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62.暗闇の中で
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宰相の男は王城の執務室で項垂れていた。このところ眠れていないのだ。
「……本当に、大丈夫だろうか」
二日後に迫った観覧討伐の日程を確認しながら、ぼそりと声に漏らす。言い知れぬ不安が消えず、背を丸めてしまう。
会場となる闘技場の修繕計画も、それに掛かる費用も稟議を決裁したのは自分だというのに、直前になって恐怖心がじわじわと押し寄せてきている。
ほんの数ヵ月前まで、不死魔獣と言えば誰にとっても恐怖の対象であった。自国に聖剣が顕現したという事実に歓喜し浮ついていた感情が、思考を麻痺させ、随分と気が大きくなっていたのだという自覚が、今ではある。
宰相の男は代々宮中の要職を担ってきた伯爵家の出だ。自身の能よりも家の力でこの職に就いている事は、誰よりも自分がよく理解していた。北部に不死魔獣の大量発生が起こる以前は、国は穏やかな時勢にあり、己に際立った才は無くとも、波風は立てずに国の安寧を維持する日々を過ごしていた。それで満足していたはずだった。
──狂ってしまったのだ、私も、陛下も。
今になってそんな事を頭の片隅で思い始めたのは、目の前に置かれた陳情書のせいだ。
王都大教会の司教と半数近い聖職者が行方不明になっている。その知らせが補佐から届いたのはほんの数日前の事だった。騎士団では相手にされず、巡り巡って補佐官がたまたま聞きつけたのだという。
王国騎士団長を務めるディラン・アグレアス・ジエメルドに問うても、返って来た言葉は騎士団の回答と同じだった。
──あの男を……本当に信用してもいいのだろうか。
今この段に聖職者の大量失踪を見逃すなど、正気とは思えなかった。疑惑の芽は、聖剣に浮かれた熱を鎮めて行く。だが今頃それに気付いたところで何もかも遅いのだという予感もしていた。
自身が宰相を務める代に歴史に残る奇跡を得た、その華々しい事実に浮かれ、大きな過ちを犯してしまった気がして背にぞわりと悪寒が走る。
ほんの少し前まで自分の中にあった思考が恐ろしくて堪らない。聖剣は他国を牽制する鍵にもなる──アグレアス伯に囁かれた言葉に、王と共に目を輝かせたのは自分自身だ。
全て自覚するにはまだ遠く、恐ろしくもあった。それでも宰相職にある以上は、今感じる不安を見過ごすでなく、打てる手を打っておくべきだと己に言い聞かせた。
「……すまないが、王太子殿下にご伝言を。内密でな。それからお前は殿下と行動しなさい」
宰相補佐を呼びつけると、そう告げた。国王は今も尚、聖剣とアグレアスの言動にすっかり心酔していて、この期に及んで宰相の懸念など届きはしないだろう。国内の有力貴族のうち、誰が息の掛からぬ者か精査する時間も無い。
頼みの綱に思い浮かんだのは、まだ幼さの残る王太子の顔だった。
──殿下なら、上手くいけばベレスフォルド侯爵家も動かせる……。
それから宰相は執務室の机に肘をついて頭を抱えた。もしこの予感が当たって何かあるとすれば、自分は王と一蓮托生だろう。その意味するところを飲み込んで肩を震わせた。
◆◆◆
ディラン・アグレアス・ジエメルドは、王都にある公爵邸で部下と共に伝令兵から報告を受けていた。
平素は悠然としているその表情に、少しばかり苛立ちを見せている。
「……いまさら新たな聖剣が現れたところで、あれがどうにかなるとは思えませんが。邪魔をされるのは面倒ですね」
北部ジエメルド公爵領から届いた報せは、アグレアスの想定を些か上回っていた。
「試作の方は防御機構がありませんでしたから、時間を掛ければ対処されてしまうのは予想出来ます。大方、報告にあった落雷が彼らに好機を与え、利用されたのでしょう。仕方ありませんね」
こんな時には、情報伝達の遅い世を疎ましく思う。離れた土地で起きた出来事は、他者の目と耳を通じてしか確認が出来ない。見た者の知識と見解に影響され、そこに人が介すれば無意識の解釈で歪む。伝わる過程で情報の欠落を排する事が出来ない為に、その精度を欠いてしまう。
「いずれ、『不死の泥』が国を覆えば、こんな煩わしさも解消されるでしょう」
窓の外に目をやり暗闇の中に広がる王都を眺めてそう呟く。
「女神が信仰を失えば、いずれ脅威では無くなりますが。今の段階ではやはり、先に魔法使いを始末してしまった方が確実でしたか」
「申し訳ありません、閣下……あの後も、ジエメルド領に居るのであればと、そちらから配下の手を回したのですが、どうしたわけか想定外に時間が掛かっておりまして……」
部下の沈む声に、アグレアスは溜息を吐いた。
「例の村でさえ、我々では辿り着く事が出来ないのです。恐らく魔法使い自身にも、あれに似た忌々しい力が働いているのでしょう」
アグレアスは息を吐くと、いつも見せている穏やかな表情を浮かべる。
「手遅れだと知って、絶望していただくほかありませんね。まぁ、打てる手は打ちますが。聖剣が今あったところで、邪魔は出来ても完全な排除などは出来ないでしょうから。そうなればもう、完全に不死化した覇者の支配する世に切り替わるだけですよ」
どうせ間に合わずに全て終わるのだと、笑みを浮かべる。
「……本当に、大丈夫だろうか」
二日後に迫った観覧討伐の日程を確認しながら、ぼそりと声に漏らす。言い知れぬ不安が消えず、背を丸めてしまう。
会場となる闘技場の修繕計画も、それに掛かる費用も稟議を決裁したのは自分だというのに、直前になって恐怖心がじわじわと押し寄せてきている。
ほんの数ヵ月前まで、不死魔獣と言えば誰にとっても恐怖の対象であった。自国に聖剣が顕現したという事実に歓喜し浮ついていた感情が、思考を麻痺させ、随分と気が大きくなっていたのだという自覚が、今ではある。
宰相の男は代々宮中の要職を担ってきた伯爵家の出だ。自身の能よりも家の力でこの職に就いている事は、誰よりも自分がよく理解していた。北部に不死魔獣の大量発生が起こる以前は、国は穏やかな時勢にあり、己に際立った才は無くとも、波風は立てずに国の安寧を維持する日々を過ごしていた。それで満足していたはずだった。
──狂ってしまったのだ、私も、陛下も。
今になってそんな事を頭の片隅で思い始めたのは、目の前に置かれた陳情書のせいだ。
王都大教会の司教と半数近い聖職者が行方不明になっている。その知らせが補佐から届いたのはほんの数日前の事だった。騎士団では相手にされず、巡り巡って補佐官がたまたま聞きつけたのだという。
王国騎士団長を務めるディラン・アグレアス・ジエメルドに問うても、返って来た言葉は騎士団の回答と同じだった。
──あの男を……本当に信用してもいいのだろうか。
今この段に聖職者の大量失踪を見逃すなど、正気とは思えなかった。疑惑の芽は、聖剣に浮かれた熱を鎮めて行く。だが今頃それに気付いたところで何もかも遅いのだという予感もしていた。
自身が宰相を務める代に歴史に残る奇跡を得た、その華々しい事実に浮かれ、大きな過ちを犯してしまった気がして背にぞわりと悪寒が走る。
ほんの少し前まで自分の中にあった思考が恐ろしくて堪らない。聖剣は他国を牽制する鍵にもなる──アグレアス伯に囁かれた言葉に、王と共に目を輝かせたのは自分自身だ。
全て自覚するにはまだ遠く、恐ろしくもあった。それでも宰相職にある以上は、今感じる不安を見過ごすでなく、打てる手を打っておくべきだと己に言い聞かせた。
「……すまないが、王太子殿下にご伝言を。内密でな。それからお前は殿下と行動しなさい」
宰相補佐を呼びつけると、そう告げた。国王は今も尚、聖剣とアグレアスの言動にすっかり心酔していて、この期に及んで宰相の懸念など届きはしないだろう。国内の有力貴族のうち、誰が息の掛からぬ者か精査する時間も無い。
頼みの綱に思い浮かんだのは、まだ幼さの残る王太子の顔だった。
──殿下なら、上手くいけばベレスフォルド侯爵家も動かせる……。
それから宰相は執務室の机に肘をついて頭を抱えた。もしこの予感が当たって何かあるとすれば、自分は王と一蓮托生だろう。その意味するところを飲み込んで肩を震わせた。
◆◆◆
ディラン・アグレアス・ジエメルドは、王都にある公爵邸で部下と共に伝令兵から報告を受けていた。
平素は悠然としているその表情に、少しばかり苛立ちを見せている。
「……いまさら新たな聖剣が現れたところで、あれがどうにかなるとは思えませんが。邪魔をされるのは面倒ですね」
北部ジエメルド公爵領から届いた報せは、アグレアスの想定を些か上回っていた。
「試作の方は防御機構がありませんでしたから、時間を掛ければ対処されてしまうのは予想出来ます。大方、報告にあった落雷が彼らに好機を与え、利用されたのでしょう。仕方ありませんね」
こんな時には、情報伝達の遅い世を疎ましく思う。離れた土地で起きた出来事は、他者の目と耳を通じてしか確認が出来ない。見た者の知識と見解に影響され、そこに人が介すれば無意識の解釈で歪む。伝わる過程で情報の欠落を排する事が出来ない為に、その精度を欠いてしまう。
「いずれ、『不死の泥』が国を覆えば、こんな煩わしさも解消されるでしょう」
窓の外に目をやり暗闇の中に広がる王都を眺めてそう呟く。
「女神が信仰を失えば、いずれ脅威では無くなりますが。今の段階ではやはり、先に魔法使いを始末してしまった方が確実でしたか」
「申し訳ありません、閣下……あの後も、ジエメルド領に居るのであればと、そちらから配下の手を回したのですが、どうしたわけか想定外に時間が掛かっておりまして……」
部下の沈む声に、アグレアスは溜息を吐いた。
「例の村でさえ、我々では辿り着く事が出来ないのです。恐らく魔法使い自身にも、あれに似た忌々しい力が働いているのでしょう」
アグレアスは息を吐くと、いつも見せている穏やかな表情を浮かべる。
「手遅れだと知って、絶望していただくほかありませんね。まぁ、打てる手は打ちますが。聖剣が今あったところで、邪魔は出来ても完全な排除などは出来ないでしょうから。そうなればもう、完全に不死化した覇者の支配する世に切り替わるだけですよ」
どうせ間に合わずに全て終わるのだと、笑みを浮かべる。
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