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勘違い

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「おはようございます、課長」

次の日。
オフィスに入って来た潤に、デスクにいた社員達は明るく挨拶する。

「おはようございます」

いつも通り真っ直ぐ奥の自分のデスクに向かう潤を、真美はそっと横目で追う。

(やっぱりいつもより遅い出社。前まではもっと早くにいらしてたもんね。保育園にお子さん預けてから出勤されたんだろうな。大変そうだな)

そう思っていると、席に座った潤がふと視線を上げた。
目が合ってしまい、真美は慌てて視線を逸らす。

(わ、まずい。露骨に目を逸らしちゃった。課長、私が余計なことしゃべらないか、心配されてるだろうな)

真美はもう一度潤と目を合わせ、大丈夫ですよー、と意味ありげに笑ってみせる。
潤はヒクッと顔を引きつらせた。

(ご安心ください。わたくし、誰にも言いませんから)

今度は真顔で訴えてみる。
更に顔を引きつらせる潤に大きく頷いてから、真美はデスクに向かってパソコンを立ち上げた。

気持ちを切り替えて通常通りの業務を始める。

真美達の職場は、大手商社のビジネスソリューション事業部。
企業が抱える課題や問題を、システムやノウハウなどの様々な方法で解決する部署で、真美達が所属するのはIT技術を用いて業務効率の向上や生産性をアップさせるITソリューション課だった。

具体的には、クライアント情報のデータベース化や社内コミュニケーションツールの開発、社内研修の為のEラーニングの導入などで企業に寄り添い、顧客満足度のアップにも努めている。

IT関連の部署とあって比較的若いメンバーが顔を揃えているが、その中でも課長の潤は、システムエンジニアだけでなくプログラマーとしての役割もこなせるほどプログラミング言語の知識に長けていた。

クライアントからヒアリングを行い、どういったシステムを作れば問題解決に繋がるかを提案し、システムを設計する。
そして実際にそのシステムをプログラミングするまでを一人で行えるほど優秀な逸材だ。

真美はそこまでの技術には遠く及ばず、クライアントとの窓口や、もっぱらシステムのテスト作業でミスやバグの修正をしていた。

パソコンに向き合う時間が大半だがチームワークも大切で、一つの問題解決の為に同じ意識を共有し、互いに意見を出し合っていく。

上司であろうが部下であろうが、皆は対等な立場だと認識して欲しい、といつも潤は課のメンバーに話していた。

その為オフィスはいつも活気づいていて、誰もが気軽に話しかけたり質問したりと風通しも良い。

(五十嵐課長が率先してみんなに声をかけてくれるおかげだろうな。イケメンだし頼れるし、そりゃモテるよねー)

キーボードを打つ手止めて、真美はチラリと視線を向ける。

ひと回り大きな課長のデスクで、モニターに目をやりながら真剣にパソコンを操作している潤は、整った顔立ちと爽やかな雰囲気で、いかにも仕事が出来るかっこいい男、といった感じだ。

(それにしても昨日はびっくりしたな。あんな小さなお子さんと手を繋いで……。職場では見せないパパの姿よね)

課長、と若手社員に声をかけられ、資料を一緒に見ながら伏し目がちに話している潤を、真美はじーっと見つめて考える。

(でもさ、あれよね。毎日保育園の送り迎えを一人でするなんて、課長、大丈夫なのかしら。これから先、ずっと定時で上がれる?お子さんが熱を出した日に、大事なクライアントとの打ち合わせがあったらどうするの?)

思い返してみると、おそらく保育園の送り迎えを始めたのは2週間くらい前からだ。

(その頃から課長の出社が遅くなって、残業もしなくなったもんね。これまではなんとかなっても、仕事が立て込んできたらさすがに……)

そこまで考えた時、視線に気づいたのか潤が不意に顔を上げた。

うひゃっ!と真美は首をすくめて慌ててパソコンに向き直る。

カタカタと手を動かしていると、社員と話を終えた潤が椅子から立ち上がり、ドアへと歩いていく。

真美の後ろを通り過ぎる時に「望月、ちょっと」という言葉を残して……



「お、お呼びでしょうか?」

廊下に出ると、真美は少し先を歩いて行く潤に足早に近づき、声をかける。

「そこの会議室でいい?」
「は、はい」

ドアが開け放たれた会議室に真美を促し、潤はプレートを『使用中』に変えてからドアを閉めた。

パタンとかすかな音がしたあと、シン……と部屋が静まり返る。

席に座るでもなく、真美はドキドキしながらうつむいていた。

(ううっ、よく考えたら課長と二人切りになるなんて初めてかも?)

潤は敢えて女性社員と会議室で二人切りにならないようにしていたし、真美達他の社員もその気遣いを知っている。

何か大事な話がある時に会議室に呼ばれることはあっても、ドアは閉めずに少し開けたままにしてくれていた。

そのドアが今は、パタリと閉じられている。

真美は事の重大さを感じて、ゴクリと喉を鳴らした。

「望月、あのな」
「はい!大丈夫です」

直立不動で声を張る真美に、潤はヤレヤレとこめかみを指で押さえる。

「何が大丈夫なんだ?俺、まだ何も言ってないけど?」
「私も何も言っておりません!これからも言いません!どうぞご安心を」
「だから何を?別に俺、言われて困ることなんてないけど?」

えっ!と真美は思わず潤の顔を見上げる。

「そ、そうですよね。何も隠す必要なんてないですよね。だって課長は、男手ひとつで立派に息子さんを育てていらっしゃるんですもの。それなのに私、勝手に失礼な考え方をして……。申し訳ありませんでした。岳くんにも謝らないと。ごめんなさい」

頭を下げる真美に大きなため息をついてから、潤は椅子を引いた。

「座って」
「は、はい。失礼します」

二人で長机を挟んで向かい合う。

「あのな、望月。昨日の子……、岳は俺の子じゃない。姉の子どもだ」

……は?と真美は、上ずった声で返事をする。

「課長のお姉さん、ですか?」
「そう。つまり岳は俺の甥っ子だ。姉はシングルで子育てしてるんだけど、海外に出向してる3か月間だけ預かってるんだ」
「そうだったんですか」

真美は半分ポカンとしたまま頷いた。

「うん。別に隠してる訳じゃないけど、自分から言い出す必要もないかと思って。それに、まあ、なんだ。昨日は望月に、会社とは違う一面を見られて、ちょっと焦ってな」
「確かに。岳くんと手を繋いでる課長のパパの姿って、なんだか新鮮でした」
「いやだから、父親じゃないってば」
「あ!そうでしたね。すみません」
「まあ、いいけど」

潤は背もたれに身体を預けて言葉を続ける。

「なんか誤解してるんだろうなーって思ってた。望月、朝から妙に俺のことチラ見してただろ?妄想たくましく、あれこれ勘違いしてるんだろうなって思ってさ。まあ、望月は噂を立てるようなことはしないだろうけど、ああも露骨に視線を送って来られるとなあ。さすがに居心地悪い」
「あ、お気づきでしたか。すみません」
「気づくだろ?普通。しかも目が合うと、慌ててすっとぼけた顔するし」
「すっとぼけた?!」
「そう。あたふたしてから、シラーッと澄ました顔すんの。こんな感じ」

潤が真顔で視線を逸らして宙を見つめると、真美は思わず吹き出した。

「あはは!課長、その顔!」
「笑うだろ?ほんとにこんな顔だったんだからな、望月」
「嘘ですよー」
「ほんとだって!あんなの何度もやられたら、俺のポーカーフェイスも崩れる。これでも俺、会社では結構がんばってキャラ作ってるんだ。ってことで、早めに釘刺しておこうと思ってな。話は以上だ」

意外なセリフに、真美はへえーと驚く。

「課長、あのキャラ作ってたんですね?仕事が出来るキリッとイケメン。社内の女子は虜になってますよ。でも課長のイメージが崩れる前にお話聞けて良かったです。崩壊したキャラも見てみたかったですけど」
「見んでいい」
「ふふっ。じゃあ、またあの保育園の前でばったり会えるのを楽しみにしてますね」
「だから、見んでいいってば!」

ムッとした表情を浮かべてから、潤はバツが悪そうに立ち上がる。

「ほら、仕事に戻るぞ」
「はい」

真美も笑顔で席を立った。

ドアを開けて会議室を出ると、「お?潤!」と声がして二人は振り返る。

隣のネットワークソリューション課の課長、平木ひらきがニヤニヤと近づいて来るのが見えた。

「なんだなんだ?みーちゃった。潤、望月ちゃんと二人で何やってたのー?」

潤と同期の平木は、いつも明るく面白い性格から、潤とはまた違う魅力でファンの女性社員も多い。

背も高いし、黙って真面目な顔をしていればなかなかかっこいい、と真美の周りの女子達も話していた。

今はニヤけた顔で、ふざけた小学生男子のように潤の肩を抱いているが……

「別に。仕事の話に決まってるだろ」

潤が平木の手を解きながら答えると、平木は「ほんとにー?」と潤の顔を覗き込む。

「いつも女の子と二人の時はドアを閉めないジェントルマンな潤くんが?今はバチコン閉めてましたよね?なーにやってんだか?ねえ、望月ちゃん」

急に振り返られ、真美は慌てる。 

「いえ、あの。本当にお仕事のお話を……」
「へえ、二人とも手ぶらで?」

うぐ、鋭い……と真美は思わずたじろぐ。

「ま、いいや。今日のところは見逃してあげよう。望月ちゃん、今度俺とも密室で仕事の話しような」
「バカ!何言ってんだ、お前は」

咎める潤をサラリとかわしてから、じゃあねー!と軽く手を挙げて平木は去って行った。



「あれ?真美、どこ行ってたの?」

デスクに戻ると、向かいの席から先輩の紗絵さえが声をかけてきた。
潤や平木と同期の29歳で、課長補佐を務めている紗絵はスラリとスタイルが良く、ロングヘアが似合う美人だ。

「あ、えっと、ちょっと課長に呼ばれまして」
「え?五十嵐くんに?珍しいわね」
「あ、はい。ところで何かありましたか?紗絵さん」
「私は何も。真美は?」
「え?私も何も……。あっ、いえ。課長とは、午後のクライアントとの打ち合わせの件で確認をですね」

手元の資料をバサバサとめくりながら取り繕うと、紗絵は、ふーん、と意味ありげに真美を見つめる。

「あ!言い忘れたことがあったのを思い出しました。ちょっと課長と話してきます」

大事な確認事項を思い出し、真美は今度こそ仕事の話をしに潤のデスクに向かった。



「うん。この資料を先方に渡して構わない。じゃあ、このクライアントとの打ち合わせは望月に任せる。俺は別の新規の案件で打ち合わせが同じ時間に入ってるんだ。望月、一人で大丈夫か?」

真美が渡した資料に目をやってから、潤は顔を上げて尋ねた。

「はい。このクライアントとは何度か打ち合わせをして既に方針も同意をいただいてますし、今日は進捗状況を確認するだけですから、問題ないと思います」
「よし。頼むな」
「はい」

頷いてから資料を受け取り、真美は席に戻る。

そのあとはいつものように業務に集中した。

昼休みを挟み、14時半に会議室でクライアントとの打ち合わせに入る。

打ち解けた雰囲気で和やかに雑談してから、真美は現在開発中のアプリケーションやシステムについて、詳しく説明した。

「現在8割ほど構築出来ています。今月中には完成させ、動作テストを行います。その後実際に使い心地を確かめていただきながら、修正していければと」
「承知しました。実際に使うのを楽しみにしていますね」

先方の女性社員とにこやかに打ち合わせを終え、エントランスで見送ってから、真美はデスクに戻った。

「紗絵さん、打ち合わせ終わりました」
「お疲れ様。五十嵐くん、ついさっきクライアントがいらして打ち合わせに入ったわよ」
「そうなんですね。では課長には後ほど打ち合わせ内容をご報告します」

そう言ってから、真美は時計を見る。
ちょうど16時になるところだった。

(新規のクライアントだから、時間かかっちゃうかな?でもさすがに定時までには終わるよね)

そう思いながら、真美はパソコンに向かって仕事を進めた。



「遅いわね、五十嵐くん。打ち合わせ長引いてるのかしら」

紗絵が呟く声が聞こえて、真美は顔を上げる。

時計を見ると、定時の18時を過ぎていた。

「ほんとですね、2時間以上経ってる」

そこまで言って、真美はハッとした。

(課長、保育園のお迎えは?間に合うのかな?)

急にソワソワと落ち着かなくなる。

(あの保育園って、確か7時までだったような気がする。課長、間に合う?遅くともあと20分後にはここを出ないと)

今か今かと待っていても、潤は一向に姿を現さない。

(あと5分で出ないと。絶対無理だ)

真美は意を決すると立ち上がり、紗絵に声をかけた。

「紗絵さん。私、課長とクライアントにコーヒーをお持ちしますね。そのあとそのままお先に上がらせていただきます」
「うん、分かった。ありがとねー、真美」
「はい。それでは失礼します」
「お疲れ様ー」

周りの社員達にも挨拶すると、真美は鞄を手に急いで給湯室に行く。

(確か、クライアントはお二人よね?)

コーヒーを3人分淹れるとトレーに載せ、手帳を破いてペンを走らせてからすぐさま会議室に向かった。

「失礼いたします。コーヒーをお持ちしました」
「どうぞ」

ノックしてから声をかけ、静かにドアを開けて中に入る。

やはり打ち合わせは時間がかかっているようで、机の上にはたくさんの資料が広げられていた。

真美はまずクライアントの前にコーヒーを並べてから、潤の前にも置く。

そして潤が目を落としている資料の横に、さり気なくメモ用紙を滑らせた。

『がくくんのお迎えは私が行きます』

チラリと目をやった潤が驚いたように顔を上げる。

真美はしっかり頷いてみせると、失礼いたしました、とお辞儀をして会議室を出た。
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