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そばにいて欲しい

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コンコンとノックの音がして、真美は目を覚ます。
いつの間にか岳の隣に突っ伏して眠ってしまっていた。

「望月、俺だ」
「課長!今開けますね」

懐中電灯を手に、真美は玄関へ向かう。
スマートフォンで時間を確かめると、22時ちょうどだった。

ドアを開けると、肩で息をしながら疲れを滲ませた潤が立っている。

「ごめん、こんなに遅くなって」
「いえ、大変でしたね。どうぞ上がってください」
「ありがとう」

潤はほのかな明かりを頼りにベッドに近づき、眠っている岳の様子を見つめる。

「がっくん、お菓子とパンを食べて8時頃に寝ました。色々あって疲れたのか、ぐっすり眠ってます」
「そうか、本当にありがとう。望月がいてくれてどんなに助かったか」
「いいえ。課長、少し休憩してください。飲み物とパンを用意しますね」
「ありがとう」

潤はローテーブルの前のラグに腰を下ろし、キッチンに立つ真美の後ろ姿を目で追った。

ここに来る前に保育園に立ち寄り、園で一夜を過ごしている先生から話を聞いた。

どうやら真美は、会社からずっと走って来てくれたらしいこと。
岳は、友達のママが次々と迎えに来る中、ギュッと顔を引き締めて見送っていたこと。
やがて残されたのは自分一人になり、不安そうにしながらも気丈に振る舞っていたこと。
ようやく迎えに来た真美の姿を見た途端、駆け寄って抱きつき、ワンワン声を上げて泣き続けたこと。

「あんながっくん、初めて見ました。でも望月さんに気持ちをぶつけられて、受け止めてもらえて……。我慢せずに思い切り泣けて良かったです」

その言葉に、潤も心底良かったと思った。

(大きな地震があって、ママにも会えなくて……。その上俺の迎えがこんなに遅くなっていたのでは、岳はどうなっていたか。望月がいてくれて、本当に良かった)

はい、どうぞ、とテーブルに少しぬるいアイスコーヒーとパンを置いてくれる真美に、潤はありがとうと心から礼を言う。

「課長、今日は本当に大変でしたね」
「ん?ああ、そうだな。伊藤の件はなんとかなりそうだけど、まさかこんなに大きな地震が来るとは思ってもみなかった。社内はどんな様子だった?」
「オフィスは物が落ちて足の踏み場もなくなりましたけど、課のみんなは無事です。停電しましたが自家発電に切り替わって、紗絵さんが誘導して避難したと思います。私は先に帰らせていただきましたけど、今夜はみんな会社で過ごせば、毛布も食料もあって安心かと」
「そうだな。望月も本来ならそう出来たのに。ごめんな、岳の為にずっと走って保育園に向かってくれたんだろ?」
「ふふ、いざという時に頼れるのは己の足ですね。いい運動になりました。課長は?電車の中に閉じ込められたんですか?」

コーヒーを一気に飲み干してから、潤は頷く。

「ああ。緊急停止して、安全確認が取れるまでって、かなり長い時間閉じ込められた。徐行運転で近くの駅で降ろされたんだけど、そこからはバスもタクシーも拾えなくて。保育園の電話も繋がらないし、とにかく行けるところまで行こうって、俺も走った。都内に入った頃にようやくタクシーを拾えたんだけど、渋滞でなかなか進まなくてやきもきした」
「そうでしたか。本当にお疲れ様でした」
「望月こそ、大変な思いまでして岳を迎えに行ってくれてありがとう」
「いいえ。がっくんと、寝る前におしゃべりしたんです。とっても感動して、二人でうるうるしちゃって……」

ええ?!と潤は驚く。

「岳、地震が怖くて泣いたんじゃなくて?」
「はい、地震の話じゃないです。こころがぎゅーってなって、ぽかぽかして、なみだがじわーってなったって言ってました」

は?!とまたもや首をひねる。

「一体、どういう話の流れで?」
「んー、それは内緒です。でもがっくん、ママのことも課長のことも大好きで。二人に幸せになって欲しいって願っている、本当に心の優しい子です」

そう言って真美はベッドのそばへ行き、岳の顔を覗き込んで優しく頭をなでた。

愛おしそうな真美のその眼差しに、潤は目を逸らせなくなる。

その時だった。

ガタガタッとかすかな物音のあと、一気に大きな揺れが襲ってきた。
真美はハッとして辺りを見る。

(余震?大きい!)

これまで何度か小さな余震はあったが、今回は一番大きい。

グラグラと身体ごと揺さぶられる中、必死に耐えていると、潤が真美と岳を守るように覆いかぶさってきた。

「大丈夫だから」

耳元で囁かれる声に頷く。

大きな腕に抱きしめられ、その頼もしさに安心した。

やがてゆっくりと揺れが収まり、真美は岳の様子を見る。

よく眠っていて、揺れにも気づいていないようだった。

「望月も横になったら?俺が起きてるから」
「いえ、大丈夫です。課長こそお疲れでしょうから、がっくんの横で休んでください」
「男がそんな情けないこと出来ない。俺が望月と岳を守るから」

こんな時だというのに、真美はその言葉にドキッとしてうつむいた。

結局二人とも起きたまま、夜を過ごす。

「明日から、会社はどうなるんでしょうか?」
「とりあえず無理に出社する必要はない。非常事態だからな。まずは自分と家族の命、それから生活が最優先だ」
「はい」

懐中電灯の明かりの中、二人でポツポツと話を続ける。

「がっくんも、しばらくはそばで様子を見守った方がいいと思います」
「そうだな。心のケアが必要だろう。俺もそうするつもりだ」
「課長、お姉さんとは連絡取れましたか?」
「うん。なぜだか海外からかかってきた電話はすんなり繋がった。保育園にいる時にかかってきて、岳は無事だって伝えたよ」
「そうですか。心配されたでしょうね」
「ああ。すぐにでも帰国するっていうから、今帰って来ても交通網が混乱して身動きが取れないってやめさせた。それに数日帰国してまたいなくなったら、岳が困惑するしな」
「そうですね、確かに。がっくんが起きたらテレビ電話で話せるといいですね」

真美の言葉に頷いたあと、潤はうつむいてじっと何かを考え始めた。

「課長?どうかされましたか?」
「あ、うん。その……」

言い淀んでから、潤は思い切ったように顔を上げる。

「望月」
「はい」
「ごめん、情けないこと言う。俺を助けてくれないか?」

え?と真美は首を傾げた。

「助けるって、何をでしょう?」
「本来なら俺が一人で岳を守るべきだし、そのつもりだった。だけど単純に、岳が無事ならそれでいいって訳ではないと気づいたんだ。身体だけでなく、岳の心も守らなければ。それには俺の力だけでは足りない。岳の気持ちに誰よりも寄り添って、心を大切に守ってくれる望月が必要なんだ。頼む、望月。岳のそばにいて欲しい」

課長……と、真美は言葉もなく潤を見つめる。

「迷惑なのは分かっている。図々しいことをお願いして申し訳ない。せめて母親が帰国するまで、岳と一緒に暮らして欲しい」
「それは、私がこの部屋でがっくんを預かるということでしょうか?」
「いや、そんな丸投げはしない。望月が俺のマンションに来て、しばらく一緒に生活してくれないか?通いで来てくれるのでも構わない。ごめん、無茶なお願いだとは思うけど、考えてみて欲しい」

真美はしばし視線を逸らして考えてから頷いた。

「分かりました。そうします」

え!と潤が驚いて目を見開く。

「ほんとに?そんなにあっさり決めて大丈夫?」
「はい、大丈夫です。私もがっくんの為にそうしたいです。課長は伊藤くんの件もありますから、いつまでも出社しない訳にはいかないでしょう?だけどがっくんを保育園に戻すのは、慎重に様子をうかがいながらの方がいいと思うんです。最初は午前中だけとかにして、お友達と遊ぶ方が楽しいと思えるまでは様子見で。私は有給休暇がたくさん溜まってますから、この機会に消化して、がっくんと毎日一緒にいようと思います」
「そ、そんな。そこまでしてくれなくても」
「いえ、私がそうしたいので。ご迷惑ですか?」
「いや、とんでもない。すごくありがたいよ。でも望月は身内でもないのに、そこまでお願いするのは……」
「課長。血の繋がりなんて関係ないって、前にもお話しましたよね?がっくんは私の大切な子です」

潤は言葉を失う。
胸の奥がジンと痺れ、涙が込み上げそうになった。

先程真美から聞いた、岳のセリフを思い出す。

『こころがぎゅーってなって、ぽかぽかして、なみだがじわーってなった』

まさにこれだ。
潤はそう思った。

「ありがとう、望月。頼らせてもらってもいいかな?」
「もちろんです。そうさせてください」
「ありがとう、本当に……」

今、部屋が暗くて良かったと潤は思う。
きっと涙を堪えた情けない表情をしているから。

その時、あれ?と真美が不思議そうな声を出した。

「どうした?」

必死で真顔に戻し、潤は顔を上げる。

「外が明るいです。街灯が点いてる」
「え?本当だ」

ということは……と、二人で顔を見合わせてから、真美は立ち上がってキッチンの電気を点けてみた。

パッと明るくなって、おお!と二人は喜ぶ。

「停電、復旧しましたね。今エアコンつけます。あ、電気ケトルで温かいコーヒー淹れますね」
「俺が淹れるよ」

コーヒーを淹れると二人でローテーブルに戻って口をつけ、温かさにホッとした。

「電気と水道さえ大丈夫なら、生活もなんとかなるな。あ、俺のマンション、オール電化なんだ」
「そうなんですね!それならお料理も問題ないですね。たくさん作ります」
「はは!ありがとう。明日電車が動くようだったら、俺、少し出社してみるわ」
「分かりました。あー、ホッとしたら眠くなってきちゃった」
「少し休んでろ。体調崩したら大変だ」
「そうですね。じゃあ、ちょっとだけ」

真美は洗顔と歯磨きをして、部屋着に着替えてからベッドに入った。

「うふふ、がっくん可愛い。くっついて寝ちゃお」

小さく呟くと、ぴたりと岳に寄り添い、スーッと眠りに落ちていく。

岳と真美、二人の寝顔を見守っていた潤は、そのうちに真っ赤になって目を逸らした。

(やべ、まただ。なんだこれ?望月が彼氏に見せる顔を見ちゃった、みたいな……)

ドキドキしながら、またチラリと視線を向けてしまう。

無防備であどけない真美の寝顔に、隣で寝ている岳に嫉妬までしてしまった。

(岳と俺が入れ替わったら?こんなに可愛い顔を間近で見られるのかな)

想像して、更に真っ赤になる。

(いかん!またしても部下に対してなんてことを……。見てはならん。目を閉じるんだ)

潤は座禅を組む修行僧のように、じっと気持ちを落ち着かせていた。



「えっ、まみといっしょにくらすの?やったー!」

翌朝。
すっきりと目覚めた岳に、これから3人でマンションに帰ると話をすると、岳は飛び跳ねて喜んだ。

「岳、ほんのちょっとの間だけだぞ?ずっと一緒に暮らす訳じゃないからな」

潤が念を押すが、岳は「わかってるー」と言いながら真美と手を繋いでぴょんぴょんするばかりだ。

絶対分かってないだろ……、と潤は肩を落とした。

とにかく今は、岳に楽しく毎日を過ごしてもらいたい。
少しずつ元の生活に戻していければ。

そう潤と真美は話し合っていた。

保育園からは、必要であれば預かるが、出来れば家庭での保育をおすすめする、という一斉メールが届いた。

「岳の口から保育園の話が出るまでは、しばらく通わせるのは控えよう」

潤の言葉に真美も頷き、保育園にもそう連絡を入れる。

電車も始発から本数を減らして動いているようだったが、移動にはタクシーを使うことにした。

真美は旅行用のスーツケースに着替えや身の回りのものを詰めて、潤と岳と一緒にマンションに向かった。

「たっだいまー。まみ、こっちこっち」

潤のマンションに着くと、岳は嬉しそうに真美の手を引いてあちこち案内して回る。

「うがいとてあらいは、ここで。トイレはここ。おふろはこっち。で、ベッドはこのへや」

岳が寝室のドアをガチャッと開けると、後ろで潤が「あー!」と声を上げた。

「なんだよ、じゅん。おおきなこえだして」
「ごめん、望月。ちょっと散らかってて」

慌ててドアを閉めようとする潤に、真美はふふっと笑う。

「大丈夫です。今は地震でどのおうちも散らかってるでしょうから。あとでお掃除しておきますね。それより、課長。がっくんにママとテレビ電話させてあげては?」
「あ、そうだったな。岳、リビングに行こう。望月、シャワー使うか?」
「はい、お借りします」
「うん、タオルとドライヤーも適当に使って。あと、望月の部屋はこっち。普段は使ってないんだ。自由にしてくれていいから」
「ありがとうございます」

真美がバスルームに行くと、リビングから岳の嬉しそうな「ママー!」という声が聞こえてきた。

(良かった。がっくんもママも安心しただろうな)

そう思いながら広いバスルームで髪と身体を洗う。
ついでにお風呂掃除も済ませておいた。

服を着てドライヤーで髪を乾かしてから、リビングに戻る。

岳はテレビ電話を終えていて、潤が床に散らばったものを片づけていた。

「課長、お片付けやっておきますので、がっくんとお風呂どうぞ」
「ありがとう。岳、風呂入るか」

うん!と岳がバスルームへと向かい、潤もあとを追う。

真美は改めて部屋を見渡した。

日当たりのいいリビングは広く、ここだけで真美の部屋の2倍はありそうだ。

家具もシックで高級感に溢れ、センスの良さはさすが潤の部屋、といった感じがする。

ひとまず床に落ちている本などを棚に戻し、窓を開けて部屋の換気をした。

キッチンへ行くと、食器棚の扉が開き、いくつか食器が割れている。

(大変!がっくんがケガしちゃう)

真美はキョロキョロと辺りを見渡し、キッチンペーパーに食器の欠片を手で拾ってから包み、ビニール袋に入れて口を閉じた。

(掃除機、掃除機……)

壁一面が天井までの収納になっているようだが、勝手に開けて探すのもはばかられ、あとで聞いてからにしようと諦める。

他に岳がケガをしそうな箇所はないか確かめながら、キッチンを片づけていると、岳がパンツ1枚でリビングに現れた。

「まみー、おふろでた」
「お、良かったね。でも早くお洋服着ないと風邪引いちゃうよ。がっくんの服はどこにあるの?」
「ベッドのへやー」

岳と一緒に寝室に入ると、岳は慣れた様子でクローゼットを開けて、引き出しから服をポイポイと取り出す。

「がっくん、これだとどっちもズボンだよ。上は?」
「あ、そっか。こっち」

引き出しの上段から黒いトレーナーを取り出し、岳はもぞもぞと着る。

「おー、かっこいいね!」
「そう?」
「うん。がっくん、黒似合うよ」
「まあな。おとこはくろのイメージだからな」

ふふっと真美が思わず笑った時、ガチャリとドアが開いて、腰にバスタオルを巻いただけの潤が入って来た。

うわっ!と驚いて、潤は慌ててドアを閉める。

「す、すみません、課長。すぐに出ますね」
「あ、ああ。ごめん。知らなくて」
「いえ、私こそすみません。じゃあ、ドア開けます」

真美はそっとドアを開けて潤がいないのを確かめると、そそくさとリビングに戻った。

(あー、びっくりした。それにしても課長って、あんなにがっしりしてたんだ)

いつも洗練された雰囲気でスーツを着こなしているから、てっきり細身でスタイルがいいと思っていたが、上半身は肩や胸の辺りも筋肉がしっかりついていた……、ような気がした。

(頭の中に残像が……。だめだめ!)

ぽわんと先程の潤の姿が思い出され、慌てて首を振っていると、着替え終わった岳がリビングに入って来るのが見えて我に返る。

「がっくん、ちょっと待って。食器が割れて床に散らばってるの。足で踏んだらケガしちゃうから掃除機かけるね」
「うん、わかった。そうじき、ここ」

岳に教えられた扉を開けて掃除機を取り出すと、ここにいてねと岳に伝えてから、真美はキッチンで掃除機をかけ始めた。

「ん?ああ、ひょっとして皿が割れてた?」

シャツとスラックスに着替えた潤が声をかけてくる。

「はい。課長もちょっと下がっててくださいね。細かい破片が飛び散ってるかもしれませんから」

そのまま真美はリビングも掃除機をかけることにした。

掃除を終えると、真美は冷蔵庫を開けてもいいかと潤に尋ねる。

「ああ、どうぞ。ご自由に」
「ありがとうございます。お昼ご飯の準備しますね」

だが冷蔵庫の中はスカスカで、真美は、うーん……と頭を悩ませる。

「ごめん。料理してないのがバレバレだな」
「いいえ。とりあえず今あるものでなんとかするのが主婦の技ですから。まあ、見ててください」
「ははっ、頼もしい」

真美は冷蔵庫から卵と牛乳を取り出して混ぜ合わせると、食パンの耳を切り落として半分に切ってから卵液に浸した。

次に玉ねぎを細かくみじん切りにしてから、飴色になるまでじっくりとバターで炒め、水を足してコンソメで味付けする。

煮詰めている間にハムを取り出し、縦に3等分してからくるくると巻いて、つまようじを刺した。

フリーザーを確認すると冷凍のミックス野菜があり、耐熱容器にブロッコリーやニンジンを並べ、とろけるチーズを載せる。

トースターに入れ、その横に先程切り落とした食パンの耳も並べて焼いた。

玉ねぎのコンソメスープを容器に入れて、カリッと焼いたパンの耳を浮かべると、冷蔵庫の奥にあったモッツァレラチーズを載せて再びトースターに入れる。

その間に卵液に浸しておいた食パンを、フライパンでバターたっぷりに焼いた。

「ご飯にしますよー」と声をかけると、潤と岳がダイニングテーブルにやって来た。

「おおー、いい匂いだな」
「うん!まみ、ごはんなに?」

真美は二人の前に次々と皿を並べる。

「はい、まずはフレンチトースト。それからこっちはオニオングラタンスープ。ブロッコリーとニンジンのチーズ焼きと、バラのお花のハム」

うわー!と二人は目を見張った。

「このバラ、食べられるの?」
「ええ、ハムですから。今盛りつけますね」

潤と岳のフレンチトーストの皿の端に、真美はつまようじを抜いたバラのハムを2つずつ並べ、その横にチーズで焼いた野菜も添えた。

岳は目を丸くして、じーっとハムを見つめている。

「ハムのバラ?え、バラとハム、どっちなの?」
「ふふっ、どっちもだね。ハムだし、バラなの」

真美の言葉に、岳はキョトンとする。 

「なんか、ふしぎなきぶん」
「そう?じゃあ、不思議なバラのハム、食べてみて」
「たべてもいいの?だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ」

いただきますと手を合わせると、岳はそっとハムを手に取り、じっくり眺めてからパクッと口に入れた。

「うん、ハムのバラ、おいしい!」
「良かった。フレンチトーストも食べてね」

真美はフォークとナイフで岳のフレンチトーストを小さく切り分ける。

「柔らかいから、がっくんでも切れるよ。
やってみる?」
「うん!」

立ち上がると真美は岳の後ろに立ち、手を添えて一緒に切っていく。

「上手!あとは一人でやってみてね」
「わかった。これでおれもセレブだな」

セレブー?!と真美はおかしくて笑ってしまう。

「いやでも、ほんとにセレブな気分だよ。まるでホテルの食事みたいだ」

潤がしみじみと言い、いただきます、とまずはオニオングラタンスープから食べ始めた。

「うまい!なんだこれ?食べたことない美味しさ」
「そうですか?レストランで食べたことありません?オニオングラタンスープ」
「あるけど、なんか粉末スープみたいにうっすーい味付けだったよ。それにこのチーズ!いい仕事してんなー」
「多分、課長のワインのお供のモッツァレラチーズかと思いますが、使わせていただきました」
「どうぞどうぞ。立派になったなー、お前」

チーズに語りかける潤に、真美はまたしても笑い出す。

「もう、課長もがっくんもおもしろ過ぎます。食事くらいでこんなに盛り上がるなんて」
「だってこんなにすごいんだもん。そりゃ、感激するよな、岳?……って、聞いてないな」

岳はほっぺたいっぱいに次々とフレンチトーストを頬張っては、真剣にナイフで切っている。

「ふふっ、良かった。がっくん、気に入ってくれたみたいで」
「それはもう!俺が用意する食事とは雲泥の差だからな。あー、望月が帰ったあとの岳の落ち込みが想像出来る。今から胃が痛いな」

顔をしかめてからまたスープを口にし、うまい!と潤は目を輝かせる。

真美も頬を緩めてから、食事の手を進めた。



「望月、ちょっとだけ会社に顔出してくるわ」

食後のコーヒーを飲むと、潤はソファから立ち上がって真美に声をかけた。

「分かりました。気をつけて行ってきてくださいね」
「ああ。なるべく早く帰ってくる。岳のこと、よろしく頼むな」
「はい、お任せください」
「ありがとう。それから、玄関の合鍵はこれ。食料品はこのタブレットで注文すれば、玄関先まで届けてくれる。地震の影響でいつもより時間はかかると思うけど。なんでも好きなものを頼んで」

ええー、すごい!と真美は驚きつつタブレットを受け取った。

「まみ、おれがつかいかた、おしえてやるからな。おかしは、ここからえらぶの。ジュースはここで、アイスはこれ。プリンはここで……」

おいおいと、岳の様子に潤は苦笑いを浮かべる。

「岳、何のパーティーだよ?まったく」
「ふふ、いいじゃないですか。がっくん、パーティーしようね!」

うん!と岳は嬉しそうに頷く。

「それじゃあ、行ってくる」

スーツの上からコートを着て玄関を出て行く潤を、真美と岳は「いってらっしゃーい!」と笑顔で見送った。



「あ、五十嵐くん!わざわざ来てくれたの?」

各駅停車で徐行運転している電車で会社に着くと、ぐちゃぐちゃの部屋の中で紗絵が一人、片付けをしていた。

「ごめん、今までほったらかしで。大丈夫だったか?」
「ええ。課のメンバーはみんな無事よ。ここで一晩過ごして、電車が動き始めてから帰って行ったわ。しばらくは大事な仕事がなければ、なるべく自宅でテレワークにするようにって部長から言われて、各自パソコンを持ち帰ったの。五十嵐くんも持って帰ってね」
「分かった。色々、ありがとうな。あとは俺がやるよ」

そう言って紗絵を帰らせると、潤は片付けをしてから他のオフィスを覗いてみた。

別の部署の部長を見かけ、挨拶をしてから状況報告をする。

「今は東京中の会社が混乱してるから、無理に仕事を進めなくていいよ。しばらくは大きな余震が来るかもしれないから、なるべく社員は出社させない方がいい。基本的にはテレワークで。五十嵐くんもね」
「承知しました。ありがとうございます」

それでは失礼しますとお辞儀してからオフィスに戻り、潤は自分のパソコンと真美のパソコンの両方を鞄に入れてマンションへと急いだ。
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