞよろしくお願いいたします」
話を手短に終えると、マルクスは隊長と握手を交わしてから踵を返した。
*
「お帰りなさいませ!」
笑顔でエントランスに出迎えに来たプリムローズに、マルクスは思わず驚く。
「そなた、まだ起きていたのか?もう夜半過ぎだというのに」
「たまたま目が覚めたので。それよりマルクス様、早くお部屋の中へ。お身体を温めませんと」
ガウンを羽織ったプリムローズがマルクスを二階の部屋に促すと、レイチェルが暖炉を温めていた。
プリムローズはマルクスとサミュエルに温かいハーブティを淹れる。
「お食事は?何か召し上がりましたか?」
「いや、何も」
「それなら、スープとパンと果物をお持ちします。サミュエルも、ここで待っていて」
「え、あの…」
プリムローズはレイチェルと共に、いそいそと部屋を出て行く。
声をかけそびれたマルクスは、サミュエルと一緒にジャケットを脱いでソファに座った。
「どうぞ、召し上がってください」
「ありがとう」
温かいミネストローネをひと口飲むと、心の底からホッとして、マルクスは思わず息をつく。
「美味しいな」
「ふふっ、よかったです。マルクス様、オレンジとヨーグルトもどうぞ」
「ああ、ありがとう」
よほど空腹だったのか、マルクスもサミュエルもあっという間に平らげた。
ようやく人心地ついた様子の二人に、プリムローズとレイチェルも顔を見合わせて微笑む。
「それにしても、今夜はお帰りが遅くて心配いたしました。何かあったのですか?」
プリムローズが真剣に尋ねると、マルクスは苦笑いする。
「いや、大丈夫だ。何もない。ちょっとよちよち歩きのお坊ちゃまにつき合っていてね」
「はい?」
プリムローズは首を傾げてまばたきを繰り返す。
「そなたは気にするな。なんてことはない。それにここに帰ってくると、長旅の疲れも一気に吹き飛んだ」
「それならよかったのですが…」
まだ心配そうなプリムローズの頭に手をやり、マルクスは笑いかける。
「ほら、もう寝なさい。こんな夜更けにお子様が起きてちゃいけない」
「まあ!マルクス様。わたくしもうすぐ十八ですのに」
「充分お子様だよ。さ、早くベッドへ」
プリムローズはまだ何か言いたそうに、ふくれっ面で渋々立ち上がる。
「それでは、おやすみなさいませ。マルクス様」
「おやすみ、プリムローズ。良い夢を」
「はい。マルクス様も」
にっこり笑ってから部屋を出て行くプリムローズを、マルクスは優しい眼差しで見送った。
「では、本殿に行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
大きな地図を小脇に抱えたサミュエルとマルクスは、その日宮殿で国王以下主要な大臣や宰相達との会議に出席することになっていた。
二人を見送ったプリムローズは、テーブルの上の食器を片付けながらレイチェルに聞いてみる。
「ねえ、レイチェル。今日の会議はどんな内容なの?」
「おそらく軍事的な作戦会議ですわ。サミュエルの話ですと、北のギルガ王国の攻撃が激しくなっているそうです。我がカルディナ王国は、国境警備隊を強化したおかげでそこまで激しく侵略されておりませんが、同じく北に位置する、ギルガ王国の隣のシルベーヌ国が、ギルガに激しく攻め入られているようなのです」
「まあ!シルベーヌ国が?」
シルベーヌは、海に面した広大な領地に畑や牧場が多くあり、家畜や農作物、漁業で自給自足を実現している豊かな国だ。
国王も平和主義者で、国民も幸せな暮らしを送っている印象だった。
「あのシルベーヌ国が、ギルガに攻撃されているというの?」
「ええ。シルベーヌ国は少子高齢化が進み、戦える若者が少なくなっています。人口も減り、軍事力は圧倒的にギルガの方が上です。そこに付け入って、ギルガは一気にシルベーヌに攻め入り、広大なあの土地を我が物にしようとしているそうですわ」
なんてこと…と、プリムローズは言葉を失う。
「私の知らないところでそんなことが…。ではシルベーヌの国民は、今も不安に怯えた日々を過ごしているのね」
「はい。王太子殿下はその状況を目の当たりにして、何とかギルガを止めたいと、今日の会議で提案されるようです」
「そう…」
プリムローズは、先程見送ったマルクスの姿を思い出す。
(キリッと表情を引き締めていらしたマルクス様を、私はなんと呑気に笑って見送ってしまったのかしら)
己の行いが恥ずかしくなり、何か少しでも自分にできることはないものかと考えを巡らせる。
だがいくら考えても、自分の無知と無能さに打ちのめされるばかりだった。
*
「ギルガとシルベーヌの状況は分かった。それで?マルクスは一体どうするつもりなのだ?」
広い会議室に集まった面々を前に、国王はマルクスに尋ねる。
「はい。我が国の国境警備隊を更に多くこの付近に配置し、ギルガがシルベーヌに攻め入るのを少しでも阻止したいと考えます。具体的には、カルディナ、ギルガ、シルベーヌ、三カ国の国境のこの位置に軍隊を配置し、ギルガの軍を制圧します。そうすることで、ギルガのシルベーヌへの侵略も防げるかと」
すると初老の宰相が不機嫌そうに顔をしかめた。
「なぜシルベーヌの為に我々が手助けせねばならんのだ?勝手にギルガをシルベーヌに侵略させれば良いものを。目障りな国同士が争って弱っていくのを、高みの見物しているのが我が国の得策ではないか」
マルクスは、グッと拳を握りしめて気持ちを落ち着かせてから口を開く。
「シルベーヌ国は平和主義の国です。戦争を望んでいません。軍事力もギルガよりはるかに劣り、このままではあっという間に国の全土がギルガに制圧されてしまいます」
「別に良いではないか。なあ?皆の者」
宰相が皆を見渡し、大臣達も品のない笑みを浮かべた。
小さく息を吸って冷静さを保ちながら、マルクスは言葉を続ける。
「シルベーヌの領土は、我が国の二倍。ギルガの三倍あります。その広大な土地が全てギルガのものになれば、それは我がカルディナにとっても大きな脅威となり得るでしょう。農業や酪農、漁業で自給自足しているシルベーヌから、我が国も多くの食料品を仕入れており、数字にするとおよそ五十%近くがシルベーヌからの輸入です。その一切を絶たれてしまえば、カルディナの国民は、明日の食べ物にすら困るでしょう」
皆は急に顔を伏せ、静けさが広がった。
やがて国王がゆったりと口を開く。
「よく分かった。マルクスの案で事を進めよう。各大臣達は、マルクスの指示に従うように」
「御意!」
国王の鶴の一声でその場の全員が頷いた。
マルクスがホッと胸をなで下ろしていると、最後に国王は意外なことを告げた。
「マルクス。しばらくカルロスと一緒に行動してくれ」
え?と、マルクスは驚いて国王の隣に座るカルロスを見る。
同じように驚いているところを見ると、カルロスも寝耳に水だったのだろう。
「父上!一体なぜそのような…」
「カルロス、お前ももうすぐ二十歳だ。この国のありとあらゆる現実を、己の目で確かめておきなさい。一国の王となるつもりがあるならな」
鋭い視線で釘を刺され、カルロスは押し黙って唇を噛みしめていた。
*
「マルクス」
会議を終えて部屋を出ると、後ろから呼び止められてマルクスは振り返る。
カルロスがニヤリとしながら近づいてきた。
金髪を肩まで伸ばし、仕立ての良いジャケットとピカピカに磨かれた先の尖った靴。
いかにもモテそうな王太子、といった雰囲気で、ゆったりとマルクスの前に立ちはだかる。
「これからしばらくよろしく頼むよ。乗り気でないのはお互い様だろ?俺だって嫌だよ、お前と行動を共にするなんて。だが、次期国王になる俺にとっては避けて通れない。仕方なく我慢するよ」
そしてマルクスの肩に手を載せ、嫌味を含んで耳元でささやく。
「よろしく、兄上様」
フッと笑いを残して去っていくカルロスの後ろ姿を、マルクスは無言で見つめていた。
*
「それでは行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ、マルクス様、サミュエル。どうぞお気をつけて」
「ああ」
見送りのプリムローズとレイチェルに頷くと、マルクスとサミュエルは手綱をさばいて馬を走らせる。
今日はいつもとは違い、まず本殿の方へと向かった。
広場に面した大きな扉の前で馬を降り、カルロスを待つ。
他にも大勢の軍服を着た近衛隊員が、カルロスを待ち構えていた。
やがて侍女が開けた扉から、真っ白なロングブーツとロイヤルブルーのジャケット姿のカルロスが姿を現した。
その場にいる全員が一斉に頭を下げる。
「お待たせー」
軽くそう言うと、カルロスは毛並みの良い白馬に近寄り、側近から手綱を受け取る。
そして側近が組んだ両手に左足を載せてから馬に跨った。
(一人で乗ることすらできないのか)
マルクスは心の中でため息をついた。
これでは、カルロスの馬術も期待できそうにない。
「それではまいります」
マルクスはサッと馬に跨ると、すぐさま走らせ始めた。
いつもなら全速力で馬を駆るが、今日はその半分ほどのスピードにした。
さり気なく後ろを見ると、カルロスは必死の形相で手綱を握っている。
どうやらこのスピードでもついていくのは精一杯らしい。
「サミュエル」
「はっ!」
呼ばれてサミュエルは、すぐにマルクスの隣に馬を寄せた。
「この調子では、到着するのは夕刻になる。悪いが先に行って、場を整えておいてもらえるか?」
「かしこまりました」
キリッとした表情で小さく頷くと、サミュエルは一気にスピードを上げ、あっという間に見えなくなった。
*
パッカパッカとまるで子どものお馬のおけいこのように、一行はのんびり進む。
緊張感のかけらもない雰囲気で、一定のリズムに揺られながら、思わずマルクスは馬の上で居眠りしそうになった。
(はっ、いかん)
慌てて頭を振ると、跨っている愛馬のアンディがチラリとマルクスを振り返った。
マルクスは苦笑いしながら、ポンポンと首筋を軽く叩いて話しかける。
「悪いな、アンディ。明日は思い切り走らせてやるからな」
アンディはブルルと首を振ってから、また前を向いて大人しくゆったり走る。
予想通り、陽が傾き始めた頃に、ようやく一行はカルディナとシルベーヌの国境付近に到着した。
「殿下、こちらです」
随分先に到着していたらしいサミュエルは、国境の警備隊長や部隊長を集め、詰所で大きな地図を広げて待っていた。
既にひと通り説明も済ませてくれたらしく、地図には赤い印がいくつも書き加えられている。
「遅くなってすまなかった。サミュエルから既に聞いたと思うが、今後ギルガのシルベーヌ侵略を阻止する為、国境付近の警備を強化する。具体的には、この赤い印の地点だ。警備隊長、配置する部隊を選出してすぐにでも移動を開始してくれ」
「かしこまりました。その分、他の地点が手薄になってしまいますが?」
「明日から宮殿の近衛隊の部隊を何隊かここに派遣する。最低限必要な人数を見繕ってくれ」
「ただちに」
そしてマルクスは、宮殿からカルロスを警備しながらついてきた近衛隊の隊長を振り返る。
「ここの現場の様子をよく見ておいてくれ。その上でここに配置する近衛隊の部隊を選出して欲しい」
「ですが、近衛隊はこういった戦いの最前線は慣れておりません。皆、尻込みして嫌がるかと…」
「すぐには戦力にならなくとも良い。今ここにいる国境警備隊も、最初はみんなそうだった。少しずつ彼らにならって動けるようになってくれればいい」
「はあ…」
気の抜けた返事をする近衛隊長に、国境警備隊の隊長がため息をつく。
マルクスはさりげなくその肩を叩いた。
「すまないが、初めのうちは辛抱してくれ。私もできるだけ毎日顔を出すようにする」
「マルクス様がそこまでなさらなくとも…。分かりました、わたくしにお任せください。なーに、ビシビシ鍛えてあっという間に先鋭部隊に仕上げてみせますとも」
「それは頼もしいな。よろしく」
互いに頷き合うと、マルクスは詰所を出てシルベーヌの国境へと向かう。
今やすっかり顔馴染になったシルベーヌ国の警備隊長が近づいて来た。
「マルクス様」
「しっ!木陰へ」
「はい」
二人で、人目につかない大きな木の陰に隠れる。
「明日から我がカルディナ王国の国境警備を強化する。ギルガ王国がそちらに仕掛けてきたらのろしを上げてくれ。すぐに我々が応戦する」
「なんと!よろしいのですか?」
「ああ。堅苦しい話はまた後日、国王同士でやってもらおう。まずは現場からだ」
「かしこまりました。どうぞよろしくお願いいたします」
話を手短に終えると、マルクスは隊長と握手を交わしてから踵を返した。
*
「お帰りなさいませ!」
笑顔でエントランスに出迎えに来たプリムローズに、マルクスは思わず驚く。
「そなた、まだ起きていたのか?もう夜半過ぎだというのに」
「たまたま目が覚めたので。それよりマルクス様、早くお部屋の中へ。お身体を温めませんと」
ガウンを羽織ったプリムローズがマルクスを二階の部屋に促すと、レイチェルが暖炉を温めていた。
プリムローズはマルクスとサミュエルに温かいハーブティを淹れる。
「お食事は?何か召し上がりましたか?」
「いや、何も」
「それなら、スープとパンと果物をお持ちします。サミュエルも、ここで待っていて」
「え、あの…」
プリムローズはレイチェルと共に、いそいそと部屋を出て行く。
声をかけそびれたマルクスは、サミュエルと一緒にジャケットを脱いでソファに座った。
「どうぞ、召し上がってください」
「ありがとう」
温かいミネストローネをひと口飲むと、心の底からホッとして、マルクスは思わず息をつく。
「美味しいな」
「ふふっ、よかったです。マルクス様、オレンジとヨーグルトもどうぞ」
「ああ、ありがとう」
よほど空腹だったのか、マルクスもサミュエルもあっという間に平らげた。
ようやく人心地ついた様子の二人に、プリムローズとレイチェルも顔を見合わせて微笑む。
「それにしても、今夜はお帰りが遅くて心配いたしました。何かあったのですか?」
プリムローズが真剣に尋ねると、マルクスは苦笑いする。
「いや、大丈夫だ。何もない。ちょっとよちよち歩きのお坊ちゃまにつき合っていてね」
「はい?」
プリムローズは首を傾げてまばたきを繰り返す。
「そなたは気にするな。なんてことはない。それにここに帰ってくると、長旅の疲れも一気に吹き飛んだ」
「それならよかったのですが…」
まだ心配そうなプリムローズの頭に手をやり、マルクスは笑いかける。
「ほら、もう寝なさい。こんな夜更けにお子様が起きてちゃいけない」
「まあ!マルクス様。わたくしもうすぐ十八ですのに」
「充分お子様だよ。さ、早くベッドへ」
プリムローズはまだ何か言いたそうに、ふくれっ面で渋々立ち上がる。
「それでは、おやすみなさいませ。マルクス様」
「おやすみ、プリムローズ。良い夢を」
「はい。マルクス様も」
にっこり笑ってから部屋を出て行くプリムローズを、マルクスは優しい眼差しで見送った。
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また政略目的で結ばれたエルネスティーネを疎ましく思っていると、ジークヴァルトは恋人へ告げていた。
エルネスティーネとジークヴァルトの婚姻は王命。
覆す事は出来ない。
溝が深まりつつも結婚二日前に侯爵邸へ呼び出されたエルネスティーネ。
そこで彼女は彼の私室……寝室より聞こえてくるのは悍ましい獣にも似た二人の声。
二人がいた場所は二日後には夫婦となるであろうエルネスティーネとジークヴァルトの為の寝室。
これ見よがしに少し開け放たれた扉より垣間見える寝台で絡み合う二人の姿と勝ち誇る彼女の艶笑。
エルネスティーネは限界だった。
一晩悩んだ結果彼女の選んだ道は翌日愛するジークヴァルトへ晴れやかな笑顔で挨拶すると共にバルコニーより身を投げる事。
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