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第一章 その絵は、モナリザのようには微笑んでいない

第六話

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 車は会社の駐車場に滑り込んだ。

「んじゃあ、伊賀。絵は、お前に託した。無事に、事務所まで送り届けてやってくれ」

 運転席から降りたト部は熱血刑事にでもなったような意気込みで言い放ち、感心するぐらいの足の速さで事務所へ帰って行った。 

「だ、そうよ。ト部先輩って、どこか変だと思う。彼のテンションが変なのかしら」

 後部座席で絵と一緒に揺れていた朱香が、腕を組んで首を傾げていた。なんだか可愛らしいしぐさだ。

「ハイテンションですよね、ト部さんって。おまけに、タフそう」

 一応、先輩なのだから、素直に従わなくてはと思う。だが、顔の向きを変える絵を持たなければならない嫌な役回りを押しつけられたと、冬矢は勘繰った。
 後部座席の絵を持ち出すと、意外と重みがあった。

「案外、重い絵よ。後ろの席で軽く持ってみたけど、幼気な乙女には辛い重さね」

 寧ろ意外なのは朱香のほうだ。自分で幼気とか言っちゃってるし、まさか冗談とかいう人間だったとは、しかも冗談を言ってのける時も、聡明さは失われていない。
「先に階段を上って」と朱香は冬矢に先を譲った。背中は私が守るわよと、言ってきそうなぐらいの頼もしさを感じた。

「これぐらい、なんてことない重さッスよ。ところで、畔戸さんも高卒で、この会社に入社したんですか」

 絵を抱えて階段を上りながら、朱香に訊ねた。

「ええ、十八の時にここに来たわ」
「へぇ、そうなんですか、じゃあ地元の人ですか?」

 根掘り葉掘り訊いてしまっているが、不愉快じゃないだろうかと思いながらも、冬矢は質問してみる。

「私は山挟んで隣の町、車で二十分ぐらいは掛かるのかしら。高校をバスと電車で通う日々を思えば、天国だわ」

 行きの時より随分と朱香の口調が軽くなった。慣れてきたのか、お互いの口調が明るくなった。

「うわ、もしかして、中学って上条南部中学っスか?」
「エッ」とちょっと驚いた顔で朱香はぽけんと口を開けた。なんだかおかしな反応に、冬矢は「あのー」と首を傾げた。

「あっ、ええ、そうよ、南部中よ」
「やっぱり! じゃあ、一年間だけ重なってたんスね、じゃあどこかですれ違ってたりして、世間って狭いなぁ」

 些細な共通点が嬉しくて、冬矢の口調は弾んでいた。
 時折吹く春風が、朱香の長い髪を浚う。手で髪を抑える仕草につい、見入ってしまう。
 社内で一番話しやすいのは、朱香かもしれないと、冬矢はスキップしたい気分だ。

「高校卒業したら一人暮らしかなぁ、とか思ってたんですけど、現実問題、金がなかったんですよねぇ。ここの会社に拾われて、本当にラッキーでしたよ。友達の中には県跨いで通ってる奴もいるんで」

 話しながら事務所への階段を上りきった。
 外階段なので、少し汗ばんだ額を、爽やかな春風が撫でてくれた。
 上から眺める景色は、抜群だった。
 階段を上って南側は、小高い山の急斜面になっていて、村の商店や学校、住宅が点在している谷が見渡せる。視線を飛ばせば、同じぐらいの標高の山々が連なっている。
 就職した会社から地元を見下ろすと、見た目ばかりが成長した姿を、お披露目しているようで、口の中が苦くなった。

 今のご時世、就職できただけでも儲けもん、と思わなくちゃいけねーよな。
 仕事も何一つ分からず、この先、続けていく自信も持てないのに。つくづく甘ったれだなと、冬矢は自分に呆れた。

「そう。じゃあ、君がここを見つけたのは、必然、だったのかもしれないわね」

 同じ景色を眺望しながら、朱香はおしとやかに呟いた。

「必然、なんですかねぇ」

 朱香の言葉が否に意味ありげだったので、冬矢は訊き返すように、同じ言葉を繰り返した。

「そう思うのも悪くないわよ。さあ、中に入りましょう。皆も絵を見分したがっていると思うから。あなたの一人占めは、許さないわよ」
「そんなことしませんし、したくないですよ。この絵を、早くどこかに置きたいです」

 時々謎めいたセリフを口にするのでギョッとする。
 苦笑い交じりの冬矢は朱香に背中を押されながら、事務所の玄関を開けた。
スリッパをぺたぺた音を立てつつ、事務所に入るなり、熊野が「おかえりー」とおしとやかながらも、景気良く言い放った。

「二人仲よくお帰りぃ」
 
 給湯室から出てきた永久子がからかうように言ってきた。

「ほお、それが例の絵なんだ、顔の向きを変えるんでしょ?」

 どれどれーと、湯気が昇るコーヒーカップを片手に永久子が絵を覗き込んだ。

「ちょっと待ってください、今、壁に立て掛けるんで」

 手の握力を奪われる重さにやっと解放され、冬矢はどっと肩の力を抜いた。

「僕も観させてもらおうかな」

 物腰柔らかに熊野が椅子から立ち上がって、野次馬の輪の中に加わる。

「すごーい、ビーズでできてるんだ、この絵」

 永久子が感嘆した直後、デスクで沈黙していた豊原部長が重い腰を上げた。
 熊野の背後まで歩み寄り、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、絵を見下ろした。
 何を考えているんだろうかと、冬矢は横目で豊原の横顔をチラ見した。

「依頼主の旦那様のお母様が描かれた絵、みたいですよ。階段下から見ると、確かに夜は不気味かもしれませんね。絵自体は、とてもキレイなんですけどね」

 自分の席から野次馬と絵を傍観していたト部が説明を加えた。

「でも、不気味だけじゃなくて、顔の向きを変えるなんで、いくら母親の絵だからって、申し訳ないけど、俺も処分したくなります」

 絵を囲む皆の一番後ろから、冬矢はささやかに持ち主に同情した。

「伊賀君、本当に顔の向きを変えると思ってる?」

 呆れ笑いを浮かべながら熊野が、空気を吸うよりも当たり前に口走った。

「え?」と声を上げたのは冬矢だけだった。
「え、でも、依頼主の夫は顔の向きが変わるのを見たって。だから、処分したいと、依頼してきたんですよ」

 何が何だが分からなくなった冬矢は、女性の横顔と対峙したまま、金縛りに遭ったみたいに動けなくなった。女性が顔の向きを変えるとしたら、こんな感じかなと想像だけが膨らむ。

「顔の向きは、変わらないよ」

 熊野が何故きっぱり否定をしたのか理解できず、「え、え」をアホみたいに繰り返すしかなかった。

「不思議でしょうがないか、伊賀」

 絵を見下ろしながら、豊原が低い声で呟いた。

「ど、どういうことなんですか、しかも、え――」
 
 理解していないのは自分だけなのかと、広げた瞼に力を込め、眼球だけを動かして皆を直視した。

「だーかーらー、骨川社長が証明したでしょうが。『奇怪な出来事には、理由がある』って説明を受けただろ」

 ズシンとト部が冬矢の肩に手を置いた。重量感があって、置かれただけで肩が凝りそうだ。さっさとどかしてほしい。

「顔の向きを変えるなんて、ありえないのよ、伊賀君。依頼主の奥さんは知らないのかもしれないですね、旦那さんが嘘をついていると」

 怜悧に解説してくれた朱香に見詰められて、冬矢はビリッと背筋が痺れた。

「何がどうなっているんですか。嘘、だった?」
「理由は知らんが、本当に家には置いておきたくなかったんじゃないか。だから、嘘をついてまで処分したかったんだろ。俺が思うに、奥さんにも嘘をついてたんだと思うぜ」

 何もかも見切ったような口調のト部はぽんぽんと冬矢の肩を叩いた。

「僕も、そう思う。そのほうがリアリティ増すしね。うちの会社は奇怪な現象を起こす、【訳有モノ】を処分する会社、そう世間には謳っているし、世間もそう理解してる。だから、ご主人は自分の嘘が俺たちにバレるのはマズイと思ってた」

 理解したかな? と熊野に笑顔で問われた気がした。

「じゃあ、これは、お祖母さんが描いた、普通の絵ってことですか」

 突如、絵の厚みが極薄化したかのような錯覚に見舞われた。依頼主の屋敷で、アホみたいに怖がっていた自分は何だったのかと、冬矢は無性に恥ずかしくなった。

「だったら、ト部さんこそ、俺の後ろに隠れて怖がるふりなんかしないでくださいよ!」
「えっ、またト部君怖がってたのー、それとも新人君への嫌がらせぇ」

 永久子は目じりを細めて、相変わらずだねぇの視線をト部に向ける。

「分かっていても怖いものは怖い! あ、そういや、依頼主が「モノ送り」したいってよ」
「そうだったわ、お神楽の準備をしないと。予定が決まり次第、水木さんにも連絡ね」

 人差し指で顎の先を突きながら、朱香は誰かに対して言うのでもなく、独り言のように呟きながら、自分の席へ戻って行った。
 朱香が言った『神楽』とは、二階の応接室から見た、あの一風変わった能舞台みたいな空間だよな、と冬矢は思い返した。

 皆が自分の席に戻る中で、冬矢だけは絵と対峙していた。
 何も捨てなくても、と絵に対して少しばかりの同情の念みたいなものを抱いた。
 これからも、持ち主から必要とされなくなったモノたちが、色々な事情を着せられてここにやって来るのかと、冬矢は横目で一瞥してから席に戻った。
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