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新しい生活

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「プリムローズ様!いけません、わたくしがやりますから!」

窓の拭き掃除をしていたプリムローズに、レイチェルが駆け寄って止める。

「あら、レイチェル。もう忘れたの?私があなたに敬語を使うのをやめる代わりに、あなたは私のすることを止めない約束でしょう?」
「ですがいくらなんでも、プリムローズ様にこんなことはさせられません!」
「いいのよ。好きでやっているのだから」
「いいえ、いけません!」

二人はしばらく雑巾の奪い合いを繰り広げる。

数日前、プリムローズが王太子妃候補としてここに留まることになったとマルクスが告げると、レイチェルは大喜びした。

だがそれは表向きの話で、実際は使用人として仕えるのだとプリムローズが話すと、レイチェルは一転してそれを認めなかった。

「言ったでしょう?レイチェル。私は王太子妃候補のフリをしているだけだって」
「ですが、殿下はプリムローズ様に使用人の仕事をさせるなんて、ひと言もおっしゃってませんわ」
「だけど、私の好きなように過ごしていいと言ってくださったのよ?」
「ですからそれは!掃除ではなく、のんびり優雅にお茶でも飲んでお過ごしいただくという意味で…」

その時、窓の外から馬の蹄の音が聞こえてきて、二人は顔を見合わせる。

「殿下がお帰りになったわ!」

左腕のケガが治るやいなや、マルクスはサミュエルを連れて、また国境の視察に向かっていたのだった。

雑巾を放り出し、プリムローズとレイチェルは我先にと階段を下りてエントランスに出迎えに行く。

「プリムローズ様はお部屋でお待ちくださいませ」
「いいえ、私は使用人ですもの。お出迎えしなければ」
「ですから!プリムローズ様は使用人ではございません!」
「使用人だからここに住まわせていただいてるの!」

小競り合いをしながらエントランスに二人で並び、マルクスが馬から降りると、にこやかにお辞儀をする。

「お帰りなさいませ、殿下」
「ああ」

マルクスは馬の手綱をサミュエルに託し、屋敷の中に入る。

レイチェルとプリムローズは再び互いを牽制し合いながら、マルクスの行く先のドアを開けた。



「殿下、紅茶をどうぞ」

レイチェルがソファに座ったマルクスの前にティーカップを置くと、負けじとプリムローズも歩み寄る。

「マルクス様。よろしければこちらもどうぞ」

そう言ってプリムローズは、ガトーショコラを載せたケーキ皿をテーブルに置いた。

ティーカップを持つ手を止めて、マルクスは驚いたように言う。

「これは?ひょっとしてそなたが作ったのか?」
「はい。マルクス様はビターなチョコレートがお好きだとうかがったので、ほろ苦いガトーショコラを焼いてみました。わたくしの手作りなど気味が悪いとおっしゃるなら、すぐに下げます」
「いや、いただこう」

マルクスは皿を左手で持ち上げ、ゆっくりとフォークを入れた。

横に添えてある甘みの少ないホイップクリームを少し絡めてから口に運び、じっくりと味わう。

プリムローズは固唾を飲んで、マルクスの様子をじっと見守った。

「…美味しい」

小さく呟くマルクスに、プリムローズは嬉しそうに笑いかける。

「よかったです。お口に合いますか?」
「ああ。しっとりして口当たりもいいし、濃厚だが少し苦味もあって、好みの味だ」
「まあ!マルクス様、グルメ評論家のようにコメントがお上手ですのね」
「は?!」

プリムローズのセリフが意外過ぎたのか、マルクスは眉間にしわを寄せて怪訝な面持ちになる。

「この味がお好みでしたら、コーヒーとシナモンのパウンドケーキもきっとお好きかもしれません」

満面の笑みを浮かべるプリムローズにたじろぎつつ、マルクスは聞いてみる。

「それも、そなたが作れるのか?」
「ええ。わたくしの得意のお菓子、トップスリーのうちの二番目です」
「では一番目は?」
「オレンジ風味のフィナンシェです。すりおろしたオレンジの皮を混ぜて作ります」
「オレンジの?!それはぜひ食べてみたい」
「本当ですか?」
「ああ。オレンジは毎日欠かさず食べるほど好きなんだ」
「そうなのですね。でしたら、早速明日作りますわ。オレンジを使ったお菓子は他にも、オレンジグラニテやオレンジリキュールのレアチーズケーキなども作れます」
「なにっ?!それは絶対に食べてみたい」

真剣に身を乗り出すマルクスに、プリムローズは、ふふっと笑う。

「かしこまりました。ではこれから毎日、順番に作りますね」
「ああ、楽しみにしている」
「はい!」

プリムローズは嬉しそうにマルクスに頷いてみせた。



夜になり夕食を済ませると、プリムローズはマルクスの左腕の傷を消毒し、ガーゼを取り替える。

「まだ痛みはありますか?」

包帯を巻きながらプリムローズが尋ねると、マルクスは、いや、と首を振った。

「もうすっかり良くなった」
「それは何よりです。けれど、まだ無理はなさいませんように」
「ああ」

頷いてから、マルクスはプリムローズに目を向ける。

手際良く、丁寧に包帯を巻く伏し目がちのプリムローズは、表情も穏やかで美しく、マルクスは自然と目が離せなくなった。

包帯を巻き終わると、最後にプリムローズはそっと優しく両手で患部を包み込む。

(早く良くなりますように)

目を閉じて祈ってから、プリムローズは顔を上げてマルクスに微笑みかける。

微笑み返そうとするもうまく笑顔が作れず、マルクスは思わず視線をそらした。


プリムローズを妃候補として選んだ、と国王に伝えたおかげで、令嬢達の訪問がピタリとなくなり、マルクスはホッとしていた。

「そなたのおかげで助かった、プリムローズ」
「いえ、そんな。わたくしの方こそ、ここに置いていただいてありがとうございます。ですが本当にわたくし、国王陛下にご挨拶にうかがわなくてもよろしいのでしょうか?」

プリムローズはそのことがずっと気になっていた。

「大丈夫だ。俺からうまく言っておく。そなたは偽りの妃候補でいずれここを出て行くのだから、その必要はない」

マルクスの言葉になぜだか少し寂しくなりながらも、プリムローズは、ありがとうございますと頭を下げる。

マルクスは表情を引き締めて言葉を続けた。

「国王は俺に伯爵令嬢と結婚して、婿入りすることを望んでいたんだ。つまりここから追い出すのが目的だ。だが、俺は今ここを離れる訳にはいかない」

マルクスのその言葉の意味を、今のプリムローズは理解できる。

ここで過ごすうちに分かってきたことがあるからだ。

ここカルディナ王国は、戦争にも無縁で平和な国だと思っていたのだが、それは我が国の国境警備隊のおかげだったのだ。

国境を超えて侵略してこようとする敵を、国境警備隊が日々阻止している。

そしてマルクスは毎日あちこちの国境に赴き、隊員と共に戦い、的確に指示を出し、隊員達を鼓舞している。

マルクスのおかげで、隊員達も使命を持って任務に臨めるのだと、サミュエルが話していた。

(私はなんと無知で世間知らずだったのだろう。のほほんと呑気に暮らしていたのが恥ずかしい)

そう思いながら、プリムローズは毎日マルクスのサポートに尽くしていた。
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