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43.這い寄るもの
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王都の北東、ウレリ川の流域を三日ほど北上したところに、小さな街があった。乗り合い馬車の駅があり、また王都に向かう行商人達の中継地として、規模こそ小さいながらも活気があり、栄えている。
しかし雨季の始まりの雨と共に、街には少しずつ、気味の悪い噂が流れ始めていた。
「……ねぇ、また変なものを見たって、子供が騒いでたんだけど」
「それより聞いたか? 川岸に気味の悪い動物の死体が流れ着いてたって話」
「ああ、聞いた聞いた、酷い匂いだったってね。街の憲兵が回収したって話だよ」
「なぁ、それって……もしかして、不死魔獣じゃないのか……?」
「まさか! 不死魔獣は聖騎士様が全て倒してくれたんだろ?」
「だけど王都の近くについこの間、成りそこないが出たって聞いたぜ」
その街の住民達は噂をしながら、不安げに空を見上げる。
二年近くの間、王国騎士団が北部で不死魔獣討伐をしているのは知っていたが、不死魔獣がこの街の近辺に出現した事は無く、こんな不気味な噂が流れた事も無かったのだ。
気のせいだ、そうに違いないと皆最後はそう口にするが、表情は晴れない。
「ねえ! また川を真っ黒いのが流れていったよ!」
川を眺める子供たちは、無邪気にそんな事を言う。母親らしき女が、川に近づかないように注意して家に連れて帰る姿を遠目に見ながら、住民達は不安の色を濃くしていた。
その光景を遠目に見ながら、街に立ち寄った行商人たちも浮かない顔をしていた。
「なんだか、どうも空気が変だなぁ……妙な胸騒ぎがする」
「商売人の勘ってやつかい?」
街の飯屋の軒先で腹ごしらえをしながら無駄話に興じていた、年老いた日用雑貨の行商人と、果物売りに、周囲に居た商人達も視線を寄越した。
「もうすぐ聖騎士と聖女様のご成婚の祝いで、稼ぎ時だろう? それなのにどうしたってんだい」
「……ああ、そういえばな、その聖女様の事で妙な話もあるんだ」
「あれか? 戦地から戻った聖職者も僧侶も、誰一人あの娘を聖女と呼ばないって」
まだ年若い行商人の男が眉を顰めて呟く。
「俺の姉ちゃん、僧侶で戦地に行ってたからさ、聖女様の事を聞いてみたんだ。そしたら、『あの方は見習い僧侶ですよ』って。それ以上の事は何も知らなくて、騎士達が勝手にそう呼んでただけだって言うんだよ」
「いやぁ、でも今、聖女様は王城で暮らしてるんだろ?」
「そういえば、教会もだんまりだな。てっきり、宣伝とか派手な事は好まないんだろうと思っちゃいたが」
商人達は顔を見合わせた。
「よくよく考えてみれば、聖女様の話は人の噂でしか聞いた事が無いんだよな……」
「いや、でもさ、それだけで王城にまで招いて生活させるなんて、流石に」
「そうだな、確かジエメルド公爵が後ろ盾なんだよな」
「まぁ、聖職者や僧侶は、そもそもあまり人の噂話をしない連中だからな」
それで各々納得した素振りを見せて、その場の雑談は締めくくられはしたが、商人達の中にはそのまま考え込む者も居た。
◆◆◆
その頃、王城の一室で、エミリーはマリアンヌからいくつかの小瓶を手渡されていた。
「聖水を作る、ですか……?」
「はい、王都教会からの要望です。一部、北部の索敵から外れた不死魔獣が、川を下って流れ着いているという噂がございまして。念のため、警戒の為に聖水を多く用意したいのでご協力を、とのことですよ」
相変わらず微笑みを浮かべているマリアンヌに、エミリーは作り笑いを浮かべた。
──ええ、聖水作るの、苦手なんだけどなぁ……。
それでも断る口実が咄嗟に思い浮かばずに、水の入った小瓶を受け取る。それから、手早く済ませてしまうために、浄化魔法を使おうと瓶に指先をかざした。
「……あれ? マリアンヌ様、これって、もう清められてません……?」
「いえ、瓶を司祭様から受け取って、つい先ほどわたくしの侍女が王城の井戸で汲んできたものですよ」
「え? そうです、か……」
エミリーはそれを聞いて、背筋に嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。
通常、清められる前の水は、浄化魔法の発動により黒くもやのようなものが見えるようになる。それはどんな水の中にも大抵ある『穢れ』だとか『瘴気』と呼ばれるものだ。それを浄化する事で水に加護が移される。
エミリーはもう一度、瓶に手をかざしてみた。
──うそ……、なんで……?
体温が急激に下がって行く気がした。瓶の中の水には何も見えず、手元には何も発現出来ない。
様子の少しおかしいエミリーを見て、マリアンヌが不思議そうな顔をしている。
「マリアンヌ様、えっと、ごめんなさい。ちょっと今、体調が、悪いみたいで……」
「まぁ、それは気付かずに失礼いたしました。このところ淑女教育に時間を取られ過ぎていましたものね」
マリアンヌは穏やかな声で続けた。
「その聖水は、急ぎのものでは無いようでしたから。しばらくお休みになってから、時間のある時に作っていただければ問題ありませんよ」
「はい……。ええっと、今日は、女神様にお祈りしながら、お休みしていてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。祈りの時間も大切ですものね」
にこやかに快諾するマリアンヌと別れて、エミリーは駆け出すように王城にある聖堂に向かう。
──ずっと、ちゃんと祈ってなかったから?? やだ、うそでしょ、今さら……。
心のうちに焦りを抱えたまま聖堂に入ると、女神像に向かい、椅子に座って目を瞑り、両手を組む。
そうして、自分に加護の力が戻る事を必死に祈った。
しかし雨季の始まりの雨と共に、街には少しずつ、気味の悪い噂が流れ始めていた。
「……ねぇ、また変なものを見たって、子供が騒いでたんだけど」
「それより聞いたか? 川岸に気味の悪い動物の死体が流れ着いてたって話」
「ああ、聞いた聞いた、酷い匂いだったってね。街の憲兵が回収したって話だよ」
「なぁ、それって……もしかして、不死魔獣じゃないのか……?」
「まさか! 不死魔獣は聖騎士様が全て倒してくれたんだろ?」
「だけど王都の近くについこの間、成りそこないが出たって聞いたぜ」
その街の住民達は噂をしながら、不安げに空を見上げる。
二年近くの間、王国騎士団が北部で不死魔獣討伐をしているのは知っていたが、不死魔獣がこの街の近辺に出現した事は無く、こんな不気味な噂が流れた事も無かったのだ。
気のせいだ、そうに違いないと皆最後はそう口にするが、表情は晴れない。
「ねえ! また川を真っ黒いのが流れていったよ!」
川を眺める子供たちは、無邪気にそんな事を言う。母親らしき女が、川に近づかないように注意して家に連れて帰る姿を遠目に見ながら、住民達は不安の色を濃くしていた。
その光景を遠目に見ながら、街に立ち寄った行商人たちも浮かない顔をしていた。
「なんだか、どうも空気が変だなぁ……妙な胸騒ぎがする」
「商売人の勘ってやつかい?」
街の飯屋の軒先で腹ごしらえをしながら無駄話に興じていた、年老いた日用雑貨の行商人と、果物売りに、周囲に居た商人達も視線を寄越した。
「もうすぐ聖騎士と聖女様のご成婚の祝いで、稼ぎ時だろう? それなのにどうしたってんだい」
「……ああ、そういえばな、その聖女様の事で妙な話もあるんだ」
「あれか? 戦地から戻った聖職者も僧侶も、誰一人あの娘を聖女と呼ばないって」
まだ年若い行商人の男が眉を顰めて呟く。
「俺の姉ちゃん、僧侶で戦地に行ってたからさ、聖女様の事を聞いてみたんだ。そしたら、『あの方は見習い僧侶ですよ』って。それ以上の事は何も知らなくて、騎士達が勝手にそう呼んでただけだって言うんだよ」
「いやぁ、でも今、聖女様は王城で暮らしてるんだろ?」
「そういえば、教会もだんまりだな。てっきり、宣伝とか派手な事は好まないんだろうと思っちゃいたが」
商人達は顔を見合わせた。
「よくよく考えてみれば、聖女様の話は人の噂でしか聞いた事が無いんだよな……」
「いや、でもさ、それだけで王城にまで招いて生活させるなんて、流石に」
「そうだな、確かジエメルド公爵が後ろ盾なんだよな」
「まぁ、聖職者や僧侶は、そもそもあまり人の噂話をしない連中だからな」
それで各々納得した素振りを見せて、その場の雑談は締めくくられはしたが、商人達の中にはそのまま考え込む者も居た。
◆◆◆
その頃、王城の一室で、エミリーはマリアンヌからいくつかの小瓶を手渡されていた。
「聖水を作る、ですか……?」
「はい、王都教会からの要望です。一部、北部の索敵から外れた不死魔獣が、川を下って流れ着いているという噂がございまして。念のため、警戒の為に聖水を多く用意したいのでご協力を、とのことですよ」
相変わらず微笑みを浮かべているマリアンヌに、エミリーは作り笑いを浮かべた。
──ええ、聖水作るの、苦手なんだけどなぁ……。
それでも断る口実が咄嗟に思い浮かばずに、水の入った小瓶を受け取る。それから、手早く済ませてしまうために、浄化魔法を使おうと瓶に指先をかざした。
「……あれ? マリアンヌ様、これって、もう清められてません……?」
「いえ、瓶を司祭様から受け取って、つい先ほどわたくしの侍女が王城の井戸で汲んできたものですよ」
「え? そうです、か……」
エミリーはそれを聞いて、背筋に嫌な汗が浮かんでくるのを感じた。
通常、清められる前の水は、浄化魔法の発動により黒くもやのようなものが見えるようになる。それはどんな水の中にも大抵ある『穢れ』だとか『瘴気』と呼ばれるものだ。それを浄化する事で水に加護が移される。
エミリーはもう一度、瓶に手をかざしてみた。
──うそ……、なんで……?
体温が急激に下がって行く気がした。瓶の中の水には何も見えず、手元には何も発現出来ない。
様子の少しおかしいエミリーを見て、マリアンヌが不思議そうな顔をしている。
「マリアンヌ様、えっと、ごめんなさい。ちょっと今、体調が、悪いみたいで……」
「まぁ、それは気付かずに失礼いたしました。このところ淑女教育に時間を取られ過ぎていましたものね」
マリアンヌは穏やかな声で続けた。
「その聖水は、急ぎのものでは無いようでしたから。しばらくお休みになってから、時間のある時に作っていただければ問題ありませんよ」
「はい……。ええっと、今日は、女神様にお祈りしながら、お休みしていてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。祈りの時間も大切ですものね」
にこやかに快諾するマリアンヌと別れて、エミリーは駆け出すように王城にある聖堂に向かう。
──ずっと、ちゃんと祈ってなかったから?? やだ、うそでしょ、今さら……。
心のうちに焦りを抱えたまま聖堂に入ると、女神像に向かい、椅子に座って目を瞑り、両手を組む。
そうして、自分に加護の力が戻る事を必死に祈った。
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