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4.小さな綻び②
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事前に話し合いがあった訳でもない、唐突とも言える夫婦の別離を切り出した場だとは思えないほどに、部屋の中は静まり返っている。
沈黙したまま、フローラは離縁状に署名した。
エリオットも無言のままそれを受け取り、言葉を掛けることもなくそのまま部屋を出る。
これには流石に随行していた周囲の騎士達でさえ戸惑っていたが、沈黙に支配された気まずい空気から逃げるように退出して行く。
──おい、結婚までした相手に、最後の一言も無しか、……正気かよ。
ケビンは驚愕と怒りで思わず口を開くが、重苦しい空気に気圧されて言葉が出ない。
唯一の幸いがあるとすれば、お陰でエミリーが余計な事は何も言えずに彼らと共に立ち去った事くらいだろう。
集団の後方に居たケビンは元から廊下に待機していて、扉越しに中の様子を窺っていた。呆気に取られるうちに皆退出し、簡素な長屋の扉がゆっくりと閉じてゆく。
エリオット以外で唯一、この場でフローラと面識があるケビンだが、無学な自分ではこんな時に掛けるべき言葉さえ見つからない。
動けないまま、閉まる扉の隙間から一瞬だけ垣間見た、フローラの何もかも諦めたような表情だけが目に焼き付いた。
──俺の記憶にある二人は、こんな冷めた関係じゃ無かったんたがなぁ……。
もう一度、閉じてしまった扉に視線を戻して、その先に居るフローラと、かつてのエリオットに思いを馳せた。
それから踵を返して、しょぼくれたように肩を落とし、集団の後を追う。
今も下級騎士のケビンが、この怒りのままにエリオットに抗議しようと、殴りかかろうと、それでは結局自分が騎士団を解雇されて終わるだけだ。何一つ役に立たないまま、下手をすれば自分の大切なものさえ巻き込んで損なってしまう。
ケビンはやるせない気分で、重たいため息をついた。
街中の移動に騎馬では目立ちすぎるので、移動は馬車を用いている。エリオットを筆頭に騎士達は数台に別れて、王城の騎士団詰所へ向かっていた。
ケビンは最後尾の馬車で不貞腐れて空寝していたが、唐突に停車した衝撃で顔を上げた。
「何事だ?」
馬車の小窓から見える路地の先に人集りが見えた。奥の建物からもうもうと黒煙が出ている。
「どうやら火事のようだな。騒ぎが大きくならないよう、副団長達は先に行かせたが、何人か助けに向かおう」
先行していた騎士仲間が先に出て状況を確認し、戻ってきたところだった。
その場に残った数人の騎士と共に現場に向かえば、火災は既に消し止められ、怪我人が運び出されているところだ。
集まっていた民衆がこちらの姿に気付くと、わっと歓声が上がった。
「聖女様だ! 聖女様が来てくれたぞ!」
その場にいたケビン達でさえ驚いて振り返れば、聖女エミリーが軽い足取りでこちらに歩いてきていた。
街中で騒ぎにならぬよう、この場には無名な騎士ばかりが残ったというのに台無しだ。ケビンは顔を顰めた。
聖職者や僧侶達は、女神の加護により、浄化の他に、治癒や回復魔法を使える者も多く居る。
聖女エミリーが怪我人の治療に駆け付けるのも至極真っ当で、例えその名声が災いして余計な騒ぎになったとしても、人命が優先と言われればそれはその通りだ。
しかし──……。
「ご、ごめんなさい、あたし、回復魔法、あんまり得意じゃなくて……っ」
怪我人に手をかざしながら、エミリーは先程から何度もそんな言い訳のような言葉を並べていた。
この場にわざわざ駆けつけた聖女を、非難する者など居ない。そもそもエミリーが高い浄化の力で聖女となった事は、誰もが知っているのだ。治癒や回復がいくらか不得手だとしても責める謂れは無いだろう。
それでも効果の遅い回復魔法の言い訳をせずに居られないのは、慈愛に満ちた彼女が怪我人を思い遣っているからだと、誰もが思うかもしれない。
──ああ、やっぱり、気のせいじゃないよな? また弱まってるな……。隠さなくていいのか、それ、聖女様。
献身的であることは確かにエミリーの美徳で、それを否定するつもりは無い。けれどもケビンは、エミリーが聖女と呼ばれることには懐疑的だ。
──そもそも、あの名声だって、誇張だろ?
沈黙したまま、フローラは離縁状に署名した。
エリオットも無言のままそれを受け取り、言葉を掛けることもなくそのまま部屋を出る。
これには流石に随行していた周囲の騎士達でさえ戸惑っていたが、沈黙に支配された気まずい空気から逃げるように退出して行く。
──おい、結婚までした相手に、最後の一言も無しか、……正気かよ。
ケビンは驚愕と怒りで思わず口を開くが、重苦しい空気に気圧されて言葉が出ない。
唯一の幸いがあるとすれば、お陰でエミリーが余計な事は何も言えずに彼らと共に立ち去った事くらいだろう。
集団の後方に居たケビンは元から廊下に待機していて、扉越しに中の様子を窺っていた。呆気に取られるうちに皆退出し、簡素な長屋の扉がゆっくりと閉じてゆく。
エリオット以外で唯一、この場でフローラと面識があるケビンだが、無学な自分ではこんな時に掛けるべき言葉さえ見つからない。
動けないまま、閉まる扉の隙間から一瞬だけ垣間見た、フローラの何もかも諦めたような表情だけが目に焼き付いた。
──俺の記憶にある二人は、こんな冷めた関係じゃ無かったんたがなぁ……。
もう一度、閉じてしまった扉に視線を戻して、その先に居るフローラと、かつてのエリオットに思いを馳せた。
それから踵を返して、しょぼくれたように肩を落とし、集団の後を追う。
今も下級騎士のケビンが、この怒りのままにエリオットに抗議しようと、殴りかかろうと、それでは結局自分が騎士団を解雇されて終わるだけだ。何一つ役に立たないまま、下手をすれば自分の大切なものさえ巻き込んで損なってしまう。
ケビンはやるせない気分で、重たいため息をついた。
街中の移動に騎馬では目立ちすぎるので、移動は馬車を用いている。エリオットを筆頭に騎士達は数台に別れて、王城の騎士団詰所へ向かっていた。
ケビンは最後尾の馬車で不貞腐れて空寝していたが、唐突に停車した衝撃で顔を上げた。
「何事だ?」
馬車の小窓から見える路地の先に人集りが見えた。奥の建物からもうもうと黒煙が出ている。
「どうやら火事のようだな。騒ぎが大きくならないよう、副団長達は先に行かせたが、何人か助けに向かおう」
先行していた騎士仲間が先に出て状況を確認し、戻ってきたところだった。
その場に残った数人の騎士と共に現場に向かえば、火災は既に消し止められ、怪我人が運び出されているところだ。
集まっていた民衆がこちらの姿に気付くと、わっと歓声が上がった。
「聖女様だ! 聖女様が来てくれたぞ!」
その場にいたケビン達でさえ驚いて振り返れば、聖女エミリーが軽い足取りでこちらに歩いてきていた。
街中で騒ぎにならぬよう、この場には無名な騎士ばかりが残ったというのに台無しだ。ケビンは顔を顰めた。
聖職者や僧侶達は、女神の加護により、浄化の他に、治癒や回復魔法を使える者も多く居る。
聖女エミリーが怪我人の治療に駆け付けるのも至極真っ当で、例えその名声が災いして余計な騒ぎになったとしても、人命が優先と言われればそれはその通りだ。
しかし──……。
「ご、ごめんなさい、あたし、回復魔法、あんまり得意じゃなくて……っ」
怪我人に手をかざしながら、エミリーは先程から何度もそんな言い訳のような言葉を並べていた。
この場にわざわざ駆けつけた聖女を、非難する者など居ない。そもそもエミリーが高い浄化の力で聖女となった事は、誰もが知っているのだ。治癒や回復がいくらか不得手だとしても責める謂れは無いだろう。
それでも効果の遅い回復魔法の言い訳をせずに居られないのは、慈愛に満ちた彼女が怪我人を思い遣っているからだと、誰もが思うかもしれない。
──ああ、やっぱり、気のせいじゃないよな? また弱まってるな……。隠さなくていいのか、それ、聖女様。
献身的であることは確かにエミリーの美徳で、それを否定するつもりは無い。けれどもケビンは、エミリーが聖女と呼ばれることには懐疑的だ。
──そもそも、あの名声だって、誇張だろ?
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