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白昼夢
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木曜の午後というものは、いつも決まって気怠く微睡み、まるで白昼夢の真っ只中にいるような気配を漂わせていた。
エマは右手を口に添えて小さく欠伸をすると、読んでいた本をおもむろに閉じ、ティーカップを手に取り一口飲んだ。
自分で淹れた紅茶はいくらか苦味が強く、纏わり付くような芳香の余韻を舌の上で持て余す。
いつもエマのために、美味しい紅茶を淹れてくれるユーリの姿は見当たらない。
昼過ぎから父親の代理として他の地区へ行っており、夕方まで帰らない予定だった。
統治者であるワーグナー家。
セキュリティに問題はない。
万が一何かあれば、屋敷の周囲に配備されたアースター社の自立型機械たちが、次期当主であるエマの元へ素早く駆け付けるだろう。
けれどもエマはユーリ以外の自立型機械と極力、話したくなかった。
決して嫌っているのではなく、単にユーリと外見や声がよく似ているからだった。
むしろエマは自立型機械に対して、人並み以上に関心を寄せていた。
乙女心は複雑なのだ。
大昔から人々は、あらゆるものを擬人化してきた。
エマも他人からすれば自立型機械でしかないユーリを、特別な人間として認識している。
そのことを誰かに知られて否定されるのを、エマは密かに恐れていた。
たまには一人も気楽でいいものね、と考えながら無意識のうちに後ろを振り返る。
しかし、ユーリが姿勢正しく控えていない事実に改めて気がつくと、何とも言いようのない空虚感に苛まれた。
首を横に振り、気を取り直して本を開いてみたが、文字を目で追っても内容が頭の中でぎこちない動きをするだけだった。
それらをどうにか追い出して、壁に掛けてある時計を仰ぎ見る。
時針と分針が三の数字の上で重なりそうになっていた。
エマは朝も昼も軽く食事をしただけだった。
今日はあまり食欲がなかったのだ。
せめて夕飯くらいはきちんと食べなければ、と自分に言い聞かせる。
迷子の小鳥の世話をしてから数回、ユーリの力を借りずに料理をしてみた。
お世辞にも美味しいとは言えない出来栄えだったが、ユーリはエマを根気強く見守り、エマの努力を心から褒めてくれた。
だから今日の夕飯は、ユーリのために満足のいく料理を作りたかった。
もっとも、彼は食事を取る必要がないのだけれど。
エマはYUR-5と初めて出会った日を思い出す。
まだ幼児だったエマはユーリを一目見るなり、彼の中に慈しみの片鱗が潜んでいるのを本能的に感じ取った。
出荷されたばかりのユーリは精密に計算された柔和な表情で佇んでいたが、エマが屈託のない笑顔を浮かべながらぷくぷくとした両腕をめいっぱいに伸ばすと、彼女の小さな体をそっと抱き上げ優しく微笑んだ。
あの日以来、幼いエマにとってユーリは父であり母であった。
一緒に過ごせない両親に代わり、彼はエマの善き保護者として、また善き友人として彼女の成長を献身的に支えてくれた。
ユーリに抱かれながら初めて眺めた白詰草の絨毯、春の庭園で歌うように咲き誇る色とりどりのチューリップ、揺蕩う海月と優雅に舞う海亀たちとの遊泳、二人で見上げた煌く冬の大三角。
ユーリとの思い出全てが白昼夢のようにエマを柔らかく包み込み、体の芯から彼を愛おしく感じるのと同時に、胸の奥が蝕まれるように鈍く疼いた。
いつから自分にとってユーリがかけがえのない存在になったのか分からなかったが、この想いが恋だということは既に自覚していた。
夢見がちな少女にとって恋とは砂糖菓子のように甘く、幸せの最中にいるものであるとばかり想像していたが現実は真逆で、人知れず恋い慕うエマをより一層苦しめ、悲劇のヒロインへと仕立て上げる。
使用人であるユーリにとって、自分は与えられた命令のひとつでしかないのに。
この気持ちを彼に伝えたらどうなるだろう?
きっと困惑させるに違いない。
それでも想いの全てをユーリに曝け出して保護されるべき子どもでは無く、特別な人として見られることを強く望んでいた。
互いの鼓動を感じるような熱い抱擁を交わし、その後は二人きりで――エマは思わず顔を赤らめながら俯く。
いつまでも純粋な子どものままでありたい自分と、境界線を越えて行こうとする自分が磁石のように互いを引き離しては再び引き寄せ、エマの中でせめぎ合っていた。
不意に下腹部の辺りが微かにチクリと痛むのを感じ、それがもうすぐ始まるのを感じ取ると、エマは境界線を越える時がやって来たのを自ずと悟った。
誰しも少しずつ大人になるのでは無く、ある日を境にありふれた少女から一人の女性へと変移するのだろう。
エマにとって、今がそうに違いなかった。
無邪気に笑う子どもの姿をした自分が、永遠に戻ることの許されない彼方へ走り去ってゆくのを静かに見届けると、エマはマホガニー色の瞳を揺らしながら二、三度ゆっくり瞬きをした。
(――さあ、これで私の白昼夢はおしまい)
ユーリが屋敷へ帰って来たら「お帰りなさい」と笑顔で迎えるけれども、彼の知っているエマはすっかり居なくなってしまったことに、おそらく気づくことはないだろう。
だからほんの少しばかり、潤んだ瞳にこの想いを映し出してユーリを見つめたかった。
今はそれだけでいい。
ただ彼のそばに居れさえすれば。
胸に秘めた想いを伝えるのは、もう少し後にしよう。
エマは僅かに憂いを帯びた表情で笑むと、椅子から立ち上がり化粧室へと向かった。
今夜つは星が見えるだろうか。
エマは右手を口に添えて小さく欠伸をすると、読んでいた本をおもむろに閉じ、ティーカップを手に取り一口飲んだ。
自分で淹れた紅茶はいくらか苦味が強く、纏わり付くような芳香の余韻を舌の上で持て余す。
いつもエマのために、美味しい紅茶を淹れてくれるユーリの姿は見当たらない。
昼過ぎから父親の代理として他の地区へ行っており、夕方まで帰らない予定だった。
統治者であるワーグナー家。
セキュリティに問題はない。
万が一何かあれば、屋敷の周囲に配備されたアースター社の自立型機械たちが、次期当主であるエマの元へ素早く駆け付けるだろう。
けれどもエマはユーリ以外の自立型機械と極力、話したくなかった。
決して嫌っているのではなく、単にユーリと外見や声がよく似ているからだった。
むしろエマは自立型機械に対して、人並み以上に関心を寄せていた。
乙女心は複雑なのだ。
大昔から人々は、あらゆるものを擬人化してきた。
エマも他人からすれば自立型機械でしかないユーリを、特別な人間として認識している。
そのことを誰かに知られて否定されるのを、エマは密かに恐れていた。
たまには一人も気楽でいいものね、と考えながら無意識のうちに後ろを振り返る。
しかし、ユーリが姿勢正しく控えていない事実に改めて気がつくと、何とも言いようのない空虚感に苛まれた。
首を横に振り、気を取り直して本を開いてみたが、文字を目で追っても内容が頭の中でぎこちない動きをするだけだった。
それらをどうにか追い出して、壁に掛けてある時計を仰ぎ見る。
時針と分針が三の数字の上で重なりそうになっていた。
エマは朝も昼も軽く食事をしただけだった。
今日はあまり食欲がなかったのだ。
せめて夕飯くらいはきちんと食べなければ、と自分に言い聞かせる。
迷子の小鳥の世話をしてから数回、ユーリの力を借りずに料理をしてみた。
お世辞にも美味しいとは言えない出来栄えだったが、ユーリはエマを根気強く見守り、エマの努力を心から褒めてくれた。
だから今日の夕飯は、ユーリのために満足のいく料理を作りたかった。
もっとも、彼は食事を取る必要がないのだけれど。
エマはYUR-5と初めて出会った日を思い出す。
まだ幼児だったエマはユーリを一目見るなり、彼の中に慈しみの片鱗が潜んでいるのを本能的に感じ取った。
出荷されたばかりのユーリは精密に計算された柔和な表情で佇んでいたが、エマが屈託のない笑顔を浮かべながらぷくぷくとした両腕をめいっぱいに伸ばすと、彼女の小さな体をそっと抱き上げ優しく微笑んだ。
あの日以来、幼いエマにとってユーリは父であり母であった。
一緒に過ごせない両親に代わり、彼はエマの善き保護者として、また善き友人として彼女の成長を献身的に支えてくれた。
ユーリに抱かれながら初めて眺めた白詰草の絨毯、春の庭園で歌うように咲き誇る色とりどりのチューリップ、揺蕩う海月と優雅に舞う海亀たちとの遊泳、二人で見上げた煌く冬の大三角。
ユーリとの思い出全てが白昼夢のようにエマを柔らかく包み込み、体の芯から彼を愛おしく感じるのと同時に、胸の奥が蝕まれるように鈍く疼いた。
いつから自分にとってユーリがかけがえのない存在になったのか分からなかったが、この想いが恋だということは既に自覚していた。
夢見がちな少女にとって恋とは砂糖菓子のように甘く、幸せの最中にいるものであるとばかり想像していたが現実は真逆で、人知れず恋い慕うエマをより一層苦しめ、悲劇のヒロインへと仕立て上げる。
使用人であるユーリにとって、自分は与えられた命令のひとつでしかないのに。
この気持ちを彼に伝えたらどうなるだろう?
きっと困惑させるに違いない。
それでも想いの全てをユーリに曝け出して保護されるべき子どもでは無く、特別な人として見られることを強く望んでいた。
互いの鼓動を感じるような熱い抱擁を交わし、その後は二人きりで――エマは思わず顔を赤らめながら俯く。
いつまでも純粋な子どものままでありたい自分と、境界線を越えて行こうとする自分が磁石のように互いを引き離しては再び引き寄せ、エマの中でせめぎ合っていた。
不意に下腹部の辺りが微かにチクリと痛むのを感じ、それがもうすぐ始まるのを感じ取ると、エマは境界線を越える時がやって来たのを自ずと悟った。
誰しも少しずつ大人になるのでは無く、ある日を境にありふれた少女から一人の女性へと変移するのだろう。
エマにとって、今がそうに違いなかった。
無邪気に笑う子どもの姿をした自分が、永遠に戻ることの許されない彼方へ走り去ってゆくのを静かに見届けると、エマはマホガニー色の瞳を揺らしながら二、三度ゆっくり瞬きをした。
(――さあ、これで私の白昼夢はおしまい)
ユーリが屋敷へ帰って来たら「お帰りなさい」と笑顔で迎えるけれども、彼の知っているエマはすっかり居なくなってしまったことに、おそらく気づくことはないだろう。
だからほんの少しばかり、潤んだ瞳にこの想いを映し出してユーリを見つめたかった。
今はそれだけでいい。
ただ彼のそばに居れさえすれば。
胸に秘めた想いを伝えるのは、もう少し後にしよう。
エマは僅かに憂いを帯びた表情で笑むと、椅子から立ち上がり化粧室へと向かった。
今夜つは星が見えるだろうか。
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